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307 「日本」とは何か(1)
しりとり式迷走談論のはじまり
2005年6月20日(月)


 日本の支配階層とそのちょうちん持ちたちが推し進めている「共同幻想」面での戦略を一言で 言えば『「日本の伝統」や「日本の文化」を強く押し出し、正しい「日本の歴史」=「皇国史観」 を復活させ、「日本人としての自覚」=「愛国心」を励起し、非国民を排除する。』となろう。 (一言にしては、ちょっと言葉が多すぎたかな。)
 かれらが「国民の歴史」を僭称するなら、私たちは「非国民の歴史」を掘り下げることによって 「日本」という「共同幻想」をその根源から批判し、「国民の歴史」という虚偽と詐術の基盤を打ち崩す ほかはない。
 と考え、ためらいながら表題に『「日本」とは何か』と書いた。ためらうのは問題が大きすぎるから である。今までと同じくいろいろな人の「言葉」を借りて考えていくしか私には方法がないのだが、 今度はまるで構想が立てられないでいる。取り上げたい事柄は多岐にわたる。いま手元に集めた本は8冊。 進行に従ってまだ増えるかもしれない。そこでやぶれかぶれの見切り発車をすることにした。構想が立て られないのなら「しりとり式」に、その都度思いつくままにあっちいったりこっちいったり、気ままに 進んでみよう。どのくらい続くか分からない。もしかすると何度も中断するかもしれない。 あるいは2,3回で行き詰るかもしれない。
 言い訳はこのくらいにして、早速はじめよう。

 私は「第253 日本のナショナリズム(6)」(4月25日)で次のように書いた。

 『吉本論文は、唱歌を素材にしている関係上、明治末期から説き起こしている。それに対して色川論 文はまず国家成立以前にまでさかのぼって風土的・歴史的条件によって培われてきた日本人の自然思 想や生活思想の特性を俯瞰する。その上で幕末期の知識人のナショナリズム、維新期・明治初期の支 配者のナショナリズムを論考し、次いで自由民権運動期の大衆ナショナリズムへと論を進めている。
 江戸時代の知識人のナショナリズムがどのように維新期・明治期に継承され、近代日本国家の形成に どのように関わり浸透していったかという問題は日本のナショナリズムを解明する上で一つの重要な 与件だが今はそれは割愛し、吉本論文と重なる論考部分を読んでいきたい。』

 「日本と何か」を、この割愛した部分から始めたい。
 日本は四面環海の島国である。しかもユーラシア大陸の絶東にあり、モンスーン・アジアの温暖な気候 にめぐまれ、日照と降雨に富み、農作物はゆたかにみのり、港の幸・山の幸にかこまれ、その中だけで 十分に自給自足できるという文字通り〝豊穣の島″であった。しかも、他からの侵略の恐れがほとんどな いという稀なる孤島であった。
 大陸の各地から、沿海の北から南から、ながい人種戦争ときびしい自然の中での生活に疲れ、至福の大 地を求めてここに終着し、定住した人びとは、どんなにこの和やかな楽園を愛し、神々に感謝したことで あろう。(北方寒冷地や中央アジアの乾燥地帯に住んだ人びとの眼には、この大和こそ 天地(あめつち)のさきわう国、理想の地として映ったことであろう。) そうした移住民の喜びと賛歌とオプティミズムとが『古事記』の神代の巻などには溢れている。
 この島では階級間の争いはあれ、生命の連続が根こそぎ断ち切られるということはない。(種族み な殺しになるような異民族の侵入は、13世紀のモンゴルの来襲の例外をのぞいて、ただの一回もない。) 〝時″は命の勢いそのままに永遠につづくものであって、この島の民はついに絶対否定の外的契機を 知らない。産霊(むすび)の神はたえず生産をくりかえし、人びとはそれを 産土(うぶすな)(やしろ)にまつり、共同体 をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった。来世も死も彼岸の外来観念も人びとを 虚無的にはしなかった。命は永遠で、永遠はこの今にあると思惟されてきた。その「歴史的オプティミ ズム」ともいえる信念は固有信仰となって、2000余年、いくたの世界宗教と習合しながらもヤドカリの ように一貫して生きつづけ、日本人の自然思想や生活思想の根を培ってきた。吉本隆明のいう土着的な 大衆「ナショナリズム」の原基も、歴史を遡ればじっにここにまで到るのである。

 問題点を二つあげることができる。一つは「日本は四面環海の島国」であるのは確かだが、「稀なる孤島」 だったのだろうか。
 二つ目は「産霊(むすび)の神はたえず生産をくりかえし、 人びとはそれを産土(うぶすな)(やしろ)に まつり、共同体をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった」という記述から浮かび 上がるイメージは「その中だけで十分に自給自足できるという文字通り〝豊穣の島″」いわゆる 「瑞穂の国」=「農業国」だが、「日本人の自然思想や生活思想の根」は、はたして農業だろうか。
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308 「日本」とは何か(2)
「日本」という呼称について(1)
2005年6月21日(火)


 前回提出した問題に入る前に国名「日本」について確認しておきたいことがある。

  「日本」を「ニホン」と読むか「ニッポン」と読むかという問題もあるようだが、ここで問題にし ているのは「読み方」のことではない。が、ちなみに私はもっぱら「ニッポン」と読んでいる。とくに 理由はなくいつの間にかの習慣だ。うろ覚えの「シロジニアカク・・・」という「ヒノマル」の歌 では「アア ウツクシイ ニホンノハタハ」と「ニホン」だったと思う。スポーツ・ナショナリズム では「ガンバレ ニッポン」ともっぱら「ニッポン」を使っているようだ。まったく根拠のないあて ずっぽうだが、右翼系の人が使うのは「ニホン」かしら?「ニホン人ならはじをしれ!」とか「すば らしいニホン文化とニホンの伝統」とか「ニホンよい国カミの国」とかは、「ニッポン」より 「ニホン」のほうが合いそう。
 ヨタ話はこれくらいで。

 では「日本」という国名はいつから使われたのか。

 「日本人」は「倭人(わじん)」という呼称で、紀元前後に始めて文献に 登場する。
「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。」(漢書地理志)
しかし、もちろん「倭人」は日本人ではない。

 いま「チャングムの誓い」という韓国ドラマを楽しんでいる。そのドラマに「倭寇」が登場するが、 ドラマでは「倭寇」を「日本人」として扱っており、扮装も日本の戦国武士風である。私はその 「倭寇」に強い違和感をもった。高校生のときに「倭寇」は一種の海賊だと習った。そのときは、 海を舞台に活動していた国際的な集団という印象をもった。

 読みさしのままの本をいま読み直している。網野善彦著『「日本」とはなにか』 (「日本の歴史00」講談社)。今回始めたシリーズの表題はこの本が念頭にあってのことだった。 しばらくこの本を利用させていただく。(なお、網野さんは惜しくも昨年2月27日に亡くなられた。 享年76才。合掌)

 『「日本」とはなにか』に「倭寇」についての記述がある。
 網野さんは日本の教科書が倭人=日本人のような記述をしていることを指摘している。また、 韓国・朝鮮においても日本人に対する蔑称に「倭奴」という言葉を用い、日本人による朝鮮への 暴虐として「倭寇・壬辰倭乱・日帝三十六年」をあげるのが韓国では常識だという。
 それに対して網野さんは「 しかし私は豊臣秀吉によって行われた二回にわたる日本国の朝鮮 侵略、「大日本帝国」が朝鮮半島を植民地とし、朝鮮民族の日本人化を強要したことについては、 一言の弁明もなく頭を下げるが、「倭寇」をこれに加えることについては、事実に反するとして 承服しない。」と述べている。そして今日までに実証されている「倭寇」の全体像を次のように 記述している。
「倭寇」は全体として、西日本の海の領主・商人、済州島・朝鮮半島南部・中国大陸南部の海上勢 力の海を舞台とした結びつき、ネットワークの動きであった。前期倭寇には朝鮮半島の 「禾尺(かしやく)才人(さいじん)」といわ れた賎民も加わったとされ、後期倭寇には日本列島人よりもむしろ中国大陸の明人の方が多かったと いわれている。そして一方で「倭語を解し、倭服を着る」といわれ、他方でその言語は「倭語でも 漢語でも」ないとされるように、「倭寇」は国家をこえ、国境に関わることなく、玄界灘・東シナ海 で独自な秩序を持って活動していたのである。
 実際、日本国の政府-室町幕府はこれを弾圧しており、援助などしてはおらず、東日本の人々は 「倭寇」とはほとんど無関係といってよかろう。そして、高麗・朝鮮、明の政府も、室町幕府ととも に、陸の秩序を背景にこうした海上勢力を「倭寇」、「海賊」として禁圧したのである。
 このように、「倭寇」の実態は国家をこえた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」はけ っして日本人と同じではない。それゆえ「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのは、 まったくの誤りといわなくてはならない。

 「チャングムの誓い」の「倭寇」はこのような学問的に実証された歴史的事実を踏まえない 「無知」あるいは「偏見」の故の描写だ。アメリカ映画でもよく噴飯ものの「日本人像」に出会うが、 むろん目くじらを立てるほどのことではない。私にもたくさんの「無知」や「偏見」があるだろう。 しかし、「無知」や「偏見」はいずれ解消されるべきだ。いや、積極的に解消を心がけなくて はいけない。お題目として「平和」を唱えるより、そうした地道な努力のほうが数等重要だと思 う。

 さて、紀元前後に文献に現れた「倭人」に戻る。
「倭人」と、日本国成立後の日本人とは、列島西部においては重なるとしても、けっして同一では ない。『魏志』倭人伝に描かれる三世紀の「親魏倭王」卑弥呼をいただく「倭人」の勢力は、たと え邪馬台国が近畿にあったとしても、現在の東海地域以東には及んでいないと見てよかろう。それ はのちの広義の「東国」の地域である。
 さらに降って五世紀の倭王武、ワカタケルは宋の皇帝への上表文で、「東は毛人を征すること五十五 国・西は衆夷を服すること六十六国」といっている。ここで「毛人」といわれているのは「蝦 夷」の表現の一つとされ、「毛野(けぬ)」の「毛」をさし、この時期に は関東人・東北人など狭義の東国人であることは間違いない。「衆夷」は中部九州以南の人々であ ろうが、これらの人々のうち関東人と中部九州人は後にものべるように成立当初の日本国の国制の 下に入っているので「日本人」であるが、けっして「倭人」ではなかったのである。
 また「倭人」と呼ばれた人々は済州島・朝鮮半島南部などにもいたと見られるが、新羅王国成立 後、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていった。このように「倭人」と「日本人」とが同一視でき ないことを、われわれは明確に確認しておく必要がある。
309 「日本」とは何か(3)
「日本」という呼称について(2)
2005年6月22日(水)


 続いて網野さんは「日本人」という呼称について、あらためて強調しておきたいと、次のよう に述べている。
「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、 この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、 特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前 ―― 国号である以上、 これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在 せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた 厩戸王子(うまやどのみこ)は「倭人」であり、日本人ではない のであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
 近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人でなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によっ て強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人と なることを権力によって強要されたのである。
「民族」の問題をそこに入れると、ことは単純でなくなってくるので、それについては後に若干のベ るが、日本人について、これまで「民族」、人種、あるいは文化の問題などを混入させ、さまざまな 思い入れや意味を加えて議論されてきたために混乱がおこり、日本人自身の自己認識を混濁させてき たと考えられるので、私は単純に、今後とも「日本人」の語は日本国の国制の下に置かれた人々とい う意味で用い続けたいと思う。
 そして、そう考えると「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。

 それでは「日本」という国名はいつ定められたのか。
 この「日本人の自己認識の出発点ともなるべき最重要な」事柄が「天から降ってきたように、古く からいつのまにかきまっているという曖昧模糊たる認識」にとどまっていて、「現代日本人のほとんど が、自らの国の名前が、いついかなる意味できまったのかを知らないという、世界の諸国民の中でも、 きわめて珍妙な事態が現在もつづいている」と、網野さんは次のようなエピソードを記載している。
 実際、私が15年間、勤務していた神奈川大学短期大学部と、その退職後3年間、講義をした同学経 済学部の学生諸君に、1980年代後半から毎年、講義の冒頭にこの質問を発し、世紀を数字で紙に 書かせるか、手を挙げさせるなどの方法で調査してみたが、紀元前1世紀から20世紀まで、各世紀 に数字が分散し、多数派はない。要するに知らないのである。これは京都大学経済学部の学生約100人 もまったく同じであり、〝キャリア組〟の国家公務員50人の中の2、3名を指名したところ、19世紀、 15世紀、9世紀と正解はなかった。

 こういう不正確な知識、というより無知が「日本の伝統」というたくさんの虚偽を含んだ概念に 呪縛され、偏狭なナショナリズムを流通させていく。
 国会議員などは官僚の〝キャリア組〟と同程度かそれ以下だろう。だからこそ「建国の記念日」な どというウソをまことしやかに制定してしまう。その連中が「誇りある歴史、伝統を持つ日本を次代 に伝える」とのたまう。(超党派の日本会議国会議員懇談会というたいそうな名の無知蒙昧集団の設立 趣意書で「高らかに」うたっている。)私たち支配される者からみれば、搾取と殺戮の歴史じゃないか。 (伝統については留保をつけよう。いずれ詳しく述べる機会があるだろう。)

 では、国号がいつ決まったかというような重大な事柄を日本人のほとんどが知らないという、きわめ て驚くべき事態がなぜいままで放置されてきたのか。網野さんはご自身の反省も込めて次のように述べて いる。
 なぜこのようなことになったのかについては、まことに根の深いものがあるが、その直接的な背景 として、明治以後の政府によって、記紀神話の描く日本の「建国」がそのまま史実として、国家的教 育を通じ、徹底的に国民に刷り込まれたこと、敗戦後、それを批判し、事実に基づく学問的な歴史像 を描くことを目指した戦後歴史学も、天皇については批判的な視点を持っていたが、それと不可分の 関係にある「日本」については、まったく問題にもしなかったことなどをあげなくてはなるまい。
 1966年、政府が「紀元節」を継承する「建国記念の日」を定めたときも、これに反対し、もと よりいまも反対し続けている歴史研究者たちも、「日本国」成立についてはとくにとりあげることな く、一方で当然のように「日本の旧石器時代」「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」などの表現を 用いてきた点にも、戦後歴史学の盲点が端的に現われているといわなくてはならない。かくいう私自 身も20年ほど前まではまったく同様であったので、日本人の歴史認識を混濁させてきた罪を負って いる。

 「日本」という国名がはじめて現われ、日本人が姿を見せるのは、ヤマトの支配者たちの抗争= 「壬申の乱」に勝利した天武朝廷が「倭国」から「日本国」に国名を変えたときである。網野さんは 次のように詳述している。
 それが7世紀末、673年から701年の間のことであり、おそらくは681年、天武朝で編纂が 開始され、天武の死後、持統朝の689年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに、日 本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、702年 に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったこ とは、多少の異論はあるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといってよい。

 国号を「日本」としたとき、「大王」を「天皇」という称号に変えている。「日本」が唐帝国に 認められ東アジア世界に通用したのに対して、「天皇」の方は公的な外交文書では用いることがで きなかったようである。この問題には今は深入りしないが、「天皇」という称号の使用に際して、 「日本」という国号の使用と同じ混乱がはびこっている事は指摘しておきたい。このことについての 網野さんの論述には網野さんご自身の呼称方法も書かれていて参考になる。
 「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」の表現と同様、天皇号の定まる以前についても 「雄略天皇」「継体天皇」「崇峻天皇」「推古天皇」などの「天皇」が、教科書になん のことわりもなく、当然のように登場する。教科書だけではない。歴史学・考古学等の研究者 の研究書、叙述においても、こうした表現が広く見られるのである。これはやはり「天皇」が きわめて古くから存在したという誤りを、日本人に無意識のうちに刷り込む結果になっている といわざるをえない。
 このようなことを気にかけるのは煩しいという意識も、研究者の中にはあると思うが、作家の方 がこの点では研究者よりきびしい場合も見られる。たとえば黒岩重吾氏は『茜に燃ゆ』という作品 をはじめとして、天武以前には天皇の号を作品の中で一切使用していない。これくらいのきびしさを、 歴史研究に携わるものも持つことが必要なのではなかろうか。
 私自身、「日本」についても「天皇」についても、本当にものを書くときに意識しはじめてから、 まださほど年月はたっていないが、近年『日本社会の歴史』(上)(岩波新書、1997年)では、この ことを意識して叙述をしてみた。大王については「オホド王(のちに継体とよばれる)」という表現を し「アメクニオシヒラキヒロニワ(のちに欽明とよばれる)」としてからは以下、1大王については便宜 上、後年の天皇の漢風諡号(しごう)を用いる」と注記し、大王用明、女王推 古のように呼んでみた。また、皇太子、皇后、皇子の語も、天皇の制度の成立以前は使用せず、 太子、大兄(おおえ)大后(おおきさき) 、王子と表記した。
 もとよりこの方式が最良などといえないことはいうまでもなく、さらによく考えられなくてはならな いと思うが、いちおう、これで叙述することはできたのである。人それぞれの表現の仕方、考え方に 違いのあることはいうまでもないが、「日本」と「天皇」がそれ自体、歴史的存在で、始めがあれば 終りもありうることを明確にするために、こうした配慮が日常的に必要ではないか、と私は考えて いる。
310 「日本」とは何か(4)
「日本」という呼称について(3)
2005年6月23日(木)


 今回は、国号として「倭」や「やまと」ではなくなぜ「日本」が選ばれたのか、という問題 を取り上げよう。

 この問に対して誰もがすぐに思いつくのは7世紀初頭に遣隋使が持参した倭王の国書に書かれて いた次の文言だろう。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
 今国書に対して、時の皇帝・煬帝(ようだい)は機嫌を損ねている。
「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以って聞する勿れ」
と言ったと伝えられている。(隋書倭国伝)

 これについて、網野さんは次のように解説している。
しかしこの国号は、西郷信綱氏や吉田孝氏の指摘する通り、太陽神信仰、東の方向をよしとする 志向を背景としており、中国大陸の大帝国を強烈に意識した国号であることは間違いない。 「日本」は「日の本」、東の日の出るところ「日出づる処」を意味しているが、いうまでもなく それは西の中国大陸に対してのことであり、ハワイから見れば日本列島は「日没する処」に当るこ とになる。

 これに次いで、この国号について過去に行われてきたいろいろな議論が紹介がされている。 私には初めて知ることばかりで、大変興味深く読んだ。少し長いがそのくだりを全文掲載する。
この国号については、平安時代から疑問が発せられており、承平6(936)年の『日本書紀』の 講義(『日本書紀私記』)において、参議紀淑光(さんぎきのよしみつ) が「倭国」を「日本」といった理由を質問したのに対し、講師は『隋書』東夷伝の「日出づる処の 天子」を引いて、日の出るところの意と「日本」の説明をしたところ、淑光はふたたび質問し、 たしかに「倭国」は大唐の東にあり、日の出る方角にあるが、この国にいて見ると、太陽は国の中 からは出ないではないか、それなのになぜ「日出づる国」というのかと尋ねている。これに対し講師 は、唐から見て日の出る東の方角だから「日本」というのだと答えているが、岩橋小弥太氏も 「よほど頭の善い人だった」と評しているように、この淑光の質問はみごとにこの国号の本質を衝い ているといってよい。

 このように、この国号は「日本」という文字に則してみれば、けっして特定の地名でも、王朝の創 始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であることは間 違いない。そこに中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマト の支配者の姿勢をよくうかがうことができるが、反面、それは唐帝国にとらわれた国号であり、真の 意味で自らの足で立った自立とはいい難いともいうことができる。

 それゆえ、穏健なナショナリストである岩橋小弥太氏は、この解釈をとると、自分が左の人からは 右さん、右の人からは左さんといわれることになり、「分裂症」的になるとして、ヤマトの枕詞に 「日の本」とある点に着目、そこに国号の淵源を求めている。しかし吉田孝氏のいうように、『万葉 集』の中で「日の本」がヤマトの枕詞となったのは一例しかなく、しかもそれは「日本」という国号 の決ったのちであり、岩橋小弥太氏の説は成り立ち得ないであろう。

 この国号はまさしく「分裂症」的であり、中国大陸から見た国名であった。紀淑光の疑問はその点 を的確についたのであるが、それより前、延喜4(904)年の講義のさいにも、「いま日本といって いるのは、唐朝が名づけたのか、わが国が自ら称したのか」という質問が出たのに対し、その時の講 師は「唐から名づけたのだ」と明言している(『釈日本紀』)。実際『史記正義』という大陸側の書に は、則天武后が「倭国を改めて日本国」としたとあり、そうした見方も早くからあったのである。

 もとよりこれは『旧唐書』の記事などから見て明白な誤りであるとはいえ、平安時代中期、すでに こうした誤解が学者の中にも生れている点に注意すべきで、それは「日本」という国号自体の持つ問 題であったといわなくてはならない。それゆえこれ以後、岩橋小弥太氏が「皆てんでんに勝手なこと を主張していたようにも思われる」と慨歎したように、国号をめぐる議論は錯綜をきわめている。

 その中で江戸時代後期、この国号を「大嫌い」といった国家神道家が現われた。幕末、尊王攘夷論 によって知られた水戸学者東湖の父藤田幽谷の書簡に、「日本国号」について近ごろさかんに議論 があることにふれた一通があり、その中に「一種の国家神道を張」る「会津士人佐藤忠満」の「一奇 談」として「日本の号ハ唐人より呼候を、其まゝ此方にて唐人へ対候て称する所のみ」と主張する 佐藤が「国号を申候事、大嫌之様子」と記されている。幽谷はこれに対し、佐藤のいう通りだが、 唐人から呼ぶなら「日(×)」というだろうが、 「日(×)」の字を用いた点に「倭人」らしさが見えるから、 この国号は「此方」で建てたことは間違いないと答えたが、これは佐藤の方が筋が通っており、幽谷 の答えはこじつけといえよう(この書簡については長山靖生氏に教えていただいた)。

 最後に次のように、「日本大好き」右翼を皮肉っている。
 このように、後年の「国粋主義」につながる人が「日本」という国名を「大嫌い」といっており、 それはそれなりに筋が通っている。1996年、NHKの人間大学で「日本史再考」というテーマで 放送したとき、かつて一部の支配者がきめたこの国号は、われわれ国民の総意で変えることができる とのべたところ、「日本が嫌いなら日本からでてゆけ」という警告のはがき、手紙をいただいた。し かしこうした立場に立つ人々こそ、さきの「国家神道家」の「筋の通った」主張を継承し、「日本」 を「大嫌い」というべきであろうし、中国大陸側に視点を置いたこの国号など、ただちに変更すべし という運動をおこされるのが当然だと思う。私自身は、本書のように、千三百年続いたこの 「日本」の徹底的総括を不可欠の課題と考えているので、もとよりそうした運動にただちに与する つもりはなが。
311 「日本」とは何か(5)
「稀なる孤島」という虚像(1)
2005年6月24日(金)


 今回は、第一回目に提示した問題『「日本は四面環海の島国」であるのは確かだが、「稀なる孤島」 だったのだろうか。』を取り上げる。この問題の解明も網野さんの『「日本」とは何か』に負う。

 日本列島を地理的側面から論じる場合、五つの内海をはじめ、少なくとも以下に述べるくらいの広い 視野をもって論じるべきであると、網野さんは言う。そしてもう一つ、「それは陸の支配の論理では なく、海そのものの特質を十二分に視界に入れた見方に立つ必要がある」と言っている。
 まず、網野さんが描写している壮大な地理的視野を地図を見ながら確認しよう。

地図1


 アジア大陸の東辺には、北から南に、五つの巨大な内海が連なっている。
 北米大陸のアラスカ、シベリアの最北東部、カムチャツカ半島東岸、そしてアレウト(アリューシ ャン)列島で囲まれた、ベーリング海が最北にひろがる。アメリカ大陸とアジア大陸はベーリング海 峡で結ばれている。
 その南に、カムチャツカ半島西部、シベリア東部、サハリン東岸、北海道東部、そして千島(クリ ル)列島で囲まれるオホーツク海がひらけている。
 それに続いて、サハリン西岸、日本列島の西岸、朝鮮半島東部、いわゆる「沿海州」にとりまかれ た「日本海」が、まさしく湖のような姿を見せている。
 さらにその南には朝鮮半島西岸、九州西部、南西(沖縄)諸島、台湾、中国大陸の東岸に囲まれ、 黄海を内懐に抱く東シナ海の広い空間がある。
 そして最も南に、台湾、フィリッピン群島、中国大陸南部、インドシナ半島、マレー半島、ボルネ オ島がかかえているのが南シナ海である。

 この海から西に向い、マラッカ海峡をこえるとアンダマン海、ベンガル湾がひろがり、インドへの 道がひらけ、東に向うと、いわゆる東南アジア ―― インドネシアからオセアニア ―― ニュー ギニア、オーストラリアに海の道が通じている。
 そしてさらに東には南太平洋の島々が連り、南米大陸に及ぶのである。

 また、日本列島の東南岸、南西諸島、台湾、フィリッピン群島を結ぶ島々と、伊豆諸島、小笠原諸 島、マリアナ諸島、パラオ諸島に囲まれた広大なフィリッピン海がひろがっている。

 次に、「海そのものの特質」を確認しよう。
 気候の変動の影響を強くうける海の世界は時には激しく荒れて人の往来を拒む。この故に、 海に囲まれた日本国は外敵からの攻撃、異民族の進攻を受けることがきわめて少なかった。 しかし、だからと言って日本列島を「稀なる孤島」というのは虚像に過ぎない。 網野さんは次のように言っている。
 しかしそれは日本国、日本列島が海によって他の地域から孤立していたことを意味するものでは 決してない。急がず慌てず、日和を十分に見定めて航行すれば、平穏な海ほど安定した快適な交通路 はないといってよい。それゆえ、長い時間をかければ多くの人も膨大な物も、海を通じて運ぶことが できるのである。荒れた海は、たしかに人と人とを隔てる障壁になるが、こうした穏やかな海は、人 と人とを緊密に結びつける、太く安定した交通路であった。
 そして青森の三内丸山遺跡から新潟のヒスイや北海道の黒曜石が出土する事実、福井の鳥浜遺跡 から船が発掘されたことなどによってすでに証明されているように、船による広域的な活動は縄文 時代以前にまで遡る。とすれば、日本列島がまさしく列島になった縄文時代以後も、さきにふれた 周辺の海を通じて、多くの人や物がたえまなく、この列島に出入していたことは確実といわなくて はならない。
 実際、日本列島はアジア大陸の北方と南方を結ぶ巨大な懸け橋の一部であった。

 網野さんは地図をもう一葉提示している。 「環日本海文化」に着目し、大きなシンポジウムを たびたび開催するなど、熱心に「日本海」を通じての諸国間の交流を追求している富山県が が作成した地図だという。(「環日本海諸国図/富山中心正距方位図(350万分1)

  地図2


この地図についての網野さんのコメントは次のようである。
 日本列島をアジア大陸から見るような形で、大陸の上によこたえ、富山を中心に250キロ、500キロ から1500キロまでの同心円を描いた地図で、実態は通常の地図と同じであるが、この地図からうける 印象はまことに新鮮で、ふつうの世界地図の中の日本列島とはまったく異なったイメージを うけとることができる。
 なにより、サハリンと大陸との間が結氷すれば歩いて渡れるほど狭いことや、対馬と朝鮮半島の 間の狭さ ―― 晴れた日には対馬の北部から朝鮮半島がはっきり見えるほどの狭さを視覚的に 確認することができる。そして日本列島、南西諸島の懸け橋としての役割が非常にはっきりと浮 かび上がり、「日本海」、東シナ海は列島と大陸に囲まれた内海、とくに「日本海」はかつて 陸続きだった列島と大陸に抱かれた湖のころの面影を地図の上に鮮やかにとどめている。
 そしてこの地図を見ると、北海道、本州、四国、九州等の島々を領土とする「日本国」が、海 を国境として他の地域から隔てられた「孤立した島国」であるという日本人に広く浸透した日本像 が、まったくの思いこみでしかない虚像であることが、だれの目にもあきらかになる。