2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

教育反動の足跡
 2004年8月15日


 「国家権力にとって教育とは、大衆支配の基本的かつ有効な統御装置であり、そのためにこそ、権力側は教育の管理権の可及権を絶えず拡大させようと、意図的に問題を惹起しては、反権力側と確執をを持つのである。当時の国家権力はそれを<天皇>の名において<教育勅語>という錦旗を押し立てて、極めて暴力的に教育権そのものまでも収斂せしめたのである
(中略)
 現在の権力もまた例外ではない。権力側によって強力に恣意的に歪曲された民主主義の名に於いて、中正・公正教育なる錦旗を押し立て、国定さながらの教科書検定を行い、七一年六月中教審答申に見られる職務職階制導入による教職員の隷属管理化、そして教職員の政治活動禁止と、まさに太平洋戦争前夜を思わせるような状況を作り、なお進行しつつある。やがて、これは学校教育の問題に限らず、教育に関連する全ての分野へ波及することは明らかである。
したがって、教育の開題を、教育本来を捉える概念だけで見るわけにはいかない。検定を通過した教科書から、原爆の写真が抹消され、戦争の悲惨を訴える描写が削除され、平和憲法の解説がなおざりになり、戦争責任の韜晦がなされ、反面、皇室に関する記事がふえ、歴史上の忠君の武将が登場し、国益、公益なるものの強調が始まったことの意図するものがなんてあるかを予知せねばならない。これは極めて危険かつ、重大なのだ。権力側の意図するものが、かなり露骨になって来ているといえるだろう。」
(中山 恒「ボクラ少国民」より)



   山中恒氏の「ボクラ少国民」は1974年に出版されている。ちょうど今から30年前である。鋭い警鐘を打ち鳴らす人は中山氏のみではなく、事あるごとにさまざまな人が同様な発言をし続けてきているが、それらの警鐘に応える抵抗の大きなうねりは被支配者の側にはついになく、自由と民主を僭称する政党を中心とする支配者側は少しずつだが、狡猾にかつ着実に時代錯誤とも言えるよこしまな目論見を実現し続けてきた。とうとう厚かましくも心の中に土足で踏み込むように「君が代・日の丸の強制」を打ち出してきた。そして憲法改悪を目論む勢力が大手をふってのし歩くまでになってしまった。
その憲法改悪を米国が催促している。政治評論家・森田実氏のホームページ「MORITA RESEARCH INSTITTUTE CO.LTD(http://www.pluto.dtine.jp/~mor97512/)」によると、アメリカの狙いは、憲法を改正して徴兵制を国民の義務にすることだという。「押付け憲法」を憲法改悪の理由の一つとする連中がその米国の意を改悪憲法に組み込もうとしている。これじゃまるで日本は米国の属国じゃないか。

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<4点セット>は不可分なもの
 2004年8月16日


 「<日の丸・君が代・教育勅語・靖国神社>は天皇制ファシストたちによって パックされた一連の理念の象徴であると同時に、一切の民主主義、社会主義、自 由主義などの否定の上に成立する「臣民の道」として、天皇制ファシズム下の日 本帝国臣民であるならば、何人といえども外れることの許されない関門であった ことは、既に歴史的な事実なのである。
 その民主主義等の否定の上にしか成立しないはずのものであるにも拘らず、そ うしたものを国家の名に於いて、ひとつひとつ復権し、権力の裏付けで国民に 押し付けようと目論む者が、民主主義を標榜する国の権力中枢に在るということ 自体、甚だ奇怪なことといわざるを得ない。」
(中山 恒「ボクラ少国民」より)


 (十数年前、学習指導要領に「君が代・日の丸」の義務付けが盛り込まれたと き、次のような文を書いて、職場で配った。)
 スイスやアメリカの学校では始業式はなく、ただちにその日から授業が始ま る。そして年度の始業の日は、「いろとりどりの個性が開花へ向かう営みの始 まり」にふさわしい行事、「知や情を刺激し」これからの学校生活への期待と 希望をふくらませるような行事が工夫されているという。生徒も教師もさまざま な個性・感性を持った人間としてふるまえる始まりである。

 それにひきかえ、半世紀ほど前のわが国民学校の教育は次のように始まった。 かっての少国民・山中氏は述懐する。「入学して私達1年生が最初に教えられた ことは・・・敬礼だった。最敬礼だった。まず門をくぐったら、まっさきに奉 安殿にむかって最敬礼することだった。そして次に、日の丸に対して、直立不 動の姿勢をとってから、赤心こめて敬礼することであった。」
 少国民錬成が入学と同時に始まるのだ。国家の忠実な一員、忠良なる臣民に なるための心身の修養の開始なのだった。
 今の私たちの学校の儀式も褒められたものではない。「一同、礼」で始ま り、「一同、礼」で終る。首尾一貫して、ただただ緊張ばかりを強いる。新入 生や卒業生が主人公とはたてまえばかりで、半世紀前のままではないか。あと 「君が代・日の丸」があればもうほとんど半世紀前と同じである。形式ばかり の事大主義が得意顔で号令をしている。
 <日の丸・君が代・教育勅語・靖国神社>は不可分の4点セット。教育勅語が 昔のまま復活することはないとしても、その思想はすでに教育基本法に敵対し て、大きい顔をしている。「君が代はよくないが日の丸はよいのではないの」な んていう人がいるが、そんな考えは誰よりも天皇教推進派が認めない。4点揃わ なければ意味がないのだ。
 ところでこんなつまらぬ人権抑圧的儀式の形はいつごろできたのだろ うか。
 学校教育での儀式ははじめは天皇家の祝祭日だけであった。始業式や入学式 は、もともとは式ではなく、単なる授業はじめであり学校開きであった。卒業 式もただの卒業証書授与であった。天皇制国家の下、臣民教育を秩序だてるた めに新しい「礼法」「礼式」が必要と、その形をつくり始めたのは森有礼。 1889年に、「生徒児童の徳を強化」する目的で礼式のための「訓令案」をつく る。礼の仕方まで事細かに規定している。これがそのまま学校生徒礼式として 採用される。明治の終り頃には学校教育の中の儀式が完全に定着する。
 いま広く無自覚に継承されいる卒業式の式次第や恭しく証書を受け取る形 式は、日清戦争以後1894・5年頃に確立し、祝祭日の儀式と並び最大の式とな る。
 学校行事の式次第や礼の仕方、はては参列者の並び方までを行政権力が こと細かに決めるなど、古今東西例があるまい。


 これを書いたとき、「君が代・日の丸」強制の締め付けはより過酷になって くるだろうと予想はしいたが、まさか再び「式次第や礼の仕方、はては参列者 の並び方までを行政権力がこと細かに決める」ような時代錯誤な愚行が行われ るとは思っていなかった。
 実際に行われた卒業式の場ではさらにおまけがある。教頭が教師たちの後ろ で本当に歌っているかどうか監視したとか、来賓として参列していた都会議員 が起立しない生徒たちに大声で「立ちなさい」と恫喝したとか。

 都教育委員会の通達の内容を知ったとき激しい憤りとともに、まず出てきた 感想は「恥知らずなバカどもだ」だった。

 噴飯ものの詭弁、権力を笠に着た傲慢な強弁、片頬を歪めてシニカルに冷笑 している差別意識。それを恬として恥じない醜く歪んだ自分の心の形にまるで 気づかず、自分を偉い人間だと思い込んでいるらしい者を、私はバカと呼ぶ。 権力や財力が大きくなるほどにバカになるようだ。

 イラクに大量破壊兵器はなかったことが判明すると「見つからないからと言 って、フセインがいないとは言えない」とか、独善的で憲法違反の通達を一方 的に出しておいて「先生には、国が決めたことを順守して、それを教育の一つ の事例として子供に伝える責任があるわけでしょう」とか、選手会が話し合い たいと言うと「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選 手が」とか。まるで「三バカ大将」だ。 

3. 抑圧者の正体 2004年8月17日


 抑圧者にとっては、自分たちだけが人間であり、他者は物にすぎない。また、かれらにとって、権利はひとつしかない。つまり、かれらが平和に暮すための権利(現体制を維持強化する権利-仁平注)である。それは、必ずしも承認されているわけではないのだが生きのびるためにあてがわれている被抑圧者の権利とは、まったく対照的なものである。かれらがこうした権利を被抑圧者にあてがう理由にしても、ただ被抑圧者の存在がかれらの存在に欠かせないからにすぎない。
(パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」)

 パウロ・フレイレのいう「抑圧者(oppressors)」とは、私の用語で言えば、もちろん、「支配者」に他ならない。

 ところで次の文は誰の発言だと思いますか。

 「まず基本的なスタンスから述べたい。僕は自分の人生についていつも自由な人間でいたい。僕にとってそれしか価値のある生き方はない。(中略)自分の人生を束縛するものからは自分で守ろうと思う。今日の政治が手続きをすっ飛ばした全体主義的傾向にある温床も、こういう言葉狩りのような状況が作っていると思う。」
(斎藤貴男「非国民のすすめ」所収「差別主義者の無知」からの孫引き)

 「私は被支配者の一人であり、被支配者の側に立ち続ける」という私のスタンスからは、我が意を得たりと言いたい発言だが、なんと!!この発言者は衆議院議員時代の石原慎太郎なのだ。

 「自由」しか価値ある生き方はないと言いながら、教師や生徒の「自由」を扼殺しようとしている。手続きをすっ飛ばした「全体主義的政治」を憂慮する当人が手続きをすっ飛ばして「全体主義的政治」に猪突猛進している。

 彼の言う「自由」や「全体主義的政治」は、私たちが使うのとは意味が違うのだろうか。それとも彼は心にもないウソをついているのだろうか。 彼は三浦朱門といい勝負の地に落ちた「腐れ文学者」だが、文学者には違いない。たぶん言葉が本来持つ意味で正しく使っていると信じよう。

 彼は他者の痛みや立場に無頓着に自分のあさましい思想心情を率直?に言葉にすることで負の大衆意識に取り入り票を集めたエセ政治家である。たぶんここでも思想心情を率直に語っていて、ウソはついていないと信じよう。

 彼にとっては「自分たちだけが人間であり、他者は物にすぎない。」のだ。それならばつじつまが合う。
 被抑圧者の自由や民主主義は、彼にとっては彼の自由を脅かす束縛であり、全体主義なのだ。

戦争は平和である
自由は屈従である
無恥は力である

(ジョージ・オーウェル「1984年」より)

 
 昨年の靖国神社参拝の折、記者の取材に答えて「俺にも俺の感情というものがある。誰がなんと言おうと(靖国参拝は)やめない。」と言っている。ここでも「尊重すべき感情」を持っているのは自分だけで、他者のそれには一顧だにもしない。

 「君が代日の丸の強制」を拒否する人たちはその理由を次のように言うといい。 
「私は自分の人生についていつも自由な人間でいたい。私にとってそれしか価値のある生き方はない。自分の人生を束縛するものからは自分で守ろうと思う。また、私にも私の感情と言うものがある。誰がなんと言っても拒否し続ける。これは偉大なる石原知事が認めざるを得ない理由なのだ。文句あるか。」


4. 「君が代日の丸」が「考えるな、服従せよ」と恫喝する
 2004年8月18日


「プロレ(被抑圧者・・・仁平注)が強い政治的感受性を持つのは望ましいことではなかった。彼らに要求されるものといえば素朴な愛国心だけで、労働時間の延長や配給の削減を受諾させる必要が生じた場合には、その愛国心に訴えさえすればよかった。」
(ジョージ・オーゥエル「1984年」より)

 「1984年」はスターリン支配下のソ連に触発されて書かれたと言われているが、私はこの本を読みながら、これは日本国の近未来を描いているのじゃないかという思いを禁じえなかった。目下進行中の反動的支配者どもの暴走をこのまま許してしまえば「大日本帝国」よりひどい国家になりそうだ。

 いろいろなところで引用されているのでご存知の方が多いかと思うが、私も紹介しないではいられない文がある。
 斎藤貴男著「機会不平等」にこんな発言が取り上げられている。

 「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり
注いできた労力を、できる者を限りなくなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいのです。
(中略)
 それが゛ゆとり教育″の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。」
(「ゆとり教育」についての著者の質問に対する三浦朱門・前教育課程審議会会長の回答)

 人間を貶めることで自分自身を非人間化していることに気づかない。差別意識でガチガチの鼻持ちならぬエリート。このような情けない「バカ」どもが権力の中枢を取り巻いている。

 三浦が期待している「実直な精神」とはどんな精神だ。「君が代日の丸」の押し付けが目指しているものだ。支配者の命令に唯々諾々と従う精神だ。「君が代日の丸」が「実直な精神」の鋳型だ。
 儀式の度に繰り返し繰り返し教師・生徒に思い知らせる。「考えるな、だた服従せよ、愛国心だけをこころに刻み込め。」と。

 今阻止しなければ、「君が代日の丸の強制」はやがて儀式のときだけにとどまらないだろう。実際に、日常的に校庭の「日の丸」に敬礼し、どこで何をしていようと、直立不動で「君が代」の放送を聞くことを強いている小学校が既にあると言う。



5. 「三バカ大将」に贈る四文字熟語
 2004年8月19日

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 ミステリー小説や時代物小説を読むこを私は息抜きの楽しみのひとつにしている。
 山本周五郎の短編集を読んだ。小説を読んでいるときも、しばし「三バカ大将」を忘れるため読んでいるのに、意識の片隅の「三バカ大将」にとげとげがあるらしく、そこに引っかかる文言がある。

「なんて世の中だろう、ほんとうになんていう世の中だろうね。お上には学問もできるし頭のいい偉い人がたくさんいるんだろうに、去年の御改革から、こっち、大商人のほかはどこもかしこも不景気になるばかりで、このままいったら貧乏人はみんな餓死をするよりしようがないようなありさまじゃないか。」(「かあちゃん」より)

 これはもう小泉改革への批判のようじゃないか。
 小泉は景気は回復してきたと自画自賛しているが、儲かっているのはアメリカ系企業と一部の大企業で、その恩恵に浴しているのは国民の20%位に過ぎないと言う。地方の疲弊はひどく、失業者に職がなく、労働者は無賃金残業のやらされ放題。小泉がやっている改革が格差を拡大するばかりのものであることがいよいよ明らかになってきている。

 もう一つ「日々平安」より。主人公が述懐する。

 「元来が私は政治などというものに興味はないんです、しよせん政治と悪徳とは付いてまわるし、そうでない例はないようですからね、しかしそれにしても国許の状態はひどい、まるでもうめちゃくちゃなんだ」

「もっとも悪いのは、かれらがその声を無視することです、家中にだって批判の声が起こつている、若い人間のなかにはしんけんに思い詰めている者も少なくないんだ、しかしかれらはそういう声をまったく無視して、私利私欲のために平然と政治を紊(みだ)っている」


 そしてこの悪徳一派を批評する四文字熟語が四度出てきた。その度に「ああ、三バカ大将のことだ」と思った。順に
「無恥陋劣、悪徳非道、不義無道、品性劣等。」

 遊び心が出てきて、「三バカ大将」に贈る四文字熟語を辞書から拾い出してみた。あるわあるわ。

厚顔無恥、傲岸不遜、奸佞邪智、人面獣心、頑迷固陋、頑迷不霊、無知蒙昧、人権蹂躙、腐敗堕落、無理無体、魑魅魍魎、異端邪説、
そしてとどめは言語道断。