2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『大日本帝国の痼疾』


はじめに


 前々々回と前々回のテーマは、『「終戦の詔 書」を読み解く』→『戦争意志とは何か』と、 大日本帝国の滅亡の過程を時代をさかのぼってた どる形となった。その過程で私は、大日本帝国の 滅亡はその成立時からの「痼疾」の結果だった、 という観点を持つにいたった。そして、その 「痼疾」を明らかにしたいと思った。

 このテーマはまた、

大日本帝国を解剖する(1)
大日本帝国を解剖する(2)

の続きとも位置づけできる。まず簡単にその復習 をしておこう。

 フランス第二帝政(ボナパルティズム)下のフ ランス国家は、近代的国民国家としては<例外的 国家>だった。同じように、明治維新によって生 まれた大日本帝国も<例外的国家>であった。 フランス第二帝政では「ボナパルティズム」の復 古がその統治形態を<例外的>たらしめたのに対 して、大日本帝国ではアジア的統治形態である 「デスポティズム」の復古がそれに該当した。

 帝国憲法体制の成立において完成された近代 天皇制国家は、外見的にはプロシャ流の立憲的専 政君主制を模倣したものであったが、政治形態と しては近代的形態で復古されたアジア的デスポテ ィズム、つまりは近代的デスポティズムであった。 しかし、この天皇制国家の近代的デスポティズ ムの特質は、天皇親裁を建前としていたにもかか わらず、実質的には名目的デスポティズムとして 構成される他なかった点にある。

 天皇制国家が名目的デスポティズムとして構成 されざるを得なかった根因は、明治維新を牽引し た倒幕勢力が伝統的な宗教的権威としての天皇を、 もっぱら徳川幕藩体制に対する大義名分として奉 戴したという点に求められる。

 倒幕勢力は、まず天皇制国家のイデオロギー的 基盤として、神道と儒教とを独自に融合した思想 を創出した。親への孝の道徳的必要になぞらえて、 最高神の天照大神の直系子孫である天皇への忠を 国民の道義的必然とした。それは、政治的・国家 的観念と宗教的・道徳的観念とを未分化に混交さ せた<アジア的国教>であり、政治思想というよ り天皇教イデオロギーという性格のもであった。

 その大日本帝国のイデオロギー的基盤となった 思想の中にこそ大日本帝国の「痼疾」がある。 この「痼疾」により大日本帝国は滅んだが、 その「痼疾」は大日本帝国のゾンビたちに取り憑 いて生き残り、いま我がもの顔にその再々復古を 企みはじめている。明治維新でのアジア的デ スポティズムの復古は悲劇だったが、その再々復 古は喜劇でしかない。笑うに笑えないような喜劇 は、演じさせてはならない。

 ところで、幕末期に草莽の志士たちの間で回し 読みされていたらしい「英将秘訣」という怪文書 がある。表題のとおり、英雄たるべき心得を説いた もので、箇条書きに綴った箴言集の体裁の文書で ある。明治~大正期には坂本龍馬の著作として流 布されていた。いまではそれは否定されて、平田鐵 胤・三輪田元綱ら平田派国学者の手に成るものと いうのが通説になっている。また、備中松山の 陽明学者山田方谷が著者ではないかという可能性 も取りざたされているが、いまだその著者は確定 されていない。しかし、1982年刊の「坂本龍馬全 集」(光風社出版)には収録されている。竜馬説は なお根強く残っているようだ。いずれにしても、 その著者が平田派国学者とも陽明学者とも取りざ たされるように、その文書が説くイデオロギーは まさに神道と儒教とを融合したような内容である。

さて、『試行』の中に『「英将秘訣」論』という 論文がある。ちょっと読んでみたら、私の新たな テーマとそのモチーフが一致する。著者は近藤渉さん。ネットで検索した ら『〈日本回帰〉論序説』という本の著者がヒット した。本の内容から同一者だろうと推測した。この 『「英将秘訣」論』をメインの教科書として使用 させていただこうと思う。ただし、国学や儒学につ いての私の知識は、例によって高校生程度(ある いは以下かも)なので、必要に応じてその都度、 国学・儒学などの学習を織り込んでいこうと思う。 『「英将秘訣」論』もまだほんの数ページしか 読んでいない状況での見切り発車だが、果たして どんなふうに展開するのか、まったく予測できて いない。途中で挫折するかのしれないが、ともか く走り出そう。

スポンサーサイト
『大日本帝国の痼疾』(2)

『「英将秘訣」論』のモチーフ


 近藤さんは、マルクスを引用してフランス二 月革命の「喜劇」から説き起こしている。そして 『「英将秘訣」論』のモチーフを次のように述べ ている。

(『二月革命の「喜劇」』については次の記事を 参照してください。)

第693回 12月28日:唯物史観と国家論の方法(15)「ブリュメール十八日」(1)

第694回 12月29日:唯物史観と国家論の方法(16)「ブリュメール十八日」(2)

第695回 12月30日:唯物史観と国家論の方法(17)ヨーロッパ革命の本質


 本稿で問題にすることはもちろん、二月革命の 喜劇についてではない。あたらしい革命がその胎 内に過去のふるい伝統的要素をひきずっているこ とが、それどころかそのふるい伝統的要素じたい が革命の有力な契機となることが、歴史的必然で あるような、おなじ19世紀の日本の明治維新の 悲劇について、である。

(中略)

 革命の復古的理念としての「過去の亡霊」が同 時に、明治維新の近代的理念(「文明開化」= 「旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ」 (五ケ条誓文))を意味し、その根元が天皇 (制)であったから、このような二重構造を批判 するためには、マルクス主義・アナーキズム・自 由主義などの西欧近代思想が不十分であったこと はいうまでもない。そのためには第二次世界大戦 の敗北をまたねばならなかった ― そこでは近 代思想もまた死を刻印された ― が、ここでは 幕末―維新期の様々な思潮のうち王政復古思想の 側に、その究極的価値の源泉である天皇(制)を 超克する可能性を秘めた思想が、当時すでに存在し ていたことを、指摘してみたい。それは「英将秘 訣」とよばれる断簡で、その標題が示すように英 雄たるべき心得を箇条書に書き綴ったものである。 この、いかにも封建社会の終末を象徴する幕末期 の産物としかいいようのない奇怪な文言の分析 が、ここでの課題である。

 ここで、明治維新の「悲劇」の根源として指摘 している「二重構造」とは、私が「痼疾」と言って いること、つまり外見的にはプロシャ流の立憲的専 政君主制と復古されたアジア的デスポティズム という政治形態の二重性と別のことではないだろう。

 さて、「英将秘訣」は全90ヶ条の箴言から成る。 これを近藤さんは次の六つの要素に分類して、 この分類の順に論を進めている。

一、能動的ニヒリズム
二、政治的テロリズム
三、アナーキズム
四、国学(神道)
五、愚民観
六、権力志向

 もちろんこの分類は便宜的なものであり、それ ぞれのファクターはとうぜん重なりあう。近藤さ んはこの分類について次のように解説を加えてい る。

 能動的ニヒリズムが政治行動に走れば、容易に テロルを誘発するだろうし、アナーキズムのもつ いっさいの権威にたいする破壊衝動は、前二者に もみられる精神の傾向でもある。要するにこれら 三者は区別することが困難なように、思想の聖 (?)三位一体をかたちづくっている。

 第四の特徴としてあげた国学ないし神道は、 いうまでもなく幕末に繁栄をきわめ、明治国家の 完成とともに凋落した平田派のそれをさすが、 「英将秘訣」が従来いわれてきたように坂本竜馬 の手になるものではなく、平田派国学者グループ の手にかかるものであることが、今日ではほぼ通 説になっている。このことはのちに触れるとして、 これら三者の思想的囚子を包括しているのが幕末 国学(神道)ということになる。正確にいえば、 幕末国学を母胎にしてこれら三者の思想的要素が 生まれた。ただその生まれかたに、ある種の突然 変異のように、飛躍と断絶があり、そのことを私 は縷々説明するつもりでいる。結論的にいえば、 「秘訣」にそのような特異性をあたえたものは、 幕末期(家政以後)のかこくな政治情況そのもの であるということになる。

 愚民観と権力志向は、能動的ニヒリズムの精神 的属性ともいえる。また愚民観は、「マキャベリ ズム」を連想させるが、ヨーロッパたると日本た るとを問わず、封建支配者の普遍的な民衆観とい えよう。さらにファシズムの心理とつうじるよう である。

 権力志向は、古代から現代にまでひろくみられ る政治的人間の心性だが、愚民観と比翼連理の関 係にあるものだろう。

 幕末を主導したイデオロギーはいわゆる「尊王 攘夷論」である。「英将秘訣」が表明するイデオ ロギーが、一般に流布されていた「尊王攘夷論」 とは「ある種の突然変異のように、飛躍と断絶」 があり、特異なものであることが指摘されている。

 では一般に流布されていた「尊王攘夷論」とは どんな思想なのか。『「英将秘訣」論』の本文に 入る前にその学習をしておきたい。

『大日本帝国の痼疾』(3)

「尊王攘夷論」の形成


 一年ほど前、店頭で竹越与三郎著『新日本史』 (岩波文庫)に目を引かれ購入した。竹越与三郎 は私には未知の人だった。竹越は三叉との呼ばれ ている。1865(慶応元)年生まれで1950(昭和25) 年に没している。『新日本史』の上巻は1891(明治 24)年に刊行されている。なんと、三叉さん、弱冠 26歳である。

 『新日本史』は1853(嘉永6)年のペ リー来航から1890(明治23)年の国会開設までを扱 っている。まさに「大日本帝国誕生史」である。 また、著者にとってはまさしく同時代史である。

 さて、幕末に猖獗をきわめるにいたる「尊王攘夷 論」の源流を、『新日本史』は次のように書きとめ ている。

 挙国震驚、人心擾々の中より、先ず霞のごとく、雲のごとく、 幻然として現出せるものは「日本国家」なる理想 なりき。幾百年間英雄の割拠、二百年間の封建制 度は、日本を分割して、幾百の小国たらしめ、小 国をして互いに藩屏(はんぺい)関所を据えて、 相猜疑し、相敵視せしめたれば、日本人民の脳中、 藩の思想は鉄石のごとくに堅けれども、日本国民 なる思想は微塵ほども存せず。これがために日本 全体の利益を取って、一藩の犠牲とせんとする者 少からざりき。士人識者にして已にかくのごとく なれば、商売農夫に至っては、殆んど郡の思想あ るに過ぎず。概していえば、愛国心なるものは、 殆んど芥子粒ともいうべく、形容すべからざる微 小なるものにてありき。然れども米艦一朝浦賀に 入るや、驚嘆恐懼(きょうく)の余り、舟を同う して風に逢えば呉越も兄弟たりというがごとく、 夷敵(いてき)に対する敵愾心の情のためには、 列藩の間に存ずる猜疑、敵視の念は融然として掻 き消すがごとくに滅し、三百の列藩は兄弟たり、 幾百千万の人民は一国民たるを発見し、日本国家 なる思想ここに油然(ゆうぜん)として湧き出で たり。而して紛紜(ふんうん)せる頭脳に於ては、 この国家と外国との間には、寛闊(かんかつ)な る余地あるを解する能わず、国家と外国とは決し て両立すべからざるものと信じ、外人は是非とも 国家の外に撃ち払わざるべからずと信ぜり。これ 実に攘夷論の起原にして、久しく幕府の 舅姑(きゅうこ)政治家たる水戸侯斉昭(なりあき) と、その近臣にして権略一世を蓋う藤田虎之助 (東湖)らその唱首たり。

 これより先、世の慷慨家は、天子の山陵、至る 所に荒草茫々として箒掃(そうそう)する者なき を見て、あるいは皇威赫々の盛時を追懐し、ある いは南朝の天子、親しく戈(ほこ)を取って武人 と戦いし往事を回想し、如今(じょこん)皇室の 威権なきを憐み、尊王の議論を唱うるものありし も、これただ詩歌的懐古の情に出でしに過ぎずし て、尊王の字義を分析し来れば、天皇の采邑 (さいゆう)を多くすべし、幕府は皇室に敬礼を 尽くすべし、天皇の山陵を箒掃すべしというの 類のみ。いまだ天皇を以て政治上の立物(たてもの) とせんとする明白の思慮あるものなかりしが、 外人の来航によりて、微昂熱沸せる我が人民の 脳中に、国家なる思想の生じ、この国家に対して 殉ぜんとする焔々たる烈志の生ずるや、国家と 天皇とは初めて連絡を生じ、国難に殉ずるは、 即ち天皇に勤むるものにして、天皇を尊とぶは 即ち国家に勤むる所以(ゆえん)なりとなし、 仏国にありては専制なるルイ王の口を藉りて出で たる「君主=国家」なる幼稚なる思想は、吾国に 於ては先ず人民の脳中に生じ、ここに於てか尊王 の字初めて政治上の意味を含むに至り、尊王攘夷 の二語は雷(いかづち)の如く、疾風の如く、 須臾(しゅゆ)にして日本を一貫して至らざる所 なきに至れり。

 三叉さんの人となりや思想については未だ私の 知るところではないが、『「君主=国家」なる幼 稚なる思想』という記述にその片鱗をかいま見る おもいがする。また三叉さんは「尊皇」ではなく 「尊王」と表記している。「尊皇」という表記は 天皇を神格化し、その尊崇がファナティックに強 調されるようになった後の時代の用語であり、 三叉さんが『新日本史』を執筆した時代にはもっ ぱら「尊王」が使われていた。

 さて、本題は「尊王攘夷論」だった。上の引用文 によれば、水戸斉昭とその近臣・藤田東湖ら、つまり 「水戸学」を「尊王攘夷論」の「起原」としている る。

 一般には、幕末の尊王攘夷思想の代表人物とし ては、まず吉田松陰があげられよう。その松蔭が 強く影響を受けたというのが、会沢正志斎(あいざ わ・せいしさい)が1825(文政8)年に著した 『新論』である。『新論』に強い影響を受けたの は松蔭だけではない。それは幕末の志士の間に広 く流布し、多くの共鳴者を得ていたという。

 会沢正志斎は藤田幽谷(ゆうこく)の弟子で あり、幽谷は1791(寛政3)年に『正名論』を著わ している。幽谷の思想を継承・発展させたのが 門人の会沢正志斎と幽谷の子の藤田東湖であった。

 『正名論』と『新論』の内容はおおよそ次の ようである。(以下は、岩波講座「日本歴史13」 所収の尾藤正英「尊王攘夷思想」による。)

 幽谷が『正名論』を執筆したのは18歳のときだ という。早熟といおうか、天才といおうか、幕末 維新期にはこのような人物が輩出している。その 理由を考えるのも面白い問題だが、いまはおく。

藤田幽谷『正名論』

 『正名論』とは「正しい名分」論という意であり、 それまでの儒教や国学の立場からの「尊王」の 「名分論」を継承発展させたものである。例えば、 山鹿素行のそれは「道徳」としての名分論であり、 本居宣長のそれは宗教的な「神意」に基いた名分 論であった。それに対して幽谷の名分論は「社会的 機能」に着目して、「尊王論」に初めて政治理論 としての根拠づけを与えた。

『幕府(将軍)、皇室を尊べば、すなはち諸侯、 幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・ 大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、 万邦協和す』

 天皇の君主としての地位が不変であったことを、 日本の誇るべき伝統であるとし、将軍の尊王に は、社会の秩序を正しく維持するという大きな意 義があることを説いて、将軍は「王」としての 「名」を称すべきではないが、その「実」すなわ ち「王道」を実践すべきである、と幽谷は主張し ている。

 儒学の立場では「名」と「実」との一致が理 想とされ、「君、君たり、臣、臣た」(『論語』 顔淵篇)るべきことが要請されていた。これに対 して、幽谷の名分論では君主としての「名」は 「実」から分離される。つまり、天皇はただ 形式上・制度上の君主としての「名」をもちつ づけていることによって、かえって大きな政治 上の役割を果していると考えられている。君主が 君主たるべき徳性や能力を具備することは必要 とされない。君主として負うべき個人的な責任を 解除されている。これは裏を返せば、天皇には 「実」すなわち権限がないことである。

 寛政期の幕府は、形式上の尊王と実質 上の政務委任という対朝廷関係を明確化しよう としていた。幽谷の名分論によって基礎づけられ た尊王の理論は、まさにその幕府の考え方に対応 していたと言える。

 一方、攘夷思想も幕府の対外政策に対応して 形成されていったと言える。

 文化・文政期の幕府の対外強硬策(異国船打払 令など)は、強硬な方針を示すことにより、外国 船接近を牽制するとともに、日本の漁民などが外 国船と親しく交際することを禁じ、国内の人心の 動揺を防ごうという点に真の目的があり、戦争の 危険を冒してまで外国船を撃攘しようとする意図 はなかった。

 言論面ではどうであったか。寛政期以前に現れ た開国論(工藤平助・本多利明ら)は、主に経済 上の利害を問題としたものであり、林子平の唱え た海防府は専ら軍事的な見地からの立論であった。 それに対し、文化・文政年間に入ると、開国や鎖国 をめぐる議論は政治的なものになり、対外政策が 国内の人心に及ぼす影響を重視する立場からの 論が多くなった。その中でもとくに重要なのが、 会沢正志斎の『新論』である

会沢正志斎『新論』

 『新論』の論旨は、「民志を一に」(国民の心を統 合)して、国家の富強をはかるための方策を明らかに しようとするところに主眼がある。そこでは尊王と攘 夷とは、その国民統合を実現するための方法として位 置づけらた。

 神道の祭祀をつかさどるという天皇の宗教的な 側面が、民衆の心を「天威に畏敬悚服(しょうふ く)」させることになり、仏教やキリスト教など の「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、民心 を国家目的への協力に統一せしめることができ る。これが「尊王」の理念の政治的意義である とする。

 同時に、政府(幕府)が強硬な外敵撃攘の方針を 明示することが、太平に慣れて弛緩した人心を 引き緊め、国家の統一性を強化し、武士や民衆の 敵愾心を鼓舞し、国力や軍備の充実に役立つであ ろうと言う。

 この意味での「攘夷」の理念は、単純な対外政 策であるよりも、むしろ国内に対するプロパガン ダとしての意味をもち、その点で「尊王」の理念 と共通した政治的性格をおびている。そこに 「尊王」と「攘夷」とが結合される必然性があった。 そして、この両者の結合により、国家としての統 一性を強めて、国内と国外との両面から迫る政治 的危機を克服しようとするのが、『新論』の中心的な 論旨であった。尊王攘夷思想はここにおいて一つ の体系的な政治理論として成立したと考えられる。

 この思想に含まれる攘夷の主張は、宣長の日本 中心の華夷思想に立脚しているが、幕府の 対外政策と同様に、盲目的に外敵を撃攘しようと するものでもなければ、また鎖国政策に固執しよ うとする考え方でもなかった。『新論』(原文は 漢文)は読み下し文に書き換えて刊行されているが、 そのときは『雄飛論』と改題された。国力を充実 させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして 来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯 (すく)」うという、海外雄飛の構想こそがこの 著書の究極の目標という意での命名である。本書 が幕末の志士の間に多数の読者を得たのは、その ためでもあった。

 『国力を充実させた上で、海外に進出し、 「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、 「四海万民を塗炭に拯(すく)」う』という 思い上がった誇大妄想が、大日本帝国の滅亡 にまで連綿と引き継がれていったことになる。

『大日本帝国の痼疾』(4)


「能動的ニヒリズム」について


 本論に入る前にもう一つ、「能動的ニヒリズム」 という概念についておさらいしておこう。

 能動的ニヒリズムという概念はニーチェによる。 『権力への意志―すべての価値の価値転換 の試み―』(理想社「ニーチェ全集第11巻」) で、ニーチェはニヒリズムの二つのタイプを 次のように規定している。

箴言22
ニヒリズム。それは二義的である。
A 精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム、 すなわち、能動的ニヒリズム。
B 精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム。 すなわち、受動的ニヒリズム。

箴言23
 ニヒリズムは一つの正常な状態である。
 それは強さの徴候でありうる。精神の力は、これ までの目標(「確信」、信仰箇条)がおのれに適合 しなくなったほどに増大していることかありうる (― つまり、信仰は、一般には、生存条件の強制 を、生物がそのもとで栄え、育ち、権力を獲得する 事態関係の権威のもとへの服従を表現する・・・)。 他方、それは、いまやふたたび目標を、何故にを、 信仰を、生産的におのれに立てるほどには十分でな い強さの徴候でもありうる。
 ニヒリズムは破壊の暴力として相対的な力の極大 に達する、すなわち、能動的ニヒリズムとして。

 この反対は、もはや攻撃することのない疲労の ニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教で ある、すなわち、受動的ニヒリズムとして、弱さの 徴候として。精神の力は、疲れはて、憔悴しきり、 そのためこれまでの目標や価値が適合しなくなり、 いかかる信仰をもみいだしえないことがある―、か くして価値や目標の綜合(これにあらゆる強い文化 はもとづいている)が解け、そのため個々の価値が たがいに戦いあうにいたる、すなわち崩壊 ―  かくして、活気づけ、癒し、鎮め、麻痺せしめる すべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治 的とか、美的とかなど、さまざまに変装して、前 景にあらわれでてくる。


 ニーチェは受動的ニヒリズムの典型として「仏教」 をあげているが、これを受けて近藤さんは次のよう に述べている。

『ニーチエの仏教理解についてはそれがひとつの 問題であるが、一般的にいって日本人の精神態度 に、仏教の消極的な虚無思想がふかく根をおろし ていることは、まちがいではないだろう。それは 日常化された存在のニヒリズムであり、不毛の 「日本制(ママ)」ニヒリズム(三好十郎)である。』

 ニーチェのニヒリズムはヨーロッパ的概念である が、ここで近藤さんは三好十郎のニヒリズム概念を 例にして、「日常化された存在のニヒリズム」 という「日本製ニヒリズム」をあげている。 近藤さんの「日本製ニヒリズム」への言及は上の 引用文だけであ るが、ついでなので、三好十郎のニヒリズム論を 少し詳しく紹介しておこう。といっても三好十郎の 該当の著書をもっていないので、宍戸恭一『三好 十郎との対話』(深夜叢書社)からの孫引きであ る。

 『「日本製」ニヒリズム』で三好は「自然主義 的な日本製ニヒリズム」という概念について次の ように述べている。

 私はbarrenと言った。荒蕪のとか、不妊のとか、 なんにも生み出さないところのとかいう意味のい っしょになった言葉のようだ。正宗白鳥式のとも 言った。日本に昔も今も存在しているニヒリステ ィックな傾向の中に、ヨーロッパ的な頭ではチョ ットつかみ取ることのできない一つの傾向があっ て、そして現在それを最もよく代表している一人 が正宗白鳥だからである。

 それはどんなものであるかと言えば、先ずそれ は頭の中で一切の現世的なもの、フィリスチン (philistine 実利的、俗物的…管理人注)のも のを否定する。もちろん、自分の中にある現世的 なものフィリスチン風な要素をも否定する。否定 しながら、彼自身の実生活はまったく現世的に常 識的で、中庸がとれていて、百パーセント・フィ リスチンだ。否定はするが、自らを危くするよ うな所までは否定しない。

(中略)

 これは、正確にはイズムでは無い。或る種の人 生観照の態度の習慣化したものとでも言っのが一 番当っている。(中略)つまり、この手のニヒリ ズムは、生命力の欠如ないしは稀薄から生まれた ものである。


 これに対して三好は「ホンモノのニヒリズム」を 対比する。ニーチェの「能動的ニヒリズム」にあた る。それは「幼年期に於ける革命的精神の総称で ある」と言い、次のように説明している。

 ホンモノのニヒリズムは(中略)生命力の過剰と 充溢から生まれる。エネルギイを自己のうちに持つ。 いろいろな行動の動機になり得る。空虚は、爆発 直前にできる真空だ。爆発は対象物を徹底的に粉さ いするまでやまない。

 同じくフィリスチンの敵ではあっても、これは、 他人のうちのフィリスチニズムを撃破するのと同 時に、それと同じ程度の無慈悲さでもって自分の うちのフィリスチニズムをも撃破する。ために、 時によって、自分そのものまで撃滅してしまうが ごときパラドックスさえ演ずる。観念が肉体を裏 切ることを許さない。肉体が観念を裏切ること も許さぬ。ザインとゾルレンが一瞬のうちに一挙 に解決されなければならぬ。もしそれが解決され なければ、他のいかなる解決をも峻拒する。

 つまり、より大きな肯定へ向っての深い無意識の 意志だ。真に尊重さるべきなにものかを生み出す力 を持ったものの、生み出す前の清掃であり、生み出 すための盲動である。盲動はデスペレイトだ。だか ら非常に往々に、生みかけたものを踏み殺すのと同 時に、その生みかけた自分をも八つ裂きにして果て る「愚」を、くりかえす。 ― これが、ニヒリズ ムだ。

(中略)

 同じくニヒリズムと言われながら、この二つほ どちがっているものは無い。ほとんどこれらは敵 同志である。たとえば、普通ニヒリズムの反対物 だと考えられている肯定的思想体系である社会主 義や共産主義などとニヒリズムとの距離よりも、 ニヒリズムと、この「日本製」似而非(えせ)ニ ヒリズムとの距離は、はるかにはるかに遠い。 われわれが肯定に立とうと否定に立とうと、われ われは、自身の中から「日本製」ニヒリズムを追 い出さなければならぬ。いやいや、強く、論理的 に、誠実に、一貫性をもって、シブトクわれわれ が考え、生きようとすれば、必然的に、この手の ニヒリズムを自身の中から追い出さざるを得ない であろう。


『大日本帝国の痼疾』(5)


「英将秘訣」―その能動的ニヒリズム


 能動的ニヒリズムを表白しているものとして、 近藤さんが「英将秘訣」から取り出しているのは 次の条文である。

一、親子兄弟と雖も唯執着の私なれば、蠢虫 (しゅんちゅう)同様の者にして、愛するにも足 らぬ汚物也。況や夷人をや。

一、親子を人質に遣はすとも、愛着の義を思ふ事 なかれ。其時を打死の日と定むべし。猶(なお) 其人にも申し聞かすべし。

一、俸禄などいふは鳥に与ふる餌の如きもの也。 天道豈(あに)無禄の人を生ぜん。予が心に叶はねば、や ぶれたるわらんじをすつるが如くせよ。

一、悪人の霊魂を祈らば、我に智慧よく付く者也。 先づ釈迦、歴山王、秀吉、始皇。而して泉の如く 策略も亦生ず。

(管理人注:「歴山王」=「アレキサンダー」、 「始皇」=「秦の始皇帝」)

一、義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝも の也。

一、恥と云事を打捨てゝ世の事は或るべし。使ひ 所によりては却つて善となる。

一、薄情の道、不人情の道、忘るゝ争勿れ。是を 却而人の悦ぶ様にするを大智といふ。

(却而…何と読むのでしょ? 意味は「かえって」でしょう。)

一、礼儀など云は、人をしばるの器也。世をしめ かためて吾が掌中に入る具也。

一、涙と云は、人情を見する色也。愚人、婦女子 に第一の策也。

一、愛すれば近づき、悪めば去り、与ふれば嬉ぶ は禽獣の様也。人倫亦何の異る処かある。

一、主君を大悪に陥れて後ち之を殺すには、天下 手を我に借るといふ名目よし。(外国)

一、天下万民を救ふといふ名あれば、恥る所なしと 定めて事にかゝるべし。

一、大奸智無慾の如くにして、今世の万人の測り 知るべからざる人を、日本には鬼神といひ、唐土 にて聖人といひ、天竺にて仏と云ひ、西洋にては ゴッドと云ふ。所以一つなり。

(所以…「ゆえん」と訓読みする熟語ですが? 「もってひとつとするところなり」とでも読むの かな?」)

一、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒の破戒素よ りにて、殺生は軍の工夫、偸盗は忍術の調練、 邪淫は反間(はんかん)のチラシ、妄語は差挟りのタクミ、 飲酒は人をなづくるの梯なり。

(反間…仲間割れの計略。差挟り…なんて読むのでしょうか? 意味は「仲間割れ」?)



 なるほど、すさまじいまでのニヒリズムだ。 旧来の道徳的価値も宗教的価値も嘲笑してはば からない。まさに「すべての価値の価値転換」 を行おうとしている、と読める。しかし、 「すべての価値の価値転換」は、三好十郎の言 葉を借りれば、「より大きな肯定へ向っての」 「真に尊重さるべきなにものかを生み出す」予兆 であった。つまり「私たちは、いつの日にか、新 しい諸価値を必要とする」(ニーチェ)からなの である。それは媒介としてのニヒリズムであって、 あくまで価値のニヒリズムである。「英将秘訣」 のニヒリズムでは「すべての価値の価値転換」 は一つの政治的手段となっている。

 近藤さんの分析を聞いてみよう。

 一読してわかるように、在来の封建倫理の まったき解体の果てに、伝統的な規範意識が 通常の意味と連関を失い、ことごとく転倒され たあげく、これらの激語は吐かれている。

 そこには日本封建倫理の徳目である「義理」、 「人情」、「恥」が哄笑の対象であるだけでは なく、儒教を大義名分論から解放し、18世紀に 猛威をふるった徂徠学の聖人信仰、仏教、キリス ト教、アレクサンダー大王など世界的な宗教規範 もしくは英雄が、無意味化されているか、積極的 に政治的手段として利用されている。

(中略)

 さらにまた、「殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒」 や「賭博の類は一ものがす事なく心得置くべし」 といった「破戒」のすすめは、デカダンスの表現 としてのニヒリズムにかなっているのである。 (ニーチエによれば、アナーキズムもデカダン スの結果である。)そしてこのような背徳の論理 は、やはり目的とはならずに政治的手段 (「軍の工夫」、「反間のチラシ」等)となっ ている。

「……天下手を我に借るといふ名目よし」や「天 下万民を救ふといふ名あれば……」という名分論 はすべて権力掌握のための方便であり、権力じた いが価値化されている。

 このようにニヒリズムが目的ではなく 、体験の結果としてあらわれているのは、 幕末―維新期の「すべての価値の 価値転換の試み」を強いる大情況の渦中での体験 が、直接それを醸成させたからであることは、 多言を要しないだろう。

 ここで近藤さんは1858(安政5)年から1868(明 治元)年までの日本の情勢を、欧米列強のアジア への圧力・侵略と絡ませて年表風にまとめている。

1858(安政5)年
 日米修好通商条約調印(安政五ケ国条約)。
 薩摩藩士西郷隆盛、僧月照と入水。
 イギリス国王のインド直接統治。

1859(安政6)年
 志士梅田雲浜獄死、頼三樹三郎、橋本左内、吉 田松陰刑死(安政の大獄)。
 開港。
 フランス、サイゴン占領。

1860(万延元)年
 大老井伊直弼、水戸浪士に暗殺(桜田門外の変)。
 幕府正使、条約批准のため神奈川出発。
 将軍家茂、皇妹和宮降嫁の公布。
 五品江戸回送令。
 米人ヒュースケン斬殺。
 英・仏連合軍、北京進撃(北京条約)。

1861(文久元)年
 ロシア軍艦対島占拠。
 幕府仏・蘭・米・英・(江戸・大阪・兵庫・新 潟)露五ケ国に開港開市延期要請。
 水戸浪士ら英公使館襲撃(第一次東禅寺事件)。
 幕府、品川御殿山に各国公使館設置承認。
 幕府遣欧使節出発。
 アメリカ南北戦争。
 ロシア農奴解放令。

1862(文久2)年
 老中安藤信正襲撃(坂下門外の変)。
 家茂、和宮と婚儀。
 薩摩藩主島津久光、急進派有馬新七らを斬殺 (寺田屋騒動)。
 ロンドン覚書調印。
 一橋慶喜、将軍後見職。
 松平慶水、政事総裁職。
 ロシアと覚書調印。
 薩摩藩士、イギリス人殺傷(生麦事件)。
 松平容保、京都守護職。
 フランスと覚書調 印。
 幕府、榎本武揚、西周らをオランダ派遣。
 勅使三条実美ら攘夷の勅旨を幕府に伝達、幕議 遵奉決定。
 高杉晋作、久坂玄瑞らイギリス公使館焼打。
 朝廷国事係設置。

1863(文久3)年
 新撰組結成。
 幕府、攘夷期限を5・10と上奏、長州藩米船砲 撃。
 米・英・仏・蘭四国軍艦反撃。
 奇兵隊編成。
 薩英戦争。
 攘夷親征の詔。
 8・18のクーデター。天誅組挙兵。生野の変。

1864(元治元)年
 イギリス代理公使ロンドン覚書破棄を通告。
 フランス公使ロッシュ着任。
 天狗党挙兵。
 パリ協定調印、のち破棄を通告。
 池田屋事件。
 長州藩兵、御所蛤御門で薩摩、会津、桑名藩兵 と交戦敗退(禁門の変)。
 四国連合艦隊下関砲撃(馬関戦争)。
 第一次征長の役。
 幕府、参勤交代制復活。
 長州藩討幕政権成立。
 第一インター。
 清、太平天国滅亡。

1865(慶応元)年
 イギリス公使パークス着任。
 英・米・仏・蘭公使、幕府に兵庫先期開港と 条約勅許強請。
 幕府外国奉行、仏・英に軍事調査。
 長州再征の勅許。
 天皇、条約勅許。

1866(慶応2)年
 坂本竜馬の斡旋により、木戸孝充・西郷隆盛討 幕の提携成立(薩長同盟)。
 大阪で米騰貴、暴動蜂起。
 第二次征長。
 改税約書。
 幕府・長州藩休戦協定。
 浪人取締令。
 世直し一揆激化(江戸時代最大の規模・件数)。
 普墺戦争。
 フランス朝鮮遠征、江華島占領。

 1867(慶応3)年
 睦仁親王践祚。
 将軍慶喜、英・仏・蘭代表に兵庫開港実施を約 す。兵庫開港勅許。
 薩土盟約。王政復古標榜。
 仏公使ロッシュ改革意見書。
 討幕の密勅。大政奉還。
 坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺。
 兵庫開港、大阪開市。
 王政復古の大号令。小御所会談。
 「ええじやないか」運動広がる。
 マルクス「資本論」第一巻。
 イギリス、第二次選拳法改正案。
 仏軍、ガリバルディ軍制圧のためローマに入る。
 アメリカ、ミッドウェー島占領。
 フランス、カンボジアを保護国化。
 イギリス、シンガポール・マラッカを直轄植民 地とする。

1868(明治元)年
 鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争開蛤)。
 新政府、慶喜追討令。旧幕領直轄。
 神戸事件。
 王政復古を各国へ通告。
 暗殺禁止令。
 堺事件。
 赤報隊に偽官軍の布告。
 外国人殺害禁止布告。
 五ケ条誓文。
 五榜禁令。神仏混淆禁止。政体書制定。
 奥羽越列藩同盟成立。
 上野戦争。
 一揆続く。

 欧米近代資本主義列強の外圧を排除して、いか に〈日本〉の統一と独立を達成できるか、という 緊急の外交問題が社会経済的、文化的問題に優先 した状況がよく見て取れよう。世界史の発展段階 として社会的な変革を経験していない日本が、 その社会的な解放を政治的な解放としてうちだす ほかなかった時代である。これが「英将秘訣」 のニヒリズムを醸成させた大情況であった。