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「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

原爆投下正当化論(1)

 前々回の「今日の話題」で私は次のように書いた。

 広島・長崎への原爆投下が許されない「不正」であること を、まるで自明のように言い立てる言説が多く報道されてい るが、では、なぜそれが「不正」なのか、理論的に解明して いる言説はない。

 私は「原爆投下は許されざる不正である。」という命題を 「自明ではない」と主張しているわけではない。「原爆は 絶対悪だ」というようなことをただ言い立てているだけでは、 それは「自明のこと」と確信している者のうちだけにしか 流通しないだろうと言いたいのだ。言い換えると、 原爆投下を「しょうがない」と考えている人たちの思想と は切り結べない、ということだ。

 問題点がもう一つある。「原爆投下は絶対悪だ」と主張し ていても、「戦争そのもの」を「悪」とは考えないか、ある いは「悪」としても「必要悪」と考える人もいる。これらの 人たちは原爆(核兵器)を用いない戦争であれば、それこそ 「しょうがない」というのだろうか。

 今日は長崎で平和祈念式典がおこなわれた。そこで の平和宣言では「核兵器の廃絶と恒久平和」の祈念は 謳われているが、戦争そのものへの言及は一言もない。 また、外国人被爆者への言及もない。6日の広島の平和宣言も同様である。このことに問題を 感じるのは、私だけだろうか。 「大東亜戦争」では 約二千万人のアジア人が殺されている。いまなおな毎日 戦争の名の下で民衆への理不尽な殺戮がおこなわれている。 日本国内向けのメッセジーならいざしらず、これでは世 界に向けてのメッセジーとしては通用しまい。 (首相・狆ゾウの挨拶の 空々しさについては別に論じたい。)

 原爆の「悪」以前に、「戦争そのもの」の「悪」が問題とされる べきだろう。しかし今は「広島・長崎の原爆投下」の是非に 問題を絞っていきたい。つまり、私としては「戦争そのもの」 を否定する立場をとりたいのだが、今は戦争遂行中における 原爆の使用の是非を問うことになる。なぜなら、「しょう がない」と原爆投下を容認する考えは戦争状態を前提にした ときの判断なのだから。実際、主としてアメリカで流布され ている原爆投下正当論もそのような土俵で行われている。 彼らに「原爆は絶対悪だ」と主張しても無意味だろう。

 これから紹介するロールズの『ヒロシマ発言』と呼ばれて いる論文も「戦争状況においてどのよ うな行為が許されるか」という問題として論じている。 (川本隆史著『ロールズ 正義の原理』を教科書として使 用します。以下『ロールズ』と略記します。)

 ロールズが「ヒロシマ発言」を書くことにいたるきっか けはスミソニアン博物館(ワシントン)での原爆展をめぐる論争 だった。『ロールズ』から引用する。

 1994年から95年にかけて、首都ワシントンにあるスミソ ニアン博物館が企画した「戦後五十年記念展」をめぐる論 戦が、アメリカ国内で火花を散らした。当初は、ヒロシマ の原爆資料館から借り出した品々を軸に被爆の実態を反省 し、かつ二つの原爆投下が大戦後の東西冷戦にむかう分岐 点を画しているとの歴史観を明示したプランだった。

 ところがこの原案に保守派の政治家や在郷軍人の組織が 激しくかみついた。いまさら日本人に原爆投下を謝罪せよ というのか。真珠湾を抜き打ち攻撃した彼らの不正は、ど う始末するのか……。

 こうして、1945年8月6日と9日にヒロシマ、ナガサキの 市街地に原子爆弾を投下したことがはたして正しい選択だっ たのかどうかが、争点としてせり上がっていった。

 しかしながら論議の大勢は、投下が戦争終結の手段とし て有効だったかどうかに終始し、原爆の使用を倫理面から 反省する向きはほとんど見られなかった。そして展示計画 も大きく縮小され、ヒロシマに原爆を落とした爆撃機エノ ラ・ゲイ号の機体がなんとその中心に据えられたのである。

 ちなみに、時のスミソニアン館長は辞任に追い込まれている。

 スミソニアン博物館での原爆展をめぐる論争は、 もちろん、日本にも大きな波紋を呼び起こした。 日本国内でもあらためて原爆投下をめぐって加害・ 被害両方の面から検証が行われた。

 1995年8月5日、神戸YMCAが『ロールプレイ 「日米原爆論争」』という学習会を企画実施している。 「ロールプレイ」とあるが、現在一般に使われている 用語で言うと「ディベート」である。このディベートでの 「役割シート」は原爆論争の主な意見を集約したもの として参考になると思う。次のような立場の人たちが想定 されている。

アメリカ退役軍人
植民地の戦争被害者(韓国人)
真珠湾犠牲者の家族(アメリカ人)
戦後補償を問う活動家(日本人)
戦後生まれの高校生(アメリカ人)
被爆二世(後遺症)

 これらの人たちの意見を聞いてみよう。 それぞれの「役割シート」を転載する。

アメリカの退役軍人

ウイリアム・クリストファーソンさん 71歳・男性)

◆プロフィール

 私はアメリカ軍人として,先のアジア太平洋戦争で戦いました。真珠湾攻撃の半年後,高校卒業一ヶ月前に徴兵され,終戦までの約三年間にフィリピンのレイテ島で日本軍と戦いました。あの時の恐怖は今も脳裏に焼きついて離れることがありません。現在は全米退役軍人協会のユタ州支部長をしています。

 11年前に長崎の原爆資料館を訪れたんですが,原爆の被害を強調する展示ばかりで,さもアメリカが悪いといわんばかりで強い憤りを覚えたんです。それに加えて,周りにいた日本人の冷たい視線が追い討ちをかけるようでした。

 長崎市長は「原爆投下はナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)に匹敵する」と発言したそうですが,日本がアジアの国々の人たちや捕虜に対して犯した残虐行為は無視してよく平気で言えたもんですね。日本はアジア・太平洋の国々を侵略し,南京では大量虐殺を行っているんですよ。むしろその数の方が,原爆の犠牲者よりも多いのではないですか。

◆意見

     スミソニアン博物館での原爆展示には断固反対です。なぜなら歴史的な正確さを欠いた内容ですし,原爆による死傷者の数ばかりに固執し,そこに至った日本の責任には一切触れていないからです。そもそも戦争を始めたのは日本で,アメリカではないんですから。あの真珠湾攻撃さえなければ,我々は原爆を作ることもなかったのです。日本は真珠湾攻撃の謝罪すらしないのですから話になりません。

     戦争中,日本では最後の一人になるまで女も子どもも戦おうとしていたんですよ。戦争が続けばもっとたくさんの死者が出たはずです。博物館の館長は「原爆を投下せず,日本上陸作戦を行った場合のアメリカ兵の犠牲者の数は63,000人」と予想しましたが,私たちの分析では「少なくとも100万人以上」であり,あまりにも少なく思います。原爆投下により,日本での無益な地上戦(玉砕戦)が避けられ,多くの人命が救われたんですから。

     もし日本が戦争に勝っていたなら,われわれは今どうなっていたことでしょう。われわれは戦争に勝利した後も,敵国日本の再建に協力してきたおかげで,日本は世界有数の経済大国として繁栄しているんですよ。こんな国が他にあると思いますか?



韓国人女性

チョウ・スンヒさん (84歳・女性)

◆プロフィール

 1943年2月14日のことでした。当時私は釜山に住んでいたのですが,突然日本兵が土足で家に押し入り,14歳の娘を連れ去ろうとしたんです。気丈な娘が泣き叫んで抵抗したら,その場で日本刀で切りつけ惨殺してしまいました。また,その光景を見ていた結婚前の17歳の娘は,あまりのショックに精神的なダメージを受け,今も重い障害となって心を閉ざしたままです。

 あの時,四人の日本兵がやって来なければ,二人の娘たちはこんなことにはならなかったんです。さらに不幸なことに,一家を支えてくれていた主人は,徴用ということで強制的に日本に連行されたんです。たしか二・三度便りはあったんですが,今では生死も分からずじまいです。おそらく残酷な労役につかされ生きてはいないでしょうね。

◆意見

     私は日本が原爆を落とされたのは「天罰」だと思っています。たくさんある国の中で日本にだけ原爆が落とされたのは当然ですよ。あの日も,二人の娘を無理やり連れ去ろうとする日本兵に,代わりに私を連れていってくれと懇願しましたが,若い娘がいるんだからといって容赦してくれませんでした。獣の目をしたやつらは,泣き叫ぶ娘の衣服を剥ぎ取りむごい蛮行におよび,その上に命まで奪ったんですから。悪党は世の中にたくさんいますが,やつらは悪党よりひどい。悪党は人間ですが,やつらは人間じゃない。

     あの忌まわしい事件の後,娘と一緒に自殺しようと考えたこともありましたが,こうして生き延びたのは,日本に「天罰」が下るのを見届けるためだったんだと思うようになりました。今度の展示でも原爆の悲惨さを訴えようとしているそうですが,私にはその無神経さが理解できませんね。

     スミソニアンの原爆展示を支援する声が日本にはあるそうですが,その前にアジア・太平洋の人々にしてきたことを見つめ直してほしいものです。広島・長崎の原爆死傷者の約一割は同胞の韓国・朝鮮人で,ほとんどは連行され日本のために働いた人なのに,いまだに被爆者としての補償は不十分なんですから。



真珠湾犠牲者の家族

マイケル・モリスさん (68歳・男性)

◆プロフィール

 あれは私が14歳の時でした。それは平和に暮らしていた私たちにとって忘れられない事件です。128日の夜明けは真っ赤に燃える炎と爆音に包まれました。日本の海軍奇襲部隊が真珠湾を急襲したのです。宣戦布告もなく,寝静まったアメリカ軍を襲った卑劣な手段は許されません。

 私たち家族にとってもっとも大きな悲しみは,この急襲攻撃によって愛する兄テリーを亡くしたことです。兄は当時19歳でした。自ら海兵隊に志願し,戦艦アリゾナの水兵として乗艦中に被災しました。戦艦アリゾナは1000名を越える海兵隊員とともに海底に沈み,50年以上たった現在も,遺体は回収されぬまま戦艦の中に残され,海兵隊員の涙のように重油をポタポタと流しているのです。

 日本の卑劣な急襲攻撃,そしてアジア・太平洋の国々で行った野蛮な侵略行為は許せません。アメリカが原爆を投下して愚かな戦争を終わらせました。だから日本の原爆被害ばかりを強調する今回の展示には納得ができません。

◆意見

*            もし,原爆を投下しなければ愚かな戦争はもっと多くの戦死者を生んだのです。原爆で多くの犠牲者が出たといわれますが,アメリカは再三避難勧告を行い,非戦闘員への避難の時間を与えているのです(それを無視したのは日本の軍部です)。しかし,真珠湾は奇襲攻撃であり,逃げるどころか一方的な攻撃を受け,私の兄は戦艦とともに撃沈されたんですから。どちらが人道上正しいか,明らかだと思うんですが。

*            奇襲攻撃がなければ,私たちハワイの住民は平穏で平和な暮らしを続けることができたのです。一瞬にして私たちを戦争という野蛮な現実に引き入れ,また愛する家族を奪ったのはすべて日本の責任です。いまだに謝罪もなく戦争の被害ばかりを主張する日本が信じられません。たしかに原爆による被害があったにせよ,まず原爆の被害を訴えるなら加害者としての姿勢を正してほしいですね。

*            アメリカは愚かな戦争を終わらせるために,神の裁きとして原爆投下を決意しました。そこには加害者,被害者は関係ありません。戦争終結という双方の願いを実現したのです。戦争で人が死ぬのは仕方のないことです。それよりも終わらせたことを評価すべきじゃないでしょうか。



日本の戦後補償を問う市民の会メンバー

市村頼子さん (29歳・女性)

◆プロフィール

 私が日本の戦後補償に関心をもつようになったのは,二年前に韓国人の女性たちが自ら「従軍慰安婦」として勇気をもって名乗られてからです。それまでの私は,そういったことには全然興味もなく,ごく普通のOLだったんです。ところがテレビで彼女たちが泣きながら日本軍や当時の日本が犯した罪を訴える姿を見て,自分はなんて無知なんだろうと恥ずかしくなりました。そういうわけで私は「日本の戦後補償を問う市民の会」に入り活動するようになりました。

 二年前に細川元総理がこの戦争は侵略戦争であったことを認めましたが,政権が代わりその後の補償については何ら進展がありません。「従軍慰安婦」の問題にしても,長い間日本政府はその存在すら認めませんでしたが,諸外国の抗議によってようやく認めるようになったのです。強制連行,強制労働などの被害についての戦後補償に関しても国と国の間ではすでに解決したとのことで,人々には何も償われていないんです。

 アメリカの原爆投下の是非,そしてその責任を問うのならば,同様に日本の戦後補償についてもきっちりとその責任を果たすべきです。そのためにも,今回の展示はぜひ実施してもらい日本政府に訴えてほしいです。

◆意見

*            今回の日本の被害を強調する原爆展示が中止と聞いてびっくりしています。その後も博物館には,中止賛成の投書が殺到しているそうですが,それを聞いて原爆投下のよい面など考えたこともなかった私は,日米の戦争についての歴史観の違いを痛感しました。

*            アメリカ国民の多くはこの原爆投下が第二次世界大戦を終わらせたと思っていますし,日本に侵略・占領されたアジアの国々の人々は原爆投下が「アジアの解放」につながったと信じているんです。原爆投下による一般人の大量殺りくの非を問うなら,日本軍がアジア諸国で行った数々の大量虐殺や,現在求められている戦後補償も同じ視野に入れて考えないと理屈に合わないと思うんですが。

*            アメリカ国民の多くは「正義の戦い」と認識しているらしいですが,原爆投下に関しては加害者の視点が必要ですし,ある説では人体実験の要素もあったと聞いています。それを裏づける事実として,その後もアメリカは太平洋ミクロネシア諸島で数多くの原水爆実験を行っていて,被爆者に対する観察を続けているんです。



アメリカの高校生

キャサリン・オットーさん (16歳・女性)

◆プロフィール

 私の祖父は第二次世界大戦の退役軍人ですが,彼は,日本上陸後の戦争でさらに多くのアメリカ人が戦死するのを防いだということで,原爆投下は正しかったと経験上思っているんです。そして父は,ベトナム戦争の体験者です。ベトナム戦争でのアメリカの参戦は本当に正しかったのか,政府の対応はよかったのか,多くの死者を出しアメリカが負けたベトナム戦争に疑問をもっています。そんな父は,原爆投下についてもアメリカの決定は本当に正しかったのか疑問をもっているようです。

 そんな背景の祖父,父をもつ私は戦争についていろいろと考えさせられます。第二次世界大戦もベトナム戦争も知らない私たちの世代は,もっともっと体験者の話を事実を知るべきだと思うんです。今回の原爆展示も,何も知らない若者としてぜひ実現してほしいと思っています。

◆意見

*            祖父と父が以前戦争のことで真剣に議論したことがありました。祖父はアメリカ政府はいつも国民を第一に考えて,戦争を早く終わらせてアメリカ軍の犠牲者を少なくするために原爆投下を決断したと主張し,父はベトナム戦争で若い命がたくさん失われた事実から,アメリカ政府の決定はいつも正しいとは限らないし,原爆投下についても,アメリカ人にはその悲惨な状況が正しく伝わっていないのでは,と言うんです。

*            私は原爆のことは教科書で読んだ程度でしか知りません。学校でもこの部分の授業は一時間ぐらいでさっとするだけでしたから,多くの若者は原爆といっても何のことかよく分かっていないと思います。同じようにベトナム戦争のこともよく知らないのです。だからこそ今回の原爆展示はぜひ実施してほしいです。事実を知るべきじゃないでしょうか。

*            実際私の友だちには,いまさら原爆なんてどうでもいいわという人が多いですが,だからこそ今回の展示は意味があると思います。展示を見て若者が原爆とか戦争とかについて考えるきっかけになると思うし,原爆の被害をもっとアメリカ人が知ったなら,核問題についても,また違った考えをもつことができると思うんです。



被爆二世

吉川京子さん (42歳・女性)

◆プロフィール

 私の父は,呉海軍工廠に学徒動員で働いている時に広島の原爆を知り,翌日から広島市内の家族の安否を確かめるため出かけ,二次放射能で被爆しました。

 私は友人の中では明るくて活発な方で,高校では生徒会活動に没頭し,文化祭では生徒会主催の原爆展を実施し,被爆者の実態調査を家族や本人が原爆症で苦しんでいる同級生たちの協力をえて行いました。高校3年生の夏休みのことでした。私は突然のめまいに襲われ倒れてしまったんです。検査の結果白血病と分かりました。でも私は絶対に治ると信じて弱音を吐かずに治療を続けました。友人の励ましもあり,数年の入院の後,友人が大学を卒業するころ退院しました。その後は,三年に一度の割合で入退院を繰り返して現在に至っています。

◆意見

*            スミソニアン博物館では,被爆者の遺品・写真・証言は必ず展示してほしいです。その時は,私自身も展示してもらい,生きた証言者として来館する人々に原爆の恐ろしさを語り伝えたいです。原爆症で苦しみ続けた父のこと,被爆二世の私の歩みを聞いてもらいたいです。

*            高校3年生の夏,私の中に原爆が落とされました。充実した楽しい学校生活の上に突然原爆の黒い雨が降り注ぎました。この雨は私の体にしみ込み,自分の子や孫までも苦しめるのです。今も毎日大勢の修学旅行生や観光客が原爆平和公園を訪れます。しかし,被爆した人々の苦しみを本当に理解して帰るのでしょうか。

*            原爆は人間が作ったものなので,原爆症は治せないはずはないと思います。父の後遺症とともに育った私はできるなら医者になりたいと思っています。この原爆症のせいで,現在まで定職につくこともできず,結婚も三度破談になりました。原爆は人の命を奪い身体をむしばみます。そして,原爆症は人の人生を朽ちさせるのです。

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『「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。』

原爆投下正当化論(2)

 ロールズの「正義論」は自らが規定しているよう に「理想状態を想定し、そこだけに当てはまる理論」 である。その理論を現実の政治へ適用したのが「ヒ ロシマ発言」(1995年)であり、そこではアメリカ の戦争責任を問いただそうとしている。この場合も 「理想状態を想定」して議論を進めている。

 本題に入る前に「理想論」についてひとこと言っ ておきたい。「そんなの、しょせん理想論に過ぎな いさ。」という評言をよく耳にする。理想論は果た して「しょせん理想論」だろうか。

『花田清輝よ。この長い歴史のなかには、組織のな かで凄んでみせる革命家もいるが、また、組織のそ とでのんべんだらりとしている革命家もいるのだ。 何処に? 日向ぼっこをしている樽のなかに。蛛蜘 の巣のかかった何処か忘れられた部屋の隅に。そん なものは革命家ではない、と君はいうだろう。まさ しく、現在はそうでないらしい。だが、それをきめ るのは未来だ。ひとりの人物が革命家であるかない かの判定は、彼が組織の登録票をもってるか否かで なく、人類の頭蓋のなかで石のように硬化してしま った或る思考法を根こそぎ顛覆してしまう思考法を 打ちだしたか否かにかかっている。』 (埴谷雄高『永久革命者の悲哀』より)

 上の文章は自称革命家・花田清輝に向かって発言 されたものだが、もちろん、普遍性を持つ見解だ。

 実際の政治運動や社会運動に全力で携わっている と自負している者には、往々にして、理論家(理想 家あるいは夢想家と言ってもよい)を見下す言説が みられる。しかし、「人類の頭蓋のなかで石のよう に硬化してしまった或る思考法を根こそぎ顛覆して しまう思考法を打ちだ」すような思想こそ、世界を 根底から変革する力を秘めている。実践家が世界を 変えるのではなく、硬化してしまった思考法を根こ そぎ顛覆してしまうような新しい思想が、新しい革 新的な実践家を生む。

 原爆論争に対するロールズの思考実験が硬化して しまった原爆論争を根こそぎ顛覆するほどの力を秘 めているか否かは、私ごときのよく論ずるところで はない。ただ、そこからなにかを学び取ろうとする ばかりである。

 さて、ロールズはアメリカにおける原爆投下正当 論を大きく四つのタイプに分けて整理している。

(1)
 なによりもまず、戦争の終結を早めるために原爆 が落とされた。
 トルーマンおよび連合国リーダーの大半は、明ら かにそう考えていた。

(2)
 原爆が多くの生命を救った。
 ここでいう生命とは、アメリカ軍兵士のそれであ る。戦闘員であれ民間人であれ日本人の人命は、お そらく米兵に比べるとほとんどとるにたらないもの とみなされていた。

 (1)と(2)の推定(計算)が、お互いに支えあって 投下を功利主義的に正当化している。

(3)
 「日本本土の迅速かつ完全なる壊滅」を警告した ポツダム宣言どおりに原爆が投下されたことで、天 皇と日本の指導者たちは面目を保ちながら「無条件 降伏」を受諾するための退路を手に入れることがで きた。

(4)
 ロシア人たちにアメリカの国力を印象づけ、アメ リカ側の要求に応じやすくするために、原爆を落と したのだ。

 以上がロールズが抽出したアメリカ内で流布され ているアメリカ側からの正当化論だが、最近の論調 から2点追加しておきたい。

 久間「しょうがない」発言に前後してアメリカの ジョセフ核拡散担当大使が「(原爆投下は)何百万 もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかっ た戦争を終わらせた」と発言した。上記の(2)の計 算内に、ありがたくも日本人の生命も付け加えてく れた、というわけだ。

 久間「しょうがない」発言には、公式に発言され たことはないが、はからずも日本の支配階層の中で 共通認識になっていると思われる正当化論の一つが 内包されている。久間の発言には次のようなくだり がある。

『米国はソ連が参戦してほしくなかった。日本の戦 争に勝つのは分かった。日本がしぶといとソ連が出 てくる可能性がある。ソ連が参戦したら、ドイツを 占領してベルリンで割ったみたいになりかねないと いうようなことから、(米国は)日本が負けると分 かっていながら敢えて原子爆弾を広島と長崎に落と した。長崎に落とすことによって、本当だったら日 本もただちに降参するだろうと、そうしたらソ連の 参戦を止めることが出来るというふうにやったんだ が、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日に ソ連が満州国に侵略を始める。幸いに北海道は占領 されずに済んだが、間違うと北海道はソ連に取られ てしまう。』

 日本を共産化から救ったという論法である。 「支配者の心性」 で取り上げたように、敗戦間近になると日本の支配 階層の中では国民への猜疑心が高じて、「資本家と 貴族を除いたほかは、活発な人々は誰もかれもがぜ んぶ共産主義者」と思い込むほどに、共産主義を、 それこそマンガ的に、恐れていた。

 ところで、「しょうがない」発言は久間が初めて ではなかった。それはヒロヒト(昭和天皇)をもっ て嚆矢とすることを、久間発言の全文を検索してい て偶然ヒットした天皇教信者たちの掲示板で教えら れた。

 ヒロヒトが1975年にアメリカ訪問から帰国したと きの記者会見で自らの戦争責任を問われたとき、ヒ ロヒトは「そういう言葉のアヤについて、文学方面 はあまり研究していないのでお答えできかねます。」 と答えて大方の失笑と大きな怒りをかった。この発言 を題材にした茨木のり子さんの詩を 「詩をどうぞ(2)」 で紹介した。

 この同じ記者会見でアメリカの原爆投下について ヒロヒトは次のように答えている。

『エー、原子爆弾が、エー、投下されたことに対し ては、エー、エー、遺憾には思ってますが、エー、 こういう戦争中であることですから、どうも、 エー、広島市、市民に対しては気の毒であるが、 やむをえないことであると私は思ってます。』

 「言葉のアヤ」発言は多くの人が取り上げて論 じていたので私の記憶にも残った。しかし上記の 「やむをえない」発言は当時はあまり問題にされ なかったのだろうか。私の記憶には全く残ってい なかった。

 上記の発言記録は、ビデオ記録の音声を「エー」 まで丁寧に採録したものである。そして、この発言 に対して、信者同士でいろいろと擁護論をやり取り している。その中の主導的な役割をしている意見を 転載しておく。擁護論を展開するためには、 「エー」まで拾っておく必要があるのだった。

 記者はどういうつもりで何と聞いたのか知りませ んが、陛下を窮地に立たせる質問でしたね。まさか 「アメリカの原爆投下については国際法上許されな い残虐行為だと思います。」とは答えられません。

 ピデオを見ても緊張して、エーを連発して答えて おられますね。「戦争中であることですから、…や むをえないことであると私は思ってます。」原爆を おとした事がアメリカの視点からやむをえない、正 当化出来るというのではなく「戦争中であること」 つまり戦争中には仮に良い人であっても敵に残虐行 為をするのは残念ながらよくあることなので(とア メリカの責任をぼかして)「やむをえないことであ る」とある意味「あいまいな日本語」を駆使して見 事にかわされたように思います。

 いずれにせよ、その時、その場、そのお言葉の重 みを十分に認識されて、ノーコメントすら日米親善 を害すると知り、苦しい答えをされた昭和天皇と、 言いたいことをその影響も考えずに放言する口の軽 い大臣達と同列にあつかって比較できるものではな いと思います。


 「国体護持」のために、言い換えれば日本の 支配階層の自己保身のためにポツダム宣言受託を 引き伸ばしていたことが原爆投下を誘引したこ とには知らん振りして、よく言うね。

 「戦争中には…敵に残虐行為をするのは残念な がらよくあること」とヒロヒトの軍隊の残虐行為 を免罪しておいて、敵の原爆投下という残虐行為 を論難できるはずがなかろう。こういうのを「贔 屓の引き倒し」と言うのだろう。

 このヒロヒトの「やむをえない」発言と「言 葉のアヤ」発言とは相乗されてその欺瞞ぶりは いよいよ大きい。侵略戦争を遂行した日本帝国 軍隊の総帥(大元帥)として、実に国民をバカ にした無責任は発言だ。その重さは、62年後の 一介の大臣・久間の発言の比ではない。

 私の記憶には残っていなかった問題発言、実に 貴重なこの事実を掘り起こしてくれてありがとう、 と天皇教信者さんにお礼を言っておこう。

「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

国際関係における「正義論」

 前回、理想論の意義について付言したが、『ロ ールズ』の著者の川本隆史さんが同じ主旨のことを フーコーの言葉を引用して述べている。フーコーは

『自明なこと、公準と思われていることを再度問 いなおし、さまざまな慣習、思考や行動の様式に 揺さぶりをかけ、一般に通用している馴々しさを 一掃し、もろもろの規則や制度をもう一度測定し なおす』作業

を「再問題化」の作業と呼んでいる。

 ロールズの「正義論」は土俵を「他のもろもろ の社会から孤立している、閉鎖的システム」に限 って展開されている。「閉鎖的システム」とは 言い換えると、小さくは家族からはじまって学校 ・会社・各種組合・団体・国に至るまでのあらゆ る「共同体」、およそ人が協働共生すべく寄り集 うあらゆる集団を意味する。

(私は「国」と「国家」を区別して使っている。 「国」とは「国家」形成の基盤としての<協同社 会性の最大かつ最高の範囲>としての<共同体> のことである。)

 この「正義論」の土俵(適用範囲)を国際関係 にまで拡大しようとする試みが、これから紹介す るロールズの論考である。まさに、フーコーの言 葉を借りれば、「国際関係を支配する公準・通念 を揺さぶる」「再問題化」の作業と言ってよいだ ろう。

(「正義論」については 『「アイデンティティ」について』 を参照してください。)

 「国」と「国家」との区別にも関わることだが、 ちょっとこだわりたい用語がある。今回の小表題は 『諸民衆の法』だが、ロールズは始めの頃はこれを 「諸国民の法」と呼んでいた。前者は「the law of people」であり、後者は「the law of nation」で ある。たぶんロールズは、私の「国」と「国家」へ のこだわりと同じこだわりを持ったのだと思う。 訳者はその違いを「民衆」と「国民」というように 訳し分けている。私としては有名なリンカーンの 名言「government of the people, by the people, for the people」の訳「人民の人民による人民のた めの政治」にならって、「people」は「人民」が適 切だと思っている。ロールズは単なる生活者では なく社会問題や政治問題に主体的にコミットする 「people」を想定している。「民衆」ではそうした ニュアンスがそがれると、私には思われる。だが、 ここでは訳者に従って「民衆」のままで続けるこ とにする。また、個々の民衆ではなく、共同体を 構成する「集合」としての民衆を意味する場合は 「」付で書き表すことにする。

 ちょっと横道に逸れるが、ここで思い出したことが ある。沈タロウは「人民」という言葉を蛇蝎の如くに 嫌っている。「人民服」とか「人民公社」とか、中 国で多用されいるのがその理由のようだ。「人民と は共産主義国家の共産主義に染まった国民」と勝手 に解しているようだ。イデオロギーにがんじがらめ になっている狭量で哀れな男だ。文学者が聞いて 呆れる。

 本題に戻る。

 これからの議論では〈原初状態〉という概念がキ ーワードのひとつとなっている。 『「アイデンティティ」について』 から、その定義の部分を、土俵を国際社会に拡大し た場合のことに書き換えて転載しておく。

〈原初状態〉

公理1:「無知のヴェール」
 どの「民衆」も国際社会のうちで自分がどの位 置にあるかを知らない。政治的体制・国際社会での 地位役割・経済的力量・文化的知的力量・軍事力 などの諸力が生来どのように与えられているのか まったく知らない。

 さらにどの「民衆」も自分がいだいている善の 概念や自分に固有な精神的傾向がなんであるかも 知らない。

 つまり、これまでの歴史的経過や自然的環境の 偶然性などの結果によって、どの「民衆」も有利 になったり不利になったりすることはない、とい うことである。

 「原初状態」における「民衆」について、もう 一つの条件が加えられている。

公理2
 どの「民衆」も国際社会の一般的事実や差別 の存在についてはすべて知っていて、しかも、他 の「民衆」の利害に無関心であり、自分の有利な 条件を追求している。

 国際社会に拡大された土俵においては、 〈原初状態〉のもとで「公正としての正義」を討議 ・採択する主体は、諸「民衆」の代表者(想定上の) たちである。それぞれの「民衆」の所属する共同体 (社会)の政治体制については、必ずしもリベラル な政体とは想定されていない。多様な政体があり得 るという条件のもとで討議される。そして、どの 「民衆」も〈原初状態〉で討議に参加しているという 点が肝要である。

 諸「民衆」による〈原初状態〉での討議よって採 択されるであろう合意点を七点、ロールズは導出し ている。それは自由で民主的な「民衆」の間で妥当 なものとして合意される「正義の原理」であり、 これをロールズは〈諸民衆の法〉と呼んでいる。 (以下、私なりの 理解を加えて、分かりやすく書き換えている部分が ある。原文に当たっているわけではないので、もし 誤りがあれば、責は私にある。)

(一)
 どの「民衆」も自由であり、かつ独立した存在で ある。その自由と独立は他の「民衆」の尊重を受け る権利がある。

(二)
 諸「民衆」は平等であって、自分たちの合意を 取り決める当事者である。

(三)
 諸「民衆」は自衛の権利を保有する。しかし、 戦争(先制攻撃)の権利はいっさいもっていない。

(四)
 どの「民衆」も他の「民衆」の社会に介入しな い義務を遵守しなければならない。

(五)
 諸「民衆」は条約および約定を遵守しなければ ならない。

(六)
 諸「民衆」は、自衛のためにやむなく始めたも のであろうと、戦争遂行に課せられた一定の諸制 約を遵守しなければならない。

(七)
 諸「民衆」は人権を最大限に尊びその要求に応 じなければならない。


 この〈諸民衆の法〉においては(七)の 「人権」の保障が全体を貫く最重要理念である。 ここで「人権」は次の三つ事項の大事な指標と しての役目を担っている。


 「人権」は、「ある政治体制が正統でありその 法秩序がまともである」と評価されるための必要 条件である。


 「人権」は、他の「民衆」から加えられる 正当かつ強制的な介入(経済的制裁や軍事介入) であってもそれを排除しうるための十分条件である。


 諸「民衆」の多元的共存状態はただ無条件に 放置されるのでなく、「人権」の観点からは一定 の制限を賦課できる。


 以上は、1993年に行われたアムネスティイン ターナショナルでの講演「諸民衆の法」の川本さん による要約である。この項を川本さんは次のように 結んでいる。

 結語では、リベラルな理念から引き出された 〈諸民衆の法〉が、エスノセントリズム(自文化 中心主義)を免れているのか、たんに西洋的な価 値観の押し売りにすぎないものではないのかとい った自省的な問いが取り上げられる。「この法は エスノセントリズムではない。そこに西洋中心の 偏向があるとは必ずしも言いきれない」というの が(おおかたの予想どおり?)ロールズの回答で ある。この〈諸民衆の法〉こそまさに「穏当な多 元主義」を背景に鍛え上げられてきた政治的リベ ラリズム(リベラルな正義の政治的構想)の所産 であるからなのだ。

 ロールズの国際関係の理解から、非現実的な楽 観論や度しがたい西洋中心主義を摘発することは たやすい。だが、この〈諸民衆の法〉は『正義論』 で名を成した著者が老いの手慰み、あるいは思い つきとしてしゃべった机上の空論ではない。この ことだけは注意しておきたい。なぜなら彼はこの 〈諸民衆の法〉を活用して、半世紀前のアメリカ の戦争責任を問いただそうとしているからだ。そ れが(何度か予告してきた)ロールズの「ヒロシ マ発言」にほかならない。

 私はここで「穏当な多元主義」という理念に 注目したい。国家により権力的に全てを一色に染 め上げた国を「美しい国」と詐称する狆ゾウや 沈タロウのイデオロギー、あるいはアメリカの価 値観・都合を他国に武力で押し付けようと殺戮を 平気でおこなうブッシュのイデオロギーの対極に ある理念だ。

 古田さんの古代史が豊穣なのは、その「多元的 歴史観」による。

 いま佐藤優さんが面白い(肯定する部分も 肯定できない部分も含めて)。私が面白いと思 う理由は、佐藤さんが右翼を自称しているにも かかわらず、その論考に底流している「多元 主義的な寛容さ」とラジカル(根源的)な思考 姿勢にある。その2点が堅持される言論の場は、 右翼とか左翼とかのレッテルが無意味になる地 平である。佐藤さんの論考をいずれ取り上げた いと思っている。
第848回 2007/08/13(月)

「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

正しい戦争のルール

 ロールズの著書『公正としての正義 再説』を拾 い読みしていたら、ロールズ自身が「理想論」の意 義について述べている文章と、国際問題において 「穏当な多元主義」という立場をとる理由を述べて いる文章に出合った。前回の補足という意味でそれ を紹介しておこう。(原文が悪いのか訳が悪いの か、分かりにくい部分があるので、ちょっと意訳? しちゃいます。)

「理想論」の意義

 ロールズは、理想論に焦点を合わせる理由を次の ように述べている。

 民主主義思想内における現在の対立のほとんどは、 民主的社会に最適の正義構想はどのようなものかに ついての対立である。われわれの目的はその対立に 解決を与えることである。すなわち、次のような問 が政治哲学の根本的な問題となる。

 自由にして平等であり、合理的で道理にも適って おり、さらに十分に協働的な普通の社会構成員の間 で最も受け容れられやすい正義の政治的構想はどの ようなものか。

 この問いが根本的であるのは、それが、君主制や 貴族制に対するリベラリズムの批判、あるいはリベ ラルな立憲民主制に対する社会主義の批判の焦点だ ったからである。さらにそれはまた、私有財産の要 求や、いわゆる福祉国家と結びついた社会政策の正 統性(実効性ではない)をめぐるリベラリズムと保 守的見解との現在の対立の焦点でもある。

 「民主的で秩序だった社会」という理想論は、現存する 不正義をどのように扱うべきかという難しい現実的 な問題について考える場合にも、何らかの指針を提 供するだろう。それはまた、改革の目標を明確にし、 どの悪がより許し難く、それ故矯正が急がれるもの であるかを識別する手助けとなるべきである。

「穏当な多元主義」

 ロールズは、「、世界政府は、グローバルな抑圧 的専制か、あるいはそれぞれ異なる地域や文化がそ の政治的自律を獲得しようとして頻発する内乱によ って引き裂かれるもろい帝国のいずれかにならざる を得ない。」というカントの見解(『永遠平和のために』) に賛意を表して次のように言う。

正義に適った世界秩序とは、それぞれの「民衆」が、 必ずしも民主的でなくとも、諸々の基本的人権を 完全に尊重する(国内)政治体制を保持している、 そのような諸「民衆」からなる国際社会とみるの が最もよいであろう。

 ここで、同じくカントから示唆を受けて「世界共 和国」を構想した柄谷さんの理論を思い出した。 柄谷さんの結論は次のようだった。

『では、どのように国家に対抗すればよいので しょうか。その内部から否定していくだけでは、 国家を揚棄することはできない。国家は他の国家 に対して存在するからです。われわれに可能なの は、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡す るように働きかけ、それによって国際連合を強化・ 再編成するということです。たとえば、日本の憲 法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国 際連合に譲渡するものです。各国でこのように主 権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方 法はありません。』

『「世界共和国へ」を読む』 を参照してください。)

 柄谷さんの理論は、「外的国家(共同体-即-国家) の棄揚は不可能」ということが前提になっている。 「主権の譲渡」によって「外的国家」の軋轢抗争に 歯止めをかけようと言っている。

 これに対して、ロールズの「民主的社会に最適 の正義構想」は必ずしも「主権の譲渡」を想定し ていない。「内的国家(共同体-内-国家)の真に 民主的な変革によって外的国家は棄揚される」とい うことが、前提になっている。したがって、「主権 の譲渡」に代わる具体的な構想として〈諸民衆の 法〉が提出されることになる。「正義の原理」が 貫徹されている理想の民主的「民衆」(共同体) が形成する民主的な国家は相互に戦争を起こさない 。しかし、民主的に未成熟の国家との止むを得ない 自衛戦争は想定されている。〈諸民衆の法〉の (三)である。

(三)
 諸「民衆」は自衛の権利を保有する。しかし、 戦争(先制攻撃)の権利はいっさいもっていない。


 自衛のための戦争であっても〈諸民衆の法〉 の(六)が適用される。

 諸「民衆」は、自衛のためにやむなく始めたも のであろうと、戦争遂行に課せられた一定の諸制 約を遵守しなければならない。

 「戦争遂行に課せられた一定の諸制約」が、 「正しい戦争のルール」という言い方で、論文 『ヒロシマ発言』(1995年)で提出されている。 まず『ヒロシマ発言』のモチーフを確認しよう。 ロールズは冒頭で次のように述べている。

 ヒロシマへの原爆投下から50年めのこの年こそ、 この攻撃について何を思い巡らすべきかを反省する のにふさわしい時なのである。……私の見解では、 1945年春から始まった日本各地への無差別爆撃と 8月6日のヒロシマ原爆投下とは、ともにきわめて 大きな過ちであって、不正行為と して受けとめてしかるべきである。この私の意見を 裏づけるために、民主的な〔制度と精神を兼備した〕 民衆の戦争遂行を律する 諸原理 - [武力行使の制限・禁止を定める「戦 争に対する法」と違って、いったん始まった武力 紛争においてどのような行動が許されるかを定め る〕戦争における法=武力紛争法 - に関する 私見を、順序立てて説明しよう。

 そしてロールズは、次のような六つの「正しい 戦争のルール」を掲げている。戦争は絶対悪であり、 「正しい戦争」などはないというのが私の立場だ。 理想論として、それはロールズの立場でもあると 私は確信している。原文は「a just war」である。 ここで使われている「just」を、私は「もっとも な(やむをえない)」という意にとりたい。

1【正しい戦争の目標】
 まともな民主社会が当事者となる正しい戦争 の目標は、諸「民衆」の間 - とりわけ目下の 敵との間 - に成立すべき正しくかつ永続的な 平和である。

2【敵国の政情】
 まともな民主社会の戦争相手国は、民主的では ない国家である。このことは、民主的な「民衆」 は相互に戦争を起こさないという事実から帰結す る。

3【戦争責任の軽重を判別する原理】
 戦争を遂行するうえで、民主社会は三つの集団

 ①相手国の指導者と要職者
 ②兵士たち
 ③非戦闘員である住民

を注意深く区別しなければならない。
 こう区別する理由は、〈責任の原理〉に基づい ている。すなわち、交戦国が民主的でない国家で あるため、その社会の非戦闘員・民間人は戦争を 組織し引き起こした張本人ではありえない。戦争 を起こした責任を負うのは、相手国の指導者・要 職者たちであって、彼らは戦争犯罪人と認定され る。民間人には戦争責任は問えない。上級将校を 除外しておくなら、兵士たちも ー 民間人と同 様に - 戦争責任を問われることはない。

4【人権の尊重】
 まともな民主社会は、相手国の非戦闘員、兵士 双方の人権を尊重しなければならない。これには 二つの理由がある。

 まさしく〈諸民衆の法〉に基づいてこそ、民間人 ・兵士ともそうした人権を有しているから、という のが第一の理由。
 第二の理由は、こうした戦時においても人権が 効力を有するという実例をみずから率先垂範する ことによって、敵国の兵士および非戦闘員に人権 の内実を教えるべきだということ。
 そうすることで、彼らは人権の意義を心底から悟 ることになるだろう。

5【戦争目標の公示】
 人権の中身を教えるという4の思想の延長として、 五番めの原理が成立する。それはこうだ

 軍事行動と〔交戦国や国際社会に対する〕声明 ・布告との両面において正義を自負できる「民衆」 は、自分たちが目標とする平和がどのようなもの であるか、自分たちが求める国際関係はどのよう なものなのかについて、戦争中において予め示す べきである。この二点を予示することにより、民 主的な「民衆」は自分たちの戦争目標の性質を示 し、自分たちがどのような「民衆」であるのかに ついても公然かつ公共的な仕方でもって提示する。

 ここまでの五原理はすべて政治家たる者の義務 をも指定・詳述してくれるものではあるが、政治 家の義務はとりわけ4と5の原理に該当する。戦争が どのように遂行されるかということや戦争を終結 させた行動は、民衆の歴史的記憶のなかにしっかり と刻みつけられ、将来の戦争のお膳立てをする場合 もある。したがって、民衆の記憶が再び戦火を交え る口実として動員されないためにも、4および5に 関する政治家としての義務は、つねに念頭におかれ なければならない。

6【目的と手段の選択】
 最後に、実践的な目的=手段の推論が果たすべき 役目についてとくに言及しておこう。戦争目標を 達成するための(あるいは利益以上の害悪をもた らさないための)軍事行動や政策が適切かどうか を判定するのが、そうした実践的推論なのである。 こうした思考様式は - (古典的)功利主義の 論証、費用・便益分析、国益の考量、その他どん なやり方で進められるにせよ ー つねに上述し た五原理の枠内で構成され、それらの原理によっ て厳格に限定されたものでなければならない。 戦争遂行の諸規範が、個々の正当な軍事行動を一定 の限度内にとどめるための境界線を引く。戦争計 画や戦略、そして個別の戦闘行為はそうした限界 の内部に収まるものでなければならない。

 ロールズは前々回で取り上げた四つのタイプの 原爆投下正当論を、6でいう「実践的な目的=手段 の推論」を悪用したものと論難している。
第849回 2007/08/14(火)

「原爆投下」はなぜ「不正」なのか。

戦争を免罪化するニヒリズム

 「正しい戦争のルール」(戦争遂行を律する諸 原理)の提示に続けて、ロールズはその原理を実 施すべき政治家の資質とその実際を実例に即して 問うている。

 ロールズは、第二次大戦の初期のイギリスの場合 については、「極限的な危機」という免責事由が妥当する としている。したがってイギリスによるハンブルク、 ベルリン市街地への爆撃を例外的に許容されるもの との推測を下している。

 しかし、日本との戦争のどの時期においても アメリカ側にそのような免責事由は存在しなかった と断じている。つまり、日米の太平洋戦争において は、前掲の〈戦争遂行を律する諸原理〉が常時あ てはまっていたとしている。その観点からは、 当然、広島・長崎への原爆投下も東京やその他の都 市へ無差別爆撃も「不正」なものと判断せざるを 得ないとしている。

 実際に広島の事例では、アメリカ政府上層部の 多くは、同市を爆撃することの効果が疑わしいこ とに気づいており、許容される限度を越えた攻撃 となりうることを認めていた。だが、1945年6月 から7月にかけておこなわれた連合国指導者どうし の話しあいの過程では、「ルール6」の「実践的な 目的=手段」ばかりが論じられて、「ルール1」 ~「ルール5」の原理に対する重要な議論が封殺さ れていた。

 ロールズによれば、例の四つの「原爆投下の正 当化論」は「実践的な目的=手段の推論」を悪用 したものであり、どれも戦争遂行のルールをま ともに受けとめていないのは明白 であり、その妥当性ははなはだ疑わしい、 と断じている。以下、川本さんのまとめの文を そのまま引用する。

 以上の分析に基づいてロールズは、次のような 結論を導き出した。すなわち、ヒロシマへの原爆も 日本の各都市への焼夷弾攻撃もすさまじい道徳的な 悪行(great evils)であって、そうした悪を避ける ことが政治家たる者の義務として求められていたし、 しかもそれは、ほとんど犠牲を払わなくとも回避可 能な悪だった、と。

 論文の結びに近づいて彼はやっと、スミソニアン 原爆展示論争に関与する。〈ヒロシマへの原爆投下 を問いただすことは、太平洋戦争を闘ったアメリ カの軍隊を侮辱することに等しい〉という恫喝が、 退役軍人などから出されている。そうした無反省 な多数意見に抗しながら、ロールズはきっぱりと こう言い放つ。

 あの戦いから50年たった今こそなしうべきこと は、私たちの落ち度を振り返りよくよく考えな おす作業なのである。ドイツ人も日本人もそうし た取り組み - 戦後ドイツのスローガンを借り ると「過去の克服」 - をおこなうことを私た ちは当然期待してよい。だったらどうして、私た ちもこの作業に取りかかるべきではないなどと言 えるのだろうか。道徳上の過失なしに自分たちが 戦争を始めたなどと考えることがそもそもあって はならないのだ!

 ロールズは自国アメリカの戦争遂行における 「不正」に真正面から向き合うことをアメリカの 「庶民」に説くとともに、ドイツや日本の「庶民」 も「過去の克服」に取り組むことを期待している。 よく言われるように、ドイツの取り組みは国際的に 評価されているにもかかわらず、日本の取り組みは あまりにもオソマツであり、この面では日本は国際社会で孤立するばかり である。「南京虐殺はウソだ」「従軍慰安婦は強制 ではなかった」「沖縄の集団自決に軍は関与してい ない」など、侵略戦争を正当化する言説が大きな顔 をして流布されていくような状況、いわゆる「右傾 化」は、真の民主化を獲得しえていない私たち未熟 な「庶民」の責である。

 「南京虐殺」「従軍慰安婦」「沖縄の集団自決」 ……まだある。「重慶無差別爆撃」「三光作戦」「731部隊の細菌兵器人体実験」「中国人・朝鮮人の 強制連行」 「バターン死の行進」「自爆特攻作戦」「無策・無責任な 玉砕作戦」……日本が始めた「大東亜戦争」は なによりもまず侵略戦争であり、その戦争そのものが「不正」で あった。その上、上にあげたよう な個々の事例はどれも〈戦争遂行を律する諸原理〉 にもとるものである。ロールズの提言通りに、 アメリカ人が戦争責任を自己反省したからといっ て、日本人の責任が軽くなるわけではない。

 さて、ロールズは最後に戦争を免罪化する「二 種類のニヒリズムの教説」を取り上げて、「きっち り論駁すべきだ」と訴えている。


 「戦争は修羅場だ」。地獄のような戦争を一刻 でも早く終わらせるためならどんな手段を選んで もよいとする論法。原爆投下正当化論のほとんどは この範疇に入る。ヒロヒトの「やむをえない」も 久間の「しょうがない」もその典型である。


 戦争に突入した以上、私たちは皆同罪であり、 誰も他人(他国民)を非難することなどできないと 見切るニヒリズム。日本国内の問題での戦争責任 の議論でもよく見かける。「一億総懺悔」という 言葉がそれを象徴している。結局は全てをうやむ やにしてしまう論法だ。


 ロールズに言わせれば、両方とも筋の通った区 別立てを一切認めようとせず、道徳の観点からは 内容空虚なニヒリズム以外の何物でもない。これ と反対に、正義を重んじるまともな文明社会(そ の制度・法律、市民生活、背景となる文化や習俗) はすべて、どんな状況においても道徳的・政治的 に有意味な区別をおこなっており、その区別に決 定的に依存している。ロールズの結びのことばに 耳を傾けよう。

 たしかに戦争はある種の地獄かもしれないが、 だからといって〔戦争を終結させる複数の手段の〕 善し悪しの区別がつけられなくなるのだろうか。

 また、時にはすべての(あるいはほとんどすべて の)当事者が何らかの程度において責めを負って いることを認めたとしても、全員が同程度に有責 だということにはならない。あらゆる道徳的・政 治的原理や抑制が私たちから免除されるような時 点など、決して訪れはしない。

 二つのニヒリズムは、私たちに対して常時きち んと適用されるべき諸原理と諸抑制がないという 不当な要求をおこなっているにすぎないのである。

 世界が、多様な文明が相互扶助を旨として平和的に共存 する「正義を重んじるまともな文明社会」となる道のりは いまだ遠い。