2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(1)

戦争を引き起こすのは誰か


 ホームページの記事を書くことを、これまでの 不勉強を埋め合わせるためよすがとしている。他 人の言説の受け売りのような記事ばかりで内心忸怩 たる思いがないわけではないが、浅学非才ゆえ学習 報告のようなものしか書けないのでその点はお許し 願おう。

 しかし、私は生来の怠け者で、何か強制力がない とつい怠けてしまう。少ないながらも私の記事を 関心を持って読んでくれる人がいるので、それが ホームページを続ける強制力となっている。あり がとうございます。改めてお礼申しあげます。

 さて、順序が逆になるが、大日本帝国が米英との 開戦に踏み切るに至る経緯についても改めて勉強す ることにした。

 藤田尚徳の『侍従長の回想』によると、1946年2月、 ヒロヒトは戦争終結の「御聖断」は求められて下し たものだ が、開戦においては憲法の規定上それを止める権限 は自分にはなかったと、語っている。この主張は一 応理屈になっている。ヒロヒトにも三分の理という ところか。

 ではあの無謀な戦争を始めた責任は 誰にあったのかというと、一般には東条英機がその 筆頭に挙げられるが、私は個々人をはっきりと名指 しできないのではないかと思っている。その責任の 所在は大日本帝国という国家そのもの体質にあり、 大日本帝国の誕生時から蝕まれ累積されてきた宿痾 のようなものだったのではないかと思う。このよう な観点から米英との開戦への経緯をたどってみたい。 今は「戦後」ではなく「戦前」だと言われている 昨今、一つ前の「戦前」を知ることにも大きな意義 があるだろう。

 上記のようなモチーフに適した教科書を古いツン読 書から見つけた。

教科書:北岡輝紀『支配とは何か』
(『試行No.58(1982.3)~61(1982.9)』所収)

 私はこの論文の筆者のことは全く知らない。 北岡さんのその後の文筆活動を知りたいと思いイ ンターネット検索をしてみた。「北岡輝紀」 でヒットしたのは学林舎という学習教材会社の社 長さんだけだった。ご本人か同姓同名の別人かわか らない。北岡さん、論文の無断使用をお許しくださ い。

 いまフト思ったことがある。私のホームページを 訪れてくれる人たちの年齢構成はどんなだろうか。 中学生からのコメントが何度かあってびっくりした ことがある。もしかすると『試行』を知らない人も 結構いるのではないかと思った。『試行』を簡単に 紹介しておこう。

 同人誌『試行』は、「水準の高い責任のはっきり とした同人会を作りたい」という吉本隆明の提唱で 谷川雁、村上一郎の三人で始まった。1961年9月の ことである。創刊の言葉に「無名の思想を自立せし めるよりほかに、権力を否定する権力への道などあ りうるはずがない」とある。
 1964年第11号からは吉本隆明の単独編集の同人誌 となった。そして1997年12月の第74号をもって終刊 した。私は1977年7月の第48号から購読した。 三浦つとむさんや滝村隆一さんはこの『試行』を通 して知った。

 さて、本題に入ろう。上記論文は次のような構成 になっている。

一 開戦意志の現実的契機
二 戦争意志と戦争担当能力の形成
三 戦争意志 - その現実的契機
四 戦争意志 - その理念的契機
五 戦争意志 - その動力
六 戦争意志 - その動力としての〈事務官僚〉
七 戦争意志 - その動力としての(地位)

 戦争は政治の一形態である。ならば、戦争意志と は国家意志の一形態である。この論文はたかだか 日・米英開戦の経緯をたどることのみにとどまらず、 国家意志形成の契機や国家意志の実現(国家支配) の現実過程如何という問題の実例の一つとしても 読めるだろう。つまりこのシリーズは「国家論」の 一環でもある。 多分そういう意味合いで北岡さんは『支配とは何か』 という表題を付けたのだろう。(と、推測している が果たしてどのように展開されるか、見当はずれに なるかもしれません。)

 この論文のモチーフを述べていると思われる文章の 引用から始めよう。(以下、傍点などの付いた強調 文字は太字で代える。)

『ナチスの指導者は、今次の戦争について、その起因 はともあれ開戦への決断に対する明白な意識をもって いるに違いない。然るに、我が国の場合にはこれだ けの大戦争を起こしながら我こそ戦争を起こしたと いう意識がこれまでの所どこにも見当らないので ある。何となく何物かに押されつつ、ずる ずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの 驚くべき事態は何を意味するか。』

 これは丸山真男の文章だが、これを引用して北岡 さんは次のように言っている。

 我こそが戦争を起こしたのだという手合いを目の 当りにすれば、驚かざるをえないが、そういう人物 がいなかったことが、そんなに驚くべきことなのか。

 丸山は、自分の研究室を学生たちに荒されたとき、 自ら、梶棒なり丸太なりを振りかぶって怒りを表現 する代りに、「ナチスもやらなかった暴挙」と声を 震わす人間だから驚いたのかも知れないが……

 丸山はここで、「被告たち」がおかれていた歴史 的基盤すなわち、明治維新政府成立以来、間断は あっても戦争で戦争を養ないつづけてきたと言っても 許される位戦争を間近かにおきつづけてきたという 歴史的自然性に、いささかも目を向けていない。 敗戦を予測しえたとはいえ開戦に踏み切ることに、 現在の私たちが考えるほど決断がいったとは、思え ない。

 そう言うのが言い過ぎであるなら、次のように言 い換えてもよい。日本をずるずると大戦の中にひき ずりこんだのは、丸山のいうようなナチスと比較さ れる日本の指導者の無能・無力というもんだいでは なく、それを選択していった政治過程・政治的動向 によってであると。

 開戦前政治担当者たちのとった〈政策〉は一切、 後追い的になされたものにすぎない。〈政策〉は、 ここで〈現在〉の証明以上のものを意味していな い。

 次回から、日本の指導者たちが開戦を「選択して いった政治過程・政治的動向」をたどっていこう。
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戦争意志とは何か(2)

昭和の15年戦争年表


 昨日、久しぶりの本屋をのぞいたらすごい本が目 に入った。

半藤一利編著『昭和史探索1~6』(ちくま文庫)

 半藤さんの解説や論考もあるが、どちらかという と資料集であり、膨大な資料が収録されている。 これを教科書として追加する。

 さて、対米英戦争を太平洋戦争と呼ぶが、 この戦争だけを切り取って論じることはできない。 太平洋戦争にいたるまでに大日本帝国が「選択し ていった政治過程・政治的動向」の累積を無視して は事の真相はつかめない。少なくとも満州事変まで は視野に入れなくてはならない。満州事変から太平 洋戦争までを一続きと考えて「昭和の15年戦争」と 呼ぶ所以である。

 まず、「昭和の15年戦争」のうち、 1931年~1940年のおおよその経緯を、年表で確認 しておこう。(随時、訂正・追加をしていきます。)

1931(昭和6)年
  3月 三月事件(軍部内閣結成の陰謀)
  9月18日 柳条湖事件(満州事変勃発)
  10月 十月事件(政治結社「桜会」による クーデター計画)

1932(昭和7)年
  1月 上海事件
  3月 1日 満州国建国宣言
  5月15日 五・一五事件

1933(昭和8)年
   1月  山海関占領
   2月  熱河作戦開始
   3月28日 国際連盟を脱退
   7月  神兵隊事件
  10月14日ドイツが国際連盟を脱退

1934(昭和9)年
   3月   満州帝政実施(皇帝溥儀)
   8月   ヒトラー、総統・首相を兼任
   9月18日 ソ連が国際連盟加盟
  10月   中国共産党の長征開始
  12月29日 ワシントン海軍軍縮条約を破棄

1935(昭和10)年
  2月18日 陸軍中将・菊池武夫、天皇機関説 (美濃部達吉)を糾弾
  3月16日 ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄
     ナチス・ドイツの再軍備宣言
  8月   第一次国体明徴・機関説排撃声明

1936(昭和11)年
   1月15日 ロンドン海軍軍縮会議から脱退
   2月26日 二・二六事件勃発
   3月   メーデー禁止通達
   3月 9日 岡田啓介内閣総辞職
      広田弘毅内閣成立
   5月   軍部大臣現役武官制復活
   8月   五相会議、「国策の基準」決定
      大陸・南方進出と軍備拡充などを含む
  11月25日 日独防共協定締結

1937(昭和12)年
   1月   政友会浜田国松、衆議院で軍部を批判
   1月   広田内閣総辞職
   2月   林銑十郎内閣成立
   6月   第一次近衛内閣が発足
   7月 7日 日中戦争勃発(盧溝橋事件)
   8月 9日 第二次上海事変
   9月22日 中国、第二次国共合作が成立
  11月   日独伊防共協定調印
  12月13日 日本軍、南京占領(南京の大虐殺)

1938年
   1月   近衛声明(国民政府を相手にせず)
   3月   衆議院国家総動員法案委員会で陸軍省佐藤資了中佐、宮脇長吉委員に 「だまれ」と怒鳴り問題となる
   4月 1日 国家総動員法施行
   4月 5日 徐州占領
   7月   張鼓峰事件(満州国東部国境でのソ連 との紛争)
  10月   武漢占領
      国内では祝賀の提灯行列、旗行列続く
  11月   東亜新秩序建設の近衛声明
  12月   近衛首相、日中国交調整三原則声明

1939(昭和14)年
   1月 5日 近衛内閣総辞職
      平沼麒一郎内閣成立
   2月 日 国民精神総動員強化方策決定
   3月15日 全国の招魂社を護国神社に改称
   4月12日 「米穀配給統制令法」を公布
      コメが統制品となる
   4月   満蒙開拓青少年義勇軍の計画発表
   4月   「青少年学徒に賜はりたる勅語」下賜
   5月11日 ノモンハン事件(日本軍・外蒙軍の衝突)
   6月16日 国民精神総動員委員会、「生活刷新案」を閣議決定
      日本国民の男子の長髪及び女子のパーマネントを禁止
   7月   米国、日米通商航海条約廃棄通告
   7月 8日 国民徴用令公布
   7月 8日 日英会談決裂
   8月23日 独ソ不可侵条約締結
   8月28日 『欧州の天地は複雑怪奇』という声明 を出して平沼内閣総辞職
   8月30日 阿部内閣成立
   9月 1日 第二次世界大戦勃発(ナチス、ポーランド侵攻)
   9月 3日 イギリス・フランス・オーストラリア, ドイツに宣戦布告
   9月 4日 日本、欧州戦争への不介入を表明
   9月16日 ノモンハン事件の停戦成立
   9月18日 「賃金統制令」・「価格統制令」公布
  10月 1日 石油が統制品となり、配給制となる
  11月21日 イギリス、海軍軍縮条約の無期限停止 を国際連盟に通告
  11月25日 国民へ「白米禁止令」公布
  12月   内閣情報局設置。
  12月   朝鮮総督府、「創氏改名」を公布
  12月14日 国際連盟がフィンランド侵略を理由に ソ連を除名。
  12月25日 国内の木炭が統制品となり、配給 制となる。

1940(昭和15)年
   1月   阿部信行内閣総辞職
   1月15日 米内内閣成立
   2月 2日 斎藤隆夫、反軍演説
   2月11日 紀元2600年祝典
   3月   内務省、「不敬な」名前の芸能人十六名に改名を指示
   4月   米殻強制出荷命令
   5月   木戸幸一、内大臣に就任
   6月14日 ドイツ軍、パリ入城
   7月   ドイツによるイギリス本土空襲始まる
   7月   畑陸相単独辞職により米内内閣総辞職
   7月22日 第2次近衛内閣成立
   7月   松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」「日 ソ独伊の四国同盟」構想を説明。
   7月   日本労働総同盟解散
   7月   独ソ不可侵条約調印
   7月15日 満州の新京に建国神廟創建
   7月   大日本農民組合解散
   8月   国民精神総動員本部、東京市内に 「贅沢は敵だ!」の立看板を立てる
   8月15日 立憲民政党解散
      議会制民主主義が実質上停止
   9月   日本軍、北部仏印進駐
   9月27日 日独伊三国軍事同盟成立
  10月12日 大政翼賛会成立
  10月   ダンスホール閉鎖
  11月   大日本産業報国会結成
  11月   日華基本条約調印

1941(昭和16)年
   1月   全国の映画館でニュース映画強制上映開始
   1月 8日 東條陸相、陸軍全将兵に戦陣訓布告
   2月   情報局が各総合雑誌に執筆禁止者の名簿を 示す
   3月   改正治安維持法公布、予防拘禁制を追加
   4月   国民学校発足
   4月13日 日ソ中立条約成立
   4月18日 ハル米国務長官、野村吉三郎駐米大使 に日米諒解案を提議
   5月27日 フランクリン・ルーズベルト米大統 領が国家非常事態宣言
   6月22日 ドイツ、ソ連に対し宣戦布告
   7月 2日 第一回御前会議、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」決定
      南進決定、「米英戦を辞さず」
   7月12日 英ソ相互援助協定締結
   7月18日 第二次近衛内閣総辞職
   7月19日 外相松岡洋右を豊田貞次郎と交代させ 第三次近衛内閣成立
   7月25日  米英、在米英日本資産を凍結
   7月28日 日本軍、南部仏印進駐
   8月 1日 米、対日石油輸出全面禁止
   9月 6日 第二回御前会議、「帝国国策遂行方針」決定
      戦争準備、外交交渉を併行、10月上旬までに打開の目途なければ開戦
   9月30日 ドイツ軍、モスクワ総攻撃開始
  10月18日 第三次近衛内閣総辞職
      東條内閣成立
  11月 5日 第三回御前会議、対米交渉甲乙案決定
      来栖三郎大使をアメリカに派遣
  11月   米、日本の甲乙案を拒否(ハル・ノート)
  12月 1日 第四回御前会議、開戦決定
  12月 8日 日本軍の真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦
戦争意志とは何か(3)

日独伊三国同盟というターニングポイント


 1931年9月18日 の柳条湖事件から始まった中国への 侵略戦争(日中戦争)は、 1937年7月7日 の盧溝橋事件で全面的に拡大した。

 南京陥落(1937年12月)、武漢占領(1938年10月) と、日本全国が勝利に酔いしれていたが、中国の対 日抗戦は日に日に強硬となるのに反して、日本の 軍事動員力は限界に達し持久戦を余儀なくされてい った。

 軍事物資の無理な調達は当然に国民にしわ寄せさ れる。国内の生活物資さえ窮乏の一途をたどってい た。

1939年 4月12日 米穀が配給統制品となる
1940年 9月18日 賃金統制・価格統制
1940年10月 1日 石油が配給統制品となる
1940年11月25日 白米禁止
1940年12月25日 木炭が配給統制品となる

 戦後、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団は 「日本戦争経済の崩壊」の中で

『日本が合衆国との戦争を決意したのはそもそも 正気の沙汰であったのか』

と大きな驚きを表明している。

 では、日本の戦争指導者たちは、勝者から 「正気の沙汰でない」と言われるほどに絶望的な 自国の戦争遂行能力に無知だったのだろうか。 そんなことはない。

1940年9月27日 日独伊三国軍事同盟成立

 この外交上での日米関係険悪化を決定付けた 日独伊三国同盟に対する枢密院審査委員会が開催され ている。この三国同盟が日米開戦にいたる露払いとな る可能性を委員たちは感じとっていたのか、 委員会では対米開戦を想定したときの 日本の石油事情について質疑がかわされていた。

 石油の欠乏について、河合枢密院顧問官、有馬 同顧問官が陸海軍大臣にそれぞれ質問したがはっき りした返事を得られず、南顧問官が更に重ねて同 じ質問を繰り返した。

南顧問官
 物資殊に石油の関係について更に心を安んずるに 足る説明を得たし

星野企画院総裁
 石油は相当量の貯蔵あるも最悪の事態長期にわ たるとき困難をまぬかれず

東条陸軍大臣
 石油は陸軍として若干期間の作戦遂行には充分な るも三年四年と継続したるときは自信を有しえず。 死中活を求め、解決を図るのほか方法なし

及川海軍大臣
 …‥(戦争が)長期にわたる場合は自然戦闘の 回数は減少するによりくりのべ使用せんとす

 このやり取りについて北岡さんは次のように述 べている。

 いうことや、考えることのなくなったときにし かでてこないようなコトバが横行している。これ で、アメリカをして、日本をうさんくさくさせた 三国同盟の締結審査の方も合格という次第であった から、かれらが開戦前一週間であっても同じような 調子で合議していたとしてもさして驚く必要もな い。案外、かれらは、なんということもなかった のかも知れない。

 また、日独伊三国同盟締結後の1940年10月14日の 日付で、山本五十六の次のような証言が記録されて いる。(岡田文夫『近衛文麿』より)

 自分の考えでは、アメリカと戦争するというこ とは、ほとんど全世界を相手にするつもりになら なければ駄目だ。要するにソヴェト不可侵条約を 結んでも、ソヴェトなどというものはあてになる もんじゃない。アメリカと戦争しているうちに、 その条約をまもって後から出てこないということ を、どうして誰が保証するか。

 結局自分はもうこうなった以上、最善をつくし て奮闘する。そうして長門の艦上で討死するだろう。 その間に、東京あたりは三度くらい丸焼けにされて、 非常にみじめな目に会うだろう。そうして結果に おいて近衛だのなんかが、気の毒だけれども、国 民から八つ裂きにされるようなことになりやあせん か。

 実に困ったことだけれども、もうこうなった以上 はやむをえない。

 国力の客観的な現状把握の努力も行われていた。 その年(1940年)の末に日本陸軍統帥部 は日本の国力の検討を陸軍省整備局に依頼し、 次のような結論を受けている。(林三郎『太平洋 戦争陸戦慨史』より)

(一)(昭和)十六年春季に米英と開戦する場合

 鉄鉱と軽金属は船舶の損害が著しくない限り、 後年の快復の望みがある。

 稀有金属と非鉄金属は他に取得の見込みがない から開戦三年目以降に著しく不足するであろう。

 そのころ液体燃料もまた同様の状態になるであろ う。

 他方、船舶の損害が大きい場合には石炭の輸送量 が減るから全産業を萎靡させる可能性が大きい。

(二)戦争を絶対に回避する場合

 もしも米英が対日経済関係を断絶すれば物的国 力は著滅して特に液体燃料の欠乏が致命的となろう。
 その時点までに既にアメリカは日本に対して 次のような牽制・規制をとってきている。

1939年7月 日米通商航海条約廃棄通告
1940年6月 特殊工作機械輸出制限
     7月 国防強化発進法を成立させ軍需物資 の輸出を許可制にし、更に石油・屑鉄にも許可制を とり、航空機用ガソリンの輸出を禁止す
     9月 屑鉄の禁輸
    10月 鉄・鉄鋼輸出許可制

 さらに1941年になると、いわゆるABCD包囲網が進展 し、仏印の対日米穀輸出が削減されたり、南方での ニッケル鉱・クローム鉱・屑鉄などの対日輸出が 禁止・制限されたりしている。

 この米英中蘭の強固な措置を受けて、陸軍省戦 備課は、1941年3月段階で、日本の物的国力の判断 結果を明らかにしている。次のような「判決」 を提示した。

 帝国はすみやかに対蘭印交渉を促進して、東亜 自給圏の確立に邁進すると共に、無益の英米刺激 を避け、最後まで米英ブロックの資源により、国 力を培養しつつあらゆる事態に即応しうる準備を 整えることが肝要である。

 しかし私たちが知っているのは、この「判決」 を無視した「無益の英米刺激」である。

1941年7月 日本軍、南部仏印進駐

 これがアメリカを硬化させた。アメリカの報復 は

7月 在米日本資産の凍結

 同月陸軍省統帥部は「11月1日対米英開戦」の想 定のもとでの国力の再検討を整備局に求めた。 整備局の回答は

『米英と妥協し得るにあらざる限り、経済封鎖的 状態の中に隠忍するも国家の衰頽を防止する手段 がない』

であり、開戦の途を暗示しながら、一方では、開 戦しても二年先の産業経済情勢に確信なしと、そ の出口のなさを明示した。

 日本の支配層は、日米両国間の経済的・軍事的 力量の絶対的ともいえる差を認識しつつも、開戦 やむなしという閉ざされた情況を打破できない位 置で立ち止ってしまった。

 この時、中堅幕僚たちの中で幅をきかせていた のは、次のような心情論であった。

『ジリ貧の国は永久に立ち直れぬが玉砕の国は立 ち上れる』

『日米戦争は負けるかも知れぬが戦わずして四等 国に堕するよりもいさぎよく戦って二千六百年の 歴史を飾るべきだ』

(以上は『海軍戦争検討会議記録』より)

 参謀本部第二十班が『機密戦争日誌』というのを 書き残している。次のような記述がある。

『沈思苦慮の日続く、一日の待機は一滴の油を消 費す。一日の待機は一滴の血を多からしむ』

 自国の国力に対する絶望的な認識のはて、 このような心情的な応酬だけが浮上してきただけ だったのである。

 1941年8月 東条内閣成立

 東条内閣成立時、『機密戦争日誌』次のように 書いている。

『いかなることあれども新内閣は開戦内閣ならざ るべからず。開戦、開戦、これ以外に陸軍の進む べき途はなし』

1941年8月 米、対日石油輸出全面禁止

 このアメリカの強硬措置が日本の支配層に甚大な 衝撃を与えた。この間の事情を、北岡さんは次のよ うに総括している。

 当時、企画院は石油保持量を三年と計算してい た。三年後には民軍需とも供給不能になるという ことである。

 陸軍省整備局はしかし、対支戦争と対米戦争が 並行すれば、陸海軍航空作戦のためには約一年、 海上決戦なら約半年しか戦えないという結論を出 していた。

 企画院総裁であった鈴木貞一がこのとき、

「現状を以て推移せんか帝国は遠からず痩身起つ 能わざるべし」

と述べ、戦後、物が足りないのになぜ戦争したのか という批難に応えて

「物が足りないからこそ戦争したのだ」

と反駁した事情は、この国力に対する認知に基づ いている。

 しかし、この国力に対する判断は〈政策〉に直 通してはいなかった。国力に対する判断は、この 事実認定を境にして右へ左へと分解している。 政府首脳・重臣たちが開戦にためらい、軍事担当 者たちが開戦に踏みきるべきだと主張したように。

 しかし、この違いに大した違いがあると考 えることはできない。右へ左へというのは、 このときの当事者たちに共有された心理の揺れを しか表わしていないが故にである。

 あらゆる議論 においてまとまりのつかないときは、声の大きい 方が有利を占めるという通説(!?)にいささか の真実があるなら、「戦争日誌」に見られるよう な怒声に似た焦りが、決心の決まらない政府文官 ・重臣たちを開戦の秤皿の方へ追いやった心理的 契機たりえたといえるのではないだろうか。決心 のつかない人間より決心のついた人間の方が強い のである。

 事実、石油全面禁輸は、それまで対米交渉をの らりくらりと延長させつつ、抜目なく南進政策を 実施し、かつ許容していた軍部や政府に、現状維 持を許さぬものとして立ち塞がったのである。す なわちそれは、アメリカ政府が日本政府をして中 国からの全面撤兵を受容するか否かの最後通牒と もいうべきものを代弁していた。
戦争意志とは何か(4)

南部仏印進駐というターニングポイント


 「日独伊三国同盟」が1940年におけるターニング ポイントであったが、1941年でのそれは「南部仏印 進駐」であった。そこに至るまでの経緯をたどって みる。

4月13日 日ソ中立条約成立
4月18日 ハル米国務長官、野村吉三郎駐米 大使に日米諒解案を提議


 1941年初めには和平を目指した日米交渉が進めら れていた。メンバーは、日本側からは野村大使 ・井川忠雄(近衛の側近)・若林要公使・岩畦豪雄 大佐(いわくろひでお、軍務課長)の四人、アメリ カ側はハル国務長官・バレンタイン・ウ オルッシュ牧師・ドラウト牧師の四人。「日米諒解 案」をめぐる経緯を半藤さんは次のようにまとめて いる。

 彼ら(アメリカ側代表)は険悪となった日米関係 を改善すべく〝打開策″を日本側に提出した。これ を土台にして軍務課長君畦豪雄大佐および近衛の側 近の井川忠雄と、両神父とが協議を重ね、非公式な がらも「日米諒解案」の文書が16年4月にまとめあ げられた。この案の趣旨に政府も陸海軍部も同意し、 さっそく政府の訓令がワシントンへ飛んだ。

 これを受けて正確には4月16日(松岡外相はまだ帰 国していない)、野村と米国務長官コーデル・ハル との間で、まさに正式の日米交渉がはじまった。 日米交渉は前途に光明を見出そうとしたのである。

 ハルは、まず話し合いの土台として、
「すべての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、 すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」のいわゆる〝ハル四原則″
を日本側に示した。

 対して野村は、東京から送られてきた「日米諒解 案」を提示する。それは、

①日独伊三国同盟は攻撃的ではなく、防衛的なもの であると日本が宣言する。
②日中間の協定によって、日本軍が中国から撤兵す る。
③中国に賠償を求めない。
④蒋介石・汪兆銘両政権の合流を助ける。
⑤中国は満州国を認める。

以上の条件を日本が認める。そしてアメリカはそれ をもとにして中国国民政府との平和の斡旋をする。 日米間の友好通商条約を正常にもどす、というも のであった。

 野村はハルをはじめアメリカ政府筋が日本案に 賛成であるとの感触をえて、「日米諒解案」でこ のまま交渉をすすめたい旨の電報を、東京に打っ た。たしかに、交渉はこのままスムースに進行し ていくかに思われた。

 ところが、優柔不断の近衛首相は外遊中の松岡 外相の帰国を待って、この諒解案をより正式なも のにしようと余計なことを考えた。そこに大きな 錯誤があったのである。

 4月22日、日ソ中立条約締結の素晴らしい土産を もって帰国した松岡は、日本のこれからの外交は俺 にまかせろと、まさに意気天を衝く勢いである。 日米のわけのわからぬシロウト連中のまとめた 「日米諒解案」など一瞥だにしない。「この案は 陸軍の陰謀である。交渉は俺にまかせろ」と真っ向 から反対を表明、大幅に修正してワシントンに送り つける。

 野村からハルに、松岡修正案が手渡されたのは 5月12日で、それから20日後の31日、こんどはアメ リカ側の第一次修正案、さらに20日たって6月21日 に第二次修正案が示される。もう原型をとどめないほ どずたずたである。

 一説にアメリカ政府はこの案をはじめから本気で 認めてはいなかったともいわれているが、いずれに せよ、松岡の横車で「日米諒解案」はあっという 間に水に流され、はじまったばかりの交渉は白紙に 戻り、日本は好機を虚しく失ってしまったのである。

 日米交渉はこのあと雲を掴むような話し合いとな る。いや、アメリカ政府の日本および日本人にたい する不信はつのり、事態は完全に悪化した。グルー は四原則に固執し、野村は日本のおかれた窮状を 述べる。これでは交渉が一歩も進まないのは自明の 理である。とうてい纏まるはずはないと、だれの 目にも明瞭きわまるものであった。何を目的に話 し合っているのかわからなくなったのであるから。

 続いて情勢は次のような経緯をたどる。

6月22日 ドイツ、ソ連に対し宣戦布告
7月 2日 第一回御前会議、「帝国国策要綱」決定
   南進決定、「米英戦を辞さず」
7月18日 第二次近衛内閣総辞職
7月19日外相松岡洋右を豊田貞次郎と交代させ 第三次近衛内閣成立
7月25日 米英、在米英日本資産を凍結
7月28日 日本軍、南部仏印進駐
8月 1日 米、対日石油輸出全面禁止

 この経緯の詳細を、再び半藤さんの文章で 補足しよう。

 そこへ全世界を震撼した大事件が勃発する。 アメリカの第二次修正案の示された翌日、 6月22日、ドイツ軍がソビエトへの侵攻を開始した のである。

 このことがずっと燻っていた軍部の南進論に火 をつけた。これで北方ソ連からの脅威はなくなっ た。それに世界の視線が独ソ戦争にむけられてい る。このチャンスを捉え、敢然として東南アジア に進出し、そこの資源、なかんずく石油を獲得せ ねばならない。ことに石油に飢えている海軍は、 4月上旬に陸海軍合意で決定している南進政策の 実行を強く陸軍にせまった。

 ワシントンの野村からは「南方に武力を行使す れば、日米交渉は妥結の余地なく、米英との衝突 を招く」と意見具申がとどいているが、それに構っ てはいられないとの切迫した想いが先走っている。 こうして7月2日、一方でドイツに呼応しての対ソ 戦を準備しつつ、その一方で、対米戦争を覚悟し 南部仏印進駐を強行する政策が、御前会議で決定 される。

 そして軍部のいうままになりつつある近衛は、 「南より北、三国同盟に基づいて対ソ戦争に参加 が先だ」と吼えつづける松岡外相が目ざわりとな り、これを追い出すために、いったん内閣総辞職 する。そして豊田貞次郎海軍大将を外相にむかえ、 第三次内閣を組閣したのが7月19日。この新しい 体制によって、日本はいよいよ南部仏印進駐の国 策遂行を決意する。

 日本の外交電報の暗号解読に成功していたアメ リカ政府は、この日本政府の決定を知ると、 7月25日、在米日本資産の凍結を公布し、日本の 侵略政策にたいする牽制的な報復手段に出た。

 それに怯まず日本は予定どおりに、7月28日、 いざという場合の南方作戦の前線基地にすべく 南部仏印に進駐を開始する。近衛や軍部の首脳 の一部は、平和的に進駐するだけならば日米関 係を最悪に導かないであろうと楽観していた。

 しかし、待っていたとばかりにアメリカは、 8月1日、対日石油輸出の全面禁止という戦争政策 で応酬してきた。この時点で、アメリカが対日戦 争の決意を固めたのである。

 予想だにしなかった海軍省軍務局長の岡敬純 少将は

「しまった。まさかそこまでアメリカがしてくる とは思わなかった。しかし、石油をとめられたら 戦争あるのみだ」

と悔いたが、すべては手遅れなのである。こうし て東京の中央部は日米開戦前夜といえる雰囲気に 包まれたという。

 あとは一潟千里(いっしゃせんり)である。 9月6日と11月5日の二回の御前会議をへて、 対米英開戦決定……さらには、近衛文麿の内閣投 げ出しによる、対米開戦論者のリーダー東条英機 の登場となる……

 とにかく、日本の指導者はまともな考え、つま り健全な常識を失って、熱病にうかされたように 亡国が決定的な戦争に突入していくことになるの である。ただ一つ、ドイツの勝利をあてにして、 である。
戦争意志とは何か(5)

1941年の第二回御前会議


 戦前・戦中の日本では、重要な国策はすべて 天皇臨席の御前会議によって決定された。

 しかし、実質的な討議は大本営陸海軍部と政府 との連絡会議で行われている。そこでの意見の集約 (成案)を天皇に報告する。天皇はあらかじめ その内容を知悉している。そのようにすべての お膳立てができてから御前会議がひらかれる。

 御前会議は、中国への全面的な侵略戦争から太 平洋戦争開戦にいたるまでに8回ひらかれている。

第一回 1938年 1月11日 南京攻略後
    近衛声明「国民政府を相手にせず」

第二回 1938年11月30日 漢口攻略後
    近衛声明「東亜新秩序建設」

 いずれも日中戦争にたいする基本方針をきめた もので、重要な会議だった。

第三回 1940年 9月16日
    日独伊三国同盟の締結を決定

第四回 1940年11月13日
    「日華基本条約案」と「支那事変処理要 綱」を決定

 ここで日中戦争の戦略方針は持久戦へと変更された。

 すべてが太平洋戦争への道へとつながる重要な 決定が行われている。大日本帝国の政治コースは つねに御前会議で決せられたことになる。 この会議が最高の機関であり、きめられたことは 不変であり、至高の命令となった。

 そして、より直接に太平洋戦争へと直進するこ とを決めていったのが、1941年にもたれた都合四 回の御前会議であった。その第一回7月2日の御前 会議については前回取り上げた。

7月 2日 第一回御前会議
     「帝国国策要綱」。南進決定、 「米英戦を辞さず」

9月 6日 第二回御前会議
     「帝国国策遂行方針」。戦争準備、 外交交渉を併行。


 この1941年の第二回御前会議の模様を『昭和史探索』 から引用する。かなり長いが、御前会議は天皇の戦 争責任問題を考える上での重要な要素なので詳しく引用し たい。(構成を時間列に変えたり、中略したり している。)


 昭和16年の暑い夏は、空しく過ぎていった。

 その間に近衛首相がしたことは、対ソ攻撃の強硬 論者であった松岡外相を、内閣総辞職によって追 い出し、第三次内閣を組織したことだけである。 だが、新内閣に対する天皇の期待はなお大きなも のがあった。首相みずからがトップ会談で和平の 道を切り開こぅとしている。木戸も大いに期待し ていた。臥薪嘗胆を説いたとき、近衛はたいへんに 興味を示して耳を傾けていたからである。

 この日(9月5日)、近衛が強調していた日米首脳 会談による難局打開に対する、アメリカからの回答 がとどいている。それは首脳会議を開く前に予備会 議をひらく必要をのべ、首脳会談をやわらかく否定 し、どんな会談をもつにせよ、アメリカの基本的な 立場は、日本の中国からの撤兵と三国同盟の廃棄に ある、と主張してきたものであった。もちろん、 中国からの撤兵も三国同盟廃棄も、日本の陸海軍の みとめるところではない。

 9月5日午後4時半ごろ、連絡会議で意見一致した 御前会議の議案をもって参内の近衛首相の手ににぎ られていたのは、思いもかけぬ内容のものであった。

一、米英に対し戦争準備をする。
二、これと併行して日米交渉を進める。
三、十月上旬になっても日米交渉成立の〈目途な き場合は〉英米に対し戦争を辞せざる決意をする。

 臥薪嘗胆はおろか、国策の第一に戦争の準備が あげられている。しかも御前会議は明日だという。 木戸は驚いて、近衛を難詰した。

「とつぜんに、こんな重大案件をもってこられて は、陛下にお考えになる暇もなく、お困りになる 外はないではないか」

 近衛が手にしてきた決議案をみせられて、天皇は いった。

「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交 交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従 であるかのごとき感じをうける」

 近衛は答える。

「ー、二の順序はかならずしも軽重を示すものでは ありません。政府としては、あくまで外交交渉を 行ない。交渉がどうしてもまとまらぬ場合に、戦 争準備にとりかかるという趣旨であります」

 天皇はこの答弁で納得しなかった。このあと、 急遽、杉山(陸)、永野(海)の両総長が宮中に よびだされる。近衛が宮中についたのが4時半こ ろ、両総長がよびだされて天皇に会ったのが6時、 あわただしい日本の動きであった。

 天皇と両総長との質疑応答も、近衛手記にある。 あまりにも有名なくだりであり、少し長くもある が、重要なので、わかりやすく書き改めて引用す る。

天皇
 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの 期間にて片付ける確信があるか。

杉山
 南洋方面だけは三ヵ月で片付けるつもりであり ます。

天皇
 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき 陸相として「事変は一ヵ月くらいにて片付く」と 申したように記憶している。しかし四ヵ年の長きに わたり、まだ片付かないではないか。

杉山
 支那は奥地が開けており、予定どおり作戦がうま くゆかなかったのであります。

天皇
 支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広 いではないか。いかなる確信あって三ヵ月と申す のか。

 杉山はすっかり弱ってしまい、ただ頭をたれた きりで答えることもできなかった。みかねた永野 がそばから助け船をだした。

永野
 統帥部として大局より申し上げます。今日の日 米関係を病人にたとえれば、手術をするかしない かの瀬戸際にきております。手術をしないで、こ のままにしておけば、だんだんに衰弱してしまう おそれがあります。手術をすれば、非常な危険が あるが、助かる望みもないではない。……統帥部 としては、あくまで外交交渉の成立を希望します が、不成立の場合は、思いきって手術をしなけれ ばならんと存じます……

 永野は、7月29日に、開戦となった場合「日本海 海戦のような大勝はもちろん、勝ち得るや否やもお ぼつかない」と、天皇に明言していた。それがいま は大手術を説くのである。

 もっとも、当の永野にいわせると、必ずしも近衛 手記のようにいったわけではないらしい。宮中から 戻ってきた永野は、部下の幹部に〝こうお答えした″ と語っている。

「杉山の申しますことは、必ず三ヵ月にて片付くと か、必ず勝利を得るという確定的なことを申し上げ るのではなく、そのような算が多いことを申してい るのだと存じます。クラウゼヴィッツも戦争に必ず 勝つと予言するのはまちがいで、勝算が多い少ない ということがいえるだけであって、実際の勝敗は やってみなければわからないといっています。 杉山は、その勝算をいっているのでありましょう と申し上げ、ようやく御気色もやわらいで御前を 引き下がるをえた……」

 それはともかく、二人の統帥部の長の不満足な、 矛盾した説明に対して、天皇は「御気色をやわら いで」はならなかった。そんなあやふやなことで、 国家の運命を賭けることはできないのである。

 そこで天皇は訊ねた。

「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは 外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違 ないか」

 両総長はケロリとして答えた。

「そのとおりであります」

 この段階にまできての、外交による日米間の妥結 など、およそ二人とも信じてはいなかった。もちろ ん戦争はソロバンだけではじくのではない。が、 勝算のとぼしい戦争に眼をつぶってとびこもうとい うのである。

 6兆550億円の戦費を投じ、19万人が戦死、95万人 が傷つき、あるいは痛み、しかもなお75万人が戦場 である中国大陸にあった昭和16年に、さらに大戦争 に突入することの正否をば、勝算よりもさきに論 ずべきではなかったか。

 機会は去っていった。歩みはじめた道を振り出 しに戻す、ただ一度のチャンスは、こうしてはる かに遠のいていった。 君臨非統治の西園寺方式を このときに破る、天皇の一言が必要であった。 軍は、不意の両総長の宮中召集に、ガク然、色を 失っていたときだからである。

 その日の「大本営機密日誌」は書いている。

「……南方戦争に関し種々御下問二時間にわたり、 両総長は退下した。一時は参謀本部内の空気は サッと緊張したが、御前会議は、両総長の奉答 により御嘉納あったようで、一同安堵した」

 翌9月6日の御前会議は、皇居の千種(ちぐさ) の間で、すじ書きどおりに「戦争を辞せざる決意 の下に」外交交渉をおこない、「十月上旬頃に至る も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、 直に対米(英蘭)開戦を決意す」という国策をき めた。10月上旬までは、9月6日から一ヵ月しかな い。

 この決定は、日本軍部が日本政府に送った最後 通牒といってもいい。しかも錦の御旗のサイン入 りである。これまで五ヵ月もかかってまとまらな かった日米交渉を、あと一ヵ月でまとめるという ことに、だれが確信があったのか。十中の八、九 は戦争であるとし、陸軍も海軍も、天下晴れて戦 争準備に精をだした。銃剣の音を高鳴らせても文 句をいうものがいない。