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289 統治形態論・「民主主義」とは何か(1)
教科書民主主義
2005年6月2日(木)


 朝日新聞(5月5日・夕刊)で橋本大三郎が天皇の継承問題についての論説を書いていた。 その最後のくだりはこうだった。
 天皇の血統が断絶して何が問題なのかと、私は言いたい。天皇システムと、民主主義・人権思想とが、 矛盾していることをまずみつめるべきだ。そもそも皇族は、人権が認められていない。結婚は「両性の 合意」によるのでなく、皇室会議の許可がいるし、職業選択の自由も参政権もない。皇族を辞める自由 もない。公務多忙で、「お世継ぎ」を期待され、受忍限度を超えたプレッシャーんにさらされ続ける。 こうした地位に生身の人間を縛りつけるのが戦後民主主義なら、それは本物の民主主義だろうか。皇位 継承者がいなければ、その機会に共和制に移行してもよいと思う。日ごろ皇室を敬えとか、人権尊重と か主張する人びとが、皇族の人権侵害に目をつぶるのは奇妙なことだ。皇室にすべての負担を押しつけ てよしとするのは、戦後民主主義の傲慢であろう。皇室を敬い人権を尊重するから、天皇システムに 幕を下ろすという選択があってよい。共和制に移行した日本国には天皇の代わりに大統領をおく。 この大統領は、政治にかかわらない元首だから、選挙で選んではいけない。任期を定め、有識者の選考 会議で選出して、国会が承認。儀式などの国事行為を行う。また皇室は、無形文化財の継承者として 存続、国民の募金で財団を設立して、手厚くサポートすることを提案したい。

 皇室が差別を基調とした現在の日本社会の象徴であるという認識には同意する。またいわば 皇室民営化論を提示しているがそれにも賛意を表しよう。しかしそれが「本物の民主主義」とか 「戦後民主主義」という文脈で語られているかぎり、その「皇室民営化論」は単なるヨタ話になって しまう。その点において私はこの論議に底抜けのオポチュニズムを感じる。この人は「民主主義」をど のように理解しているのだろうか。
  「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制 度》をいう」という橋本の民主主義理解を、「『非国民』手帖」で「歪」氏が「学級会レベルの平板 な民主主義」と揶揄していたのを思い出した。(第109回参照)まったく進歩していないようだ。

 ここで思い出したことがある。もう4ヶ月ほども前になる。「市民インターネット新聞・JANJAN」 で「九条の会のアピールへのアピール」という九条の会のアピールを批判した記事にであった。 その記事があまりにも「いい気なもの」だったので、その記事への批判文を書いた。 (第190回~192回参照)JANJANではその記事の掲示板で議論が行われていたので私の批判文を 投稿してみた。最後のところで「国家論」を書くつもりだったが、抽象的な理論より分かりやす いだろうと思い、それに代えて秋山清氏の文を引用した。その最後のくだりを再度掲載する。
 国家観に関してもう一つ重要なことは「国家」と「市民」(私は「人民」という)の関係を 「支配-被支配」あるいは「抑圧-被抑圧」という関係から捉えることである。この観点から世界を 見れば、世界にはブッシュが言う様な「自由主義国家」対「ならず者国家」などという対立はなく、 あるのは「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立があるばかりだという歴然とした 事実が大きく浮かび上がる。
 憲法前文は、この「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立を克服するという課題 のための国家の役割を述べている。そしてこの課題は世界の全市民(人民)の共通の課題であるとも 言っている。「アピール」が「世界の市民の意思」と言っているのはそういうことだ。この私の理解 では「アピール」の言説にこれぽっちも「矛盾」はない。

 憲法「改正」において大きく意見が分かれる論点の多くは、国家観の違いに由来する。あなたと 「アピール」、あるいはあなたと私の、憲法を巡る意見の相違も煎じ詰めれば国家観の違いと言う ことになると思う。乏しいながら私の知る範囲では、上述のような国家観を私は今のところ一番「正しい」と確信し ている。

 最後に私が上述の国家観を「正しい」と断ずる所以の援護として、「国家について」で引用した 文章を再録して終わることにしよう。このような国家観とあなたがお持ちであろう国家観とを、 どうか、現実と照らし合わせてることによって比較検討されんことを。

 「国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄であるかのような錯覚に満ちわたっている。 日本の民衆は、自分たちが民衆にすぎないということすら、自覚していないのだ。かくては、毎日 の生活と生活環境への順応、治安の維持(支配のための)のための道徳と法律、その法律をつくる ための議会、議会のための選挙、われわれの坐臥、24時間、365日、この国家という権力機構の操作 の外に出ることはできない。繁栄といわれている現在ほど民衆の精神生活が、わが精神環境の外側 に吸収されて飢餓に瀕したことはなく、逆に国家権力がこれほど安定していることもない。国家が 民衆のものであるなどと、ぬけぬけとしたいい方があり、しかもなお民衆がそれを疑惑することすら できない。」

 「われわれは国家というものが、大衆の意志などとまるでまったく無関係な政府によって、政府 をつくる政党によって、政府をバックアップする階級によって、資本家によって、官僚によって、 あるいは地主らの総合的利益のためによって、つくられて運営されて、下級民衆にはそのための必 要によってのみ支配の手が緩急されるという事実をあまりにも痛切に経験しつつある。
(中略)
 国家、それは、社会主義を名乗ろうと王国であろうとデモクラシーの近代的国家であろうと、その 国家と民衆との関係は、圧制者と権力にしいたげられる奴隷との対立であることにかわりはない、と いうことにつきる。」 (秋山清「反逆の信条」より)

 このくだりについて、議論を主導していたらしい人(「アピールへのアピール」の筆者ではない)から 次のような反批判が掲示板に掲載された。
「国家」と「人民」は対立しません。対立させないためのシステムが、「民主主義」なのです。 民主主義は、国家を人民が運営していくためのシステムであり、それが本質です。国家という システムが人民に奉仕するために編み出されたのが、まさに民主主義なのです。

>ブッシュが言う様な「自由主義国家」対「ならず者国家」などという対立はなく、 あるのは「支配者・抑圧者」対「被支配者・被抑圧者」という対立があるばかりだという歴然とした 事実が大きく浮かび上がる。

とおっしゃいますが、ではそのブッシュ氏が権力を持っているのは何故でしょうか。ブッシュ氏を 権力者に選んだのは誰ですか?

「国家」と「人民」が対立しているのであれば、それは民主主義が機能不全に陥っている証左です。 そこで問題にされるべきは「民主主義システムの正常化」であり、「国家システムとの闘争」で はありません。

 安易にそれを対立させることは即ち民主主義の否定であり、そうであるならば、「国家」と 「人民」が対立しない別のモデルを示すべきなのです。

 秋山氏は間違っています。秋山氏が指摘したような搾取の構造があるのであれば、それを拒否する 権利をも人民に与えたのが民主主義なのですよ。秋山氏がしたことは、現在の社会にある矛盾点を 掘り出し、それを国家システムの問題と摩り替えているに過ぎません。

つまり、現在の社会にある問題点とは、我々一人一人が選択したことの結果・ひずみが顕在化しただ けのものであり、それは即ち我々自身の問題なのです。「民主主義とは、愚か者に滅ぶ権利すらも 与える」ものなのです。であれば我々がするべきことは、「賢い人民」になり、「よりよい国家 システム」を実現することではないでしょうか。

 ここで述べられている民主主義は「教科書民主主義」といったらよいだろうか。やはり凡庸で平板な 民主主義がはびこっている。
 『我々がするべきことは、「賢い人民」になり、「よりよい国家システム」を実現することではない でしょうか。』
 その通り。だがそのための第一歩は「教科書民主主義」を止揚することだ。「教科書民主主義」の 誤謬を知ることは「賢い人民」であるための必要条件なのだ。
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290 統治形態論・「民主主義」とは何か(2)
「教科書民主主義」の問題点
2005年6月3日(金)


 「国家」と「人民」は対立しません。対立させないためのシステムが、「民主主義」なのです。 民主主義は、国家を人民が運営していくためのシステムであり、それが本質です。国家というシステ ムが人民に奉仕するために編み出されたのが、まさに民主主義なのです。

 教科書に書かれているようなこうした民主主義理解には問題点が二つある。

 一つは「教科書」を金科玉条となし、現実を度外視した観念的な(正しいと思い込んだ)認識 が一人歩きしている点にある。そして、あたかもその観念的な認識が現実であるかのような錯誤 に陥っている。
 もちろん絶対的に正しい認識などはない。認識とその対象=現実との常なる照合によって、より 正しい認識を得ていくほかはない。しかし、正しいと思い込んだ認識が現実であるかのような錯誤に 陥っては、見るべき現実が見えない。現在の日本国家を「教科書民主主義」を体現した国家と誤認 してしまう。そのような認識は硬直したままで発展深化されることはないだろう。だからそこには現実 を変えていく契機はまったくない。

 ところで、社会生活レヴェルでも「民主主義」という言葉が使われている。そのもっとも皮相な ものが「多数決で決めて、みんなでそれを守りましょう」というそれこそ「学級会レヴェルの民主 主義」だ。これから考えようとしている「民主主義」はこうした意味でのものではない。 あくまでも政治概念としての「民主主義」である。

 問題点の二つ目はその政治概念としての「民主主義」そのものを誤認している点にある。 「民主主義」は「国家というシステムが人民に奉仕するために編み出された」ものでは決してない。 近代国家が形成されてきた歴史的事実からはそのような民主主義理解は得られない。現実にも 「人民に奉仕する国家」など、日本国憲法の前文の中にしかない。(今日本の支配者らは人民を 理念の上でも「国家に奉仕する国民」にしようと躍起になっている。)これは歴史的事実に目をつ ぶっているために、対象から認識の在り方を逸脱させるという誤謬に陥っている。しかしこれが 広く流布されているいわゆる「民主主義」なのだ。この種の「民主主義」信奉者は次のような、実 に楽天的な、どちらかというとほほえましいとも思える意見を吐露することになる。
 何度でも言います。国を変えたかったら選挙に行きましょう。今いる議員に何かを変えてもらうんで はなくて、国民全員巻き込んで投票で意思表示しましょう。
 護憲や改憲の立場で何を言おうが何をやろうが、投票で意思表示しなかったらただのたわ言、 ざれ事ですよ。
 法治国家において、世の中を変えるのに一番簡単なことなのになんでみんなその権利を使わない のかな?100%の投票率で何も変わらなかったら、それはそれで仕方ないけどね。

 反対に投票率0%もまったくありえないことだが、もしも投票率0%になったら確実に政治はかわ るだろう。ただし、その変化がファシズムに向かうか真の人間開放に向かうか、その吉凶は「賢い 人民」の賢さの質による。

 さて、政治概念としての「民主主義」の意味を明らかにすることがこのシリーズのテーマだが、 もちろん私がそれを自力で解明できるわけはない。その理論的解明には研鑽を積んだ専門家の 知力と膂力を必要とする。私にできることは、今までもそうだったように私自身が学ぶ目的を兼ねて、 私の知る範囲で私が最も信頼している理論を紹介することである。滝村隆一著「国家をめぐる論戦」 所収の「現代革命論の理論的再建のために」を用いる。

 「民主主義」とは近代ブルジョア国家の統治形態全体に関わる概念であり、「民主主義」とは何かを 問うことは、いわば、統治形態論を読み解くことと同意である。とくに「議会制民主主義」の原理的な 解明ということになる。
 ところで、滝村さんは統治形態論は「ブルジョア独裁を実現している様々な国家的支配の形式・形態 に関わるものであって、国家論のなかで理論的には最も重要にして困難な」問題だといい、「統治形態論」 の現況(1980年頃)について次のように述べている。
 凡そ国家論の統治形態論としての発展的具体化を可能としない国家本質論、あるいは統治形態論として の具体的展開を理論的裾野として把持しない国家本質論など、文献哲学者の空虚な思弁的妄想でな かったら、大海に浮遊する枯葉の如き代物でしかない。

 「空虚な思弁的妄想」や「大海に浮遊する枯葉の如き代物」しかないのが「国家論」の現状だと 認識している。「この問題をはじめて正面から扱い、その理論的解明に死力を尽してきた」と研究 過程を述懐し、自らの研究に対する自負を述べている。その研究成果を謙虚に賞味することにしよう。
291 統治形態論・「民主主義」とは何か(3)
「民主主義」と「専制」
2005年6月4日(土)


 これからの議論は「国家本質論」を「統治形態論」として具体的に展開していく ものなので、いわば「第93回 滝村隆一の国家論」(2004年11月15日)の続編ということになります。 まだの方は「第93回」を先に読んでください。

 以下、滝村さんの「統治形態論」を要約しながら紹介していく。

 まず、統治形態とは国家意志の最高の裁可・決定権をめぐる第三権力の一般な組織的・制度的 構成と形態を指す。したがって、「統治形態上の政治的概念」としての「民主主義」とは 第三権力が国家意志とくに「法規範」という国家意志を決定するための組織的・制度的な一形態のこと である。
 一般論としては、「民主主義」とその対比的な概念である「専制」との違いを見ることに よってその内実ははっきりするだろう。
 十分に発展した近代国民国家においては、第三権力の国家としての国民支配の形態は、直接には 立法機関・執行機関・裁判機関という三大機関の分立形態をとった、いわゆる「三権分立」とし て整備されてきた。統治形態という場合には、このような第三権力の組織的・制度的構成のもとで、 国家意志を形成するための一般的法規範を決定する立法権とそれを実践遂行していく執行権が、 統治権力としてどの程度に独立的主体的であるかを問題としている。つまりその核心は、 統治権力の中枢をなす執行権力と「議会」との立法権をめぐる制度上の権力分掌がどうなっている かという問題に収斂する。国家意志を裁可・決定する最高の権限がどこにあるかという問題と言い直し てもよいだろう。

 「民主主義」とは、国家意志とくに一般的「法律」としての国家意志の決定権が、少なくとも形式的 制度的には「議会」によって掌握されている国家的支配の形態である。法律の国民諸階級・諸階層への 実践遂行は統治権力の中枢をなす執行権力によって行われるが、その実際的運用は多くの場合、 国家意志形成の具体化ともいえる「政令・通達等を通じた裁量権や行政指導」という下級的法規の形を とって行われる。しかし、議会を最高の国家機関として規定する法治国家の建前上、あくまでも 「議会」が裁可した一般的「法律」によって根本的に規定されている。したがって一般論として、 「民主主義」においては国家意志を裁可・決定する最高の権限は「議会」にある。

 これに対して「専制」とは統治権力の中枢をなす執行権力が実質上、「議会」から立法権を剥奪・ 吸収してしまい、国家意志を裁可・決定する最高の権限を独占的に掌握した国家的支配の形態である。 執行権力が直接の全統治権力として独立化する。近代以降ではボナパルティズムやビスマルク体制、 近年では戦時国家体制やファシズムなどの特殊な統治形態を指している。
 そこでは「議会」は形式上存続しても、執行権力裁可の国家意志をたんに形式的に追認するだけ 協賛機関へと転落している。また執行権力が直接に統治権力として独立化する場合には、 いわゆる「統治の一元性」が純粋に作用して、デスポティックな「親裁」体制を復古的に蘇生 せしめる。かくて「専制」的統治形態の発展に伴い、国家意志が一般的「法律」形態をとって押し出 されること自体が稀となる一方、デスポティツクな「親裁」体制に固有の各種執行命令、 すなわち勅令・勅命等の形態をとった国家意志が、たんに量的に膨大化するばかりか、実質上最高の 国家意志として君臨することになる。
292 統治形態論・「民主主義」とは何か(4)
議会制民主主義とブルジョア独裁の仕組み
2005年6月5日(日)


 ブルジョア革命は封建社会から人間を解放した。ただし それは人間の全的な開放ではなく、封建制という 政治的なくびきからの開放にとどまり、封建社会の基礎を なしていた社会構成員としての利己的な人間 のあり方の政治からの分離でしかなかった。つまり近代国 民国家は、ブルジョア革命による政治的国家と 市民社会の分離の必然的な結果として成立した。人間は政 治的に解放されたが(平等な一票を得たが)、 市民社会の成員としては大きな社会的不平等のもとで、む き出しのエゴとエゴの抗争を強いられることと なった。『人間は宗教から解放されたのではなく宗教の自 由を得たのである。人間は所有から解放され たのではない。所有の自由を得たのである。人間は営業の 利己主義から解放されたのではなく、営業の 自由を得たのである。』(マルクス「ユダヤ人問題に寄せて」より)

 社会的不平等が近代国民国家存立を可能としている土台 である。 「議会制民主主義」は「国家というシステムが人民に奉仕 するために編み出された」ものではなく、 国家というシステムがブルジョア階級に奉仕するために編 み出された。この「議会制民主主義」の 歴史的成立事情は現在の成熟した国民国家においても変わ らない。
 統治形態論の次の課題は「議会制民主主義」と「ブルジ ョア独裁」の構造的連関を解明すること にある。つまり、議会と政府-執行的諸機関とが、社会的諸 階級・階層とくに経済的支配階級として のブルジョアジーの階級的特殊利害にもとづく意志・要求 と、どのように結びついているか、あるい は敵対しているのかを分析することとなる。

 国家意志の一般的形態である「法律」の決定権は、立法 権として「議会」にある。もちろん、 執行権をもつ政府-執行的諸機関は、たんに議会が裁可し た一般的「法律」の執行にのみ限定されている わけではない。一般的「法律」を実際に「生きた法律」と しての実践・連用していくための政令・通 達など下級法規範という国家意志の裁可・決定権を政府 -執行的諸機関は掌握している。 従って、政府-執行諸機関の執行権力は、「議会」で裁可 された一般的「法律」にそって実際の国内政 策あるいは対外政策を遂行する際には、その一般的「法 律」に関連した個別的諸法や政令・通達等を 自在に駆使し運用するとともに、その運用の過程で新たな 関連個別的諸法や政令・通達等を裁定して 、逆に一般的「法律」を実質的に先導することもある。 そういう意味で政府-執行諸機関の執行権力 は大きな能動性と独立性をもっていることになる。
 もちろんこれは、「議会制民主主義」を前提とした典型 的な近代的統治形態のー般性なありかたである。 歴史的・現実的には、第三権カの専制的統治権力としての独 立性が肥大化する大陸法圏(独・仏中心) と、民主主義的伝統の強い英米法圏とではかなりの相異が ある。大陸法圏では、政府-執行 的諸機関の統治権カとしての独立化の傾向が強いが、それ に対して、英米法圏では議院内閣制をとるか 大統領-共和制をとるかにかかわらず、司法機関と共に 「議会」が鋭い監視の眼を光らせることに よって、少なくとも形式上は「議会」は統治権力の中枢 の一翼を担っている。

 では、社会的支配階級であるブルジョアジーはどのよう にして政治的支配をも掌中におさめるのか。 つまり、議会や政府-執行的諸機関とブルジョアジーとの 関係如何を問うことになる。
 ブルジョアジーによる国家的支配といっても、国家意志 の形成過程 とその実践的な支配過程とでは、その規定の仕方は異な っている。
 まず国家意志の形成過程つまり主として議会を舞台と した一般的諸法及び特定政策のための関連個別 的諸法で構成される一般的「法律」の形成・確定過程に おいては、ブルジョアジーの階級的意志は、 様々な内部的対立・抗争・軋轢等を孕みつつも、外部的に は大きく統一された階級的意志・総意として、 つまりは集成された総資本的意志という形態で押し出され る。
 この場合の総資木的意志形成に際しては、他の社会的 諸階級・階層とくに被支配階級に対する 支配階級の共通的な一般的利害(いうまでもなくこれは、 ブルジョアジーの生存諸条件としての 資本制的生産様式によって、構造的に基礎づけられている) が問題である。従って個別資本の 地域的・業種的特殊利害にもとづく不断の相互対立・抗争 は、支配階級としての統一され一般 化された観念的「共通利害」の立場から、内部的に調整さ れ制御される。
 もちろんこのような支配階級内部での調整と制御がうまく いかないで行き詰まることがある。 その場合には、有力政治家(議員)や所轄高級官僚(政府 -執行的諸機関)を直接巻き込んで、 ときにはかなり強引な個別資本やその関連グループの特殊 利害の圧殺等が断行される。

 このようにして形成された総資本的意志が、一般的「法 律」として形成されていく道筋は、大きくみて 二つある。
 一つは総資本的意志が、直接の政治的代理人である有力 議員層の手を通じて、政府-官僚機構 へ強引に押しつけることにより、政府法案ないし官僚の手 を借りた議員立法という形で押し出され る場合である。
 いま一つは、未だ明確に確定できていない総資本的意志 を、政府-執行機関が、より観念的かつ 国家的見地から先取りしてすくい上げてその能動性を発揮 する場合である。この場合は「国家百年 の大計」などといった意気込んだ言質をともなって官僚 層が「法律」を立案することとなる。これは 総資本による実質的な意志ではなく観念的かつ国家的 な意志であり、総資本のより現実的 かつ直接的な意志との落差を生み、ときには深刻な敵対的 性格をもつこともある(とくに対外 経済政策や独禁法を想起するとよい)。もちろんそのと きには、有力政治家を使ったブルジョアジー の執拗な妨害・抵抗によって、法案の成立自体が難しく なる。また、他の諸階級や 世論の支持を背景としてかりに成立したところで、多く の場合、政策遂行レヴエルにおいて実質上 骨抜きにされてしまう。
 かくしていずれの形態にあっても、議会における国家意 志を一般的「法律」として策定し、かつその 内容を根本的に規定しているのは、ブルジョアジーの総資 本的意志であることに変りはない。

 これにひきかえ、裁可された一般的「法律」を実践する 支配・執行過程では、一般的「法律」として の国家意志の確定にむけて総資本的意志を形成するために 隠しもたれたブルジョアジー内部における 様々な特殊的利害が全面的にぶつかり合う。すなわち、 公共事業をめぐる予算のぶんどりや補助金獲得、 また各種許認可権等をめぐる支配階級内部の対立・抗争が、 赤裸々な形態で現出してくることになる。

 このようにしてブルジョアジーは、一般的「法律」とし ての国家意志形成過程では、統一的な支配階級 として、何よりも「議会」と大きく構造的に結合して現わ れ、政府-執行的諸機関を主体とした政策遂行 レヴェルでは、自由経済原理にもとづく個別資本相互の不 断の対立・抗争を、そのまま「中央-地方的」 官僚機構を軸とした利権争奪をめぐる対立・抗争という形 態で再現することになる。そこで はブルジョアジーと、とくに政府-執行的諸機関との結合は 、もっぱら直接的個別的であり、隠微な 黒い癒着形態をとらざるをえない。個別資本(及びその関 連グループ)と、個々の有力政治家 (グループ)を介した個々の高級官僚(グループ)という 具合に。
293 統治形態論・「民主主義」とは何か(5)
統治権力としての官僚
2005年6月6日(月)


 以上みてきたように、「議会」は、様々な産業・業種の 特殊利害とそれらを横断的に貫く特定企業 集団の特殊利害等を直接担ったブルジョアジーの政治的代 理人が、一般的「法律」の決定をめぐって 対立・抗争・妥協・調整を演じる舞台である。その対立・ 抗争・妥協・調整を通じて、実は、支配 階級としての政治的結集と統一的一元化が可能となる。 要するに「議会」とは政治的階級意志と世論 の形成=総資本的意志形成が、公然または自発的形態で 行なわれる唯一の公的機関に他ならない。 しかも、統治権力の主体をなす執行権力=政府-執行的諸 機関の活動は、ときには 大きな独自の能動性を示すとはいえ、少なくとも形式制度 上は、すべて「議会」裁可の一般的「法律」 を法的前提としている。従って「議会」が、ブルジョア ジーによる国家的支配(階級独裁)実現の、 最も確実かつ主要な政治的武器であることは、全く疑う余 地がない。この意味で「議会」は、ブル ジョア独裁を可能とするブルジョアジーの政治的権力構成 を公的制度として容認し保障 する特殊な歴史的性格をもっている。

 しかしこのようなブルジョア独裁は、統治形態レヴェル すなわち執行権カの統治権力としての独立 性との関連に即してみると、実は政府-執行的諸機関に よる政治的指揮・主導の下に形式上包 摂されている。なぜなら、政府-執行的諸機関中枢の指 揮・主導のもとに推進される内・外 政策がすべて、社会・経済政策における財政政策のように ブルジョア諸層の経済的特殊利害をたんに 機械的に反映するものばかりではないからである。
 具体的にいえば、政治的秩序維持に直接関わる軍事・ 外交・治安・文教政策などや、経済的秩序 維持に関わる経済政策のなかでも対外貿易政策や金融政策 のような政治的・観念的性格の濃い、第三 権力の本来的活動に関する領域においてそうである。そこで は実質上の総資本的見地とはいっても、 より観念的・国家的立場にもとづく政府-執行的諸機関中 枢の官僚層が、ブルジョアジーに代って 政治的に思考し立案するという、大きく見れば支配階級内 部における政治的分化と分業が成立している。
 このようなブルジョアジーに対する官僚層の統治階級と しての相対的分離・独立性発揮される 分野では、官僚層の純粋に観念的・国家的見地からする実質 上の総資本的意志の先取り的な形成と先導が 行われる。それらはブルジョアジーによる自生的現実的な 総資本的意志形成とはつねに乖離しているため、 両者の不和・敵対が深刻化する事態にたちいたることも決 して珍しくない。
 要するに、ブルジョアジーの意のままになる〈議会制民 主主義〉形態をとった典型的ブルジ ョア独裁といえども実はその内部構造は、ブルジョアジー とその政治的代理人を含む統治階 級との間の相対的に独自な分離、ときには深刻な不和・敵 対を招くような生き生きとした媒介的関 連を孕んでいることになる。

 「ファシズム的」統治形態をこの点からみれば、銃剣を もった「官僚」層が、自己の党派的・イ デオロギー的立場から純粋に観念的な国家的・政治的利害 を追究する統治階級として、たんに 被支配的諸階級・階層ばかりか支配階級としてのブルジョ アジーをも含めた一社会全体に対して 完全に独立化した特殊な国家体制に他ならない。
 それは、直接には、ブルジョアジーの議会における政治 的代理人(ブルジョア諸政党)間の 不和・抗争などの絶えざる政治的混乱により、政府-執行 的諸機関に対するブルジョアジーの 統一的かつ一元的支配が実質上不可能になった政治的危機 の到来を契機としている。大き くみれば、政府-執行的諸機関とその中枢を占拠した政治 党派が、統治階級として失格したあるい は未成熟であった支配階級=ブルジョアジーにとって代っ たものといえる。

 以上で滝村さんの「統治形態論」の要約を終わる。