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「終戦の詔書」を読み解く

「終戦の詔書」の成立過程

 東京新聞(8月19日朝刊)の「筆洗」が、 大宅壮一編『日本のいちばん長い日』から、 「終戦の詔書」(正確には「大東亞戰爭終結ニ關 スル詔書」と言う。)の文言をめぐる政府内対立 のエピソードを取り上げていた。

 放送で流す終戦の詔書の表現をめぐる政府内の 対立が興味深い。原案の「戦勢日に非にして」の くだりに対して、阿南惟幾陸相が「大本営発表が すべて虚構であったことになる。戦争は敗れたの ではなく、ただ現在好転しないだけだ」と訂正を 求めたとある。

 米内光政海相らは原案を支持したが、最後は陸 相の主張通り「戦局好転せず」で決着した。「栄 光ある敗北」にしないと、陸軍内で暴発が起きか ねない状態だったのだという。それにしても都合 のいい表現を考えたものだ。

 原案には他にも直しがあり、よく知られる「堪 え難きを堪え…」のくだりの前には「時運の赴く 所」という表現が出てきた。敗戦は誰かの責任で はなく、時の勢いや運命なので仕方がないとの意 味にも取れる。「好転せず」と同じ発想だろう。

 戦後は敗戦の教訓を学ぶことから始まったはず だ。だが、終戦の詔書に刻まれた発想は今もなお、 この国の組織のあちこちに残っている気がしてな らない。

 皇軍内での陸軍と海軍の確執はかなり根深かった らしい。この問題を取り上げる人の多くは海軍びい きのようだ。陸軍が頑迷で封建的なのに対して海軍 は開明的進歩的であった、ということをよく耳にす る。上のエピソードにもそれが表れている。 阿南陸相が「大本営発表がすべて虚構であったこと になる。」といったそうだが、「すべて」ではない けれども、大本営発表が虚構だらけだったことは 今では明らかなことだ。「大本営発表」は「虚偽」 の代名詞になっている。

 陸相の言い分が通ったために、「終戦の詔書」が 「敗戦」を「終戦」と言いくるめる詐術の元凶にな ったわけだ。「時運の赴く所」による「終戦」なの だから、「敗戦」は誰の責任でもない。この詔書は 天皇制無責任体制を如実に示す好例だ。

 ウヨさんたちが「終戦の詔書」を取り上げること がよくある。ウヨさんによると、この詔書は「平和 主義者の天皇陛下の悲痛なお言葉」だそうだ。ヒロ ヒトが平和主義者だったかどうかは今はおく。ここ では詔書が天皇の言葉だという錯誤を取り上げたい。

 当然なことながら証書の言葉は、最終的には 天皇が裁可するするにしても、天皇の頭から 出てきた言葉ではない。官僚・御用学者(「終戦 の詔書」内の言葉を使えば「朕が百僚(ひゃくりょ う)有司(ゆうし)」)の作文だ。もちろん、官僚・ 学者はまず第一に天皇に気に入られるように腐心し て作文する。第二に、どのように「国民」(「終 戦の詔書」内の言葉を使えば「爾(なんじ)臣民」) をあざむこうかと腐心する。もちろん、国際社会に も目配りしなくてはならない。なかなか大変な事業 なのだ。

 「終戦の詔書」が玉音放送として発表された文章 に落ち着くまでに、どのような推敲過程があったの か。それが明らかにされると、大日本帝国の官僚・ 御用学者の腐心した跡が見られるだろう。つまり それは、大日本帝国の官僚・御用学者の頭の中 (心性と思考パターン)を解剖するに似る。

 しかし、そのような資料は残されているのだろう か。……
 ありました。石渡隆之(元内閣文庫長)という方 の論文 「終戦詔書成立過程」 を見つけた。以下はその論文を利用している。

 1945年8月9日の深夜から翌10日の早朝にかけて の御前会議で、大日本帝国の中枢部はやっとポツダ ム宣言の受託を決定した。その直後から直ちに 「終戦の詔書」(以下単に「詔書」という。) の作成が開始された。まず、迫永 久常(内閣書記官長)が中心となって草案を作成し た。それをもとに8月14日夕刻に成案(閣議用原案) を得るまでの曲節を示す資料がある。総理府国立公 文書館に保管されていた『公文類集 第六十九編 昭和二十年巻一』だ。これに編綴されていてたもの で、公開されているそうだ。

 その資料には詔書の草案が数点あるという。全資 料を石渡さんはおおよそ次のように整理している。

① 第一資料 第一案
② 第二資料 第二案
③ 第三資料 第三案②を大幅に加除。安岡正篤(陽明学者)の考案によるとされて いる。
④ 第四資料 ③を清書したもの
  第五資料 ④の修正意見。曽祢益(外務省政務局第一課長)による、 主に用語用法についての意見
⑤ 第六資料 ④を浄書(一字削除)
⑥ 第七資料 第五資料の意見を吸収したもの
⑦ 第八資料 ⑥を整理、加除したものと
⑧      ⑦を加除したもの
  第九資料 ⑧と同文。閣議用詔書案

 石渡さんは①~⑧の詔書案の加除の変遷を文節 ごとに一覧表にしている。私としては、それぞれ の案の通し文が欲しいのだが、それは掲載されて いない。そこで逆に、文節ごとの一覧表から本文 を復元することにした。推敲の大きな節目だけを 追うことにし、①②④⑧をそれぞれ「第一案」 「第二案」「第三案」「第四案」と呼んで復元す る。

 なお、詔書も詔書案のすべて句読点なしののっ ぺらぼうな文なので、読みやすくするため、段落 を設けたり、句読点の代わりに一字空けなどした。 また、難読文字には振り仮名をつけた。(どう読 むのか、自信がないものには「?」を付した。)



大東亞戰爭終結ニ關スル詔書

朕茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ 米英重慶並ソヴィエート政府 ニ對シ 各国共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

世界人類ノ和平ト 帝國臣民ノ康寧(こうねい)トヲ 冀求(ききゅう)スルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々(け んけん)措カサル所 曩(さき)ニ米英二國ニ対ス ル宣戰ヲ敢テセル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト東亞 ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ 他國主權ノ毀 損ト領土ノ侵略トハ 固(もと)ヨリ朕カ素志ニア ラス

 然ルニ交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕 カ陸海將兵ノ健闘 朕カ百僚有司ノ勵 朕カ一億 衆庶(しゅうしょ)ノ刻苦 ソノ極ニ達スルモ 未タ 戦争ノ局ヲ結フニ至ラス

此ノ間欧州ニ於イテハ反テ戦火ノ終熄ヲ見 世界ノ 大勢ハ新ナル国際秩序ノ実現ヲ促スノ機運ヲ示セリ 是ノ秋(とき)ニ当リ尚交戦ヲ継続センカ 激烈ナ ル破壊ト残酷ナル殺戮トノ極マル所 遂ニ民族生存 ノ根拠ヲ奪フノミナラス 延(ひい)テハ人文明 ヲ滅却スルヤ必セリ

朕ハ戦局益々不利ニシテ 敵国ノ人道ヲ無視セル 爆撃ノ日ニ月ニ苛烈ヲ極メ 朕カ赤子ノ犠牲愈々 多ク 人倫ノ大変所在並(ならび?)起ルニ忍ヒ ス 特ニ戦火ノ及フ所 人類共存ノ本義ヲ否定ス ルニ至ムコトヲ懼ル 是レ朕カ先ニ帝國政府ヲシ テ 第三国ノ調停ヲ求メシメタル所以ナルモ 不 幸其容ルル所トナラス 遂ニ各国共同ノ宣言ニ応 セシムルニ至レル理由ナリ

斯ノ如キ非常ノ措置ニヨリ戦争ノ終結ヲ求ム 今 後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラサルヘ ク 爾臣民ノ衷情(ちゅうじょう)ハ 朕最能ク之ヲ 知レリ

且(かつ)夫(そ)レ帝國ト共ニ東亜新秩序ノ建 設ニ協力セル東亜ノ諸盟邦ニ對シテモ 事遂ニ志 ト違エルコトヲ謝セサルヘカラス

然レトモ事態ハ今ヤ此ノ一途ヲ余スニ過キス 朕ハ 実ニ堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 爾臣民ト共ニ黽勉(びんべん=努力)務力(?) 以テ社稷(しゃしょく)ヲ保衛セムト欲ス 忠良ナル爾臣民 朕ハ常ニ爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい) シ 神器ヲ奉シテ爾臣民ト共ニアリ 苟モ激情  軽挙 益々事端ヲ滋クシ 同胞排擠(はいさい) 愈々時局ヲ亂(みだ)リ 爲ニ世界ニ信ヲ失フカ 如キハ 朕ノ最モ戒ムル所ナリ 爾臣民其レ克 (よ)ク朕カ意ヲ體セヨ


 構成・文法に混乱した部分があるが、たたき台 とすべき草案に過ぎないのだから、その点を問題に しても仕方あるまい。しかし、その草案に表れて いる官僚たちの事態に対する理解・認識の問題点 は指摘したい。(次回で)
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第859回 2007/08/25(土)

「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(1)開戦の大義名分

(2,3回で終わる予定でしたが、取り上げたい問題が 次々と浮かんできました。思いがけず長くなりそう。 「今日の話題」から独立連載に変更します。)

資料追加
岩波講座「日本歴史21」
 (1)由井正臣『太平洋戦争』
 (2)橋川文三『「大東亜共栄圏」の理念と実態』
 (3)藤原 彰『敗戦』


「米英重慶並ソヴィエート政府ニ對シ」
 中国政府ではなく「重慶政府」と言っている。一 体これは何か。1937年にまでさかのぼる。

1937年11月
 蒋介石率いる「国民政府」は重慶に遷都
1937年末
 日本軍の肝いりで、北京に王克敏の「中華民国 臨時政府」樹立
1938年1月
 近衛内閣は「爾後國民政府ヲ對手トセズ」と声明。
1938年3月
 南京に粱鴻志の「中華民国維新政府」をやはり 軍の肝いりで樹立。
1938年12月
 汪兆銘、重慶を脱出。(日本軍の工作による)
1940年3月
 汪兆銘は王克敏、粱鴻志と会談し南京政府を樹立 する。

 つまり、中国には重慶の「中華民国」政府と 日本の傀儡・南京政府と、二つの政府があった。 「詔書」第一案作成者たちは重慶の蒋介石政府を 「中国政府」と呼べないこだわりがあったのだろ う。第四案でようやく「重慶」という呼称は撤回 するが、「中(国)」ではなく「支(那)」と 呼んでいる。

「世界人類ノ和平ト 帝國臣民ノ康寧(こうねい)トヲ 冀求(ききゅう)スルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ」
 約2000万人の戦没者を出し、アジア中の人民に 塗炭の苦しみを強いていながら、その点には 一言も触れず、よく言うよ。その「遺範」とやら は一体どこにあるのか。あるなら示して欲しいも のだ。この他国人民に与えた甚大な被害に対する 責任意識の欠如は、とうとう最後まで省みられな い。

「米英二國ニ対スル宣戰ヲ敢テセル所以モ亦 實ニ 帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出 テ 他國主權ノ毀損ト領土ノ侵略トハ 固(もと) ヨリ朕カ素志ニアラス」
 中国への侵略戦争から米英との交戦にいたる過程 で、日本の国家権力の中枢で「帝國ノ自存ト東亞ノ 安定」という大義名分はどのように形成されていっ たのだろうか。資料(1)より引用する。


 1941年9月6日の御前会議は「帝国国策遂行要領」 を決定し、「対英米蘭戦争ヲ辞セサル決意ノ下二 概ネ10月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」るとし た。

 それ以後、近衛内閣の総辞職、東条内閣の成立か ら「白紙還元」問題による「帝国国策遂行要領」再 検討を経て開戦決定にいたる間、政府・軍部の間で 戦争計画について大きな振幅と動揺がくりかえされ、 その基礎的問題について完全な一致がみられない点 もいくつかある。

 第一に戦争目的についてそれが見られる。独ソ戦 の開始にともない、対英米戦と対ソ戦の双方を準備 することをきめた1941年7月2日の「情勢ノ推移二伴 フ帝国国策要領」では、方針として「大東亜共栄圏 ヲ建設」することと「自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為 南方進出ノ歩ヲ進メ」るという二つの目的が掲げら れた。

 ついで9月6日の「帝国国策遂行要領」では「自存 自衛ヲ完ウスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セサル決意」 をうたい、戦争を決意した11月5日の「帝国国策遂行 要領」では、「帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自 衛ヲ完ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為此際対米英 蘭戦ヲ決意シ」としていた。

 文章上は、「大東亜共栄圏」=「大東亜新秩序」 と「自存自衛」の二つの目的が微妙なニュアンスを もって掲げられたのである。

 11月1日の大本営政府連絡会議で「帝国国策遂行 要領」を決定したあと、2日に東条首相、永野修身 軍令部総長、杉山元参謀総長の三人が会議の結果を 天皇に報告した際、天皇から「大義名分ヲ如何二考 ウルヤ」と質問され、東条首相は「目下研究中デア リマシテ何レ奏上致シマス」と答えている。

 かくして大本営政府連絡会議でも2月中旬数回に わたって大本営陸軍部作成の「開戦名目骨子案」が 討議された。 開戦を決意してからその名目をさがすという事態の 中にこの戦争の大きな問題がある。

 結局12月8日の宣戦の詔書には、「帝国ハ今ヤ自 存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外 ナキナリ」として、「自存自衛」が強調された。 しかし、開戦後の12月10日の連絡会議が今次の戦争 を「支那事変ヲ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定し、 情報局はこれを「大東亜戦争と称するは、大東亜新 秩序建設を目的とする戦争なることを意味するもの にして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあ らず」と公表した。

 ここに、1940年9月の日独伊三国同盟で協定され、 追求されつづけた独伊の欧州における新秩序建設と 「日本国ノ大東亜二於ケル新秩序二関シ指導的地位」 (第三条)を相互に認め、尊重するという ファシズム国家による世界再分割の目的が明白にみ られるのである。

 「自存自衛」の名目にしても、真の民族的危機を 意味するものではない。日中戦争継続を前提として、 日中戦争のゆきづまりを打開するために南方に石油 その他の軍需資源を求めなければならなくなったと ころから生じた危機であり、そこに「自存自衛」の 本質があった。

 この二つの戦争目的をめぐって支配層内部では思 想的統一を欠き、ある者は「自存自衛」を強調し、 ある者は「大東亜新秩序建設」を唯一の戦争目的で あると理解するなど、さまざまであった。しかし東 条首相や大本営陸軍部首脳は、
「究極のところ大東 亜新秩序を建設するのでなければ自存自衛を完うす ることはできない、自存自衛も大東亜新秩序の建設 も、表現の違いであり、盾の両面であると考えてい た。そこで危機感の高まるときには自存自衛の面が 強く叫ばれ、情勢の好転する場合には大東亜新秩序 の建設こそがこの戦争の目的であるように高く意義 づけられ」(参謀本部第一部長田中新一中将の戦後 回想)
る結果となった。

 ウヨさんたちは「大東亜戦争」は「自存自衛」 「大東亜新秩序の建設」を目的とした聖戦だと、 それを肯定美化する。上述のよ うにその大義名分がいかに手前勝手なご都合主 義的なものであったかという事実を、ウヨさんた ちはまっすぐに見ることができない。自慢史観の 根拠は頑迷固陋なイデオロギー(虚偽意識)に過 ぎない。
第860回 2007/08/27(月)

「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(2)「大東亜省」問題

「帝國ト共ニ東亜新秩序ノ建設ニ協力セル東亜ノ諸 盟邦」
 御前会議で米英との開戦の決意が行われた後で、 その開戦の大義名分が検討されたという倒錯した 経過がすでに「大東亜戦争」の本質を語っている が、ではその大義名分の一つ「大東亜共栄圏の建 設」の実際はどうだったのだろうか。

 日本政府内では、外務省から「大東亜省」を分離 設置する案がもちあがっていた。この大東亜省設置 案は1942年9月1日に発表された。同時に外務大臣・ 東郷茂徳が辞職をしている。この辞職は大東亜省 設置と関連あるものとみなされている。

 大東亜省の設置は「大東亜共栄圏の建設」とい う大義名分の本質に関わる問題であった。当時の 関係者たちの議論・証言によって、それを明らか にしてみよう。(資料(2)による。)

 満洲国、中国、タイ、仏印など、いわゆる大東 亜地域を大東亜省の管下におくとともに、従来の 対満事務局・興亜院・拓務省を廃止し、外務省 には「国際儀礼及び条約締結の形式的手続等」の みを残す、というのが大東亜省設置の骨格 であった。東郷外務大臣はこの考えに反対で あった。その考えは東条首相の考えと対立し、 東郷は東条から単独辞職を求められたが、 東郷はそれには応じなかった。東郷はその反対 意見の骨子と東条首相との意見の齟齬、辞職問 題に関して、『時代の一面』で次のように述べ ている。


 東亜の諸国は爾余の諸外国とはことなる取扱いを 与えられたりとて、日本に対し不信疑惑の念を生じ、 これら諸国の自尊心を傷けることになる。

 従来、興亜院の事務処理が支那人民の反感を招き、 失敗に帰せることは明かであるが、大東亜省案はこ の興亜組織を更に強化して、全東亜地域に、しかも 恒久的に実施せんとするもので、その失敗は事前に おいて予想せられる。

 予の主張に対し東条首相は、大東亜諸国は日本の 身内として他の諸外国と取扱いを異にするを要すと 論じ、鈴木貞一企画院総裁は、興亜院は失敗に非ず と反駁したが、予は興亜院の失敗は周知の事実なり と述べた。

 かくの如き戦争指導者を有し、かつ緒戦の成功を 宣伝するに急であって、戦力充実の施策に迂なる総 理を以ってしては戦争は不可能であると思ったから、 このさい東条内閣を退陣せしむるにみちびくことを 考えていた。

 ここで問題になっている興亜院は、1938年12月に日 本軍が「占領地」の行政を進めるための機関として設 置したものである。これについて『外務省の百年』 につぎのように記述がある。


 (興亜院は結局)中国における占領区域の拡大に 伴い、従来軍特務部が実施してきた政治、経済、文 化などに関する諸業務を所掌し、軍は軍本来の任務 に専念するために、事変中に暫定的対華中央機関と して設けられたものであったが、その後も実際には、 各地の特務機関が依然として従来の業務を行ない、 対華政策の重要な実質面はほとんどなお現地軍が管 掌し、興亜院の設置によって、中国における行政事 務はかえって複雑の度を増しただけであって、〝将 二現状ノ改悪″とみられたのみならず、中国側官民 にきわめて強い悪印象を与え、対華政策の遂行上少 からぬ障害となった。

 さて、東条は大東亜省設置の主旨を次のように述べてい る。

 既成観念の外交は対立せる国家を対象とするもの にして、きょうの事実は大東亜地域内には成立せず。 我国を指導者とする外政あるのみ。外務省の所管た る外交とは趣を異にするが故に、とくにこれを大東 亜省の処理に属せしめたるなり。大東亜圏内の諸国 に対する従来の方針を変更して新たなる出発をなさ んとするには非ず。事実に即したる機構を以てこれ にのぞまんとするなり。所管を外務省と大東亜省と に分つも、閣議において統一し、結局外交大権に帰 一する故、二元化にあらず。

 深井英五『枢密院重要議事覚書』で深井はこの 大東亜省設置の問題を「余の関与せる枢密院議事 中、政府との関係においてもっとも波瀾の激しか りしもの」と述懐して、この問題についての枢密 院での議論を書き留めている。

 石井菊次郎は、上の東条の主張に対して、 問題の核心は「大東亜圏内の諸 国をすべてデペンデンシー(属国)として取扱い たし」という政府の見解にあるとし、次のように 述べている。

 (反対の)理由を一言に括れば、本案は政府がこ れにより達成せんとする所期の目的に背馳すればな り。即ち政府はこれにより大東亜圏の建設に資せん とするも、余(石井)は其の結果の正反対なるべき ことを断言して憚らず。

 大東亜圏内の諸国を別扱いにすることは、これを 見下すものなりとの感を生じ、圏内の独立国及び独 立期待国を失望せしむ。

〔中略〕

 現に大東亜省設置案の世上に伝えらるるや、支那 及び泰の大使(支那大使徐良、泰国大使ナイ・ヂレ ック)は真先きに外務省に駆け付け、各々と自国の 日本に対する立場は如何になるやとの疑惧を抱きて、 真意のある所を質したりと云うにあらずや。

〔中略〕

 又本案の施行は敵国の謀略に利用せらるべきこと 必然なり。日本の道義外交はたんに口頭のみの言前 にして、実際は大東亜圏を自己の勢力下に圧服せん とするものなりとの非難は、すでに敵国側の宣伝 する所にして、本案はその証拠の一として援用せら るべし。

 次ぎに、本案は我が外交を二つに分界するものに して、これがために事務執行上多大の不便、不円満 を惹起すべきこと火を睹るよりも明かなり。

 深井は、問題の重点は中国にあるとして、次のよう に言っている。

 汪政権と日支基本条約を締結したるときには、共 同の理想、共存共栄、互助敦睦、支那民心の把握安 定、経済上生活上における支那民衆の福祉という類 の言辞がしばしば政府側においても使用され、民心 把握を支那問題処理の要訣とし、力による圧迫のみ を以て支那問題を解決しえずとする気分頗る濃厚に 看取すべきものありたり。

 然るに今回本案に関する政府の説明振を見れば、 この点は殆んど閑却され居るが如し。

〔中略〕

 而して本官制案による国内機構の改正は、支那等 をして戦争遂行のために我国に寄与せしむることに 重きを置くものの如し。

 このような議論に対すして東条は次のよ うに反論している。

 12月8日の大東亜戦争開始により確かに事情一変 せり。……支那等に対する我が関係は家長と 家族とのごとし。寄与とは協力を意味するものに して、不当にあらず。

 結局、大東亜省は「陛下も御裁下にさいし、対支 政策等に関する御注意があったのであるが、予定よ りも非常な遅延を見て11月になってようやく〔中略〕 発足するを見たのである」。

 なおこの時の東郷の単独辞職は、政変を恐れる天 皇の意志にもとづくものであり、いわば詰腹を切ら されたかっこうであった。

 以上の経緯を読むと、政府はアジア諸国を日本の 属国という地位に置くことを志向していたことが 分かる。もちろん、石油をはじめ各種資源の確保 が戦争遂行のための喫緊の要務であり、それを優 先しようという意図があった。

 それに対して東郷や枢密院の反対意見は、二重 組織の混乱による占領統治の失敗という興亜院の 二の舞や、「大東亜共栄圏建設」という大義名分 にもとることから生じる「東亜ノ諸盟邦」の離反 や国際社会からの非難を危惧していた。そして、 その危惧どおりの強い反発を引き起こした。

 汪政権下の人心は「本件を以て或は支那は植民地 扱とせらるるにあらずやと危惧し…‥・支那の前途 を悲観する向すくなからず」という状態で、重光大 使は種々これに弁明的説明を加えたが、それでも 「支那当局に於では表面は一応了解しおるもような るも、各方面の接触によりてえたる印象によれば、 一般になお相当危惧の念を抱きおるもの」のようで あった。況んや重慶側においては、邵毓麟情報司長 のごときは10月2日発表して「大東亜省は性質上大 東亜植民地省なること明白」なりといい、同8日の 重慶放送は「従来の我東北地区即ち満洲並びに陥落 地区において速成せられたる傀儡政府治下は、今後 正式に日本の植民地となり、日本政府直轄の統治区 域となれり」とした。(『外務省の百年』より)

 なおバチカンの極東通は、大東亜省設置が「日本 は大東亜共栄圏内独立国を〝ドミニオン″(自治領) の地位におかんとする」ものであるとした。 (『時代の一面』より)
「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(3)大東亜会議の虚実

他國主權ノ毀損ト領土ノ侵略トハ 固(もと)ヨリ 朕カ素志ニアラス

1943年
 2月1日 ダルカナル島撤退
 4月18日 連合艦隊司令長官・山本五十六戦死
 5月29日 アッツ島玉砕
 9月   イタリア、連合国に降伏

 枢軸国はイタリアが脱落し、ドイツ軍の敗退もこ の年から始まっている。日本の敗色もいよいよ濃い。 この状況のもとで、日本軍政はビルマ(8月)とフィリ ピン(10月)に独立をあたえる。そして、日本は11 月5、6日に「大東亜会議」なるものを東京で開催し た。招請されたのは中国、タイ、満洲国、フィリピ ン、ビルマであった。

 中国とはもちろん南京の汪精衛(=汪兆銘)傀儡 政府の方である。タイ国首相ピブンは病気を理由に 欠席している。また、当時在京中の「自由インド仮 政府」首班チャンドラ・ボースが陪席した。日本側 は東条英機首相が出席した。

 各国の国会議事堂における演説はいずれも真の独 立への期待と願望を強く訴えといる。また、会議は 「共存共栄」「独立親和」「文化昂揚」「経済繁栄」 「世界進運貢献」の五原則を採択したが、大東亜共 栄圏の実態はどうだったのだろうか。

 1943年2月1日の衆議院秘密会において佐藤賢了陸 軍少将は、南方の軍政状況を説明して次のように述 べている。

行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウ ガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ 於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノ デアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス

ビルマとフィリッピンの独立とは、独立といっても 日本軍の軍政下にあるのと変わらないという質のも のでであった。

 いまだ独立していないその他の地域の扱いはどう なっていたのか。大東亜会議の半年ほど前の 1943年5月31日の御前会議で次のように決定されて いた。(「大東亜政略指導大綱」)

其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム  但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ

(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネ オ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供 給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メ テ政治ニ参与セシム

(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理 ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム

(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス

 「其ノ他ノ占領地域」とは具体的には、現在の マレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる。 そこは日本の領土にするとしている。そして、 ニューギニアなどについては、日本の領土に する方向で「追テ定」めようと言う。しかもこのこ とは「当分発表セズ」、つまり秘密にしておこうと 言っている。なによりの重要なことは、 これは天皇 も承知していたということだ。これらのことは 「固ヨリ朕カ素志」であったのだ。

 以上のように、開戦時に設定した大義名分「大東 亜共栄圏の建設」は、東南アジア諸国を欧米の植民地 主義から解放し独立を与えようというものであったが、 実態は、石油などの重要資源や戦略的拠点の確保のため に占領地域を日本の領土にし、日本が欧米に代わって新 たな支配者になろうとしていたのだった。

 ところで、大東亜会議に招請された各国のその後は どうなったのか。

 まず、タイの大東亜会議不参加はタイ独自の絶妙 の外交戦術であった。米英との間に一定の和平路線 をも保っていたのだ。日本敗戦時の危機にも巧妙に 対応した。当時のアパイオン内閣は舞台裏で「日本 軍を一網打尽にする凄い筋書」を作っていたと言う。

 ビルマについてはビルマ大使だった石射猪太郎の 『外交官の一生』が日本が独立せしめた「独立」 ビルマの最期を伝えている。
 1945年3月のオン・サンの反乱、ラングーンの大 空襲、軍司令部の混乱、そしてバー・モウ総理らの ラングーン脱出で「独立」ビルマは崩壊した。
 ちなみに、ビルマ共和国が成立したのは1948年 1月のことだった。

 フィリピンは太平洋戦争での最後の戦場となった。 日本敗戦後、日本の傀儡政権(ラウレル)に代わり ロハスが大統領となって、1946年7月に二度目の 「独立」を獲得した。

 満州国は日本敗戦とともに崩壊、傀儡皇帝薄儀は 一市民にかえった。南京政府ももちろん消滅 (汪兆銘は1944年11月に死亡している)し、中国は 国共内戦の場となった。
第862回 2007/08/29(水)

「終戦の詔書」を読み解く

「詔書」第一案の分析(4)国民義勇隊

此ノ間欧州ニ於イテハ反テ戦火ノ終熄ヲ見 世界ノ 大勢ハ新ナル国際秩序ノ実現ヲ促スノ機運ヲ示セリ  是ノ秋ニ当リ尚交戦ヲ継続センカ

 1943年9月 イタリア降伏
 1945年5月 ドイツ無条件降伏

 ヨーロッパにおける同盟国ドイツの電撃的な進 撃が日本が開戦を決意する要因の一つであったと 同じように、同盟二国の敗北が日本に降伏を決意 させた要因の一つであったことは想像に難くない。

 同盟国の降伏の先に自国の敗北が否応なく見え る。また「世界ノ大勢」に乗り遅れることをおそ れる焦燥と不安は大きかったに違いない。しかし、 このイタリア・ドイツの敗北に関する文言は、 第三案以降さらに抽象的な表現に変わっていく。

敵国ノ人道ヲ無視セル爆撃ノ日ニ月ニ苛烈ヲ極メ  朕ガ赤子ノ犠牲愈々多ク

 「人道ヲ無視セル爆撃」という一般的な言い方で、 「原爆」のことを直接非難していない。これでは アメリカ軍の人道的犯罪は日本軍の「人道ヲ無視 セル爆撃」と同次元であり、目くそが鼻くそを非難 しているようなものだ。

交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕 カ陸海將兵ノ健闘 朕カ百僚有司ノ勵 朕カ一億 衆庶(しゅうしょ)ノ刻苦 ソノ極ニ達スルモ 未ダ 戦争ノ局ヲ結ブニ至ラス

 「交戰已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ」、 本土決戦が叫ばれるようになった。女性までもが動 員されて、アメリカ軍を迎え撃つべく竹槍の訓練が 行われたという話しを聞いたことがある。自爆攻撃 以上に愚かな政策だ。戦争遂行者たちはまともは判 断力を失っている。では支配者たちは実際に、 「朕カ一億衆庶」をどうしようとしていたのだろう か。 (以下、資料(3)による。)

1945年
 3月10日 東京大空襲
 3月12日 名古屋大空襲
 3月14日 大阪大空襲
 3月16日 神戸空襲
 3月25日 名古屋大空襲
 3月26日 小磯内閣、国民義勇隊の編成を閣議決定

 国民義勇隊の任務
① 防空、食糧増産、空襲被害の復旧、工場の疎開 工事
② 陸海軍の陣地構築などの補助
③ 消防などの補助に出動


 国民義勇隊編成の目的
「(隊員に)旺盛ナル皇国護持ノ精神ヲ振起セシム ルコト」
「真二戦列ニアル一員トシテ自覚ノ下二各其ノ職住 ヲ完全ニ遂行セシムルコト」
「戦局ノ推移二伴ヒ其ノ要請二従ヒ直チニ挺身難二 赴カシムルコト」

 私は2004年に成立した「国民保護法」を思い出し た。

 とまれ、国民義勇軍はこの段階では国民動員組織 であった。国民動員組織としては既に大政翼賛会、 翼賛壮年団、大日本青少年団、大日本婦人会などが あったが、それらは当初の国民組織としての性格を 失って、単なる精神運動の機関と化していて、本土 決戦を迎えて国民を総動員しようとしている支配層 にとっては無用の長物になっていた。国民義勇は それらを統合して国民動員の一本化隊を図るという 意味もあった。

 このように国民義勇隊は本土決戦のときの動員組 織を目指していたが、情勢の急迫によってはこれを 直接軍隊化することも想定していた。しかし、これ を戦闘組織にするためには法整備(合法化)が必要 だった。

 6月9日から開会された臨時国会(鈴木内閣)で
「義勇兵役法」
「国民義勇戦闘隊員に関する陸軍刑法、海軍刑法、 陸軍軍法会議および海軍軍法会議法に関する法律」
が提出可決され、6月22日公布された。

 義勇兵役法によると、年齢15歳から60歳に達する 男子、17歳から40年に達する年女子が義勇兵役に服 するものとている。つまり、ほとんどの国民を兵役 に服させる道を開いたことになる。この法律には特 に天皇の言葉が付されている。

「朕ハ曠古ノ難局二際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身 皇士ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ…」

 義勇兵役法をうけて6月23日軍令を以て国民義勇 戦闘隊統率令が制定された。これは各地方に連合義 勇戦闘隊、その下に義勇戦闘隊、義勇戦闘区隊、義 勇戦闘分隊を編成すること、その他鉄道局、軍需会 社などにも義勇戦闘隊を編成すること、編成の時期 や要領は軍管区司令官が定めることなどが規定され ていた。軍令を以て律することによって義勇戦闘隊 は完全に軍の統率下に組み入れられることになった。

 国民義勇隊の結成は、必ずしも政府や軍部の計画 どおりには順調にすすまなかったが、それでも 6月13日に大政翼賛会は正式に解散し、国民義勇隊は 最後のそして唯一の国民統合動員組織となった。

 国民義勇戦闘隊統率令には「国民義勇戦闘隊を 編成するにあたっては国民義勇隊の組織を以っ てこれに当てるのを本則とする」ことが明記され ていてたが、実際に戦闘隊が編成されたのは、鉄 道、船舶、船舶救難の三部門だけだった。しかも それは8月になってからであった。

 ただし直接戦場化が予想された島嶼では、島民 全てを戦闘隊に組織して軍の指揮下に入れていた。 伊豆諸島の場合は、飛行場のある新島、本土上陸 の足がかりになる大島に、陸軍の大兵力が配置さ れたが、その他の式根、神津、三宅、御蔵、利島 の各島は住民の義勇戦闘隊が防衛の兵力の主体と なっていた。

 なんのことはない。これは、サイパンや沖縄の 場合と同じように、住民を捨石にして本土(支配 層)の延命をはかろうということだ。国際陸戦法 規における非戦闘員保護の規定を、サイパンや沖 縄で既に反古にしてしまった日本は、国民義勇戦 闘隊の編成によってそれを完全に放棄してしまっ たことになる。