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第681回 2006/12/13(水)

『国家意志』とは何か(1)
被支配階級の意志と国家意志


( 2016年11月9日に再掲載した『「今日の話題」+「滝村国家論」』で取り上げた「国家意志」についての疑問点を解明することがこのシリーズ目的です。)

 国家意志は法的規範形態をとって押し出される。そのとき、実質的には支配階級の意志が強力に 貫徹される。では被支配階級の意志が反映されることはないのだろうか。

被支配階級の意志が、国家意志形成において部分的にでも反映さ れるとすれば、それは原則上、各種公共土木事業や社会福祉また国民的諸階級・階層へ の各種経済的保護・育成等の、社会・経済政策に関わる経済的国家意志に限定される。

 例えば労働三法は、市民社会における労働者の<必要労働>の法的保障、すなわち 国家的レヴェルにおける保障である。資本制的生産様式内部の資本家による労働者の <剰余労働>の搾取には、家族を含めた労働者の労働力維持・再生産に関わる <必要労働>の保障が前提となっている。従ってこの種の立法は、ブルジョアジーの 社会的存立条件としての資本制的生産様式に敵対し、それを根本から脅す性格をもた ない。それどころかプロレタリアートとの階級闘争を、利害調整の可能な「商品所有 者」同士の、純然たる経済的対立のレヴェルに制御することによって、のっぴきなら ない観念的な政治闘争への転化を防護する、有力な武器として役立つ。

 『階級闘争』。今ではほとんど死語になってしまっただろうか。この言葉を軸に 論じる論者を「時代錯誤」と嘲笑する「識者」のしたり顔が見える。ソ連の崩壊に慌 てふためいてマルクスという貴重な理論的財産まで捨ててしまったサヨク日和見「識者」 の。思わく通りに労働組合を骨抜きにしてほくそ笑んでいる支配階級のウヨク幇間 「識者」たちの。
 しかしどっこい、階級対立はなんら解決してはいない。そんなことは現実を一瞥す れば明らかじゃないか。『階級闘争』が時代錯誤であろうはずがない。

 さて、労働三法のように被支配階級の意志が部分的にでも社会・経済的国家意志 へと反映されている場合があるが、それは資本制的生産様式を維持するためにも必要 であり、経済的支配階級(ブルジョアジー)にとっても役立つからにほかならない。

 このような被支配階級の意志の国家意志への反映はどのようにして可能だったのか。 それはあくまで階級闘争を通じてである。階級闘争を通して支配階級にその意志を押し つけることによって成立した。この意味で労働三法は、階級闘争の歴史的所産と位置づけ られる。

 階級闘争は、もちろん、労働組合による直接行動だけで貫徹できるわけではない。 それを根本的原動力としつつも、多くの場合直接には、<世論>という幻想上の 「国民的一般意志」による強力な観念的圧力が必要不可欠である。

 では世論は誰が創るのか。
 国労が元気な頃、国労のストを他の労働者が迷惑がっているさまをマスコミが盛んに 流布していた。このときの労働者は「一般市民」に変身している。私が現役の頃、 都立高校でも重要問題に対してはストを組んだが、このときは保護者からの批判 という形でのマスコミからの圧力が盛んだった。今度は「一般市民」が保護者の 顔をする。そしてどの場合でも、マスコミは決まって「両論併記」でごまかし、 はっきりとした権力批判を打ち出さない。思えばマスコミのこの体質も、いわゆる 一般市民のすが目ぶりも今に始まったことではない。しかし、このマスコミと 一般市民、このヌエのような二要素が世論形成の要をなしている。

 この<世論>という幻想上の「国民的一般意志」による強力な観念的圧力があって初めて、 『議会内有力政治家と政府-執行機関中枢による高度の政治的判断』が行われ、被支配 階級の意志は立法化される。

 法制学では<公法>・<私法>という概念がある。滝村さんもそれを次のように定義 して用いている。
 <私法>とは『社会・経済政策に関わる法的規範』であり、『社会全体の 政治的秩序維持に関わる法的規範』が<公法>である。つまり、<公法>とし て押し出されるのは『ときどきの生産様式の全体つまり直接の階級的支配体制を、大き く外面的に束ねる<政治的支配>に直擦関わる性格の国家意志』である。

 これまでの論述は『被支配階級の意志は<私法>においては部分的に反映されるこ とがある』とまとめられる。では<公法>においてはどうなのか。滝村さんは 被支配階級の意志の反映は<公法>おいては『原則上不可能である』と言っている。


 このことは、政治・外交に関わる国家意志の最高的裁可・決定権のあり方や、大衆的 政治闘争の激化を厳しく禁圧した各種治安立法をみれば一目瞭然であろう。

 最近の例をあげれば、政治上の例としては強引な教育三法の改悪(2001年)がある。また、 外交上の例では、世論の圧倒的反対を押し切って行われた「自衛隊のイラク派兵」が すぐ思い出される。

 いま行われている教育基本法「改悪」に対する闘いは、被支配階級の意志を<公法>にも 反映させるための闘いであり、その「改悪」を阻止できれば、画期的な勝利ということが できる。被支配階級の意志の反映は<公法>おいては『原則上不可能である』と滝村さんは 言うが、今行われている闘いには可能性がおおいにある。今が正念場の差し迫った 事態でになっているが、その阻止のためにはもっと広範な直接行動とそれをてこにした 圧倒的な世論の盛り上がりが必要不可欠だ。
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第683回 2006/12/17(日)

『国家意志』とは何か(2)
総資本意志


疑問2
 総資本的意志とは何であり、それは何故どのようにして国家意志として押し出されてくるのか。

 現在世界中に害悪を撒き散らしている「新自由主義」とは、資本主義の本性をむき出し に押し出だしてきた反動的な旧態然とした資本主義イデオロギーにほかならない。 何に対する反動か。

 共産主義国家の誕生にともなって、それとの対抗のため、先進資本主義諸国は国民の 支持を保持するためにの経済的福祉的優遇政策をとり始めた。その結果、不充分とはい え、共産主義諸国がなしえなかった福祉国家としての体裁を形成した。しかし共産主義 国家の消滅によりその反動が始まった。そのわずかばかりの経済的福祉的優遇政策を回 収し始めたのだ。「新自由主義」などと衣装を凝らしているが、資本主義本来の本性をむき 出してきたにすぎない。

 さて、資本主義は自由競争のもとでなけれは死滅する。ブルジョアジーは不断に相互 的対立と抗争をくり返している。その当然の帰結として、産業上の覇権と集中化が行わ れる。同業種間で始まった業種ごとの地域的な結集は全国的連合へと進展し、さらに あらゆる業種・部門における産業上の有機的関連と中央集権化を必然化する。また ブルジョアジーは、全国的に階級的結集し組織化されたプロレタリアートとの闘争に 対処する必要もある。ブルジョアジー全体としての「階級的共通利害」のうえからも 産業上の中央集権化が強力に促進され、統一社会的レヴェルでの資本の有機的連合 と中央集権的な統一的組織化が達成される。日本では日本経済団体連合会(経団連)と 経済同友会がある。

 総資本意志とは、上記のようなブルジョアジーの統一的組織が打ち出してくるブルジョアジー階級 の統一的な一般的意志のことである。「御手洗ビジョン」は、もちろん、御手洗個 人の意見表明であろうはずがない。それは総資本意志の宣言にほかならない。


 近代市民社会は、資本制的生産様式にもとづいて形成されている。従って、かかるブル ジョアジー全体の階級的結集と中央集権的組織化にもとづいて形成された総資本的意志は、 資本制的生産様式全体に関わるものとして市民社会全体に関わり、この意味で直接に <政治的性格>を把持している。

 しかしブルジョアジーは、現実的にはあくまで個々の資本家として、傘下の企業労働者 を経済的に支配(それも法制的には「商品所有者」同士の契約にもとづいて)できるだけ で、かかる総資本的意志を、プロレタリアートはじめ国民的請階級・階層の全体に直接 押しつけ、服従させることはできない。

 これはたんに、そのための物理的・強制手段をもっていないといった単純な問題ではな い。ブルジョアジーは<近代>以前の支配階級とは根本的に異なり、あくまで経済的支配 階級なのであり、社会全体の形式的秩序維持のための政治的手段を直接もたず、従って 政治的な統治階級としては直接構成されていないからである。これこそまさに<近代>に おける<国家>と<市民社会>との構造的分離・二重化の核心的問題であり、より端的に は支配階級における<政治的>部分と<社会・経済的>部分との社会的分業が、はじめて 統一社会的規模で形成されたことを意味している。

 かくて総資本的意志は、社会全体の形式的秩序維持に関わる各種法的規範形態をとった 国家意志として、特殊に転成されねばならないのである。

第684回 2006/12/18(月)

『国家意志』とは何か(3)
国家支配の存立を可能にしているのは何か。


謬見1
『被支配階級は、なぜ支配階級の意志を普遍的な「共同利害」と幻想してしまうのか』


 このような見地が意味を持つのは『国家的支配の実現諸形態に関わる問題』としてで あって、『国家的支配の本質論とくに規範論に関わる問題』ではあり得ない。例えば、 このような発想を敷衍すると次のような見解に結びつこう。

『国家支配は、被支配階級が支配階級の意志を社会全体の「共同利害」にもとづく普遍的な意志と 幻想し錯覚してしまうからこそ可能であり成立している』

 これは国家支配の本質論的見地からは謬見というほかない。そして、このような謬見は 『法的規範に関する最も基礎的無理解が前提となっている。』と、滝村さんは言う。


 まず銘記さるべきは、支配階級も被支配階級も社会の構成員である以上、社会全体の 秩序維持に関わる普遍的な法的規範としての国家意志に服従するよう強制されている点 である。すなわち法的規範への服従を強制されているという点では、支配階級も被支配 階級もない。ひとたび国家意志として観念的に対象化されれば、<悪法も法なり>として 強制され強引に貫徹されるのである。

 従って国家的支配の存立を本質論的に把えるならば、国家意志が国民的諸階級・階層 から意志の服従を獲得することによって、国家意志が社会全体にすみずみまで貫徹され ていること、この意味で国家意志を基軸とした国民的諸階級・階層全体との、意志の体 系的な支配=従属関係が実現されていることを示している。

 換言するならば国家的支配、すなわち国家意志による国民的諸階級・階層からの意志の 獲得が、強制的に断行されようが、両氏がいう<被支配階級の幻想と錯覚>といった純然 たるイデオロギー的同化によって達成されようが、それらは国家的支配の実現諸形態に 関わる問題であって、国家的支配の本質論的存立に関わる問題ではありえない。


謬見2
『いかに「法」を作成し、その中に階級的意志を反映させたとしても、「法」自体には 階級性はない』


『こうして国家形式としての法治国家が形成されるのだが、それ自体は何ら階級的性格を 有するものではない。なぜならば、それは第一に、それが市民社会として被支配階級にも 共通する現実的基盤を有しており、第二に、法とは普遍性そのもののことであるからであ る。しかしこの形式を守護し、遵守すること自体が資本主義社会における支配階級を保存 し、その支配を永久化する機能を果たすものである』

 このような見解は、私にもはっきりと謬見であると判断できる。国家意志形成や その展開の現実過程から得られる経験知の見地からでも、このような見解を認めることは できない。こうした謬見に対する滝村さんの理論的な補正は次のようである。


 両氏は一体、大きくは公法・私法区分において体系化された一般的諸法や関連個別 的諸法、またそれらに直接依拠した形で現実化される<政策>としての国家意志の展 開等、そのどれでもよいが、これらの国家意志形成が内的に孕む壮大な歴史的ドラマ を、一度でも追究してみたことがあるのだろうか?

 まず、不断の相互的対立と抗争にあけくれる支配階級の意志が、総資本的意志として 大きく一般的に集約され強力に押し出される過程自体、多くの場合内部的自主調整が不 可能で、有力政治家や高級官僚の直接的関与を必要としている。それらを通じて、支配 階級内部での対立・抗争の制御と調整が、ときどきの階層的力関係に応じていわば暫定 的に確定される。そして、かく形成された総資本的意志が、国家意志としての実質的転 成を実現する過程には、さらに被支配的な諸階級・階層の意志や、幻想上の「国民的 一般意志」としての<世論>が、複雑かつ多様にからみ合って規定してくる。

 確かに、主に一般的<法律>形態をとった国家意志には、ときどきの総資本的意志を 中心とした諸階級・階層的意志が、それ自体としてではなく、まずその背後にひそむ政 治的・社会経済的秩序維持に関わる高度の一般的性格においてとらえられ、次で<法律> 特有の形式的論理にもとづく抽象化が施されたうえで、反映されている。しかしこれは、 出来した特殊的・個別的事態への第三権力による普遍的な一般的対処としての 必要からのことであり、あくまで<統治>の技術的便宜と形式にもとづくものでしか ない。法的規範形態をとった国家意志の、歴史的・階級的所産としての根本性格を、少 しも否定するものではありえない。

 さればこそ法的規範は、歴史的・社会的諸条件の変化とともに、とくに諸階級・階層的 力関係の変化に伴なう階級的特殊利害の変化と要求によって、たえざる新たな立法とそれ に伴なう既成の法体系の形式的整備(関連個別的諸法の修正・廃棄等)を、否応なしに強 制されるのである。

第685回 2006/12/19(火)

『国家意志』とは何か(4)
「資本の意志」と「経済的権力」


謬見3
(1)
『市民社会が国家によって「総括」されるのは、ただ市民社会の運動する主体である 資本が、労働力および土地を包摂しえず、それらが、その実体的根拠に基づいて外部 に設定され、その間に階級闘争や対立関係を想定したために、市民社会内部で「総括」 されえないことによっていた』

(2)
『原理論は、まさに市民社会に対応する意識が形成されているならば、すなわち市民 社会が、本質としての資本主義=階級関係に過不足なく対応するものとするならば、 市民社会的意識・イデオロギーを「法規範」にまで高める必要がないことを示す。 だが、同時に市民社会はそれとは<不対応>の意識を生み出さざるをえない存在なの である。したがってこうした<不対応>、市民社会から<ずれ>た意識、イデオロギーが 形成されるとき、市民社会イデオロギーの法的規範への普遍化が要請されることになる。 しかし問題はあくまでもイデオロギーの領域のことであり、とりわけ被支配階級たる労 働者階級の主観に関することであって、そのことは明らかに原理論の領域を越える問題 である』

 とても分かりにくい文章だ。私なりの解釈で言い直してみる。

(1)
『市民社会の形成発展の主体である資本は、労働力や土地を自らの自由になるものとして 包摂できないため、諸階級・諸階層との階級闘争や対立関係を想定せざるを得なかった。つまり、 市民社会の中だけで市民社会を「統括」することができなかった。それゆえに市民社会を「統括」 する国家(第三権力)を必要とした。』

(2)
『原理論(「宇野経済学」の)によれば、市民社会の本質としての資本主義=階 級関係をそのまま受け入れる非敵対的な(<対応>した)市民社会的意識・イデオロギーならば、それを「法規範」として 定立する必要はない。しかし、市民社会はその本質とは敵対的な(<不対応>な<ずれ>た) 市民社会的意識・イデオロギーを生む必然性を持っている。特に労働者階級の主観にもとづくイデオロギーがそれ である。そのような敵対的な市民社会的意識・イデオロギーに対処するために、 非敵対的な市民社会的意識・イデオロギーを普遍的な法的規範として定立することが要請される。 しかしそれはイデオロギーの問題であり、原理論とはまた別の問題である。』

   鎌倉・中村氏のこの論述を滝村さんは、他の部分も引用しながら、次のように解説し ている。


 「基盤」としての「資本主義社会」は、どういうわけか全く判然としないが、その 「階級的本質」とは不対応の敵対的な思想・イデオロギーを、「あらゆる領域の中から 生」み出し、ここにかかるイデオロギー的幻想領域を直接実体的に抱え込むことに よって、「資本主義社会」との「ずれ」をもった「市民社会lが生まれる。かくて 「市民社会」は、

「市民社会は、資本主義社会において必然的に形成される物神的外観=仮観なので ある」
「市民社会が所詮階級関係の本質の隠蔽形態」
「基盤における階級関係の隠蔽形態である市民社会J

等と規定されることになる。そして、かかる「資本主義社会」の幻想的・イデオロギー的 隠蔽形態としての、「市民社会」に基礎づけられてはじめて、「法治国家」が成立すると されている。


 まがりなりにも「滝村国家論」をいくらか学んできた私(たち)にも鎌倉・中村両氏の 理論の理論的な不備・欠陥がいよいよ明瞭となってくる。滝村さんは、 「疑問点1・2」と「謬論1・2・3」を総合して、次のように総括している。


 まず第一に「資本主義社会」から「市民社会」への論理的転成を媒介する、思想・イデ オロギーの形成を主体的に担うものこそ、「とりわけ被支配階級たる労働者階級の主観に 関すること」とされ、この意味でそれは国家的支配の存立とくに国家意志形成を大きく 支え、また直接的に規定すべき根本問題として位置づけられる。先の第一疑問点とそれ に関わる謬論は、ここから必然化されたものである。

 第二に、直接に「階級的本質」を把持することによって、自律的独立を完備している のは、あくまで「基盤」としての「資本主義社会」である。従って、「市民社会的イデ オロギー」を幻想的・イデオロギー的土台として形成された「法的規範」は、それ自体 形式的かつ普遍的ないわば純粋観念の如き存在であって、直接「階級的性格」をもたな い。かくて「法的規範」は、直接に「階級的本質」を把持した「資本主義社会」を大き く形式的に維持することによってはじめて、媒介された階級性を実現するにすぎないと いう、先の謬論に連なっていく。


 なぜこのような謬論が出てくるのか。宇野経済学の原理論を絶対的な前提としていて、 それをそのまま国家論上の原理論としてしまっているからであると、滝村さんは指摘し ている。


 両氏にあっては、宇野経済学で狭義にとらえられた「資本主義社会」が、「市民社 会」と機械的に切断されて解釈されている。これは、「資本主義社会」における直接 の階級的搾取関係から、意志の問題をそっくり抜き取ることによって必然化されたも のであって、つきつめていけば、宇野経済学における唯物史観の実質的不在に突きあ たる。換言すればそれは、唯物史観に独自の原理的・方法的位相を全く無視すること によって、実質上それを経済学に解消(解体)させてしまった点に基因する。

 しかし両氏を含めて宇野経済学の発想に立つ人々は、一体全体資本制的搾取が、 <資本の意志>への労働者の服従という、規範としての<意志>を軸とした意志の 支配=従属関係の創出を媒介としないで、現実的に可能とでも考えているのだろうか?

 然り、資本制的搾取とは、現実的には資本家による労働者へ の現実的支配としてのみ 存在するのであって、<資本の意志>を必須的媒介とした労働者に対する経済的支配と いう点で、そこには経済的権力が成立している。さればこそマルクスも『資本論』 で、かかる<資本の意志>による組織化とそこでの経済権力について再三言及しているわ けだ。この点とくに両氏の根本的再考を乞うものである。

 政治的事象も経済的事象も、歴史的・社会的事象としての一般性をもっている。 従って、政治学・経済学としての原理的解明においては、<世界史>の発展史観を 方法的土台とした一般的な社会構成理論としての唯物史観を、方法上縦横に駆使・運用 しなければならぬ。くどいようだが、唯物史観を原理的・方法的前提としなければなら ない点においてのみ、政治学と経済学とは方法的共通性をもっているのである。 従って、国家論の理論的追究と体系的構成にあたって、徹頭徹尾原理的・方法的に 依拠すべきは<唯物史観>である。間違っても経済学とくに『資本論』の宇野弘蔵的 解釈としての宇野経済学の方法的発想ではありえない。