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248 日本のナショナリズム(1)
はじめに
2005年4月20日(水)


 前回の『もう一度「戦争案内」の案内』で引用した戸井さんの文章に次の一節があった。
 「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」 ―ここの ところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、 長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこ がおそろしいのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。

 このホームページで私はもっぱら他人のことばの受け売りをやっている。それは私に人に語るべき ほどの蓄積がないからだ。つまり私はこのホームページで戸井さんが言うところの「勉強」をしてい るつもりなのだ。そして「もっと勉強するしかない」と思っている。

 北村小夜さんの「危ない教科書・音楽」を取り上げていたとき、二つの課題が浮かび上がっていた。 一つは明治からこのかたの大衆の愛唱歌を素材に「日本のナショナリズム」を論じている吉本隆 明さんの同名の論文を読み直すことである。(この論文の一節を「第136回・2004年12月28日」で 引用している。)
 もう一つはそれらの愛唱歌がなぜ愛唱歌になるのかという疑問をもった。日本語や日本人 の音楽的感性にどんな特質があるのか。この疑問に答えてくれそうな論考として菅谷規矩雄さんの 「詩的リズム」が思い浮かんでいた。これも読み直してみようと思った。実は「詩的リズム」には 吉本論文について論評している部分がある。

 吉本さんの論文「日本のナショナリズム」はナショナリズムの岩盤にまで掘削を届かせたユニーク でかつ優れたものと思っているが、その後、肯定的にであれ批判的にであれ、これを超えるナショナ リズム論はないようだ。小熊英二さんの「<民主>と<愛国>」は戦後日本のナショナリズムがテーマ なので吉本さんの「日本のナショナリズム」を取り上げる場ではないかもしれないが、本文では全く 触れていない。註でほんの少し言及しているだけだ。

 「国定教科書」をテーマにしているとき、何かよい資料はないかと岩波講座「日本歴史17」をめくって いたら、色川大吉さんの「日本のナショナリズム論」という論文に出会った。色川さんはそのはしがき で吉本さんの論文「日本のナショナリズム」を高く評価している。

   いまなぜ「ナショナリズム」を取り上げるのか、「ナショナリズム論」の状況はどうなっているの か、その中で吉本論文はどう位置づけられるのか、色川さんの「日本のナショナリズム論」はどういう 動機と意図を持って書かれたのか。まずそれらの観点から色川さんの「はじめに」読んでみる。

 色川さんはまず「日本のナショナリズムを総体として論じ、思想としての衝撃力を持った論文が戦後の 日本にどれほどあったろうか」と問い、日本史学会にはめぼしいものがほとんどないと嘆いている。
 そして「よく戦後三〇年の風雪に耐え得たもの」(色川さんのこの論文が書かれたのは1975年前後) として、「西欧近代のモデルを理念化し、自己否定の契機として日本のナショナリズムの病理を総体とし て解析した丸山真男の「日本におけるナショナリズム」(『現代政治の思想と行動』)」と、「魯迅や 中国のモデルを否定の契機として日本ナショナリズムの特質を摘出した竹内好の諸論文(竹内好評論 集、第三巻『日本とアジア』)」をあげている。いずれも 戦後数年のあいだに書かれたものである。
 それから約10年後(1964年)、「安保反対闘争の過程で大衆ナショナリズムという新しい概念を提出し、その 基底の視角から日本のナショナリズムの総体(支配層のナショナリズム、知識人のナショナリズム、大 衆のナショナリズムの関連構造)を逆照射して丸山らを批判した吉本隆明の論文(「日本のナショナ リズム」)があらわれ、大きな影響をあたえた。」
 それ以後、上山春平、神島二郎、橋川文三、松本三之介らのカ篇が書かれているが、本質的な方法 論上の論争に発展せず、思想的な衝撃力という点からするなら、丸山・竹内・吉本のそれに及ぶこと はできなかった。右の三氏はそれぞれするどく現実とかみあい、本質的な視点を提起し、総説を展開 していたからである。
 こんど私はそれらを通読して、あらためて日本のナショナリズムの問題が理論面でもまだ解決されて いないことを痛感した。実証的な面における研究の不足についてはいうまでもない。この問題は日本文 化および日本社会の伝統的体質や近代化の理解と結びついているばかりでなく、何よりも天皇制の本質 と深く関連している。その上ナショナリズム生成の時期が近世中期から現代までの二世紀余にわたり、 しかも日本近代の思想史、政治史の骨格をなしているものだけに、その総体を歴史学的に実証してゆく ことはきわめで困難なのである。
(中略)
だが、この詩人にして思想家なる人の大胆な「ナショナリズム」論は(かれのスター リン主義批判や「自立」の理論と共に)、多くの読書人に衝撃をあたえたにもかかわらず、学界内部 の研究者には破壊力を及ぼすことはできなかった。学界内の研究者は亀甲のように厚い皮をかぶった 進歩主義史学なるもののパラダイムの中に安住し(しかも、ほとんど大学に職を得て保守化しており)、 吉本論文を気のきいたエッセイのたぐい、新左翼の口の悪い男の一評論ぐらいにしか受けとめなかった のである。つまり、「私の近代史研究とは関係ない」「あれは学問ではないよ」 といった程度の反応であった。
 私はそのことを同じ研究者の一人として残念に思う。その批判が学界外のどこから誰から来たものであ ろうと、近代史の方法の本質にかかわるものであるなら、研究者は謙虚に受けて立つべきであった。吉本 論文中、もっとも激しい批判をあびた上山春平は、吉本の激語を冷静な学的態度でうけとめ、丸山真男 と対照して吉本隆明の思想的位置を確定し、吉本説を相対化しようとする論文を発表した。その態度は 立派だが、上山のその試みは見当はずれであって成功していない。だいいち上山は吉本の思想言語を理 解せず(たとえば「揚げ底」などについては全くの誤解である)、 吉本の思想を単純化しすぎたため、吉本の大衆ナショナリズムの視点から日本のナショナリズムの総体を関連づけて 把握したその方法上のメリットを評価できないで終った。そこで私もかれらが提起した仮説にたいして、遅ればせな がらこの機会に研究者として発言してみたいと思う。

 次回から吉本さんの「日本のナショナリズム」と色川さんの「日本のナショナリズム論」と菅谷 さんの「詩的リズム」を読み合わせながら日本のナショナリズムについての理解を深めていこうと 思う。ずいぶん欲張ったことを考えてしまった。私にとっては大変な難題で、うまく いくかな?チョッと心配になっている。
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249 日本のナショナリズム(2)
「大衆」とは何か
2005年4月21日(木)


 これからお世話になる論文を改めて書き留めておく。

吉本隆明「日本のナショナリズム」(「自立の思想的拠点」所収)以後吉本論文と呼ぶ。
色川大吉「日本のナショナリズム論」(「岩波講座・日本歴史17」所収)以後色川論文と呼ぶ。
菅谷規矩雄「詩的リズム」(大和書房)これはずばり「詩的リズム」と呼ぶ。

 さて、吉本論文はまずナショナリズムと言う言葉の意味とナショナリズム論の混迷状況から 説き起こしている。
 「ナショナリズム」というとき、ひとによってさまざまなかげりをこめて語られる。社会学・政治学 の範疇では、世界史が資本制にはいってから後に形成された近代国家そのものを単元として、社会や政 治の世界的な諸現象をかんがえる立場をさしている。近代資本主義そのものと相伴う概念である。
 しかし、「ナショナリズム」という言葉が、世界史の尖端におくればせに登場した国家・諸民族に よってかんがえられるばあい、民族至上主義・排外主義・民族独立主義・民族的革命主義などの、さま ざまなかげりをふくめて語られる。そこでは、すでに規定そのものが無意味なほどである。
 さらに、これが、日本の(ヽヽヽ)「ナショナリズム」として、明治以後 の日本近代社会におこった諸現象について語られるとき、天皇制的な民族全体主義・排外主義・超国家 主義・侵略主義の代名詞としての意味をこめて、怨念さえ伴われる。もちろん、この場合でも、桑原 武夫・加藤周一その他におけるように、近代日本資本主義社会の体制的表現としてのナショナリズムの 意味でつかわれ、その再認識が語られるばあいがないわけではない。しかし大抵は、日本のナショナリ ズムは、天皇制を頂点とする排外主義・帝国主義・膨脹主義の権化としてリベラリスト・進歩主義者・ 「マルクス主義」者の指弾の対象として取上げられるか、あるいは、この反動として日本近代天皇制 トオタリズムの再評価すべきゆえんとして語られるか、である。
 さらに、日本の「ナショナリズム」が、政治や社会の諸現象のレベルをはなれて、体験のレベルとし て、それぞれの個人によって語られるや否や、あらゆる論議は、冷静さを失い、その様相は一変する。 つまり、日本の「ナショナリズム」は、まだ論理的な対象として分離されない段階にあることがわかる。

 戦後のナショナリズムについて、最近、小熊英二さんがそれを論理的な対象となして「<民主>と <愛国>」という成果をあげているにもかかわらず、ナショナリズムをめぐる社会的・政治的状況は 吉本論文が書かれてから30年後の今日でもほとんど変わっていない。吉本論文は、謂わば、日 本の「ナショナリズム」を「論理的な対象として分離」する試みであり、現在でも意義ある論文だと 思う。
 吉本さんはまず「大衆ナショナリズム」を解き明かそうと試みているが、ここで言う「大衆」の意味を 確認しておく必要がある。
 個人的な体験から世界観にわたるこの思想性の錯綜を考慮にいれたうえで、日本の「ナショナリズム」 を系譜としてとりだすことは、不可能であるとおもわれる。やむをえず、わたしの問題意識をもとにし て、これに接近するほかはない。
 わたしがもっとも関心をもつのは、決して「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショ ナリズム」である。この関心は、「沈黙」から「実生活」へという流れのなかで消えてしまって、ほと んどときあかす手段がない。

 マス・コミュニケーション下にみずから登場する「知的大衆」を「大衆」と見なし、知識人にちかづく ことを高次にあるものと見なすという一般的に流通している大衆概念に反対して吉本さんは 『「大衆」を依然として、常住的に「話す」から「生活する」(行為する)という過程にかえるものと してかんがえ』ている。すなわち『けっしてマス・コミ下に登場しない「マス」そのもの』が吉本さんが言う 「大衆」である。
 この大衆が知的に上昇していったとき、『すなわち「書く」という行為と修練に参加したとき、すでに これらの大衆にとらえられたナショナルな体験の意味は、沈黙の行為から実生活へと流れる大衆そのものの思考 とはちがったものとなっている』。と吉本さんは言う。したがって戦没学生の手記、戦没した農民の 手記、疎開学童の記録、主婦の戦争体験といった記録にあらわれた体験と思想を、そのまま大衆の体験と 思想とみなすことはできないと言う。
 それでは、『「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手 段はあるのか。
 このようにして、大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の「ナショナリズム」は、 再現不可能性のなかに実相があるものと見倣される。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての 時代をつうじて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのもののなかに虚像として以外に登 場しえない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたし たち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば「内観」することからはじめる以外に ありえないのである。
(中略)
 ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を意味している。ただ、この彎曲を とおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないのである。文化を主軸とすればもちろん、歴史 体験を主軸とするとき、つねに大衆それ自体は、決して舞台に登場することのない主役としての存在であ ろうか? この問いは切実である。

 かくして吉本さんは自分自身の中にある『大衆としての生活体験と思想体験』への内観と、『大衆そ のものからの彎曲』したものという認識を保持しつつ大衆の文化(愛唱歌)を、『「みずから書く」という 行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手段として選んで論考を進める。
250 日本のナショナリズム(3)
大衆ナショナリズムの原像(1)「戦友」
2005年4月22日(金)


 吉本論文は「大衆ナショナリズムの原像」に二つの面からアプローチしている。
 一つは政治に向かう心情表現で、「戦友」を代表例としてあげ、「広瀬中佐」、「水 師営の会見」、「婦人従軍歌」などの唱歌によって流布されたとしている。
 もう一面は社会に向かう心情表現で、「二宮金次郎」を代表例としてあげ、「仰げば尊し」、 「はなさかじじい」、「冬の夜」、「故郷」などの唱歌をあげている。

 まず第一の政治に向かうナショナリズムについて、「戦友」が戦後にリバイバルしたときの個 人的な感慨から書き始めている。
 アイ・ジョージの唱う「戦友」を、わたしはテレビの画面を通じてたびたびきいた。そこにはいつも 総体的な暗い感銘がある。その歌をうたえば復古調であるといわれないか、それは好戦的と呼ばれまい か、というようなつまらぬ知識人インターナショナリズムの理念に、わずらわされず、また、反対にこ れらのもつ意味を忘れるべきではないというような知識人の逆の意味での理念にもわずらわされず、 きわめて「自然」にちかく、唱っていることが、暗いが総体性のある感銘を形づくつている。インタ ーナショナリズムの立場からナショナリズムを評価するといった、花田清輝やその亜流のような、馬鹿げ た理念からあたうかぎり遠ざかって、みずからよい曲と信じ、よい歌詞と信じ、またみずから通過した 体験を核にして、それは歌われている。

 「戦友」の歌詞は14番まであるが、吉本さんは論述を進めるために必要な部分として、その3番から 6番の歌詞を引用している。

 ここでふと疑問に思ったことがある。吉本さんは引用する唱歌の洗礼を受けた人たちとして 30歳から40歳(論文が書かれた当時の)ぐらいまでの人を想定している。吉本論文が書かれたのは 1964年だから1920年前後から1935年前後生まれ以上の年齢になる。現在では70歳から80歳ぐらい以上の人 に当たる。
 このホームページを覗いてくれている人はどのくらいの年齢の人たちだろうか。若い人はあまりいない だろうと想定しているが、もしかすると「アイ・ジョージなんて歌手、知らないよ」とか「戦友?聞いた ことないな」という人もいるかもしれない。試みに身近にいる26歳の青年に尋ねてみたが「戦友」を知ら なかった。当然といえば当然なことだし、そんなの知らなくても一向に差し支えないのだが、座興もか ねて全歌詞と楽譜も紹介しよう思う。吉本論文や色川論文が歌詞を引用している唱歌については資料があ ればそうしようと思う。

戦友



戦友

1 ここは御国を何百里
  離れて遠き満洲の
  赤い夕日に照らされて
  友は野末の石の下

2 思えばかなし昨日まで
  真先かけて突進し
  敵を散々懲らしたる
  勇士はここに眠れるか

3 ああ戦の最中に
  隣りに居った此の友の
  俄かにはたと倒れしを
  我はおもわず駈け寄って

4 軍律きびしい中なれど
  これが見捨てて置かりょうか
  「しっかりせよ」と抱き起し
  仮繃帯も弾丸の中

5 折から起る突貫に
  友はようよう顔あげて
  「お国の為だかまわずに
  後れてくれな」と目に涙

6 あとに心は残これども
  残しちゃならぬ此体
 「それじゃ行くよ」と別れたが
  永の別れとなったのか

7 戦すんで日が暮れて
  さがしにもどる心では
  どうぞ生きって居てくれよ
  ものなといえと願うたに

8 空しく冷えて魂は
  くにへ帰ったポケットに
  時計ばかりがコチコチと
  動いて居るも情なや

9 思えば去年船出して
  お国が見えずなった時
  玄海灘で手を握り
  名をなのったが始めにて

10 それより後は一本の
  煙草も二人わけてのみ
  ついた手紙も見せ合うて
  身の上ばなしくりかえし

11 肩を抱いては口ぐせに
  どうせ命はないものよ
  死んだら骨を頼むぞと
  言いかわしたる二人仲

12 思いもよらず我一人
  不思議に命ながらえて
  赤い夕日の満洲に
  友の塚穴掘ろうとは

13 くまなく晴れた月今宵
  心しみじみ筆とって
  友の最后をこまごまと
  親御へ送る此の手紙

14 筆の運びはつたないが
  行燈のかげで親達の
  読まるる心おもいやり
  思わずおとす一雫
『学校及家庭用言文一致叙事唱歌(三)』1905(明治38)年9月

 唱歌を作詞作曲するのは知識人である。そこに表現されている理念は知識人によってとらえられた 大衆ナショナリズムであり、これをそのまま大衆のナショナリズムと考えることはできない。しかしこの 唱歌が大衆の心情をとらえたのは確かであり、だから愛唱歌として歌い継がれていった。吉本さんは そのことを次のように言っている。
 これをそのまま、日本「ナショナリズム」の大衆的心情とかんがえると、誤解を生ずるとおもう。 戦争はリアルなものであり、この歌曲とおなじ位相で、「友」を弾よけにして「我」は逃げるという 場面が、戦争のなかでなんべんも繰返されるということを想定できるからである。しかし、知識人に よってとらえられた日本「ナショナリズム」の大衆的「連帯」の理念はこのようなもので あった。そこでは「お国の為」が、個人の生死や友情と矛盾し、それを圧倒し、しかしあとに余情が 残るということが表現された。この表現には、いうまでもなく、その裏面に、他人のことなど、己れ の生命のために構ってはいられない、また己れの利益のためには「お国の為」などかまっていられな いという、明治資本主義が育てた理念を、かならず付着しているものである。

 そして続けて「ウルトラ・ナショナリズム」に言及している。
 おそらく後年、昭和にはいってウルトラ=ナショナリズムとして結晶した天皇制イデオロギーは、 己れのためには「天皇」や「国体」なぞは、どうなってもしかたがないという心情を、その底にか くしていたのである。明治において、はじめにたんなる裏面に付着していたにすぎない個人主義が、 ひとつの政治理念的自己欺瞞にまで結晶せざるを得なかった実体を、わたしたちは、「天皇制イ デオロギー」あるいは「ウルトラ=ナショナリズム」とよんでいる。このような自己欺瞞は、大な り小なり、理念が普遍性を手に入れるためにさけることができないものである。

 普遍性をもつ理念には何らかの自己欺瞞が含まれていると言っている。さらに吉本さんはこの政治へと向かうナショナリズムを流布していった唱歌「戦友」、 「広瀬中佐」、「水師営の会見」、「婦人従軍歌」などに関連して、戦前の左翼的知識人が 陥っていた陥穽にふれている。
 現在(1964年当時・・・仁平)、四十歳をこえる者は、大方これらの心情を、肯定または反撥 として通過しているはずである。 第二次大戦前の古典時代に、日本の知識人が、少年期をへて長じて社会意識に目覚め、左翼イデオロ ギーを獲取してゆくばあいは、ひとつには、このような意味で表現された大衆的「ナショナリズム」の 裏面に、どれだけの虚偽が付着しているかに気付いてゆく過程としてあらわれた。いいかえれば、社会 のリアリズムに目覚めていく過程として。そして、このリアリズムが、またどれだけの虚偽をスターリ ニズムとして含むものであるかを知らなかったのである。

 左翼イデオロギーの理念の中にも自己欺瞞と言う虚偽が含まれること知るべきだと言っていると思う。
251 日本のナショナリズム(4)
大衆ナショナリズムの原像(2)「二宮金次郎」
2005年4月23日(土)


 社会へと向かう大衆のナショナリズムの心情の象徴として、吉本さんは「二宮金次郎」を 取り上げている。

二宮金次郎



二宮金次郎

1 柴刈り縄ない草鞋をつくり
  親の手を()け弟を世話し
  兄弟仲よく孝行をつくす
  手本は二宮金次郎

2 骨身を惜しまず仕事をはげみ
  夜なべ済まして手習読書
  せわしい中にもたゆまず学ぶ
  手本は二宮金次郎

3 家業大事に(ついえ)をはぶき
  少しの物をも粗末にせずに
  ついには身を立て人をもすくう
  手本は二宮金次郎
   「尋常小学唱歌(二)」1911年(明治44)6月

今では二宮金次郎を知らない人のほうが多いかもしれない。二宮尊徳といえばあるいは 知っている人が増えるだろうか。
 この唱歌に対する吉本さんの分析は次のようである。
 この歌曲の象徴するものは、現実としては都市下層大衆の一部、純農村の一部にしか、現在では、 通用しないかもしれないし、感性としては、ほとんどすべてに通用しなくなっている。
 しかし、これは、近代日本の資本主義の膨脹期に、大衆によってとられた心情の「ナショナリズム」 の一面を表象する。刻苦勤勉し、節約家業にはげみ、立身出世せよという意味で、二宮尊徳の伝記の なかの挿話が唱われる。曲は出処がわからぬが、ポピュラーな歌曲としていいものである。
 これは、「戦友」とはちがって、政治にむかわずに、社会にむかう大衆の「ナショナリズム」をよ く表現している。わたしの推定では、現在、日本の大衆は、刻苦勤勉し、節約家業にはげめば、社会 の上層に立ちうるということを、現実的にほとんど信じてはいまいし、またそれは不可能であること をよくしっている。知識人もまた同様である。
 しかし、現在、日本の産業資本・金融資本を支配している人物たちは、大なり小なりこのタイプの 人間であり、また、知識人は、ごく少数のものが、このモラルを信じているだけである。それにもか かわらず、潜在的には、すべての大衆と知識人は、この資本制上昇期の大衆「ナショナリズム」をみ ずからのうちにかくしていると、わたしにはおもえる。

 次に「冬の夜」と「故郷」を取り上げ『これらはいずれも、社会にたいする大衆の「ナショナリズム」 の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出しており、またそれ故に大衆の間に広く流布されたの である。』(下線・・・仁平)と述べている。
冬の夜


冬の夜

1 燈火ちかく(きぬ)縫う母は
  春の遊びの楽しさ語る。
  居並ぶ子どもは指を折りつつ
  日数かぞえて喜び勇む。
  囲炉裏火はとろとろ
  外は吹雪

2 囲炉裏のはたに繩なう父は
  過ぎしいくさの手柄を語る。
  居並ぶ子どもはねむさ忘れて
  耳を傾けこぶしを握る。
  囲裏炉火はとろとろ
  外は吹雪
   「尋常小学唱歌(三)」1912年(明治45)3月

故郷


故郷

1 兎追いしかの山
  小鮒釣りしかの川
  夢は今もめぐりて
  忘れがたき故郷

2 いかにいます父母
  つつがなしや友がき
  雨に風につけても
  思いいずる故郷

3 こころぎしをはたして
  いつの日にか帰らん
  山はあおき故郷
  水は清き故郷
   「尋常小学唱歌(六)」1914年(大正3)6月
252 日本のナショナリズム(5)
大衆ナショナリズムの原像(3)「青葉の笛」
2005年4月24日(日)


「二宮金次郎」「冬の夜」「故郷」などの唱歌が『社会にたいする大衆の「ナショナリズム」 の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出して』いるのに対して、「青葉の笛」「夏は来ぬ」「すずめ雀」 「七里ケ浜の哀歌」などの唱歌は『大衆の心情そのものの核に下降した表現』と言える。そして、明治 の大衆「ナショナリズム」の表現のうち大正期の大衆の「ナショナリズム」に引継がれていったもの は、政治や社会の主題をとり出したもののなかにはなく、『大衆の心情そのものの核に下降した表現』 であった、と吉本さんは述べている。
青葉の笛


青葉の笛

一 一の谷の 軍破れ
  討たれし平家の 公達あわれ
  暁寒き 須磨の嵐に
  聞えしはこれか 青葉の笛

二 更くる夜半に 門を敲き
  わが師に託せし 言の葉あわれ
  今わの際まで 持ちし(えびら)に
  残れるは「花や 今宵」の歌
     『尋常小学唱歌』1906年(明39)

雀


すずめ 雀

すずめ雀 今日もまた
くらいみちを 只ひとり
林の奥の竹薮の
さびしいおうちへ 帰るのか

いいえ皆さん あすこには
父様 母様 まって居て
楽しいおうちが ありまする
さよなら皆さん ちゅうちゅうちゅう
  『幼稚園唱歌』1901年(明34)7月

七里浜


七里ケ浜の哀歌

一 真白き富士の根 緑の江の島
  仰ぎ見るも 今は涙
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
  捧げまつる 胸と心

二 ボートは沈みぬ 千尋の海原
  風も浪も 小さき腕に
  力もつきはて 呼ぶ名は父母
  恨は探し 七里が浜辺

三 み雪は咽びぬ 風さえ騒ぎて
  月も星も 影をひそめ
  みたまよ何処に 迷いておわすか
  帰れ早く 母の胸に

四 みそらにかがやく 朝日のみ光
  暗にしずむ 親の心
  黄金も宝も 何しに集めん
  神よ早く 我も召せよ

五 雲間に昇りし 昨日の月影
  今は見えぬ 人の姿
  悲しさ余りて 寝られぬ枕に
  響く波の おとも高し

六 帰らぬ浪路に 友よぶ千鳥に
  我もこいし 失せし人よ
  尽きせぬ恨に 泣くねは共々
  今日もあすも 斯くてとわに
     1910年(明43)2月

 『ここには大衆の「ナショナリズム」の表面にある心情のル・サンチマンが、きわめ てよく表象されている』と吉本さんは言っているが、こうした唱歌に思い入れて感傷に耽る心情 =センチメンタリズムを私も多分に持っていることに思い当たる。
 センチメンタリズムは『なぜ「くらいみちをただひとり」雀はかえるのか? なぜ帰らぬ十二人 の中学生のボート死に「胸と心」を「捧げまつる」のか?』などと問わない。問う必要はない。ひたすら 感傷に没入できればよい。
 それらの歌詞は『敦盛が、熊谷から首をかき斬られたとき、どのように血が吹き出したか、雀はその巣にかえるとき どのように本能的なものにすぎないか、ボートが沈んだとき中学生たちは、いかにもがき苦しみ、 われ先にと生きのびようと努めたか』というセンチメンタリズムの裏面に付着したリアリズムを忘却す るように書かれている。しかし、と吉本さんは次のように述べている。
 しかし、忘却しているのではない。このようなセンチメンタリズムの表現こそは、銅貨の裏表のよ うに、大衆の「ナショナリズム」のもつリアルな、狡猾で計算深い(知識人などのような空想的にで はない)認識をも象徴しているのである。大衆の「ナショナリズム」の心情は、そのセンチメンタリ ズムをそのまま総体としてみることによっても、その裏を返しても、拾いあげることはできないだろう。 わたしたちが大衆の(ヽヽヽ)「ナショナリズム」としてかんがえてい るものは、この表面と裏面の総体(生活思想)を意味するもので、何らかの意味で、その表現にすくい あげられている一面性を意味しているものでないことを強調しておかねばならぬ。