2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(1)

「昭和維新」


 徳川幕藩体制の崩壊と大日本帝国の敗戦と、2度の未曾有の変革期に、日本人民は2度とも敗北した。「自由民権運動」の敗北の経緯を学習しながら私は、もう一つの敗北にも一度はしっかりと目を注がなければいけないと思っていた。

「周雖旧邦 厥命維新」(詩経、大雅、文王)
<周は旧邦なりと雖も、その命は維(こ)れ新(あらた)なり>

 明治「維新」の語源だという。

 明治維新において人民は、<近代的国民国家>を形成できず敗北した。できあがった国家は、アジア的統治形態のイデオロギーにプロシャ流立憲的専政君主制を模倣・採用した<例外的国家>であった。つまり明治維新は、当初は「維れ新なり」と言える契機を孕んでいたが、結果はアジア的デスポティズムという「古(いにしえ)に復(かえ)る」(復古)という結果に帰してしまった。

 右翼は「維新」が好きだ。昭和維新、平成維新と保守反動の運動に「維新」を冠したがる。60年安保闘争の時、デモの列にトラックで突っ込んだうえ、デモ参加者への暴力をほしいままにした右翼集団は「維新行動隊」と名乗っていた。中味は「復古」なのに「維新」を標榜する。明治維新の結果が「維新」ではなく「復古」だったため、「復古」=「維新」という早とちりをしいているのだ。

 「維新」という言葉を右翼から取り戻し、本来の意味で使おうと思う。私は今回の表題を「昭和維新」とした。

 何をもって「昭和維新」と呼ぼうとしているのか。60年安保闘争を中心に1950年代から1970年代にかけて闘われた、いわゆる新左翼を中心とする広範な抵抗権行使運動である。明治維新における自由民権運動に比肩する闘いだったと、私は思う。今回から、60年安保闘争に焦点をあてて、「昭和維新」の敗北の経緯をたどってみたい。

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 毎度の事ながら、全体の構想をもたぬまま、学習をしながらのアクロバット更新をしていきます。途中でモタモタ・ギクシャクするかもしれませんが、あしからず。

 とりあえず、次の教科書を使う予定です。

教科書A
 蔵田計成著『新左翼運動全史』(流動出版)

教科書B
 三上治著『独立左翼論』(三交社 「吉本隆明が語る戦後55年」所収)

教科書C
 『朝日ジャーナルの時代』(朝日新聞社)

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昭和の抵抗権行使運動(2)



「昭和維新」年表





 教科書Aの著者・蔵田計成(けいせい)さんは1958年の第一次ブンド結成に参加し、1959年には都学連副委員長を務めている。昨年5月から、「日本インターネット新聞JANJAN」に「時代に生きた新左翼・歴史群像」という論文を寄稿している。「昭和維新」の渦中で熱い青春を生きた人たちの評伝を通して、「昭和維新」のあらましを知る事ができる。興味のある方は、合わせ読まれるとよいでしょう。




 教科書Aの巻末に「昭和維新」の年表(新左翼運動史・年表)が掲載されている。1957年から始まり1978年3月(教科書Aが出版されたのは1978年7月)で終わっている。この稿では私は60年安保闘争に的を絞って学習する予定なのだが、とりあえず、未知の事項もいくつかあるが、上記年表をそのまま全部転載しておく。年表に目を通すだけで、「昭和維新」を担った人たちの最高揚期における精神の崇高さと、過激なセクト抗争に陥った瓦解期の痛ましさに胸ふさがる思いが彷彿とわき上がってくる。








「昭和維新」年表






1957年


1・27 日本トロツキスト連盟結成

4・27 沖縄・砂川全国学生総決起集会

5・17 原子戦争準備反対全日本学生総決起行動デー

6・27 学生・労働者砂川基地突入

7・8 学生・労働者4000人砂川基地突入

9・17 原子戦争準備反対全日本学生総決起デー

9・29 日共、党章草案発表

11・1 原水爆実験禁止国際統一行動デー


12・1 トロ連、日本革命的共産主義者同盟と改称

12・4 勤評反対全国学生総決起大会






1958年


5・26 反戦学同、社会主義学生同盟と改称

6・1 日共中央と学生党員が党本部で衝突

7・8 革共同第一次分裂。トロツキスト同志会結成

9・4 全学連第12回大会。革共同の下で転換路線

9・15 勤評粉砕第一波全国総決起大会

10・28 警職法阻止全国学生総決起集会

11・5 警職法阻止全国ゼネスト

12・10 共産主義者同盟(ブント)結成

12・13 全学連第13回大会。革共同の指導権確立





1959年


1・1 全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」

4・28 全学連、安保反対第一次統一行動

5・15 全学連、第二次統一行動

6・5 全学連第14回大会。ブント指導権確立

6・25 全学連、第三次統一行動

8・26 革共同第二次分裂。革共同全国委結成

9・26 日共都党会議。港、千代田地区委、中央攻撃

10・30 全学連、反安保全国スト

11・27 安保反対第八次統一行動。全学連全回ゼネスト、国会包囲デモ、労働者学生二万数千名国会突入。

12・10 全学連中央集会。国会デモ中止





1960年


1・16 岸訪米阻止羽田闘争。全学連空港ロビーに突入、唐牛委員長ら76名逮捕

1・25 三池労組無期限全面スト突入

2・22 長船社研結成

3・16 全学連第15回大会

4・26 全学連国会正門前で機動隊と衝突

5・13 安保阻止全学連全国総決起

5・19 自民党、安保強行採決。全学運"非常事態宣言"を発し、数万人が国会包囲

5・20 全学連、全国スト闘争。国会包囲デモ

5・26 国民会議、全学連、空前の国会包囲デモ

6・10 全学連反主流派ハガチー来日反対闘争

6・15 全学連、二万人国会包囲デモ。先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺、翌日にも数万の抗議デモ

6・18 安保条約自然成立。労働者・学生・市民徹夜で国会包囲。連日デモ

6・23 樺美智子全学連追悼集会

7・4 全学連第16回大会。反主流派、全日連結成

7・29 ブント第五回大会。ブント解体へ

8・9 ブント、安保総括をめぐり、革通派、プロ通派、戦旗派に分裂

10・12 池田内閣打倒、浅沼刺殺抗議全学連集会

10・15 社青同学生班協議会結成大会




1961年


3・7 革命的戦旗派、革共同全国委と統一

4・5 全学連27中委、マル学同の指導権確立

5・19 政暴法粉砕闘争

6・2 政暴法粉砕闘争。機動隊と衝突
6・15 6・15一周年集会

7・8 全学連17回大会。マル学同と反マル学同対立

10・7 マル学同系、社学同系二つの都学連大会

10・12 全学連、政暴法粉砕・核実験反対闘争

10・26 都学連(社学同)政暴法粉砕闘争

10・31 全学連政暴法粉砕・核実験反対闘争

12・5 社学同全国事務局機関誌「SECT NO.6」創刊





1962年


3・30 社学同第一回都大会。事務局派追放

4・27 全学連、米ソ核実験反対統一行動

5・2 統社同=フロント結成

5・11 三派連合、改憲阻止闘争。自民党本部に突入

5・25 全学連反戦統一行動

7・1 参院選。黒田寛一革共同議長、23000票

8・6 根本全学連委員長ら、モスクワ赤の広場デモ

9・15 第三次社学同再建

9・28 憲法調査会中央公聴会阻止闘争

11・30 大管法粉砕全国統一行動。銀杏並木集会





1963年


1・12 全学連33中委。大管法総括をめぐり対立

1・19 都学連再建大会(社学同、社青同、共青)

4・1 革共同第三次分裂(中核派と革マル派)

6・15 原潜阻止・日韓会談粉砕統一行動

7・5 全学連20回大会。革マル派指導権確立





1964年


2・12 東京社学同、マル戦派とML派に分裂

3・20 金鐘泌来日阻止羽田闘争

3・21 共産同マル戦派結成

3・25 新三派連合確立(社学同、社青同、中核派)

6・19 憲法改悪阻止・日韓会談粉砕全回統一行動

7・2 早大7・2事件

8・2 日韓会談粉砕・憲法改悪阻止全国反戦集会

11・12 原潜寄港阻止全国緊急行動

12・11 日共系全学連再建大会





1965年


2・1 慶大学費闘争、全学無期限スト
3・13 社学同大会。独立派、ML派が統一派結成

3・30 社青同解放派結成

6・9 ベトナム反戦国民行動

7・8 三派都学連結成(中核派、社学同、解放派)

8・30 反戦青年委員会結成

10・29 日韓条約批准粉砕全国統一行動

11・5 日韓条約批准阻止総決起大会





1966年


1・18 早大学費闘争。全学ストへ

5・30 原潜寄港阻止行動

6・24 青医連、医学連、インターン制廃止統一行動

9・1 第二次ブント再建

11・12 共労党結成

11・19 東学館闘争。学生、機動隊と衝突

12・17 全学連(三派)再建大会。35大学、71自治会結集





1967年


1・20 明大学費値上げ大衆団交

1・22 高崎経大、不正入学反対バリスト突入

3・2 善隣会館事件

7・9 ベトナム反戦・砂川基地拡張阻止大集会

10・8 佐藤訪べ卜阻止羽田現地闘争。羽田で三派と機動隊激突、山崎博昭虐殺。街頭実力闘争の高揚へ

10・17 虐殺抗議山崎君追悼中央葬

10・21 ベトナム反戦統一行動

11・12 第二次羽田闘争





1968年


1・15 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。一週間現地で激闘

2・16 中大学費値上げ闘争、白紙撤回で勝利

3・10 三里塚闘争。機動隊と衝突

3・28 王子野戦病院反対闘争。基地突入

4・3 マル戦派、ブントから分裂

4・26 国際反戦統一行動

5・31 日大闘争、三万人大衆団交要求デモ

6・15 6・15記念首都総決起集会。中核派と革マル派衝突。

6・17 機動隊、安田講堂占拠の学生排除、全学ストへ。東大―日大闘争激化

6・26 米タン阻止新宿闘争

7・14 中核派全学連結成。三派全学連分裂

7・19 反帝全学連大会で社学同と解放・ML派衝突

9・30 日大全共闘、両国講堂で大衆団交

10・8 羽田闘争一周年集会。米タン阻止闘争

10・21 国際反戦デー。新宿、防衛庁、国会等でデモ、機動隊と激突。騒乱罪適用





1969年


1・9 東大全共闘、教育学部奪還闘争。民青と衝突

1・18 安田攻防戦。二日間にわたって激闘、神田でも解放区闘争。全国学園闘争の爆発

4・28 沖縄闘争。銀座、お茶の水、新橋で機動隊と衝突。中核、ブントに破防法

6・8 アスパック粉砕闘争

7・10 大学立法粉砕闘争

8・17 広島大死守闘争

9・3 早大死守闘争

9・5 全国全共闘結成大会。日比谷野音に三万人結集。赤軍派登場

9・20 京大時計台死守、街頭バリケード戦

10・10 安保粉砕・佐藤訪米阻止十万人集会

10・21 国際反戦デー。新宿、高田馬場で機動隊と激突。1500名逮捕

11・5 赤軍派、大菩薩峠事件

11・16 佐藤訪米阻止、11月決戦。品川、蒲田で機動隊と激突。2000名逮捕





1970年


3・31 赤軍派、よど号ハイジャック

4・28 沖縄デー。各地でデモ

6・14 全国全共闘、反安保集会

7・7 蘆溝橋事件33周年記念.華青闘、新左翼批判、入管闘争に問題提起

8・4 海老原事件。革マル派、中核派に報復宣言

9・30 三里塚、立入調査で公団側と激闘

10・8 羽田闘争三周年。入管闘争

10・21 国際反戦デー。各地で集会、デモ

12・18 京浜安保共闘、板橋で交番襲撃

12・20 沖繩・コザ市で暴動。騒乱罪適用




1971年


2・17 京浜安保共闘、真岡の銃砲店襲撃

2・22 千葉県・公団、第一次強制代執行

6・15 全国全共闘分裂(中核と沖共闘)

6・17 明治公園の集会で鉄パイプ爆弾

8・6 広島反戦集会。連合赤軍誕生のビラ

9・16 三里塚第二強制代執行、連日機動隊と激突。警官三人死亡

9・25 沖青委、皇居突入

10・24 東京都内三カ所で爆弾爆発。本格的爆弾時代へ

11・14 沖繩闘争、渋谷大暴動

11・19 日比谷大暴動。中核派1800人逮捕

12・4 革マル派、関西大中核派襲撃、2名死亡

12・24 新宿でツリー爆発





1972年


2・19 連合赤軍、浅間山荘に籠城

2・28 機動隊と銃撃戦。陥落

3・7 リンチ事件発覚、妙義山中で1遺体発掘。13日までに12遺体、総計14。新左翼にショックを与える

4・28 沖繩デー。中核派集会に反戦自衛官

5・30 アラブ赤軍派、テルアビブ空港襲撃

10・21 国際反戦デー、全国数百ヵ所でデモ

11・8 早大川口君リンチ殺人事件。以後、革マル派への連日の追及集会。





1973年


1・1 連合赤軍森恒夫東京拘置所で自殺

4・2 早大入学式に黒ヘル乱入

7・4 革マル派、池袋の中核派アジト四ヵ所襲撃

7・20 日本赤軍日航404便ハイジャック

9・15 神奈川大で反帝学評と革マル派衝突

10・20 革マル派、全国の中核派アジト襲撃

11・8 川口君事件一周年。中核派、解放派と革マル派の党派闘争激化





1974年


1・14 革マル派、破防法弁護団会議襲撃

1・24 中核派、東京と横浜で革マル派を襲撃。12名死亡

1・31 日本赤軍、シンガポール・シェル基地を攻撃

5・13 第一次法政大会戦。中核派と革マル派激突。1名死亡

6・26 第二次法政大会戦

8・30 東アジア反日武装戦線"狼" 三菱重工本社爆破。爆弾闘争再開

10・31 狭山差別裁判、東京高裁、二審無期判決

11・18 フォ―ド来日阻止闘争

12・16 中核派、革マル派の東京3アジト同時襲撃





1975年


2・28 間組本社ビル爆破

3・14 中核派本多書記長、革マル派の攻撃で死亡。中核派「全面無制限戦争突入宣言」

3・28 革マル派一方的テロ停止宣言

7・17 皇太子訪沖阻止闘争。新橋駅で中核―革マル激突

8・4 日本赤軍、クアラルンプール同志奪還闘争

9・30 天皇訪米阻止闘争。羽田周辺でデモ

10・12 三里塚空港粉砕総決起集会





1976年


2・23三里塚現地総決起集会

4・28 沖繩デー

5・23 狭山差別裁判勝利中央統一集会

10・21 国際反戦デー





1977年


2・11 革マル派、革労協中原一襲撃→死亡

4・17 三里塚鉄塔死守総決起集会

5・6三里塚強制代執行、機動隊と激突。8日東山薫虐殺

8・9 狭山差別裁判最高裁上告棄却

8・23 狭山差別裁判勝利中央総決起集会

9・28 日本赤軍ダッカ空港ハイジャック

10・9 三里塚空港粉砕、ジェット燃料輸送阻止集会





1978年


3・26 成田管制塔突入闘争



昭和の抵抗権行使運動(3)

60年安保闘争時の政治裏面


 ポチ・小泉ほどあからさまにアメリカに媚びを売った首相も珍しい。ブッシュ家族の前でプレスリーを演じた破廉恥ぶりが象徴的である。政治政策では、小泉改革とは、何のことはない、アメリカのからの「年次改革要望書」への忠実な返答であった。

 自民党政権はアメリカの逆鱗に触れると維持できない。安倍狆三の無様な退陣は、彼の早急な極右的政治姿勢がアメリカの意に沿わず、アメリカから見捨てられたことが大きな理由の一つだったのではないかと、私は思っている。

 日本は一体いつからアメリカの属国になってしまったのだろうか。敗戦後、アメリカに占領されていたとはいえ、真の独立国家となる道はあった。その道を塞いでしまったのが、60年安保当時の首相、狆三の祖父・岸信介だった。それ以前から何かと取りざたされていた事ではだったが、昨年のCIA機密文書公開で、岸が「CIAの犬(エージェント)」であった事が明らかになった。

 「岸信介 CIA」でネット検索すると、六千数百件のヒットがある。その中から、60年安保闘争の事にも触れているので、 天木直人さんの記事 「CIAの極秘文書が教えてくれた戦後の暗黒史」 を転載しておこう。

 今日のブログは書くほうも、読むほうも気が重くなるような内容であると思う。しかしどうしても書いておかなければならない。私がこのブログを書き続けるためにも、早い段階で問題提起をしておかなければならない。そう思って書いた。

 2月26日の読売朝刊は、米国中央情報局(CIA)が児玉誉士夫(右翼)や辻政信(元陸軍参謀)について「情報要員としての価値はなきに等しい」、「(日本の再軍備のために米国を利用し)第三次大戦さえ起こしかねない男」などと酷評していたことをスクープした。

 この報道は重要性な意味を持つ。それは、児玉や辻の正体が実は「うそつき」、「大泥棒」、「役立たず」であったという情けない事実を教えてくれたからではない。これら人物が米国により戦犯容疑者から無罪放免してもらい、その代わりに米国の手先になって米国の日本占領に加担したという、いわゆる戦後の暗黒史が実は歴史的事実だったということを、ここであらためて我々に確認させてくれたことにある。昭和の歴史を体験している人々が死んでいき、戦後生まれの世代が日本人の大勢となる時代が来ようとしている今日こそ、暗黒史を正史として残す作業は誰かの手で続けられなければならないのだ。

 なぜ自民党は永久政権政党であり続けるのか。そしてその自民党政権がなぜこれほどまでに対米従属政策を続けるのか。本来は愛国的であるべき右翼が、こと米国になると対米従属政策をまったく批判しないのはなぜか。なぜ日本には社会党や共産党といった左翼、護憲勢力が幅広い国民の支持を得られないのか。それらの問いに答えてくれるのが、暗黒史と言われるもうひとつの歴史である。

 暗黒史は、歴史教科書は勿論のこと、大手の全国紙などにもほとんど出てこない。だから一般の善良な国民は「そんなことはありえない」と思い、それを大声で語る者は、一歩間違えば「荒唐無稽な陰謀論者」と一笑に付されかねない。しかし、実は今日の外交や内政に見られる数々の権力犯罪を追及していけば、最後は必ずここに行き当たるのだ。私がブログで権力者の不正を書き続ける時にぶち当たる虚しさは、実はブログの読者の数が少ないということではない。この巨大な壁のあまりの大きさを痛感するからである。

 今日の日本は米国の占領を境に民主主義に生まれ変わったと思っている日本人は多いと思う。しかし決してそうではないのだ。今日の日本は戦前、戦後を通じた暗黒史の延長線上から成り立っているのである。たとえば読者は次の事実(と多くの者が思っているが決して公式には確認されていない事実)を知っているか。

 A級戦犯で処刑された7名の影で、多くの戦犯容疑者が米国の手で釈放され、米国の日本占領政策に加担してきた。正力松太郎や岸信介、賀屋興宣、笹川良一、児玉誉士夫、などはその典型である。

 米国の日本占領支配はある時点から徹底した反共政策に転じ、そのために日本の保守政権やそれを支える特定の保守、反動人物に資金提供をしてきた。その目的達成のためには、スパイを送り込み、右翼、暴力団を利用して、日本社会をコントロールしてきた。安保闘争のデモ鎮圧に自民党は全国の暴力団や右翼団体を動員する「アイゼンハワー歓迎実行委員会」立ち上げ、児玉誉士夫に暴力団のとりまとめを依頼していたのだ。

 盗聴、おとり捜査などの公安警察の非合法な「反共秘密工作」は確かに実在しており、亀井静香議員も警察官僚時代にその秘密活動を指揮した一人であった。その一方で日本共産党も、ソ連からの資金援助を受け、あるいはシベリア抑留で共産主義者として洗脳された者たちにより、日本における共産主義革命を画策していた。現日本共産党委員長志位和夫の叔父である志位正二元関東軍少佐は、米国へ寝返って亡命したソ連のスパイであるラストボロフの協力者であったという。善良な一般国民の中で日本共産党の支持者が増えないのは、日本共産党もまた暗黒史のもう一方の脇役であった事を知っているからだ。

 ロッキード事件は全日空の次期旅客機選定に絡んだ田中元首相の汚職犯罪のみが喧伝される一方で、防衛庁の次期対潜哨戒機導入に絡む疑惑はほとんど捜査されず、真相がまったく解明されないままに幕が引かれた。その背後には日米安保体制を守り、その利権を温存しようとする日米両国の政治指導者たちの巨大な意思が介在していたという指摘が説得力を持つ。

 小泉劇場やヤラセ事件で電通が政府の情報操作に加担していることが明らかにされている。しかし電通の前身は関東軍と結託して情報宣伝工作をやっていた国策会社「満州国通信社」である。その電通が戦後は米国の意に沿って日本のメディアを(支配? 管理人補充)しようとしているとしても不思議ではない。

 このような暗黒史、陰謀説については、どこまでが事実であるかを検証することは難しい。たとえそれが事実であったとしても権力者は決してそれを認めようとはしない。それどころか真実を突き止めようとすれば生命の危険を覚悟しなければならない。だから社会的に地位のある「まともな国民」はそれ以上追及しないのだ。係わり合いを持ちたくないと考えるのだ。

 それが現実なのである。しかし、それにもかかわらず私はこの暗黒史を正史にする努力は誰かの手によって、あきらめることなく続けられなければならないと思っている。なぜならば暗黒史の影で繰り広げられた権力者の犯罪は、今日我々の目の前で繰り広げられている権力犯罪とその根底で共通していると思うからである。それよりも何よりも、暗黒史の当事者であった人物の子供や孫や縁戚者が、今日に至っても日本の権力を掌握し、政治を動かしているという現実があるからである。

 いくら市民の覚醒に期待しても、そして覚醒した市民の手で政治の腐敗や為政者の誤りを正そうとしても、最後にぶち当たるのが、この戦後の暗黒史という強大な壁である。暗黒史を闇のままに葬ってはならない。一つでも多くの暗黒史を正史にしなければならない。そうすれば我々の政治に対する認識も変わるに違いない。日本の政治がここまで国民の利益に背馳するものではなくなるかもしれない。ここまで米国に搾取され続ける日本を救い出す事が出来るかも知れないのだ。

 読売新聞のCIA極秘文書の記事は、あらためて私を奮い立たせてくれた。今しばらく真正面から歴史を監視していきたいと思う。

 なお読者には、最近刊行された「謀略の昭和裏面史」の一読をお勧めしたい。このブログを書く決意をしたもう一つの理由はこの著書に大いに啓発され、勇気づけられたからである。



 黒井文太郎著「謀略の昭和裏面史」は廉価な文庫版がある。宝島社文庫です。

 少し長くなるが、もう一つ転載しておきたい記事がある。ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者(ピュリッツアー賞受賞記者)の著書『灰の遺産 CIAの歴史』が、これも昨年(6月)翻訳出版された。私はまだ読んでいないが、「机の上の空 大沼安史の個人新聞」というサイトにその本の中の岸信介について書かれた部分の要約が記載されている。それを転載しておく。(全文を読みたい方は 「岸信介はCIAの助けで日本の首相になり、支配政党の首領になった」 でどうぞ。)

 ワイナー記者は、岸首相とともに、児玉誉士夫についても書いているのだが、ここは岸信介氏に限って、主なポイントを列挙しておこう(敬称略)。


 日米開戦後の1942年、岸は軟禁中の米国大使、ジョセフ・グルーをゴルフに招いた(聖戦中に岸はなんと、敵性スポーツのゴルフをしていた。それも鬼畜の大使と!)。二人はそれ以来、友人になった。岸が戦後、巣鴨から釈放されたとき、グルーはCIAのフロント組織、「自由ヨーロッバ国民委員会」の初代委員長だった。〔大沼・注〕つまり、影響力を行使できる立場にあった」


 岸は巣鴨から釈放されると、まっすぐ首相官邸に向かった。官房長官の弟、佐藤栄作がスーツを用意して待っていた。「なんかヘンだね」と岸は佐藤に言った、「いまやわれわれは民主主義者だ」


 岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。


 1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソンを招いた。幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。


 その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。「彼(岸)は明に、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。
 岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。


 ダレスが岸に会ったのは、1955年8月のことだった。ダレス国務長官は、一対一で岸に、支持を期待していると言った。日本の保守層が一体化し、共産主義と闘うアメリカを支持できるかどうか聞いた。


 岸は米国大使館の高官であるサム・バーガーに言った。若くて地位の低い、日本で知られていない人間を、連絡役にするのがベストだと。お鉢は、CIAのクライド・マカヴォイに回った。マカヴォイは沖縄戦の経験者で、フリーで新聞記者の仕事をしていた。クライドが来日してすぐ、バーガーは彼を岸に紹介した。これにより、CIAの外国政治指導者との関係のなかでより強固なもののひとつが生まれることになった。


 CIAと自民党の最も重要なやりとりは、情報提供に対する金(マネー)の支払いだった。マネーは自民党の支持の取り付けと、その内部の情報提供者のリクルートすることに使われた。アメリカ人たちは、若い将来性のある自民党政治家に金を支払っていた。彼らはのちに、国会議員や大臣、長老政治家になっていった。


 CIAはイタリアでの失敗に懲り、アメリカの実業家を金の運び屋に使った。その中には、岸が建設しようとしていた自衛隊に売り込みを図る、ロッキード社の重役も含まれていた。

〔大沼・注〕後の「ロッキード事件」に登場する「ロッキード社」は、CIAに実は使われていたのだ! ロッキード事件が田中角栄追い落としを狙った、CIA陰謀であるとの見方に、またひとつ、傍証が出た。


 1957年11月、岸は「自由民主党」の名の下、保守勢力を糾合した。自民党の指導者として岸は、国会に議席を持つ人間をリクルートし、彼の配下に入れる工作を、CIAに許可した。


 政権トップに登り詰める中で岸は、安保条約の改定をアメリカ側に約束した。岸との連絡役のCIAのケース・オフィサー、クライド・マカヴォイは、戦後日本の外交についてレポートすることができた。


 1957年2月、岸が日本の首相になる日、国会で安保条約にかかわる死活的に重要な手続きが行われる予定だった。これについて、マカヴォイは、こう証言した。「岸とわたしはその日のクーデターを流産させた」と。マカヴォイはさらにこう語った。「アメリカと日本は、合意に向かって動いていた。これを日本共産党は特別な脅威を感づいた。投票が行われるこの日、共産党は国会で反乱を起こす計画を立てた。このことをわたしは、わたしの情報源の、左翼の社会党の本部員の通報で知った。岸は天皇に謁見する予定だったが、わたしは緊急会談を申し入れた。岸はモーニングにシルクハット、縞のズボン、コートの出で立ちで、秘密の会合場所に現れた。わたしは岸に話す権限を与えられていなかったが、岸に共産党が国会で反乱を企てていると教えた。国会の慣例では、午前10時半か11時に、食事などのため審議が中断することになっていた。岸は休憩を取るなと自民党の国会議員に命じた。自民党議員以外の議員が退席したすきに、自民党は彼らだけで法案を採決し、通してしまった」


 1957年6月、岸はアメリカを訪問、ヤンキースタジアムで始球式を行い、白人専用のゴルフ場でゴルフをした。岸は新しい日本大使に決まっていた、マッカーサー将軍の甥、ダグラス・マッカーサー2世に、もしアメリカが権力基盤強化の手助けをしてくれれば、日米安保条約は国会で成立するだろうし、高まる左翼の潮流も取り除くことができると語りかけた。岸は、一連の内密の支払いではなく、CIAによる財政的支援の恒久的な財源を求めた(Kishi wanted a permanent source of financial support from the CIA rather than a series of surreptitious payments.)。


 アイゼンハワー大統領は自民党の有力者へのCIAの金の支払いを承認した。CIAの役割を知らない政治家は、アメリカの大企業からの金だと思い込まされた。CIAの金はすくなくとも15年間、4代の大統領にわたって続いた。


 岸信介とともに、戦時内閣で大蔵大臣を務めた元戦犯の賀屋も釈放され、国会議員として復活した前後に、CIAによってリクルートされた。賀屋のCIAとの関係は、1968年にピークを迎えた。賀屋は、選挙戦を自民党に有利なものにするCIAの秘密作戦で中軸の役割を果した。



昭和の抵抗権行使運動(4)

「独立左翼」とはなにか


 「昭和維新」を戦闘的に担った人たちの思想的立場を総称して「新左翼」と呼んでいる。つまり、国際的にはソ連共産党や中国共産党、国内的には日本共産党や社会党などの既成左翼のくびきを打破して、思想的にも闘争方法においても全く新しい情況を創成していった労働者・学生・市民を、「旧」左翼(既成左翼)に対比して「新」左翼と呼んでいる。

 教科書Aで蔵田さんは表題には「新左翼」を用いているが、本文中では「革命的左翼」という言葉を用いている。まだ教科書Aを読み始めたばかりなのだが、「新左翼」=「革命的左翼」と考えてよいだろう。

 これらとは別に「独立左翼」という言葉がある。これは「新左翼」や「革命的左翼」とはいささかニュアンスが違うようだ。それらの中の最も良質な部分を指しているように思われる。

 吉本隆明さんは60年安保闘争を「初めての独立左翼の運動」だと言っている。教科書B「独立左翼論」は「独立左翼」どのように解説しているのか、その部分をピックアップしてみる。

 その前に、教科書Bの著者・三上治さんの履歴を簡単に紹介しておこう。
1941年 三重県生まれ
1960年 中央大学の法学部政治学科に入学。安保闘争に参加し、その終盤まで全学連主流派活動家として過ごす。
1962年 再建された社会主義学生同盟の全国委員長になる。
1966年 第二次ブンド結成に加わる。全共闘運動やベトナム反戦闘争に参加。
1969年 ブンド内部の党派闘争で統一派として赤軍派と対立。
1969年 4月28日の沖縄闘争で指名手配され、潜行しつつ活動していたが、9月に逮捕。
1970年 一旦保釈されるが、保釈取り消しで東京拘置所に収監。この間、共産主義者同盟叛旗派をつくり、最高指導者となる。
1975年 叛旗派を辞め、政治的実践活動から退き、執筆活動に転じる。

 さて、まず教科書Bが引用している吉本隆明さんの文章(「シリーズ20世紀の記憶」所収「日本資本主義に逆らう独立左翼」)を孫引きする。

 11月27日(1959年)に全学連主流派が国会構内に入った行動などは、僕は見ていて『すごいことをするな』とずいぶん触発されました。初めてだ、こういうデモのやり方と闘争の仕方は、と思いました。そういうのに初めて出会ったということで、それで、それで「これはいいやり方だ』と思って見ていたら一度ならず何度もやるんです。塀を乗り越え乗り越えみたいに、そうとう逮捕されたりして打撃を受けてもまだやるというように続けていました。それがきっと安保闘争を全体的に盛り上げる原動力になったんだと思いますが、僕は強い刺激を受けました。彼らは無鉄砲で乱暴にみえるけれどものすごく自由というか、日本の公認左翼には絶対にない自由さと奔放さがあったんです。それでとても珍しく、『ああ、こういうものもあるんだ』と思いました。『いいものを見たな』という感じがあったんです。

 それに日本の左翼が初めて、自分たちの考えで行動し、社会秩序の不当なところに攻撃をかけていった意味はなかなかなくならないだろう、と思っています。ある政治運動を自分たちの組織が壊滅してもやるみたいにやつたこともそういう行動様式も、それがいま形としてあるかないかじゃなくて、それは非常にあたらしい何かをもたらして、それでもやっぱり消えないのだと思っています。当時、ソ連にも中国にもアメリヵにも反対という独立左翼的な主張はバカにされましたけど、しかし、歴史の動きをみればだんだんそうなっているでしょう。これからどう変わるかわかりませんけど、やはり意味はあったと思います。考え方としてはちゃんとあのときに出たということです。



 この学生たちによる初めての「国会突入」に対して、「神聖な国会を汚すものであり、民主主義を冒涜する行為だ」という非難の声が自民党やマスコミから浴びせられた。一緒に構内に入った共産党や社会党は世論の批判を恐れて、反省し詫びを入れる姿勢をとるようになっていたが、全学連だけは袋だたきに合い、孤立しながら頑張っていた。この学生たちを評価し、擁護した知識人は吉本さんだけではなかっただろうか。

 この学生たちの行動が新しかったのは、その過激さによってだけではない。闘争の主体についてのとらえ方が既成左翼のあり方を優に凌駕していた。三上さんはその点の事を次のように分析している。

 伝統的左翼は党(前衛党)が革命の主体であるという理念を基礎にしている。前衛党なくして革命はない。だから、大衆運動も主体は前衛党であり、それは党のための運動である。党勢を拡大し、選挙に勝つとか、武装蜂起に備えるとか幅はあるが、党が主体である。

 伝統的な左翼の観点では大衆運動の主体は党(前衛党)であり、従って大衆運動は党の指導に従うものである。これは安保闘争において現れた、日本共産党や社会党や総評の在り方であった。彼らにとっては大衆も運動も党勢の拡大に利用するものとして存在している。かれらの観念の中には党(前衛党)の拡大が革命への接近であり、あくまでも革命の主体は党であるというということがある。

 これに対してブンドには大衆運動を党勢の拡大に利用するという観点はなかった。本当はそれが隠された目的だったのかも知れないが、共産党などと対抗上、主体は大衆であるという様式をとった。結果としてそれを実現したというべきなのかもじれない。それは行動として政治意志を表現する諸個人が運動の主体であり、その集合としての大衆的運動が展開された。そういう様式を生み出したのである。

 ブンドは伝統的な前衛党として、つまり主体として大衆運動を指導したのでなく、ブンドは必要な政治的機能を果たしたに過ぎなかった。日本の政治運動の中で、前衛党が主体ではなく、大衆が主体として立ち現れてくるという運動を初めて実現したのである。そこにブンドの意味はあった。これはブンドが意識的に実現したというよりは、無意識のうちに実現したものである。

 なるほど、ブンドも日本共産党などのような組織形式をとり、政治的役割を演じようとした。だが、プンドは大衆主体の運動に依拠せざるをえなかった。そして、そのことにおいて新しい大衆運動の様式を生み出したのである。1960年の6月15日はその実現であり、そこに僕らの希望はあった。

 僕はこれをブンドが生み出した独立左翼の大衆運動というのだが、それは伝統左翼とちがって運動の主体が大衆にあるということである。



 1960年6月15日に実現した「大衆主体の」闘争に至るまでには、当然長く苦しい理論闘争と運動形態の模索があったにちがいない。この稿は、60年安保闘争を詳細に振り返ることを第一の目的としているが、次回からしばらく、60年安保闘争にいたるまでの戦後全学連の歴史を追ってみることにする。

昭和の抵抗権行使運動(5)

第一期学生運動


(以下、主として教科書Aによる。)

 大日本帝国の敗北とともに、日本資本主義も壊滅的な打撃を受けていたが、アメリカ占領軍による「上からの改革」を通じて再興されていった。その間、日本人民は拱手傍観をしていたわけではない。上からのブルジョア民主化に抗して、「下からの改革」の闘いが、敗戦直後から始まっていた。

1945年8月の在日朝鮮人民による自然発生的闘争に続いて、
部落解放闘争
生産管理闘争
農地解放闘争
などが陸続と起こり、戦後の抵抗権行使運動がその第一歩を踏み出した。

46年に入ると、
4月、幣原内閣打倒国民大会、第一回戦後メーデー
5月、食糧メーデー
12月、吉田内閣打倒国民大会
と続き、47年二・一ゼネストへと発展し、戦後の人民闘争は最高の高揚を示した。

 しかし二・一ゼネストは、占領軍最高司令官マッカーサーの指令によって中止を余儀なくされた。この弾圧以後、占領軍の対日政策はブルジョア民主化政策から反共反革命政策へと全面的に変貌していった。中国革命、東欧革命の成功によって一挙に表面化した戦後世界体制の再編、つまり戦後冷戦体制の本格的開始がこの政治的転換の背景であった。

 まず日米支配階級は、経済的には傾斜生産方式=管理経済の導入と、インフレ=大衆収奪による資本強蓄積を開始し、政治的には、二・一スト弾圧にみられるように、ブルジョア支配の根底に関わる「下からの改革」にたいしては、断固これを弾庄する姿勢を示した。公務員スト権剥奪、労働争議への弾圧、反共文教政策と学生運動への弾圧など、反共イデオロギー攻勢が開始された。これは日本を「私的資本主義的経済制度によって、全体主義の防壁にする」(マッカーサー)という占領当初の目的への本格的政策展開の開始を意味していた。

 この激動のなかで、戦後学生運動はどのような情勢だったのだろうか。

 45年、私立上野高女、水戸高校(現茨城大)、物理学校(現東京埋大)、静岡高校(現静岡大)などにおけるストライキ闘争が戦後学生運動開始の号砲であった。闘争はまたたくまに全国に波及し、
学園報国団解体
戦犯教官追放
民主的教官の復帰
自治会・民主的サークル・新聞会の復活再建
として展開されていった。

 この戦後第一期学生運動における最大の成果のひとつは、自治会結成であった。その組織的特徴は、戦前自治会が個人加盟制を基本形態としていたのにたいして、全学生の自動的全員加盟制であった。これは戦後の労働組合が、日本の社会の民主化政策の一環としいて主として占領軍の指導で、各企業ごとに全員加入方式で結成されたのにならったものだった。その労組を「ポツダム組合」と呼ぶのと同じく、このときの自治会も「ポツダム自治会」と呼ばれている。

 46年12月、学生による戦後初の街頭デモが、早大自治会6000名によって行われた。学園復興、預金封鎖解除等のスローガンをもって対政府デモとして敢行された。このデモは、即自的経済要求を掲げたものながらも、戦後学生運動がようやく一学園内の枠を越えて、横断的結集するきっかけとなった。

「散発的に学校当局に戦いをいどんだ各校学生自治機関の活動は、やがて重大なる難関にほう着した。学生の自治権を確立し学問の自由を擁護して行く為には、現在の悲しむべき又呪うべき状態のよって来る原因、矛盾せる文教機構それ自体を改革せねばならぬということである。それは一自治会の能くするところではない。ここに至って学生自治機関連合体設立の機は熟した」(白土吾夫。全国自治連の歴史46年12月)

 46年10月、戦後学生運動は、最初の全国組織として、「全国学生自治会連合」(自治連)を発足させた。その後47年に入って、この自治連運動は最大の高揚を示した。二・一ゼネストの前日、皇居前広場において40校29000名を結集して「関東大学高専連合学生大会」を開催した。だが、この大会は二・一ゼネスト前夜という緊迫した事態のなかで開催されたにもかかわらず、政治的性格をあらかじめ完全に払拭していた。

 「自治連は運動方針を変更し、未熟な自治機関をも包含し得る」(同上)ために、11項目スローガンは学生生活救済事項に限定したのである。さらに、大会とデモ行進とを分離した。このように、自治連運動に代表される戦後第一期学生運動は明確な限界を示した。後にこの運動が「純粋な学生運動」と評言されたゆえんである。また同時に、その限界ゆえに、自らその歴史的役割を終えていった。