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《「真説・古代史」拾遺編》(24)

「倭」と「日本」(7):いつから「倭」=「ヤマト」となったのか。


(理由は詳しく述べませんが、万葉集に出現する「ヤマト」を検討する方法にさまざまな疑問が沸いてきました。「国名・地名としての「ヤマト」の項を全て削除します。「倭」は「チクシ」と読むべきなのに、なぜ、いつから「ヤマト」と読むことになったのか、という問題に戻ります。)

 『「倭」と「日本」(2)』で指摘したように、日本書紀の「日本」の読み方については、本文注に「ヤマト」と読めという指示がある。実にはっきりとしている。

(第4段本文)
廼生大日本〈日本。此云耶麻騰。下皆效此。〉豊秋津洲。
廼(すなは)ち大日本〈日本、此をば耶麻騰と云う。下皆(しもみな)此に效(なら)へ。〉豊秋津洲を生む。

一方、古事記では「大倭豊秋津島」がこれに対応するが、この「倭」の読み方には何の指示もない。それにもかかわらず、「定説」は古事記の「倭」を全て「ヤマト」と読んでいる。

 この「定説」の源流は、どうやら本居宣長のようだ。宣長は最初から『古事記』の倭を「ヤマト」と読んでいた。では、宣長がそのようにした根拠はなんだったのだろうか。ただ単に「日本書紀」にならっただけなのだろうか。

 『「倭」と「日本」(2)』で、もう一つ指摘しておいた事がある。日本書紀では、古事記の「倭」→「日本」という書き換えは、諡号と「大倭豊秋津島」→「大日本豊秋津洲」以外にもう一つだけある。「倭建命」→「日本武尊」である。どうやら「倭建(やまとたける)命」の説話が、「倭」を「ヤマト」と読むようになった根拠らしい。

(倭健説話については 『「熊襲」とはどこか(4)』 を参照してください。)

 ところで、『「倭」と「日本」(6):日本書紀の「倭」(4)』で、「倭」は「ちくし」あるいは「わ」と読むべきではないか、という西村さんの説を紹介したが、西村さんとは別の観点から、古田さんも「倭」=「ちくし」を主張して、次のように述べている。

 ところがここ2・3年来、「倭」という字は『古事記』では実は「筑紫(ちくし)」と呼んでいるのではないか、という問題にぶつかりました。

 大国主が「倭」国へ上(のぼ)ると書いてある。その途中に沖の島のアマテルの娘と結婚するという話がある。沖の島へ行くのに、何で奈良県をめざすのか。奈良県に行くのがなんで上るとなるのか。そういう疑問にぶつかった。

 本居宣長は例によって、日本は天皇家から始まるから「上る」でもかまわないと言ったが、私などはそれはちょっとピンと来ない。そうするとこれは何か。「倭国」は「筑紫(ちくし)国」のことではないか。ちょうど志賀島の金印が「倭」を「筑紫」であることを示している。出雲から筑紫国へ行くのは当然対馬海流を上らなければならないから、上るのは当たり前である。途中に沖の島へ行くのは当たり前である。

 だからあの話は偶然入ったのではなくて、『古事記』ではこの話の前にも倭が2・3回出てきますが、その倭の位置を示している。その後も「倭」を「筑紫(ちくし)」国と読んで下さい、そう理解して下さい。そう『古事記』では言っている。

 それが逆転したという建て前になっているのが『倭健(やまとたける)』の話である。有り得ないことですが、死ぬ前に、「倭」の名前をお譲りします。これからは「倭健」とお名乗り下さい。そういう話になっている。あの話から「倭」は「やまと」と呼んでもいいことになったのだ。そう『古事記』は主張し、天武は主張したかった。

 実際は天武の時には「倭」の意味は、「筑紫(ちくし)」国である。それを天武は「倭」は「やまと」と読み変えるという、ある意味では天才的な発想をした。自分がそうしたいから、そう読むのでは通りませんので、これは倭健(やまとたける)のこういう説話があるから、それ以来「倭」をヤマトと読んでも良くなった。と天武は主張している。

 他方『日本書紀』は最初から「大日本」を大日本(ヤマト)と呼べと、注に書いてあるように、なっている。『日本書紀』は最初から非常にすっきりした形になっている。ところが『古事記』はまだ節度というか、はじらいがあって、倭(チクシ)だったのだが、あの倭健(やまとたける)以来、倭(ヤマト)と読んでも良くなったですよと言っている。それを本居宣長は最初から『日本書紀』のやり方で、『古事記』の倭を「ヤマト」と読んだ。そういうことが分かってきた。

 そうなりますと先ほどの『古事記』における国生み神話の「大倭」の意味はオオヤマトでなく、オオチクシではないかと、いうことになる。



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《真説古代史・近畿王朝草創期編》



『日本書紀』はなぜ「持統紀」で終わるのか。


 梅原氏の論説「二頭政治の善悪」から頂いた第二のテーマ「近畿王朝草創期の真実」を取り上げようと思い、いろいろと資料を集めて全体の構想を練っていたが、あまりに大きなテーマでなかなかまとまらない。「下手な考え休むに似たり」と、毎度のことながら見切り発車をすることにした。そして、あっちに行ったりこっちに飛んだり、かなり長くなりそうなので表題を独立させることにした。

 今まで私は「九州王朝」に対して、奈良(大和)に拠点を置いた分流国家を「ヤマト王権」と呼んできた。多元史観に立つ大方の人は「大和王権」と漢字で表記している。また古田さんは「近畿天皇家」と呼んでいる。これはこの国家の拠点が「大和」だけでなく河内なども含むことを考慮した表記だと思われる。

 これから取り上げる国家は、「九州王朝」に取って代わり、一地方の王権から王朝となった国家である。そこで以後は、「九州王朝」との整合性にこだわって、王朝となった「ヤマト王権」を「近畿王朝」と呼んで区別することにする。大表題を《「真説古代史・近畿王朝草創期編》とした理由である。

 さて、近畿王朝草創期の皇位継承についての梅原さんの解説は次のようであった。

 持続皇后は天武天皇とともに壬申の乱を起こして近江王朝を滅ぼし、飛鳥浄御原に君臨する天武天皇の王朝を樹立した。天武天皇の死後、皇后は、次期天皇の有力候補者であった大津皇子を謀反の罪をでっち上げて殺し、わが子草壁皇太子の成長を待ったが、草壁皇太子は天折した。それで皇后が即位し、無事、草壁皇太子と元明妃の間の軽皇子すなわち文武天皇に皇位を譲ることができた。しかし文武天皇も天折したので、草壁皇太子妃であった元明が即位し、文武天皇の遺児の首皇子の成長を待ったが、元明天皇は万一のことを考えて、文武天皇の姉・元正天皇を即位させ、皇位を保持させた。

 このような女帝たちを助け、無事首皇子すなわち聖武天皇の即位を実現させたのは、権謀術数に富む稀代の政治家、藤原不比等であった。

 近畿王朝草創期のこの複雑な皇位継承関係を系図としてまとめると次のようである。

syokikeizu.jpg
(第一学習社版「新選日本史図表」より)
(クリックすると大きくなります。)


注1
 藤原宮子は藤原不比等の長女である。母は第三夫人・賀茂比売。

注2
 藤原光明子は藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武の母・藤原宮子の異母姉に当たる。県犬養三千代は軽皇子(文武)の乳母を務めていた。

注3
 「淳仁」は廃帝であり、その諡号は1870年(明治3年)に明治天皇から追号されたものである。またそのとき、壬申の大乱で天武に殺された大友皇子も「弘文」と追号されている。

注4
 持統に殺された大津皇子はこの系図には載っていないが、彼の母親(大田皇女 おおたのひめみこ)は持統(鸕野皇女 うののひめみこ)の姉である。


 上の系図から、天智王朝(近江王朝)→天武王朝→天智王朝というおおまかな王朝の変遷が見える。しかし少し注意してみると、天武王朝は実質的には藤原王朝と言ってよいであろう。

 すなわち、天智の後継者・大友皇子を殺して天智王朝から王朝を簒奪した天武王朝であったが、その天皇制構想は、持統天皇死後の不比等の策謀によってその実質を徐々に失っていったのだ。

 不比等は母系系譜を最大限利用した。まず娘・宮子を文武の妃にすることによって、藤原氏の血を引く聖武を天皇据えた。それをさらに、光仁を天皇に立てることによって、天武系から再び天智系へとひねり直した。かくして不比等は、天武の血脈を引き継ぐかに見えた王朝を、天武構想とはまったく違う藤原天皇制を創り変えたのであった。不比等は「女帝たちを助け」たのではなく、女帝を自らの謀略の梃子として利用したのだ。

 さて、「文武紀」に次のような記事がある。これは何を意味しているだろうか。

大宝元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀、於正門樹烏形幢。左日像・青竜・朱雀幡。右月像・玄武・白虎幡。蕃夷使者、陳列左右。文物之儀。於是備矣。 701(大宝元)年
春正月一日、天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。その儀式の様子は、正門に烏形の幢を立て、左に日像・青竜・朱雀の幡、右に月像・玄武・白虎の幡を立て、蕃夷の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。


 近畿王朝が倭国の別種の国・日本国として国際的(東アジア)に認められて後、始めて自前の元号「大宝」を定めた。上の記事はこの年(701年)に始めて正式な朝賀の儀が開かれたと語っている。つまり近畿王朝が名実ともに王朝としての体裁を整え終わったのは文武天皇の大宝元年であった。

 従って、文武以前の天智・天武・持統の時期は近畿王朝揺籃期と呼ぶのがふさわしい。そしてこの揺籃期に始めて正式な天皇位に即いたのは天智でも天武でもなく持統であった。以下はこの命題の論証である。

 『日本書紀』ではヤマト王権の王たちにも全て漢風諡号が付けられて、全ての王たちを「天皇」と呼称している。言うまでもなく、これはもちろん神武以来ヤマト王権がこの国の支配者であったということを主張するためのトリックである。では真に天皇という呼称で呼んでもよいのは誰からだろうか。それにふさわしい人物は践祚の実質的な儀式である大嘗祭(だいじょうさい 「おおなめまつり」と訓じる)を最初に執り行った者である。大嘗祭を広辞苑は次のように解説している。

だいじょう‐さい【大嘗祭】
天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇(てんじんちぎ)を祀る、一代一度の大祭。祭場を2カ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神に供える新穀はあらかじめ卜定(ぼくじょう)した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。


 この解説には悠紀殿・主基殿という二つの祭場を設けるとあるが、なぜ二つの祭場を必要とするのか、かってキチンと説明できた学者はいない。いまだ謎とされている。この謎は後ほど明らかにされるだろう。

 ところでウィキペディアでは大嘗祭を次のように解説している。

毎年11月に、天皇が行う収穫祭を新嘗祭という。その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す新嘗祭のことを、古くは「毎年の大嘗」と称した。当初は通常の新嘗祭と区別されなかったものの、後に即位後初めて一世一度行われる祭として、「毎世の大嘗」「大嘗祭」として重視された。大嘗祭と新嘗祭が区別されたのは、天武天皇の大嘗祭のときとされる。

(以下、古田さんの講演録「大嘗祭と九州王朝の系図」を教科書とします。)

 ウィキペディアの解説では大嘗祭を始めて執り行ったのは天武としている。その論拠はたぶん「天武紀」の次の記事である。

十二月壬午朔丙戌。侍奉大嘗中臣。忌部。及神官人等。并播磨。丹波二国郡司。亦以下人夫等、悉賜禄。因以郡司等各賜爵一級。

673(天武2)年
12月5日、大嘗(おほにへ)に仕え奉った中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)および神官の人たち、ならびに播磨、丹波二国の郡司、さらにまたその配下の人夫らに、褒美を賜った。郡司たちにはそれぞれ爵(酒盃か)一品を賜った。


 これは『日本書紀』に「大嘗」という言葉が出てくる最初の記事である。大嘗祭に参加した人たちに褒美をあげたという記事だ。しかし大嘗祭を行ったという記事はどこを探してもない。『日本書紀』の編纂者がかきわすれた? 近畿王朝の正史に実質的な践祚を示す大事な儀式を書き忘れるなんであり得るだろうか。不可解だ。(この問題も後ほど取り上げることになる。)

 『日本書紀』で「大嘗祭を行った」という最初の記事は「持統紀」にある。

十一月戊辰。大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、読天神寿詞。

691(持統5)年
11月1日に、大嘗祭を行った。神祇伯(かむつかさのかみ)中臣朝臣大嶋が天神寿詞(あまつかみのよごと)を読んだ。


 『日本書紀』ではこの記事が「大嘗す」という言葉が出てくる最初で最後の記事である。神武から天武まで「大嘗す」という言葉は皆無である。何故だろうか。ヤマト王権一元主義の立場では謎と言うことになってしまうが、多元史観に立てば当然すぎるほど当然なことである。

 新嘗祭は誰でもどこでも行うことができる。新嘗祭の記事なら『日本書紀』にもたくさん出てくる。「推古紀」以降を調べてみた。舒明紀と「皇極紀」に出てくる。天武紀には6ヵ所もある。

 しかし大嘗祭は誰が行ってもよいものではない。大嘗祭とは中心権力者が行なう新嘗祭である。中心権力者ではなかった時代のヤマト王権が大嘗祭を「行えなかった」(「行わなかった」ではない)のは当然のことなのだ。だが持統天皇のときになってようやく何の遠慮もなく大嘗祭を行なった。大嘗祭を行うことによって、近畿王朝こそが中心の権力者であることを始めて宣言したのだった。

 持統天皇の後、文武、元明、元正と皇位が継承されていく。『日本書紀』は元正天皇のときに編纂された。ではなぜ、『日本書紀』は「持統紀」で終わって「文武紀」や「元明紀」がないのだろうか。文武天皇や元明天皇を軽視していると言われてもしかたないだろう。しかし上で明らかになったように、持統天皇が「大嘗祭を行うことによって、近畿王朝こそが中心の権力者であることを始めて宣言した」のだから、『日本書紀』を「持統紀」で終えるのは実に理にかなった処置なのだった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(2)

大嘗祭とは何か(1)

 大嘗祭は実質的な践祚を示す大事な儀式である。裕仁から明仁への皇位継承の時にも、この時代錯誤の大嘗祭がチャンと行われている。しかしここには単に時代錯誤と一蹴してしまえない問題が孕まれている。そこには天皇制が今日にまで生き延びてきた秘密がある。大きく横道に逸れる嫌いがあるが、しばらくこの問題を学習していこうと思う。

〈以下は吉本隆明さんの論考「天皇および天皇制について」(『詩的乾坤』所収)・「宗教としての天皇制」「敗北の構造」(『敗北の構造』所収)・「祭儀論」(『共同幻想論』所収)が教科書です。〉

「敗北の構造」は講演録であり、その講演は次のように始まっている。

 只今、ご紹介にあずかりました吉本です。今日は、ひとつ「敗北の構造」ということで、お話したいとおもいます。あんまり景気のいい話じゃないので、がっかりでしょうけれども、只今、ぼくが仕事としてやっていることがそういうことだもんですから、まあそういうことでやりたいと思います。

 ぼくがやっているのは現代の敗北ということじゃなくて、大変大昔の敗北ということなんです。皆さんのほうではそういうことはあんまり厳密でないかもしれないですけれども、日本の統一国家というものが成立した時期を千数百年前というふうに考えまして、千数百年前以前に、まあ小さな島ですけれども、小さな島に人間がいなかったかというと、そういうことでないので、そこではやはり、わかりやすくいうと、現代のなになに郡というようなくらいの大きさ程度の国家というものが、群立状態で存在したというふうにいうことができます。

 われわれが普通、日本民族という場合には、統一国家が成立した以降の、いわば文化的、あるいは言語的に統一性をもった、そういうものを想定しているわけですけれども、しかし、日本民族という場合と、日本人という場合とはまるでちがうので、日本人という場合には、すでに日本国家成立以前に、群立した多数の国家が存在していたというふうに考えることができます。

 そこで、天皇制権力が、その群立していた国家を、武力的にあるいは国家的に制圧して統一国家というものを成立させたわけです。

 古田さんの「邪馬台国はなかった」・「失われた九州王朝」の出版はそれぞれ1971年・1973年だった。吉本さんのこの講演は1970年に行われているから、この時点では吉本さんはまだ「古田史学」はご存じなかったと思われる。「日本の統一国家」として近畿王朝を想定しているのも、その「日本の統一国家」が成立した時期を「千数百年前」と考えている(古墳時代を想定しているようだ)のも、やむを得ないことである。私(たち)が知っている「古田史学」と齟齬する部分はそれなりに読み替えていくことにする。しかし吉本さんの論考は、さすがにヤマト一元主義の陥穽には落ち入ってはいないので、その本質的な部分に誤りはない。

 さて、近畿王朝に先行する九州王朝は統一王朝ではない。「群立した多数の国家」の中心権力という意味での「王朝」である。その初源の姿は魏志倭人伝(邪馬壹国)によく現れている。「群立した多数の国家」の地域的範囲は「倭の五王」の頃には九州から関東地方ぐらいまでに広がっていたようだ。

 「群立した多数の国家」の中心権力として「日本国」が九州王朝に取って代わったのは701年。この段階ではまだ「日本の統一国家」とは言えない。厳密に言うと、阿弖流爲(アテルイ)が坂上田村麻呂に降伏して、蝦夷が近畿王朝に完全に帰属したのは802年のことだから、「日本の統一国家」が成立した時期は「1200年ほど前」と言うべきだろう。

 その場合の天皇制権力、あるいは天皇制部族、あるいは種族かしりませんけれども、そういうものはどこの出身だということは、全く現在でもはっきり判りません。朝鮮から、つまり大陸から朝鮮を経由してきたというふうな説もありますし、あるいは、南朝鮮と文化的には近縁関係にあった北九州における豪族が、だんだん中央に進出してきて統一国家を成立せしめたというような考え方もあります。またそれとは別に畿内、つまり現在の京都とか奈良とか大阪とかですけれども、畿内における豪族が、勢力を拡張して統一国家を成立せしめたというような考え方もあります。いずれにしても決定的な考え方というのはないわけで、その三つのうちどれかに該当するでしょうけれども、素姓がわからない勢力が、とにかく統一国家を成立せしめたわけです。

 このあたりの事情も古田さんによってかなり解明されている。九州王朝は対馬・壱岐などを根拠とする部族(アマ氏)が「天孫降臨」して始まった部族国家である。近畿王朝はその九州王朝の分流(分国)であった。
「真説・古代史3」 を参照してください。)

 では九州王朝の始祖であるアマ氏の出自は? この問いはほとんど意味がない。部族国家以前の「氏族的―部族的」共同体は長期にわたって、それこそ東アジア全体を舞台に、政治的・社会的・経済的・文化的にさまざまな交流や抗争を繰り返してきただろうから。そして当然、その過程で血の混合も進んでいっただろうから。そういう意味では東アジアの氏族・部族は全て出自を同じくするといってよいのではないか。 (部族国家については 「<部族国家>とは何か。」 を参照してください。)

 しかし、わたしたちが日本人という概念を使う場合には、それをちっとも指していないのであって、日本人という概念で成立している概念は、それ以前に、郡単位くらいの国家が群立していたというような考え方からいけば、まあ少くとも三千年から四千年はさかのぼれるわけで、それ以前に人がいたかどうかというようなことを問うならば、それは何十万年前にまでさかのぼることができるわけです。

 そうしますと、ここで、何が敗北したのかというと、天皇制権力自体が、統一国家をせしめる以前に存在した、そういう日本の全大衆が総敗北したというふうに考えることができます。それでは、その総敗北した時の敗北の仕方は、どういうふうにしてなっていたかを初めにお話します。

 いままでの議論から、「天皇制権力自体が、統一国家をせしめる以前」という文章は当然「九州王朝(ニニギノミコト)が天孫降臨した以前」と読み替えねばならない。以下、いちいち断らないが、そのような読み替えをしながら読んでいくことにする。

 統一国家以前に、郡単位程度の国家が成立しており、それぞれの内部で、国家としての法権力というものが成立して存在していました。そういう小国家が、群立していたというような状態が考えられます。それに対して天皇制権力は、どういう出自かわかりませんけれども、それをどういうふうにして統合していったかというようなことが問題になるわけです。つまり、統合の過程における、国家としての本質構造は、どういうふうになっているのかということが問題になるわけですけれども、それには大体二つのことが考えられます。

 吉本さんが「国家の本質」というとき、それは「共同幻想」を意味している。以下、征服王朝(天孫降臨した王朝)によって支配を貫徹するための「共同幻想」がどのように構成されていくかという「国家の本質」論が語られる。
 一つは、天皇制権力が統一国家を成立せしめる以前に存在した法的権力あるいは法的国家の法のうち、都合のいい法を天皇制権力がみずからの法として吸いあげ、その結果、それ以前に存在していた小さな群立国家は、国家としての統一性のある部分を、徹底的に欠いてしまう状態が一般に考えられます。だから、ある一つの小さな共同体、あるいは国家に、おおいかぶさるように統一国家が成立したとき、その統一国家は、以前に存在していた群立状態の国家または、共同体の法的規範を、自らの規範として吸い上げることによって、以前に存在していた国家または、共同体は、法的統一性を失っていく敗北の仕方というものが一つ考えられます。

 もう一つ考えられることは、こういうことなんです。その状態で存在していた群立国家における法、宗教、それから風俗、習慣、そういうもの全てを含めまして、これを共同幻想と呼びますと、その共同幻想と、それから統一国家を成立せしめた勢力の共同幻想を、交換するということなんです。つまり互いに交換したうえで、めいめいが混合してしまうということが、統合の一つの形態だということができます。だから、以前に存在したであろう法律とか宗教的儀礼、それから群立国家で支配的であったろう風俗、習慣というようなもの、あるいは不分律とか、掟てとか、あるいは村落の村内法、そういうようなものすべてと、元来そこの上におおいかぶさってきたその統一国家勢力におけるそういう習慣、風俗あるいは保存している宗教あるいは法概念、そういうようなものをそこで交換するわけです。これは別に等価交換じゃないわけですけれども、とにかく交換するということ、それで交換することによって、統一国家を成立せしめた勢力というものが、それ以前からあたかも存在したが如くに国家というものを、国家権力というものを制定することができるということです。それと同時に逆に交換された群立国家における首長、大衆というものが、今度は支配的に統一国家を成立せしめた勢力の法あるいは宗教、習慣っていうものを、あたかも自らの習慣あるいは自らの法律あるいは自らの宗教というような受けとり方で、受けとるという、かたちになってゆきます。

 その交換によって、たかだか千数百年前に存在したにすぎない統一国家の勢力が、あたかも遠い以前から存在したかの如く装うことができますし、また交換させられたものは、あたかも自分が本来的にもっていた風俗、習慣、法というようなものよりも、もつと強固な意味で、あたかも自分のものであるかの如く受けいれる形態がでてくるわけです。それが恐らく統一国家成立期における、日本の総大衆が、全面的に敗北していったことの、最も基本にある構造だということができます。

 奇妙といえば奇妙なことですが、本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らの所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚するという構造が、いわば古代における大衆の総敗北の根柢にある問題だということができます。この敗北の仕方は、充分に検討するに価するので、国家といえば天皇制統一国家、という一種の錯誤、あるいは文化といえば天皇制成立以降の文化というふうな錯誤が存在するのですけれども、その錯誤の根本になっているのは、統一国家をつくった勢力の巧妙な政策でもありましょうけれども、ある意味では大衆が、自らの奴隷的観念というもので、交換された法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風俗、習慣というものを、本来的な所有よりも、もっと強固な意味で、自らのものであるかの如く振舞う構造のなかに、本当の意味での、日本の大衆の総敗北の構造があると考えることができます。

 ここで大嘗祭問題とドッキングする。大嘗祭は民俗的な農耕祭儀が抽象的な宮中祭儀として昇華されたものである。そこでは支配部族の共同幻想と被支配部族の共同幻想の巧みな交換が行われている。次回はその論点から大嘗祭の本質を検討していこう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(3)

大嘗祭とはなにか(2)

 「天武紀」には「大嘗す」という記事がないのに祭祀に関わった者たちへの褒美授与の記事があるのは何故か。古田さんは「確認はできませんけど、非常に魅力的な仮説」ということで香川さんという方の次のような仮説を紹介している。

 天武に殺された大友皇子は明治になってから弘文天皇という諡号を付け天皇として扱っている。『日本書紀』は反逆者・天武の大義名分を主張するための「正史」だから当然のことに、大友皇子の方が反逆者であり大友皇子を天皇として扱っていない。しかし大友皇子は実際には天皇として即位したではないか。もしそうだとすると、弘文天皇によって大嘗祭が行なわれていて、そのときの「褒美の記事」だけが「天武紀」に使われたのではないか。

 文献的には近畿王朝で大嘗祭を最初に行ったのは持統であった。上の仮説が正しいとすれば最初の大嘗祭を行ったのは大友皇子(弘文)ということになるが、いずれにしてもそれは近畿王朝の独創したものではあり得ない。その様式が整えられるまでには多くの時間を要したはずである。大嘗祭を創出したのは九州王朝であり、近畿王朝の大嘗祭はそれを踏襲しただけである。

 すると「天武紀」の大嘗祭記事についてのもう一つの仮説として、九州王朝で行われた大嘗祭の記事の盗用が考えられる。少なくとも白村江の戦いで捕虜になった筑紫君・薩夜麻(さちやま)までは九州王朝で大嘗祭が行われていた。

 大嘗という言葉は相当古くから使われていたと思われる。『古事記』の「スサノオノミコト(須佐之男命 日本書紀では「素戔嗚尊」と表記されている)の勝ちさび」の段に出てくる。

ここに速須佐之男命、天照大御に白(まを)ししく、「我が心清く明し。故(かれ)、我 が生める子は手弱女(たわやめ)を得つ。これによりて言(まを)さば、自ら我勝ちぬ。」と云(まを)して、勝(かち)さびに、天照大御の營田(つくだ)の畔(あ)を離(はな)ち、その溝(みぞ)を埋(うづ)め、またその大嘗(おほにへ)を聞(き)こしめす殿(との)に尿(くそ)まり散らしき。汝(かれ)、然爲(しかす)れども天照大御は咎めずて告(の)りたまひしく、「屎如(くそな)すは、酔い醉(ゑ)ひて吐き散らすとこそ、我(あ)が汝弟(なせ)の命(みこと)かく爲(し)つらめ。また田の畔(あ)を離ち、溝を埋むるは、地を惜(あたら)しとこそ、我が汝弟の命、かく爲つらめ。」と詔(の)り直(なほ)したまへども、なほその悪しき態(わざ)止まずて轉(うたて)ありき。天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、御衣(かむみそ)織らしめたまひし時、その服屋(はたや)の頂(むね)を穿(うが)ち、天(あめ)の斑馬(ふちこま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に、天の服織女(はたおりめ)見驚きて、稜(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき。

 『日本書紀』では「大嘗」は「新嘗」となっている。一般に『古事記』と『日本書紀』で共通の記事がある場合、『古事記』の方が原型であり、『日本書紀』の記事は作為的な改竄がされているとみなされる。「スサノオノミコトの勝ちさび」段でもそのことがよく読み取れる。例えば「(服織女が)稜に陰上を衝きて死にき。」という、おおらかというかあからさままというか、野卑的な表現が、「(天照大神が)梭を以て身を傷ましむ。」という穏当な表現に変わっている。『日本書紀』の方の記事も引用しておこう。

この後(のち)に、素戔鳴尊の爲行(しわぎ)、甚だ無状(あづきな)し。何(いかに)とならば、天照大神、天狭田(あまのさなだ)・長田(ながた)を以て御田(みた)としたまふ。時に素戔鳴尊、春は重播種子(しきまき)し、また畔(あ)毀(はなち)す。秋は天斑駒(あまのぶちこま)を放ちて、田の中に伏す。また天照大神の新嘗(にいなめきこ)しめす時を見て、則ち陰(ひそか)に新宮(にいなえのみや)に放[尸+矢](くそま)る。また天照大神の、方(みざかり)に衣(かむみそ)を織りつつ、齋服殿(いみはたどの)に居(ま)しますを見て、則ち天斑駒を剥(さかはぎには)ぎて、殿(おほとの)の甍(いらか)を穿ちて投げ納(い)る。この時に、天照大神、驚動(おどろ)きたまひて、梭(かび)を以(も)て身(み)を傷(いた)ましむ。

 上の記事は近畿王朝が踏襲した大嘗祭の原型はアマテルやスサノオの時代(弥生早期)にはあったということを示している。そして、ここに出てくるスサノオの悪行は「六月晦大祓」という祝詞(のりと)に書かれている天つ罪である。また「大嘗祭」という祝詞もある。祝詞は、それこそ縄文時代にまでさかのぼれそうな古い言葉である。祝詞も真実の古代史を知るための史料の宝庫である。

 ここで祝詞「大嘗祭」を取り上げようと思っていたが、また横道のそのまた横道に入ることにした。図書館で物色していたら古田さんの著書『まぼろしの祝詞誕生』が目に入って借りて来た。そこでは「六月晦大祓」が取り上げられている。「大嘗祭」をよりよく理解する上で、「六月晦大祓」が密接に関わっているようなので、まずこれを読んでみることにことにした。まずは祝詞「六月晦大祓」の全文を掲載する。

(訓読みは(日本古典文学大系『古事記・祝詞』から。長くしかもかなり古い文である。意味のよくわからない部分もあり、このような文を読み慣れていない私にはちとつらいので、一区切り毎に古田さんによる「大意」を挟んでいくことにした。なお、赤字部分はこの祝詞を解読するためのキーワードを示している。)

六月(みなづき)の晦(つごもり)大祓(おほはらへ)
 〔十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〕

「集侍(うごなわ)はれる親王(みこたち)・諸王(おほきみたち)・諸臣(まえつぎみたち)・百(もも)の官人等(つかさじとたち)、諸(もろもろ)聞(きこ)しめせ」と宣(の)る。


「(朝廷に)集りひかえいる、親王・諸王・諸臣・多くの官人たち、皆、お聞きなさるように。」と宣告する。

「天皇(すめら)が朝廷(まかど)に仕へまつる比礼(ひれ)挂(か)くる伴(とも)の男(を)・手襁(たすき)挂くる伴の男・靫(ゆき)負ふ伴の男・剣(たち)佩(は)く伴の男・伴の男の八十伴(やそとも)の男を始めて、官官(つかさづかさ)に仕へまつる人等(ひとども)の、過ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪を、今年の六月の晦の大祓に、祓へたまひ清めたまふ事を、諸聞食せ」と宣る。

「『天皇の朝廷』に仕えたてまつる、〝ひれをかけた伴の男(おそばに仕える人々)″〝たすきをかけた伴の男″〝やぎ(矢入りの具)を負うた伴の男″〝剣を身につけた伴の男″ーこれらの多くの伴の男たちをはじめ、各官司に仕えたてまつる人々が過ち犯したであろうと思われる、さまざまの罪を、今年 の六月の大祓で、祓い清めたまう言葉を、皆、お聞きなさるように。」と宣告する。

(ここまではいわば「序」で、これから祝詞を挙げるぞと宣言している。以下が祝詞の本体になる。)

①〔天孫降臨の決定〕
「高の原に神留(かむづま)ります皇親(すめむつ)神(かむ)ろき・神ろみの命もいちて、八百萬の神等(かみたち)を神集(かむつど)へに集へたまひ、神議(はか)りに議りたまひて、『我が皇御孫(すめみま)の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせ』と事依(ことよ)さしまつりき。

「高天原におこもりになっておられる、皇神の、神ろき、神ろみの命の仰せで、ありとあらゆる神々を集め、御相談なさって、『わが皇御孫の命(天照大神の孫であるニニギノミコトのこと。)は、豊葦原の水穂の国を、安らかな国になるように、統治しなさい。』と(ニニギノミコトに)委嘱された。

②〔天孫降臨の実行〕
かく依さしまつりし國中(つぬち)に、荒ぶる神等をば、神問(なむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語(こと)問ひし磐ね樹立、草の片葉(かきは)をも語止(や)めて、天の磐座(いわくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降し依さしまつりき。

このように委嘱なきった、(豊葦原の水穂の)国の中で、乱暴している神々(荒ぶる神等)に問いたずね、これを追いはらい、(不平など)言いつのっていた磐の根の木立ちや草葉の類いもおとなしくなったので、(ニニギノミコトを〉天国の八重雲をかきわけて天降し、この国の統治を委嘱なさった。

③〔天孫降臨後の宮殿造営〕
かく依さしまつりし四方(よも)の國中に、大倭日高見(おほやまとひたかみ)の國を安國と定めまつりて、下(した)つ磐(いは)ねに宮柱太敷き立て、高天の原に千木(ちき)高知りて、皇御孫の命の瑞(みづ)の御舎(みあらか)仕へまつりて、

(ニニギノミコトは)このように、(天国の神々が)統治を委嘱なさった、四方の国々の中で、「大倭日高見の国」を安らかな国としてお定めなさって、その地に、下の磐には宮柱を太く建て、高天原に向かって千木を高くそびえさせ、皇御孫の命(ニニギノミコト)の麗わしい御殿をお建てになった。


天の御蔭・日の御蔭と隠(かく)りまして、安國と平らけく知ろしめさむ國中に、成り出でむ天の益人等(ますひとら)が過(あやま)ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪事は、天つ罪と、畔放(あはな)ち・溝埋(みぞう)み・樋放(ひはな)ち・頻蒔(しきま)き・串刺(くしさ)し・生(い)け剥(は)ぎ・逆(さか)剥ぎ・屎戸(くそへ)、許多(ここだく)の罪を天つ罪と法(の)り別けて、國つ罪と、生膚(いきはだ):斷ち・死膚:斷ち・白人(しろびと)・こくみ・おのが毋犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜(けもの)犯せる罪・昆(は)ふ虫の災(わざわい)・高つの災・高つ鳥の災・畜朴(けものたふ)し、蟲物(まじもの)する罪、許多(ここだく)の罪出でむ。

その宮殿の中に、(ニニギノミコトは、天孫降臨の事業の成就を)天国の神々や日の大神(天照大神。祖母)のおかげと感謝しつつお住まいになり、(この豊葦原の水穂の国、その中心の降臨地としての「大倭日高見の国」を)安らかな国として、平らかに統治しようとなさると、その国の中に数多く住むようになった、天国の人々(天の益人)が過ち犯したような、その罪事は、次のようだ。

天(あま)国の罪
〝田のあぜを破壊すること″〝溝を埋めること″〝木で作った水の通路を破壊すること″〝かさねて種子をまくこと″〝他の田に棒をさし立てて横領すること″〝動物の皮を生きたまま剥ぐこと″〝動物の皮を逆さに剥ぐこと″〝きたないものを(戸のそばなどに)まきちらすこと″など、たくさんの罪を天国の罪と定め別ける。

国の罪
〝生きた人のはだを切ること″〝死んだ人のはだを切ること″〝はだの色の白くなった人″〝こぶのできること″〝自分の母を犯した罪″〝自分の子を犯した罪″〝母と子と犯した罪″〝子と母と犯した罪″〝家畜を犯した罪″〝這う虫(ヘビ・ムカデなど)の災難″〝高地の神の災難″〝高地の鳥の災難″〝家畜を斃(たお)したり、まじないをして相手をのろう罪″など、たくさんの罪がいろいろと出てくることだろう。


かく出でば、天つ宮事もちて、大中臣(おほなかとみ)、天つ金木(かなぎ)を本(もと)うち切り末うち断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足(たら)はして、天つ菅麻(すがそ)を本苅(もとか)り断ち未苅り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、天つ祝詞の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣れ。

このように(たくさんの罪が)出てくれば、天津宮(天国の宮殿)のやり方に従って、大中臣(中臣氏の祖先。神祇を司る。「大 ― 」は美称。)の者が、天国の清らかで堅い木の上下を切り去り、たくさんの祭祀の物を置く神聖な台の上にたっぷりと置いて、天国の清らかな菅(すげ)のほそく裂いたものの上下を切り去り、八つの針で細かに切り割(さ)いて、(これらの準備がととのったら、その祭儀の場で〉天国の祝詞の、太祝詞(立派な祝詞)の言葉を宣告せよ。


かく宣らば、天つは天(あめ)の磐門(いはと)を押し披(ひら)きて天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて聞しめさむ。國つは高山の未・短山(ひきやま)の末に上(のぼ)りまして、高山のいゑり・短山のいゑりを撥(か)き別けて聞しめさむ。

このように宣告するならば、天国の神は天国の磐門(堅固な門)を押し開き、天国の八重雲をかき別け、かき別けして、(この祝詞を)お聞きになられよう。国(豊葦原の水穂の国)の神は高山のはしや低山のはしにお上りになって、高山の「いゑり」(雲霧の意か)や低山の「いゑり」をかき別けて、(この祝詞を)お聞きになられよう。


かく聞しめしては皇御孫の命の朝廷を始めて、天の下四方の國には、罪といふ罪はあらじと、科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みきり)・夕べの御霧を朝風・夕風の吹き掃(はら)ふ事の如く、大津邊(おほつべ)に居(ゐ)る大船を、舳(へ)解き放ち・艫(とも)解き放ちて、大海(おほみ)の原に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)がもとを、境鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)もちて、うち掃(はら)ふ事の如く、遺(のこ)る罪はあらじと祓(はら)へたまひ清めたまふ事を、高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川(はやかは)の瀬(せ)に坐(ま)す瀬織(せおり)つひめといふ、大海の原に持ち出でなむ。かく持ち出で往(い)なば、荒鹽(あらしほ)の鹽の八百道(やほぢ)の、八鹽道(やしほぢ)の鹽の八百會(やほあひ)に坐(ま)す速開(はやあき)つひめといふ、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては、氣吹戸(いぶきど)に坐す氣吹戸主(いぶきどぬし)といふ、根の國・底の國に氣吹き放ちてむ。かく氣吹き放ちては、根の國・底の國に坐す速(はや)さすらひめといふ、持ちさすらひ失ひてむ。

(天国や水穂の国の神々が)このように(この祝詞を)お聞きとどけになると、「皇御孫の命(ニニギノミコト)の朝廷」をはじめとして、天国の統治する、四方の国々には、罪という罪は消え失(う)せるように、と、風の吹きおこるところから、吹き立つ風が、天国の八重雲を吹きはらうときのように、朝の御霧(海の霧か)・夕べの御霧を朝風・夕風が吹きはらうときのように、大きな港のほとりにもやいする大船を、舟の先やうしろの綱を解きはなして、大海の原に押しはなつときのように、彼方の生(お)いしげった木のもとを、火で鍛えた鋭い鎌でうちはらうときのように、遺(のこ)る罪はもはやないようにと、祓い清めたまうとき、その高山・低山の麓から、勢いよく落ちたぎる、〝速川の瀬〟にいらっしゃる 『瀬織つひめ』という神が、(その罪という罪を)大海の原に持ち出してしまうだろう。このように持ち出していってしまうと、海の潮流のもみあうところ、そのもみあうところの潮流の中の〝八百屋会″にいらっしゃる『速開つひめ』という神が、海の中に流れ出た罪を勢いよく呑みこむだろう。このように呑みこむと、息を吹くところの〝気吹戸″にいらっしゃる『気吹戸主』という神が、根の国・底の国へと息で吹き飛ばしてしまうだろう。このように息で吹き飛ばすと、〝根の国・底の国″にいらっしゃる『速さすらひめ』という神が、持ちさすらって(これらの罪を)消え失わせてしまうだろう。

(祝詞の本体はここで終り。以下は終了宣言。)

かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、高天の原に耳振り立てて聞く物と馬牽(ひ)き立てて、今年の六月の晦の日の、夕日の降(くだ)ちの大祓(おほはらへ)に、祓へたまひ清めたまふ事を、諸聞しめせ」と宣る。

「このように消え失われると、『天皇が朝廷』に仕えまつる各官司の人々をはじめとして、天国の統治下の四方には、今日という日をはじめとして、これより以後は、罪という罪は存在しないであろうと、高天の原に向かって耳をふり立てて聞くものとして、馬を引き立てて、今年の六月の晦の日の、夕日のくだるときの大祓に、はらい清めたまう言葉を、皆、お聞き下さい。」と宣告する。

「四國(よくに)の卜部等(うらべども)、大川道(ぢ)に持ち退(まか)り出でて、祓(はら)へ却(や)れ」と宣る。

「四国の卜部たち、大川の方に(これらの祭祀に用いた種々のものを)はらい流し去れ。」と宣告する。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(4)

大嘗祭とはなにか(3)

 まずキーワード(赤字部分)を一つ一つ取り上げていこう。(古田さんはそれぞれを詳しく論証しているが、ここでは論証は最小限にして、過去の記事で既に取り上げている事項については結論だけを確認しておく。)

「天(あま)」

 「天」はいわゆる"美字"であり、もともとは「海人(あま)」の意である。「天つ国」とは「天つ神」の住まう国であり、具体的には対馬・壱岐など対馬海流上の島々を指す。「天神」は天照大神のことではない。祝詞では「皇親(すめむつ)」と表現されている「神ろき・神ろみ」という二神を指す。対馬に「天神神社」がある。天照大神を祭る「阿麻氐留神社」も対馬にある。

皇御孫

 天照大神の孫「ニニギノミコト」のことである。祝詞はニニギの「天孫降臨」で始められている。ニニギが天下った地は「竺紫(ちくし)の日向(ひなた)の久士布流多氣(くしふるだけ)」(『古事記』)である。これは宮崎県の高千穂山ではない。博多湾岸と糸島郡との間の高祖山連峰には日向峠・日向山・日向川などがあり、「くしふるだけ」もチャンと存在している。高祖山を中心とする連山こそ「天孫降臨の地」である。

大倭日高見之国

 この語句には初めて出会ったので少し詳しく書こう。

 「倭」・「大倭」は「天智紀」末年以降では「やまと」「おおやまと」と読み、「大和(奈良)」を指しているが、それ以前の文章では「ちくし」・「おおちくし」と読むのが正しい。(例えば『万葉集』などの史料で「倭」が出てきた場合、それが「ちくし」を指すか、「やまと」を指すかはその前後の文脈から判定しなければならない。)

 ニニギノミコトを『古事記』では「天津日高日子番能邇邇藝命」と呼んでいる。岩波大系ではこれを「あまつひこひこほのににぎのみこと」と訓じている。「日高」「日子」とわざわざ違った表記を用いているのに両方とも同じ「ひこ」と読むのは変だ。古田さんは「あまつひたかひこほのににぎのみこと」と訓じている。「伊波禮毘古(いわれひこ)」(神武)の例に見るように、「ひこ」の上の「日高」は地名である。

 対馬の北端やや東よりの所に「比田勝」という地がある。対馬海流の激流を避けうる地であり、弥生時代には繁栄した港津であったろう。

 「比田勝」は「日高津」である。「ひたかひこ」とは「日高」に拠点を持った「長官」という意となる。ニニギは対馬(少なくとも上県郡)を支配していた。ちなみにニニギの子も「天津天津日高日子穗穗手見命」であり、そのまた子の名も「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」(「伊波禮毘古」の父)と、同じ称号を継承している。つまり「天津日高日子」という称号は、本来対馬北部の長官を表わしたものであったが、「天孫降臨」後も「大倭(ちくし)」の大王の尊称として使われたと考えられる。

 次に「日高見」の「み」はなにか。「ひたかみ」は「日高の海」または「日高の神」(「かみ」は接頭語「か」+語幹「み」、「~み」と呼ぶ神も多い)であろう。

 以上より「大倭日高見之国」は本来対馬北部を呼ぶ国名だったものが「天孫降臨」後に「筑紫を中心とする地域」の名として使われるようになった。

「天つ罪」と「国つ罪」

 祝詞は「天孫降臨」にともなう問題として「雑雑(くさぐさ)の罪」を列挙している。そしてその罪を祓うのがこの祝詞の目的である。

 「国譲り」を受けて平和裡に「天孫降臨」したという『古事記』が描く"美談"が隠している罪悪(残虐な武力行使)があったことをこの祝詞が見せつけている。『日本書紀』には武力行使の片鱗を示す一文がある。(「神代下」第九段本文)

是に、二の神(経津主神・武甕槌神)、諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神等を誅(つみな)ひて、果して以て復命す。〔一に云う、二の神、遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆巳(すで)に平げぬ。其の服せざる者は、唯星の神、香香背男のみ。故、また倭文神(ひとりがみ)建葉槌命を遣はせば服しぬ。故、二の神天に登る、といふ。〕

 「草木石」の類が誅殺の対象とされているが、この祝詞の中で語られている「語(こと)問ひし磐ね樹立、草の片葉(かきは)をも語止(や)めて」と共通している。これは「草木石」を"信仰対象"とする、旧石器・縄文以来の民衆を指しているものと思われる。

 さて、「天つ罪」のうち「畔放ち・溝埋)み・樋放ち・頻蒔き・串指し」(「串指し」は田畑に呪いの串を刺すこと、あるいは田畑に串を押し立てて耕作の邪魔をすることという説もある)の五つは農地の管理・占有に対する破壊行為である。

 生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸については「定説」は「暴風雨」の災害としている。罪とは"人間の行為"に関する概念であるから、この解釈はおかしい。「屎戸」は、スサノオの悪行の一つでもあったが、文字通り悪質な"嫌がらせ"と考えてよいだろう。「生け剥ぎ・逆剥ぎ」については古田さんは、獣や魚の皮剥には神聖なルールがあって、そのルールを破る罪ではないかという説を出している。そのようなルールがあり得ることは、例えばアイヌのイヨマンテを想起すればよいだろう。

 ここでは一つ一つの罪がどういう罪なのかについてはこれ以上深入りする必要はないだろう。ポイントはこれらの罪の中心は「農業に対する破壊行動」であり、これがなぜ「天つ罪」と呼ばれるのだろうかという点にある。古田さんは「天孫降臨」(侵略戦争)のときの「天つ国側からの『加害』」ということで「天つ罪」と呼んでいると解釈しているが、この点には私には異論がある。後ほど述べよう。

 次は「国つ罪」。
 現代の私たちからは全く理解しがたい「罪」がある。例えば「生膚斷ち・死膚斷ち」。天つ罪の「皮剥」が獣や魚が対象だったのに対して、これらは明らかに対象は人間である。これについての従来の説明は通り一遍で陳腐なものだ。古田さんの次のような仮説は私にはとてもよく納得できる。

 『魏志倭人伝』が描く邪馬壹国の習俗・習慣の中に「男子は大小なく皆鯨面文身す。」という身体への「入れ墨」がある。この入れ墨によって、その男が倭国のどの国に属するどのような身分の者かが分かったという。この入れ墨は男たちの身分を保障するシンボルのようなものであった。このような習俗は邪馬壹国の時代(弥生期後半)に忽然と現れたわけではないだろう。この習俗は、入れ墨のデザインはいろいろと変化してきただろうが、天孫降臨の時代(弥生前期)から受け継がれてきたと考えてもよいのではないだろうか。

 「生膚斷ち・死膚斷ち」とは「天孫降臨」という侵略戦争で敗れた側のシンボルを消して奴隷化したり、戦死した者を傷つけて辱めた行為ではないだろうか。天つ国による征服によって大きな社会変動・身分変動が起こっただろうことは容易に想像できよう。新権力による公的な変動のほかに、戦闘時の直接的・暴力的な「生膚斷ち・死膚斷ち」もあったに違いない。

 「おのが毋犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪」なども戦乱の中での戦士たちのあるまじき犯罪行為と解することができる。

 そのほかの「国つ罪」についても、古田さんは詳細に論じているが省略する。古田さんは全ての「国つ罪」を天国の侵略時のまがまがしいさまざまなトラブルとして説明している。しかし、私は全てを侵略戦争時の「罪」と考えなくともよいと思う。「畜犯せる罪・昆ふ虫の災・高つの災・高つ鳥の災・畜朴し、蟲物する罪」などは国家以前の共同体の頃からの「掟」(法)に関わる「罪」と考えられよう。

 この祝詞は、以上のような罪悪を祓う("帳消し"にし、"無罪放免"にする)ための「まじない」である。しかもその祓うべき「罪」の持ち主は、「天皇が朝廷」であり「諸官司」であり「天の益人等」であった。つまり、これは権力の中枢部での「国家的儀式」であった。

 ところで先に私は、天つ罪を侵略戦争時の「天つ国側からの『加害』」とする古田さんの解釈に異論があると述べた。そのことにふれておこう。

 天国は海洋部族であり、主産業は農業ではなかった。海産物や海の利を生かした交易がその主な産業だったろう。朝鮮半島経由で得た金属武器を持ち、武力面では圧倒的な優勢を誇っていたその天国が、畑作だけでなく水田耕作も盛んであった「瑞穂の国」(筑紫)の富は垂涎の的であったろう。その富の収奪が目的で筑紫に侵略した。これが「天孫降臨」の真の姿だ。そうだとすると侵略者は、侵略の目的である富の源泉(農業施設)を故意に徹底的に破壊するようなことはないだろう、と私は考える。

 私の解釈では「天つ罪」(農業への破壊行為)はもともと征服された側(筑紫)の国々に設定されていた「掟」(法)に盛り込まれていた「国つ罪」であった。そして祝詞で「国つ罪」とされている「罪」こそはもともとは天国の「罪」つまり「天つ罪」であった。そう、ここで私は吉本理論を思い出している。筑紫の群立国家で支配的であった「掟・罪」(国つ罪)と、その諸国家に覆いかぶさってきた統一国家勢力(天国)の「罪」(天つ罪)が交換されたのだ。その交換によって、天国が筑紫において「それ以前からあたかも存在したが如くに」その国家権力を確立していったのだ。

蛇足を一つ。
 従来は「天つ罪・国つ罪」がどのように解釈されていたのか知ろうと、岩波大系本の頭注のほかに、ウィキペディアの記事を読んでみた。それによると、現在は
「神社本庁およびその配下の神社で用いられる大祓詞では、国つ罪に差別的な表現があるとして、天つ罪・国つ罪の罪名の部分はカットされている。すなわち、現在の大祓詞で「天つ罪 国つ罪 許許太久(ここだく)の罪出でむ」
とだけになっていてそうだ。これではますます本来のこの祝詞の意味するところが不明になってしまう。訳の分からない祝詞を聞いて何をありがたがっているのだろう。

 大体、祝詞は「皇御孫(すめみま)」(ニニギ)を頂点とする部族国家(あるいはその国家の共同幻想)を言祝いだり祓ったりするもので、祝詞そのものがその時代の「差別」の所産である。「差別的な表現」が気になるのなら、そんな時代錯誤の儀式そのものをきっぱりと止めたらどうだ。それは史料としてだけ残せばよい。
蛇足でした。