2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
213 国民学校の教科書より(1)
巧妙な刷り込みの手口
2005年3月16日(水)


 私が教員をしている頃の卒業式はまだ日の丸も君が代もありませんでした。しかし私の勤務校の それは旧態然とした形式的なものでした。それを批判して私は次のような文を含む文書を書いて 同僚に配りました。

 「今の私たちの学校の儀式も褒められたものではない。「一同、礼」で始まり、「一同、礼」で終る。 首尾一貫して、ただただ緊張ばかりを強いる。新入生や卒業生が主人公とはたてまえばかりで、 半世紀前のままではないか。あと「君が代・日の丸」があればもうほとんど半世紀前と同じである。 形式ばかりの事大主義が得意顔で号令をしている。」(「第2回・2004年8月16日」にも掲載しました。)

 このあと数年で「日の丸・君が代」が強制されるようになり、半世紀前とほとんど変わらぬ 卒業式になってしまったのです。

 「心のノート」や音楽の教科書に「伝統文化の尊重、国民としての自覚」を刷り込むための 教材が盛り込まれて、教育現場を大手を振ってまかり通っています。「道徳を考えさせることや自然をめ でる歌を歌うことに何の問題があるの?」と思う人が、たぶん圧倒的多数でしょう。
 しかし私は上記の儀式に対して持ったと同じような懸念を教科書や副読本にも持っています。 「伝統文化の尊重」とか「国民としての自覚」とか「美しい日本語」とかを強調している連中は、 誰もが異議を挿しはさみそうもないものから始めて、そのあとに何を付け加えようとしているのでしょうか 。
明カルイ タノシイ 春ガ来マシタ。
日本ハ、春夏秋冬ノ ナガメノ美シイ國デス。
山ヤ川ヤ海ノ キレイナ國デス。
コノ ヨイ國ニ、私タチハ 生マレマシタ。
オトウサンモ、オカアサンモ、コノ國ニ オ生マレニナリマシタ。
オジイサンモ、オバアサンモ、コノ國ニ オ生マレニナリマシタ。

 季節・風物の賛美と、その地で連綿と営まれてきた家族のつながりと生活。とても幸せな気持ち になる文章じゃないか。なに文句があるの?
 自然は美しいばかりではない、地震や洪水やひでりで人に悲惨をもたらす事もある。それにどの家族に もいろいろと複雑な事情があり、そんなに幸せとは限るまい。なぞとまぜっ返してもせんかたありません。
 まだ白紙のような子どもの心には確実に肯定的な同意を刷り込むでしょう。そして上の文に唐突に次のような 詩もどきが続きます。子どもの心をさらっとさらっていきます。何処へ?
日本ヨイ國、キヨイ國。
世界ニ 一ッノ 神ノ國。
日本ヨイ國、強イ國。
世界ニ カガヤク エライ國。


 なお蛇足ながら、前半の「國」は「社会・国土・故郷」ですが、後半の「國」は「国家」である ことに注意したいと思います。

 杞憂に過ぎるでしょうか。しかし「つくる会」の教科書は戦前回帰を果たしていますし、 「心のノート」の徳目は戦前の「修身」とほとんど同じだということです。音楽の教科書について は「第208回~第211回」でみた通りです。国語の教科書についてはどうなのでしょうか。

 上記の引用文は国民学校2年生用修身の教科書「ヨイコドモ・下」からのものです。
 しばらく国民学校の教科書にこだわってみようと思います。参考資料は山中恒著「ボクラ少国民第2部・御民ワレ」(辺境社) と入江曜子著「日本が『神の国』だった時代」です。以後それぞれ「御民われ」「神の国」と略称 します。
スポンサーサイト
214 国民学校の教科書より(2)
全教科総動員しての狂気
2005年3月17日(木)


 現実に目にしている自然を楽しむことと唱歌や教科書などがことさらに取り上げる自然とは 千里の径庭があります。唱歌や教科書が自然や風景の素晴らしさをめでるとき、その裏面にある 汚さ・過酷さ・悲惨さを取捨した上で何かしらの心情をそれに託します。その心情は自然への 共鳴共感でしょうか、没我没入への希求でしょうか、望郷の念でしょうか、あるいは共同性 への帰順でしょうか。ときにはその心情はナショナリズムとして暴威を振るいます。
 そういう意味で唱歌や教科書の自然や風景は現実に目にしているものとは違う虚構です。ことさら 言挙げして他国との差異を自慢するほどのことではないでしょう。ましてや「神の国」は児戯にも 等しいまがいものです。こんなものを本当に信じるあるいは信じたがる精神は未成熟な精神という べきでしょう。今大きな顔をしだしている保守反動は未成熟の謂いです。

 このことに関連して、次のような文章が目に留まりました。記録しておきます。
自分の国を凡そ不自然な具合に見て機会に恵まれなければそのことに気付きさへもしないでゐるのは それだけの空白が精神の世界に出来ることで自分の国と言つてもそれは結局は自分の周囲と同じなの であるからその不自然が一切を歪めずにはゐない。かういふ歪みには何か病的なものがあつてこれを 修正する試みにも病的に作用し、かういふことになつてからのさうした企てでは目星い所で神国日本 の説が行はれた。日本が他の国並に世界の一国であるのと反対にその国々の中でも特殊なものだとい ふのである。日本といふのがないのも同然の国だとするのも不自然であるが又とない大変なものであ る積りでゐるのも不自然であることに変りはない。さういふことになればどこの国も二つとないもの で特殊な点を探せば幾らでも出て来る。
(「ユリイカ1973年12月号」所収・吉田健一「覚書」より)

 さて、「御民われ」では「修身」以外の教科書の狂いぶりを紹介しています。まず『初等科地理・下』から。
 もともと、わが国は神のお生みになった尊い神国で、遠い昔から開けて来たばかりでなく、 今日も、こののちも、天地とともにきはまりなく、栄えて行く国がらであります。これまで、外国の あなどりを受けたこと一度もありません。遠い昔はいふまでもなく、近くは日清・日露の両戦役に よって、国威を海外に輝かし、更に満洲事変・支那事変から、大東亜戦争が起るに及んで、いよいよ その偉大なカを全世界に知らせることができました。

 「つくる会」の教科書もこんな調子です。日本の歴史を神話から始めています。少し紹介します。 (「子ども教科書全国ネット21」のパンフから)
(歴史p.62)
「天照大神とスサノオの命」
 そこで神々は策を考え、祭りを初め、常世の長鳴き鳥を鳴かせる。アメノウズメの命が、 乳房をかき出して踊り、腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから、八百万の神々 はどっと大笑い。

 歴史を神話から始めるデタラメさもさることながら、中学生になぜ「アメノウズメの命」なのか、 その意図をはかりかねます。これが強調したい「日本の伝統文化」なのでしょうか。
 また躍起になって戦争を正当化し賛美しています。
(歴史p.216)
 日本に向けて大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が日本に敵対的 な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する恰好の基地となり、後背地をもたない島国の日本は、自国 の防衛が困難となると考えられていた。

(歴史p.276)
『大東亜戦争(太平洋戦争)』
 自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍はジャングルとゴム林の間を縫って‥快進撃‥わずか70 日でシンガポールを陥落させ、ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。

(歴史p.282)
 これらの地域では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア 諸国が独立を早める一つのきっかけともなった。

(歴史p.278)
 アツツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の 補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。

(歴史p.279)
 沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女までが勇敢に戦って、一般住民約9万 4000人が生命を失い、10万人近い兵士が戦死した。

 国定教科書の方に戻ります。『初等科理科三』です。
 戦争ヲスルニハ、軍艦・鉄砲・大砲・戦車・飛行機・弾ナドガイル。コレラヲ作ルニハ、イロ ィロナ種類ノ金物ガ必要デアル。私タチハ、イツモ氣ヲツケテヰテ、金物ヲムダナク使ヒ、少シデ モ捨テナイデオイテ役ニタテヨウ。

 次は『初等科算数・五』です・
神武天皇が、即位ノ礼ヲオアゲニナツタ年ガ紀元元年デアル。今年ハ紀元何年カ。
紀元千九百四十一年二、元の大軍ガオシヨセテ来タガ、ワガ国ハ、ミゴトニコレヲ撃チ破ッタ。 ソレカラ六百十三年後ニ、ワガ国ハ清卜戦ヒ、マタ十年タッテ、「ロシヤ」ト戦ツタ。ドチラモ、 ワガ国ノ大勝利デアッタ。昭和十六年十二月八日ニ、米・英ニ対スル宣戦ノ大詔ガクダサレタ。
コレラノ戦争ノオコッタ年ハ、ソレゾレ紀元何年デアルカ。

 山中さんは次のように述懐しています。
 どう考えても、この徹底ぶりは異常としか言いようがない。敢えて言えば狂気ある。しかし、 ぼくらはそれを狂気とは思わなかった。疑うには幼なすぎた。それが当然あるべき姿だと教え られれば、そうかと思った。そして、ひたすら、この狂気をまともに学ばされてしまったのである。

 集団狂気です。オウムの狂気と同質の宗教的な集団狂気です。いままたその集団狂気が蔓延し つつあります。大日本帝国時代のように、やがてその中で醒め続けるものが受難する最悪の状況 になるのではないかと懸念します。
215 国民学校の教科書より(3)
皇国民練成の洗礼を受けた世代
2005年3月18日(金)


国民学校令は1941年3月1日に公布され4月1日より発効しました。その第1条に曰く。

国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス

 この皇国民の練成という目的にそって編成されたのが「第五期国定教科書」です。この教科書は 1946年3月まで使用されました。

 「神の国」で入江さんが次のような指摘をしています。
 1999年:「国旗国歌法」の制定、2000年:森首相の「日本は天皇を中心とした神の国」の発言、 2001年:「新しい歴史教科書をつくる会」による中学校の歴史教科書が検定に合格、などをあげて
 このような一連の国粋主義的、時代錯誤的な状況がつくりだされて、日本国内はもとよりアジアの 人々に衝撃をあたえている。日本の保守層が悲願としながら半世紀にわたって躊躇していたこ れらの情念が、今、つぎつぎと表出する背景には、ひとつの際立った共通点がみられる。
 それは人生の最初の学校教育を「皇民教育」という超国家主義イデオロギーにより、白紙の 魂に「刷り込まれた」世代、特に太平洋戦争がはじまる1941(昭和16)年の4月から1945(昭和20) 年までに国民学校で学んだ世代が、社会の中枢を占めはじめたことであろう。
 ちなみに小渕恵三元首相と森喜朗前首相が1937(昭和12)年生まれ、「新しい歴史教科書を つくる会」の代表であり執筆者である西尾幹二氏が1935(昭和10)年生まれである。

 少年時代に刷り込まれたものをそのまま引きずって人生の終点近くまで来てしまった人たちです。 私が彼らを未成熟という所以です。またこのことが第五期国定教科書を検証する意義 でもあります。

 さて、「御民われ」では第五期国定教科書の国語の全教科書の全教材を詳細に分析しています。そして 、「教育問題や教科書問題などについて論じられる場合、引用材料として比較的頻度数の高いもの、及び 如何にも軍国主義的な意図の露骨なものをひろいあげ」ています。
 教科書監修官だった井上赴という男が、国語の教科書は「上級に進むに従って文学 でなければならぬ」と言っているそうです。そして東京都視学官の久米井束らが絶賛したそうです。 その文学振りを、山中さんがひろいあげた教材を読みながらじっくりと検証してみましょう。

『ヨミカタ・一』(1年前期)より

ヘイタイサン 
ススメ ススメ 
チテ チテ タトタ テテ タテタ

 「チテチテタ…」を中山さんが解説しています。「これは、陸軍の進軍ラッパのメロディで、音 名に直すと、チ=ソ、テ=ミ、タ=ド、ト=一音階下のソ、である。」

「ヨミカタ・ニ」(1年後期)より

<ラジオノコトバ>
 日本ノ ラジオハ
 日本ノ コトバヲ ハナシマス。
 正シイ コトバガ、
 キレイナ コトバガ、
 日本中ニ キコエマス。

 マンシウニモ トドキマス。
 シナニモ トドキマス。
 セカイ中ニ ヒビキマス。

<日本のしるし>
 日本の しるしに
 はたが ある。
  朝日を うつした
  日の丸の はた。
 日本の しるしに
 山が ある。
  すがたの りっばな
  ふじの 山。
 日本の しるしに
 うたが ある。
  ありがたい うた
  君が代の うた。

「よみかた・三」(2年前期)より

<ニ重橋>
目の 前に をがむ 二重橋、
けだかい、美しい 二重橋。
おほりの 水は しづかに 明るく、
白い やぐらは くっきりと そびえ、
しげった 松の 間に、
おやねが かうがうしく 見えます。

さくさくと 小じゃりを ふんで、
女学校の せいとさんが 来ました。
きちんと 並んで さいけいれいを して、
こゑを そろへて 「君が代」を 歌ひました。

私たちも いっしょに 歌ひました。

「よみかた・四」(2年後期)より

<金しくんしゃう>
 軍人さんの胸は、
 くんしゃうでいっぱいです。
 花のやうなくんしゃう、
 日の丸のやうなくんしゃう、
 金のとびの金しくんしゃう。
 昔、神武天皇のお弓に止った、
 あの金のとびが、
 今、軍人さんの胸にかがやいて、
 りっばなてがらを
 あらはしてゐるのです。
216 国民学校の教科書より(4)
肉弾三勇士
2005年3月19日(土)


「初等科国語・一」(3年前期)より
<支那の春>
 川ばたのやなぎが、すっかり青くなりました。つみ重ねたどなうの根もとにも、いつのまにか、 草がたくさん生えました。
 あたりは、うれしさうな小鳥の声でいっぱいです。
「もうすっかり春だなあ。」
「ここで、あんなにはげしい戦争をしたのも、うそのやうな気がするね。」
 どなうの上に腰かけて、川の流れを見つめながら、日本の兵たいさんが二人、話をしてゐます。 兵たいさんは、今日は銃を持ってゐません。てつかぶともかぶってゐせまん。二人とも、ほんたう に久しぶりのお休みで、村のはづれまでさんぽに来たところです。
「兵たいさん。」
「兵たいさん。」
 大きな声で呼びながら、支那の子どもたちが、六七人やって来ました。
「おうい。」
 兵たいさんがへんじをすると、みんな一度に走り出しました。子どもたちといっしよに、黒い ぶたや、ふとったひつじが二三匹走って来ます。
 兵たいさんのそばまで来ると、子どもたちは、いきなりどなうの上にかけあがらうとして、 ころげ落ちるものもあります。先にあがった子どもの足を引っばって、はねのけようとするも のもあります。
「けんくわをしてはいけない。」
「仲よくあがって来い。」
 大きな声で、兵たいさんがしかるやうにいひます。しかし、にこにこして、うれしさうな顔です。
 先にかけあがった子どもは、兵たいさんにしがみつきます。あとから来た子どもは、兵たいさん のけんにつかまったり、くつにとりついたりします。
「これは、たいへんだ。さあ、お菓子をあげよう。向かふで遊びたまへ。」
「氷砂糖をあげよう。橋の上で仲よく遊びたまへ。」
 兵たいさんたちは、ポケットから、キャラメルの箱や、氷砂糖のふくろを取り出しました。
「わあっ。」
と、子どもたちは大喜びです。ぶたもひつじも、いっしょになって大さわぎです。 お菓子をもらふと、子どもたちは、おとなしく川のふちに腰をおろしたり、ねそべったりしました。 さうして、お菓子をたべながら、歌を歌ひ始めました。まだ上手には歌へませんが、兵たいさんに 教へてもらった「愛国行進曲」です。
 川の水は、静かに流れてゐます。どっちから、どっちへ流れるのかわからないほど、静かに流れて ゐます。
 川の向かふは、見渡すかぎり、れんげ草の畠です。むらさきがかった赤いれんげ草が、はてもなくつづいてゐます。/どこからともなく、綿のやうに白い、やはらかなやなぎの花がとんで来 ます。さうして、兵たいさんのかたの上にも、子どもたちの頭の上にも、そっと止ります。
 寒い冬は、もうすっかり、どこかへ行ってしまひました。静かな、明かるい、支那の春です。

 イラクを圧制から解放したと言うブッシュのイラク侵略の正当化と二重写しになります。その父母兄弟姉妹 を虐殺しているかもしれない侵略先の子どもたちに「愛国行進曲」を歌わせる無神経さに気分が悪くなってき ます。

「初等科国語・ニ」(3年後期)より
<田道間守>
 垂仁天皇の仰せを受けた田道間守は、船に乗って、遠い、外国へ行きました。
 遠い外国に、たちばなといって、みかんに似た、たいそうかをりの高いくだものがあることを、 天皇は、お聞きになっていらっしやいました。田道間守は、それをさがしに行くことになつたのです。
 遠い外国といふだけで、それが、どこの国であるかは、わかりません。田道間守は、あの国この島と、 たづねてまはりました。
 いつのまにか、十年といふ長い月日が、たってしまひました。
 やっと、あるところで、美しいたちばなが生ってゐるのを見つけました。
 田道間守は、大喜びでそれを船に積みました。枝についたままで、たくさん船に積みました。 さうして、大急ぎで、日本をさして帰って来ました。
「さだめて、お待ちになっていらっしやるであらう。」
 さう思ふと田道間守には、風を帆にいっぱいはらんで走る船が、おそくておそくて、しかたがあり ませんでした。
 日本へ帰って見ますと、思ひがけなく、その前の年に、天皇は、おかくれになっていらっしゃいました。 田道間守は、持って帰ったたちばなの半分を、皇后にけん上しました。あとの半分を持って、 天皇のみささぎにお参りしました。枝についたままの、美しい、かをりの高いたちばなを、みささぎの前 に供へて、田道間守は、ひざまづきました。
「遠い、遠い国のたちばなを、仰せによって、持ってまゐりました。」
かう申しあげると、今まで、おさへにおさへてゐた悲しさが、一度にこみあげて、胸は、はりさける ばかりになりました。田道間守は、声をたてて泣きました。田道間守は、昔、朝鮮から日本へ渡って 来た人の子孫でした。しかし、だれにも負けない忠義の心を持ってゐました。
 泣いて泣いて、泣きとほした田道間守は、みささぎの前にひれふしたまま、いつのまにか、つめた くなってゐました。

 「朝鮮から日本へ渡って来た人の子孫でした。しかし、だれにも負けない忠義の心を持ってゐま した。」と、こっそりと朝鮮人の皇国民化の露払いをしています。

「初等科国語・ニ」(3年後期)よりもう一編。
<三勇士>
「ダーン、ダーン。」
 ものすごい大砲の音とともに、あたりの土が、高くはねあがります。機関銃の弾が、雨あられの やうに飛んで来ます。
 昭和七年二月二十二日の午前五時、廟巷(べうかう)の敵前、わづか 五十メートルといふ地点です。
 今、わが工兵は、三人づつ組になつて、長い破壊筒をかかへながら、敵の陣地を、にらんでゐま す。
 見れば、敵の陣地には、ぎっしりと、鉄条網が張りめぐらされてゐます。この鉄条網に破壊筒を投げ こんで、わが歩兵のために、突撃の道を作らうといふのです。しかもその突撃まで、時間は、 あと三十分といふせっぱつまった場合でありました。
 工兵は、今か今かと、命令のくだるのを待ってゐます。しかし、この時とばかり撃ち出す敵の弾には、 ほとんど、顔を向けることができません。すると、わが歩兵も、さかんに機関銃を撃ち出しました。 さうして、敵前一面に、もうもうと、煙幕を張りました。
「前進。」
の命令がくだりました。
 待ちに待った第一班の工兵は、勇んで鉄条網へ突進しました。
 十メートル進みました。二十メートル進みました。あと十四五メートルで鉄条網といふ時、頼みに する煙幕が、だんだんうすくなって来ました。
 一人倒れ、二人倒れ、三人、四人、五人と、次々に倒れて行きます。第一班は、残念にも、とうと う成功しないで終りました。
 第二班に、命令がくだりました。
 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒 を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。 そこで班長は、まず破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりかかへ、鉄条網めがけ て突進しました。
 北川が先頭に立ち、江下、作江が、これにつづいて走ってゐます。
 すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきまし たが、二人は、ぐつとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものは ありません。ただその間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるつて、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやう に、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った一本の破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、 その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう、死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。
 めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき 渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れてゐました。
「作江、よくやったな。いひ残すことはないか。」
 作江は答へました。
「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ作江を向かせながら、
「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」
とさけびました。
「天皇陛下萬歳。」
作江はかういって、静かに目をつぶりました。

 「肉弾三勇士」とか「爆弾三勇士」とか呼びならわされています。その時代背景を年表にして見ました。

1932/01/03   関東軍、錦州占領 
1932/01/07   陸軍、満州独立の方針を関東軍参謀板垣征四郎に指示 
1932/01/28   上海事変①勃発 
1932/02/05   関東軍、ハルピン占領 
1932/02/22   「肉弾3勇士」戦死報道 
1932/03/01   満州国建国宣言 
217 国民学校の教科書より(5)
君が代少年
2005年3月20日(日)


「初等科国語・三」(4年前期)より。
<君が代少年>
 昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。
 公学校の三年生であった徳坤(とくけん) という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。 神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。
 それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
 家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。 「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて 来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。
 父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。 それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、
「おかあさんは、大丈夫でせうね。」
といひました。
 少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつら い手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、 学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。
 徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。  ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそが しかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。
 徳坤は、涙を流して喜びました。
「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」
と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」
と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、 徳坤がかはいさうでたまりませんでした。
 少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて 行きました。
 その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さう して、そばにゐた父に、
「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」
といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
 それからしばらくして、少年はいひました。
「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」
 少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに 歌ひだしました。

  きみがよは
  ちよに
  やちよに

 徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞 えました。

  さざれ
  いしの

 小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。

  いはほとなりて
  こけの
  むすまで

 終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。
 君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに 長い眠りにつきました。

 この教材は「君が代」の歌詞を全文読む仕組みになっています。何が何でも感動させようと、 その歌詞を細かく改行をして行間に感動を溜め込むテクニックが施されています。また自国の子 どもたちに対して「台湾の少年でさえ・・・君たちはなおさら」という無言の語りかけをしていること が読み取れます。
 さらに第4学年では修身・国語・音楽の全てに「君が代」の歌詞が全文載せられているそうです。 集中的に繰り返し、いやでも覚え込ませてしまおうという魂胆です。

 ところで、国民学校発足にともなって朝鮮や台湾の教育はどんな扱いを受けたのでしょうか。
 朝鮮では1938年からこの新教育制度の実験的役割を担わされた。朝鮮総督府は 「国体明徴」「内鮮一体」「忍苦鍛錬」を教育の三大綱領としてかかげ、国民学校令の先取りをして います。1941年3月に「朝鮮教育令」を「朝鮮国民学校令」 に改めます。  この「朝鮮国民学校令」には「教授用語は国語を用うるべし」いう問題の一項があります。
 「神の国」から引用します。
 「国語を習得せずしては国民として完全なる生活を営むことが出来ない」との理由のもとに、 全国同一教科書使用を義務づけたその底意は、朝鮮においては「韓国併合」以来つづいてきた「朝鮮語」 の教科を廃止し、学校での朝鮮語による教授の禁止にあった。ただし在外邦人を中心とする学 校と非日本人を中心とする学校との間にはカリキュラムの編成には多少の配慮がみられる。
 台湾では第ニ課程校を台湾人、第三課程校を山岳少数民族のためのものと区分した。
 朝鮮における「創氏改名」、台湾における「改氏名」の受付けは、その前年 ― 紀元2600 年2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)を期して実施されている。天皇の「一視同仁」と いう恩恵的仮面のもとに、植民地の人々の姓名を奪い、さらにその母語をも奪ったのである。 その焦眉の目的は、日本語の通じる兵士を徴兵することにあったが、どうせ変えなければなら ないなら、一年生から日本の名前でと、この学校制度改革をきっかけとして改名に踏み切った 家庭も少なからずあったと聞く。


 台湾では「国語使用運動」の一環として、役所や学校だけでなく家庭でも日本語を使って生 活する家を「国語常用家庭」として総督府が認定し、戸口にかかげる認定証を発行した。
 『日本統治下台湾の「皇民化」教育』 の著者林貴明の家庭では、父母が教師であった立場上 「国語常用家庭」 に認定される必要から分家したという。日本語を使えない祖父を戸籍から外 したことになる。

 このような歴史の事実を直視することに耐えられない未成熟な者たちが、歴史の事実を直視することを 「自虐」と呼んで歴史を歪曲し、虚妄の伝統を担ぎ出して私たちに服従を迫っています。まさにその人た ちにとっては歴史の事実を直視することは「自虐」なのでしょう。
 保守反動はいま一大勢力を形成していますが、彼らには過去があるばかりで未来はありません。