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600 吉本隆明著「ほんとうの考え・うその考え」

2006年9月7日(木)


 「第542 2006年7月3日」に私は「普遍宗教」という副題をつけた。「普遍宗教」 という言葉を、例えば柄谷行人さんは世界に広く普及している宗教つまり「世界宗 教」という意味で使っている。(「世界共和国へ」第Ⅱ部第3章)もしかすると 多くの場合はその意味で使われいるのかもしれない。しかし、私が言う「普遍 宗教」はそういう意でない。

 宗教が人類にとって有意味な面があるとすれば、それはその中に含まれている 「倫理性」です。私が宗教を認めるのはその「倫理性」においてであり、その 「倫理性」の質がその宗教に対する私の評価の基準です。

 既存のあらゆる宗教の倫理性を包含しかつ超えている宗教があるとすれば、 それは従来の意味での宗教とはまったく異なるものになるかもしれないが、 それを「普遍宗教」と呼びたい。そして「第542回」で私は『そのとき「普遍宗教」の神は自然 にほかならないのではないか。』と述べたように、そこには従来の宗教で言うところの 神は不在になっているだろう。そういう意味では「普遍宗教」=「普遍倫理」 と言ってよい。

 吉本隆明さんの著書「ほんとうの考え・うその考え―賢治・ヴェイユ・ヨブを めぐって」の中表紙の裏に小さく一行「普遍宗教性の問題として」とあった。 この著書は私が言う意味での「普遍宗教」=「普遍倫理」の可能性についての 論考だった。

 宮沢賢治の作品「銀河鉄道の夜」(初期形)にブルカニロ博士が語る言葉 の中に次のような一節がある。

「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれ どもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。そ れからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつか ないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんた うの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も 化学と同じやうになる。

 この一節の中の「ほんたうの考とうその考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も 化学と同じやうになる。」という一文をめぐって、吉本さんはこの著書のモチーフを次のように述べている。

 このばあいの「信仰」というのを宮沢賢治のように宗教の信心と解さずに、 それも含めてすべての種類の<信じ込むこと>の意味に解して、この言葉 を重要におもってきた。つまり<信仰>とは諸宗教や諸イデオロギーの現在ま での姿としての<宗教性>というように解してきた。宗教やイデオロギーや政 治的体制などを<信じ込むこと>の、陰惨な敵対の仕方がなければ、人間は相 互殺戮にいたるまでの憎悪や対立に踏み込むことはないだろう。それにもかか わらず、これを免れることは誰にもできない。人類はそんな場所にいまも位置 している。こうかんがえてくるとわたしには宮沢賢治の言葉がいちばん切実に 響いてくるのだった。

 このばあいわたし自身は、じぶんだけは別もので、そんな愚劣なことはした こともないし、する気づかいもないなどとかんがえたことはない。それだから もしある実験法さえ見つかって「ほんとうの考え」と「うその考え」を、敵対 も憎悪も、それがもたらす殺戮も含めた人間悪なしに(つまり科学的に)分け ることができたら、というのはわたしの思想にとっても永続的な課題のひとつ にほかならない。


 この著書は三部構成になっている。

Ⅰ 宮沢賢治の実験―宗派を超えた神
Ⅱ シモーヌ・ヴェーユ―深遠で隔てられた匿名の領域
Ⅲ ヨブの主張―自然・信仰・倫理の対決

 副題で明らかなように、それぞれ「普遍宗教」への可能性をテーマにしてい る。

 次回からこの著書を読んでいくことにする。私の勝手な思い込みから、著書の 順とは逆に、Ⅲ→Ⅱ→Ⅰの順序で読むことにします。

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601 「ほんとうの考え・うその考え」―ヨブの主張(1)
「ヨブ記」概略―「序曲」から「生まれた日への呪い」まで
2006年9月8日(金)


(以下は吉本さんの論考の要約ですが、前テーマの場合と同様に、 「吉本さんによれば…」とか「…と吉本さんは述べている。」とはいう添え 書きはしないで、まるで私自身の考えを述べるように書いていこうと思いま す。逆に私の見解を述べる場合はそのことを明記します。なお、ヨブ記から の引用は新共同訳版の「聖書」を用いています。)

 ウツの地にヨブという「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きて いた」信仰深い人がいた。七人の息子と三人の娘をもち、羊が七千匹、らくだ が三千頭、牛が五百くびき、雌ろばが五百頭、それに使用人が大勢いて、東の 国で一番の金持ちだった。ヨブの一家は息子たちが順番に家族の宴会を催し て、そのたびごとに敬虔に神に祈る習慣になっていた。

 ある日、神の前に神の使いたちが集まり、悪魔もやってきた。


神 「お前はどこから来た。」
悪魔「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」
神 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。
   無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
悪魔「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
   あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。
   彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に
   溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて
   ごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
神 「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。
   ただし彼には、手を出すな。」

 悪魔は喜んで試みをはじめる。
 まず長男の家で宴会をしているときに、シュバ人が牧場に襲いかかり略奪 して、牧童たちもみんな切り殺されてしまう。
 それからすぐ、天から雷が落ちてきて、羊も羊飼いも全部焼け死んでしまう 。
 また、らくだが襲われ奪いとられ、牧童たちは切り殺されてしまう。
 それから長男の家で宴会をしているとき、大風が四方から吹きつけ、家は 倒れ、長男はじめ子どもたちはみんな死んでしまう。

 ヨブは「「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は 奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言って、すこしも不平を申し述べな いであつい信仰を示す。


神 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。
   無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。
   お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、
   彼はどこまでも無垢だ。」 
悪魔「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すもの
   です。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かって
   あなたを呪うにちがいありません。」
神 「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」 

 悪魔はヨブの頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせる。 ヨブは灰のなかに坐り、素焼きのかけらで身体中かきむしって、痒さを止めようと した。ヨブはたちまち見るかげもない人間になってしまう。

 ヨブの奥さんは、
「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」
と言ったが、ヨブは答えた。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいた のだから、不幸もいただこうではないか。」 と言ってヨブはなお耐え忍んだ。

 ヨブと親しい友人が三人、見舞い慰めようとやってくる。ヨブはそれと 見分けられないほどの姿になっていた。「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に 向かって塵を振りまき、頭にかぶった。」
 彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見る と、話しかけることもできなかった。

 やがてヨブは次のようにじぶんの出生を呪う。


わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。 
その日は闇となれ。
神が上から顧みることなく
光もこれを輝かすな。 
暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。
密雲がその上に立ちこめ
昼の暗い影に脅かされよ。 
闇がその夜をとらえ
その夜は年の日々に加えられず
月の一日に数えられることのないように。 
その夜は、はらむことなく
喜びの声もあがるな。 
日に呪いをかける者
レビヤタンを呼び起こす力ある者が
その日を呪うがよい。 
その日には、夕べの星も光を失い
待ち望んでも光は射さず
曙のまばたきを見ることもないように。 
その日が、わたしをみごもるべき腹の戸を閉ざさず
この目から労苦を隠してくれなかったから。 
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。 
なぜ、膝があってわたしを抱き
乳房があって乳を飲ませたのか。 
それさえなければ、今は黙して伏し
憩いを得て眠りについていたであろうに。 
今は廃虚となった町々を築いた
地の王や参議らと共に 
金を蓄え、館を銀で満たした諸侯と共に。 
なぜわたしは、葬り去られた流産の子
光を見ない子とならなかったのか。 
そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ
疲れた者も憩いを得 
捕われ人も、共にやすらぎ
追い使う者の声はもう聞こえない。 
そこには小さい人も大きい人も共にいて
奴隷も主人から自由になる。 
なぜ、労苦する者に光を賜り
悩み嘆く者を生かしておかれるのか。 
彼らは死を待っているが、死は来ない。
地に埋もれた宝にもまさって
死を探し求めているのに。 
墓を見いだすことさえできれば
喜び躍り、歓喜するだろうに。 
行くべき道が隠されている者の前を
神はなお柵でふさがれる。 
日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。
湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。 
恐れていたことが起こった
危惧していたことが襲いかかった。 
静けさも、やすらぎも失い
憩うこともできず、わたしはわななく。 

 このあと物語は「三人の友人との議論」になっていく。

602 「ほんとうの考え・うその考え」―ヨブの主張(2)
ヨブの絶望・呪い・抗議の言葉(1)
2006年9月9日(土)


 神が悪魔に、ヨブがいかに信仰が深いかを試させたことからこの劇詩 「ヨブ記」はできている。しかし、これを読むものには、どうしてこう いうことを神が悪魔に語らせたのか、たいへん不可解なこととして心に 引っかかる。また、神がヨブに試練を課したのだとしてもこんな酷す ぎる試練になんの意味があるのか、という疑問が当然生じてくる。

 さて、「三人の友人との議論」では、ヨブの友人とヨブの<信>の考え方の違いが クローズアップされる。

 ヨブは、「じぷんたちは信心深くやってきたし、人にたいしても慈悲を施し てきたし、どこにも悪いことをしていないのに、どうしてこんな目にあうんだ ろうか」と言う。
 これに対して三人の友人たちの信仰の仕方は、大方の宗教の一般的な信仰の仕方 と同じで、神は悪いことや罪あることをしない者にたいして、悪い報いを与え るはずがないということが信仰の大前提になっている。だから、ヨブを慰めたり はする一方、ヨブがそんな目にあったのはどこかで悪いことをしている、罪を犯 しているからだということを三人の友人は疑わない。だから、ヨブが自分の至らなさを 知って反省すれば、きっと神は不幸とか苦悩とかをヨブから取り去ってくれる だろうと、ヨブに説いて諌める。あるいはヨブの神にたいする呪いを緩和しょ うとする。

 しかし、ヨブはじぶんは絶対に悪いことをしていないということを疑わない。 あくまでもヨブはじぶんの考え方を改めないし、呪いも改めない。もしまち がっているとすれば、神のほうがまちがっていると最後まで主張してやまな い。

 二回目の議論でもやっぱりおなじことになる。友人のほうは、おまえは生 意気というか傲慢だ、神にたいして呪いとか、まちがっているとか主張する ことじたいが傲慢なんだ、と言う。つまり人間を神よりも上におこうとして いる。その傲慢をなおさないかぎりだめだということを主張して説き伏せよ うとしる。でもヨブの答えはまったく変わらない。

 このヨブの<信>のあり方が「ヨブ記」の重要な要です。三人の友人との 議論におけるヨブの言葉の中から、神とよく対峙していると思われる言葉を をいくつが抜書きしてみる。

  仮借ない苦痛の中でもだえても
  なお、わたしの慰めとなるのは
  聖なる方の仰せを覆わなかったということです。(6章)

 「覆わなかった」と言う言葉が分かりにくい。この行の文語訳版は 「こは我聖者(きよきもの)の言に悖(もと)りしことなければなり。」 です。…(仁平註)

 ヨブは、神に対して誤魔化しをかんがえたり、誤魔化しの主張をしたりしな かったと言っている。

  あなたは夢をもってわたしをおののかせ
  幻をもって脅かされる。
  わたしの魂は息を奪われることを願い
  骨にとどまるよりも死を選ぶ。
  もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。(7章)

 夢のなかでもヨブはなお神から苦しめられている。夢のなかまで、 つまり無意識のなかまで入ってきてじぶんをいじめ、虐げると言ってい る。もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ヨブはそういう ふうに言う。

 最大限の不幸を体験した人間が、もし信仰があったらこういうふうに 呪う以外にないということを、ヨブは言っている。その言い方は人間の ぎりぎりの不幸とか苦悩とか運命のいたずらとか、そういうものに出あった 人間がどうしても吐かざるをえない言葉でしょう。そういう意味で、それは たいへん感銘ぶかいものです。

  なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
 なぜ、わたしを負担とされるのですか。(7章)

これはヨブが神にたいして抗弁する言葉です。ヨブの絶望、呪い、神への抗議 の言葉は人間存在の根源的なぎりぎりの認識へと向かっていく。

  わたしの方が正しくても、答えることはできず
  わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。(9章)

  神は無垢な者も逆らう者も
  同じように滅ぼし尽くされる、と。(9章)

  手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて
  あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。
  それでいいのでしょうか。(10章)

  逆らおうものなら、わたしは災いを受け
  正しくても、頭を上げることはできず
  辱めに飽き、苦しみを見ています。(10章)

 これはヨブの神にたいする抗議と、呪いの言葉です。ヨブの言うことは 全部、そういうじぶんにたいする呪いと、神にたいする抗議とに満ちみち ています。それをいろんな言葉で繰り返し言い返し、言いなおして述べ立 てています。それも言葉が不幸のぎりぎりのところから出ているものです から、たいへん感銘ぶかいのです。深みのある言葉に満ちていて、「ヨブ 記」のなかのヨブが吐いている言葉は、新約の福音書のなかのイエスが吐く 言葉ととてもよく似ています。罪と罰、善と悪のような倫理の問題のぎりぎ りのところから吐いているという意味でもとてもよく似ています。また感銘 ぶかいわけです。

 それにたいして二回日の議論で三人の友人は、神にむかってそんな言葉を 口にするとは何ごとだ、どうして人間は清くありえよう。まして人間は水を 飲むように不正を飲む者、憎むべき汚れた者なのだ。おまえはどこか汚れて いるから、どこかに罪があるから、どこかで不正をしているから、こんなに ひどい目にあっているんだ。それを悟らずに神にたいして呪いの言葉を吐い ている。それなら神と和解することはできないし、神がいつまでもおまえを 罰するだけだ、と言うわけです。

 こういうことが繰り返されていると、なんとなく、わたしたちが日常生活の なかで当面しているいろんな場面に似てきます。つまり、善いことばかり言っ てじぶんは正しいとおもっているやつは、いまでも満ちみちでいるわけです。 だけど、ほんとうに善いことだとおもっているのかを問いなおしたら、そう じゃないことはたくさんあるとおもいます。それこそが重要なことなんです。 その問いなおすことにおいて、じぶんはすこしも傷つかないで善いことばか り言っているやつにたいして、あくまでもおまえのはだめなんだと言うこと が、現在の課題でもあるわけです。

 またみなさんは大震災の影響を受けておられます。これは無差別で天然自 然ですから、もしユダヤ教やキリスト教のように、自然を背後にあって支配 する唯一神を信仰している人でも、どうして開西地区だけに大震災はおきた んだということになりますし、また自然とかんがえても、なにもなくて もひどい目にあっているのに、なおさらそのうえにひどい目にあわせるのは どうしてなんだと抗議したいところは、いまでもたくさんあるとおもいます。

 こういうふうに見ていきますと、だんだん三人の友人とヨブとの問答が現実 味をおびてくるのがわかります。だから完全に現代における倫理の問題として 読むこともできます。

603 「ほんとうの考え・うその考え」―ヨブの主張(3)
ヨブの絶望・呪い・抗議の言葉(2)
2006年9月10日(日)


 ところで、ヨブが信仰する神とはどんな神なのか。「ヨブ記」の最終近くで 、ヨブの絶望と呪いの言葉に対して神は次のように応じている。(第38~39章)


これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
 
男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 

(以下は第38~39章の要約)

この地上に大地を据えたのはわたしだ。 朝日や曙に役割を指示したのもわたしだ。 おまえは海の湧き出るところまで行き着き、 深い縁を巡ったことがあるか。 死の門をつくったのもわたしだし、 死の闇の門を見たのもわたしだ。 光がどこにあるかを指し示せるのもわたしだ。 雪がどこから降ってくるか、 霞がどこから落ちてくるかを知っているし、 それをさせているのもわたしだ。 風がどの道を通って吹くのか、 豪雨がどういう水路をつくるか、 稲妻がどうやって落ちてくるかも わたしのなせる業だ。 すばるとかオリオンとか銀河を つくったのもわたしだ。 天の法則もわたしがつくった。 洪水をおこすのも、 烏たちを鳴せるのもわたしだ。 おまえはそういうことができるか、 できないだろう。 動物から植物まで全部、 全能者であるじぶんがこしらえたのだ。 おまえは全能者と言い争うが、 引き下がる気があるのか。 神を責め立てる者よ、答えるがいい。

 これは天然自然の動きの背後には一個の神がいて、森羅万象その意志によって おこると自然認識を示している。この認識はユダヤにおけるいちばん初期の 宗教的な自然認識で、オリエントの特徴です。もちろんヨブの信仰もこのよ うな神への<信>に支えられている。次の詩句はヨブの言葉です。


 神は山をも移される。
 怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。
 神は大地をその立つ所で揺り動かし
 地の柱は揺らぐ。
 神が禁じられれば太陽は昇らず
 星もまた、封じ込められる。
 神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
 神は北斗やオリオンを
  すばるや、南の星座を造られた。(9章)

 ぼくらがもし「ヨブ記」を、ヨブを中心にして読むとすれば、この神の 言葉はとてもつまらなくみえます。なにも答えていないじゃないか。じぶ んは天然自然を全部動かせる全能者だぞという自慢をしているだけで、ヨ ブの苦悩にたいしてすこしも答えていないじゃないかともおもえるわけで す。これにたいしてヨブは、人間的倫理としてはもう極度の苦悩と惨めさ のなかに陥れられ、そこからぎりぎりの言葉を神にたいして吐いています。 それは呪いになったり抗議になったりしていますが、その呪いとか抗議の もっている深い倫理性は、たいへん優れたものだと受けとれます。ヨブを 中心にして読めばそうなります。

 ヨブの言葉はだんだん切迫してきて吐く言葉がなくなってくる。


目は苦悩にかすみ
手足はどれも影のようだ。
正しい人よ、これに驚け。
罪のない人よ
神を無視する者に対して奮い立て。(17章)

それならば、知れ。
神がわたしに非道なふるまいをし
わたしの周囲に砦を巡らしていることを。(19章)

神はわたしの道をふさいで通らせず
行く手に暗黒を置かれた。(19章)

親族もわたしを見捨て
友だちもわたしを忘れた。
わたしの家に身を寄せている男や女すら
わたしをよそ者と見なし、敵視する。(19章)

憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ
神の手がわたしに触れたのだ。
あなたたちはわたしの友ではないか。
なぜ、あなたたちまで神と一緒になって
わたしを追い詰めるのか。
肉を打つだけでは足りないのか。(19章)

 ほとんど神にたいしても、友人にたいしても全部、抗議の言葉と呪いの 言葉を吐く以外にもう場所がないところで、ヨブは絶望の言葉を吐いてい ます。もしその絶望の言葉を深いとかんがえるなら、ヨブの絶望の言葉の ほうが神よりもずっと深いということになるとおもいます。

 これは信仰のない者とかうすい者にとっては重要な言葉だとおもいます。 信仰のある人にとっては、この絶望の言葉は、新約聖書の福音書につながっ ていくんだという理解になっていくとおもいます。あるいはそういうふうに つくられていると理解すれば、「ヨブ記」はそういうふうにつくられている とおもいます。


 新約聖書へとつながるいう観点からみれば、ヨブ記のなかの 次のようなわかりにくい詩句が重要な意味を持つようになる。


わたしはなお、あの方に言い返したい。
あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、
あの方とわたしの間を調停してくれる者
仲裁する者がいるなら
わたしの上からあの方の杖を
取り払ってくれるものがあるなら
その時には、あの方の怒りに脅かされることなく
恐れることなくわたしは宣言するだろう
わたしは正当に扱われていない、と。(9章)

このような時にも、見よ
天にはわたしのために証人があり
高い天には
わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友
神を仰いでわたしの目は涙を流す。
人とその友の間を裁くように
神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。
僅かな年月がたてば
わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。(16章)

 神とじぶんのあいだを「調停してくれる者」、「仲裁する者」がいたら、 そしてじぶんの苦悩を背負って取り払ってくれたら、じぶんは神から正当に 扱われていないと言いたい。調停してくれる者とか仲裁する者を、じぷんが そうだと言うだけの信仰はないし、自信もないから、そうも言うことはでき ない。そうすると誰かそういう人がいてくれたら、じぶんはおおっぴらに悪 いことをしていないと神に言うことができるだろうと、ヨブは言うわけです。
 「ヨブ記」のヨブは、自然であるところの神、あるいはユダヤの神にたいし て、人間の善悪とか倫理、つまり人倫を象徴する人物をもってきて、それを 教義とすることによってユダヤ教を変えようとするところの過渡期に出てき た人物だというふうに理解できます。

 このヨブとは、人間の倫理が自然に近い神(ユダヤの神)にたいしてどこ まで関係をもてるか、あるいはユダヤ的神と人間の倫理から信仰へ到る過程 の、どういう場所で出あえばいちばんいい信仰のあり方かを象徴する最初の 人間のようにおもいます。

 たぶん「ヨブ記」のヨブをもっと見つめていきますと、新約聖書の主人公 のイエスになるとおもいます。つまり、むこうが自然神であるならば、こち らというのはおかしいですが、こちらは人間の罪とか悪とか、未来をも一人 で全部背負っちゃうという人物を一人設定すれば対抗できる。対抗できると いうのは不信心な言い方ですが、そういう「神にして人」のような人物 がやってくればユダヤ教は変えられる、というふうになります。つまり人間 の倫理のほうからユダヤの神にどういうふうに迫れるかとか、どういう仲介 っていいますか媒介ができるかということの、ひとつの象徴としてかんがえ れば、「ヨブ記」は解釈できるんじゃないかとおもいます。

 だけどこれは歴史的解釈で、この際あまりしたくありません。ここでは <信>であるか<不信>であるか、あるいは<倫理>であるか<自然>で あるかということの問題として、「ヨブ記」を理解していきたいとおもい ます。

604 「ほんとうの考え・うその考え」―ヨブの主張(4)
不可解なヨブの和解
2006年9月11日(月)


 不条理な運命に対するヨブの苦悩・悲嘆・慟哭・呪詛・抗議の言葉が、世界中に満ち満ちている。無辜の 民の命を奪い、そのささやかな資産を灰燼に帰して恥じない国家による殺戮・破壊 はいよいよ激しい。その苦悩・悲嘆・慟哭・呪詛・抗議の言葉が、明日には私(たち) の口をついて出る言葉になるかもしれない。そうならない保証は何もない。 だから、ヨブがぎりぎりの所でどう神との最後の対峙をするのかは、 私(たち)の問題でもあり、私はとても関心をもっている。



「ヨブ記」終曲(第42章)

ヨブは主に答えて言った。

あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。」

そのとおりです。 わたしには理解できず、わたしの知識を超えた 驚くべき御業をあげつらっておりました。

「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」

あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。

主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。

「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。 お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように 正しく語らなかったからだ。 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブの ところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、 わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。 わたしはそれを受け入れる。 お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく 語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」

テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは 行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを 受け入れられた。

ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、 更に財産を二倍にされた。

兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、 食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、 それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。

主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、 羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つこ とになった。

彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、 長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。

ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。 彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。

ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。

ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。



 いったいこれは、ナンジャラホイ?とつい口癖の自家コトバが出でしまう。 あまりにも陳腐な結末じゃないか。(ここまで、仁平)

 どうしてヨブが、こんなつまらないことを言われて、あっさり兜をぬい じゃったんだろうというのがよくわからないところです。いままで苦悩の ありったけを打ち出して、ありったけの呪いの言葉と抗議の言葉を神にたい して吐いていた人間が、神はこんなふうに偉いんだぞ、おまえなんかでき ないだろうと言われて、はいわかりました、と言うのはおかしいじゃない かとおもうんです。

 たぶん唯一神があらゆるものを造ったという考え方が、オリエント、西欧 にとってどのくらいの重さをもっているのか、ぼくらには頭のなかで想像は できてもよくわからないところです。その考えが人工的でないとすれば、と てもわかりにくいのです。とにかくそこで和解します。

 ぼくらもヨブのほうが友人が言っていることよりも、正しいことを言って いるとおもいます。ヨブは神を呪う言葉を言って、一見すると神を冒涜して いるようにみえますが、そうじゃない。人間の<信>と<倫理>とを最大限 に結びつけようとしている。ありきたりの宗教的理念で、神は善いことをす れば善い報いをし、悪いことをすれば悪い報いをするという友人の考え方の ほうがつまらないとおもいます。

 しかし一般的にいえばそういう考え方が多いわけです。ぼくらが知っている 日本の宗教家でいえば、親鸞が唯一ひっ繰り返した言葉で言いました。 「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と。そういうことを言ったの は、日本では宗教家として親鸞だけです。だからどうしても、神の言葉より ヨブの言葉のほうが優れているという読み方になります。