2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
200. 再軍備はどのうに行われてきたのか(1)
警察予備隊創設の背景
2005年3月2日(水)


 主に利用する資料は「岩波講座・日本の歴史22」所収・山極晃「朝鮮戦争と サンフランシスコ講和条約」。断りがない場合は引用文はその論文からのもの。

 まず、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発までの経過を、日本とGHQとの関係に絞ってたどってみる。 (「データベース20世紀年表」より)

1949/02/05
  アイケルバーカー米中将、
  日本の警察力増強を強調。
1949/05/07
  吉田茂首相、外国人記者に
  和条約調印後も米軍の日本駐留を
  希望と表明。
1949/07/04
  マッカーサー連合国最高司令官、
  アメリカ独立記念日にあたり、
  日本は共産主義進出阻止の防壁と声明。
1949/08/27
  日本占領軍早期終結せず、
  と米陸軍次官言明。
1949/10/11
  コリンズ米陸軍参謀総長来日(-17)。
  「沖縄の無期限保持、在日米軍の長期滞在」を言明。
1950/01/12
  アチソン米国務長官、米の防衛線は
  アリューシャン・日本・沖縄・フィリピンを結ぶ線と言明。
1950/02/05
  マッカーサー連合国最高司令官、   バタワーズ米国務次官補と会談、   極東の共産主義阻止以上に重要な仕事はないと強調。 1950/02/10   GHQ(連合軍総司令部)、「沖縄に   恒久的基地建設を始める」と発表。 1950/06/02   警視庁、GHQ(連合軍総司令部)政府の方針で   東京都内の集会・デモを6月5日まで禁止。   6.5当分禁止継続と発表。 1950/06/23   ジョンソン米国防長官、   「沖縄は太平洋における米国防衛上   の恒久的砦になろう」と語る。 1950/06/25   朝鮮戦争勃発。 1950/06/30   アメリカ政府、朝鮮への地上軍派遣を決定。   在日アメリカ軍四個師団が朝鮮へ移動開始。

 1949年は下山事件・三鷹事件・松川事件など不可解な事件が相次ぎ、それらを契機に共産党 への弾圧が熾烈を極めていった。いわゆるレッド・パージである。それらの事件は共産党弾圧 のための謀略ではないかとの説もある。

 朝鮮へ移動したアメリカ軍の空白は日本国内の治安悪化を招くとGHQは懸念した。GHQは その空白を埋めるため警察予備隊の創設を決定する。

1950/7/8
  マッカーサー、吉田首相に書簡を送る。
  「7万5000名からなる国家警察予備隊を   設置するとともに、海上保安庁の現有   海上保安力に8000名を増加するのに   必要な措置を講ずることを認める」

 「認める」なんてあるが、こりゃ、明らかに命令だな。
<
 アメリカ政府は以前から日本の限定的な再軍備や警察隊増強の必要を論じていたが、マッカ ーサーはそれまでは消極的であった。しかし朝鮮への派兵決定に直面してマッカーサーも警察予 備隊の創設に踏みきったのであり、ここで言われている7万5000名という数字はほぼ在日アメリカ 軍四個師団に相当するものであった。
 総司令部内では、予備隊創設の権限をめぐって内部抗争があったが、民事局長シェパード少将が 編成の責任者となり、日本政府機関と交渉する権限をもった。そして民政局(GS)が幹部の選考、 参謀第二部(G2)が隊員の募集、参謀第三部(G3)が部隊の配置と用兵を担当することになった。 日本側は大橋法務総裁と岡崎内閣官房長官が責任者として総司令部との折衝にあたった。
 吉田首相は、マッカーサー指令を警察力の不足を救う「絶好の機会」と受けとったと後に書いて いるが、総司令部が単なる警察力の増強ではなく、戦闘力をもった部隊を構想していることは折衝 にあたって直ぐ判明した。シェパード少将自身、コワルスキー大佐にこう語っている。「わしはマ ッカーサー元帥から警察予備隊を組織する大役を仰せつかったんだ。警察予備隊というのは、さし あたり四個師団編成で、定員7万5000人の国土防衛隊だが、将来の日本陸軍の基礎になるものだ」。 われわれは在日アメリカ軍に「とってかわる日本の四個師団を編成し訓練する仕事を与えられたのだ」。


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202. 再軍備はどのうに行われてきたのか(3)
警察予備隊から保安隊へ改編
2005年3月3日(木)


 今回から主に利用する資料は「岩波講座・日本の歴史23」所収・福島新吾「日米安保 体制と再軍備」。断りがない場合は引用文はその論文からのものである。

 講和条約は日米安保条約と抱き合わせで進められた。再軍備の第2段階はこの講和条約・安保条約 締結の流れの中から浮上する。保安隊発足までの講和条約・安保条約関係の年表をつくってみる。


1951/03/30 アメリカ、ソ連ほか14ヵ国に対日講和条約草案を送付。
1951/03/31 ダレス米国務省顧問、対日講和条約草案概要発表。
      ソ連の参加は不可欠でないと演説(ロサンゼルス)。
1951/05/07 ソ連、対日講和条約米草案に対する覚書を米に交付。
      米英中との4ヵ国外相会議の開催を要求。
1951/05/19 アメリカ、ソ連が5月7日に交付した覚書、4ヵ国外相会議開催提案を拒否。
1951/07/13 米英の対日講和条約草案をGHQ(連合軍総司令部)発表。
1951/07/21 自由党、講和条約締結に関し共産党を除く各党派に協力を申入れ。
1951/08/15 周恩来中国政務院総理、対日講和条約草案について「沖縄、小笠原
      の日本分離は如何なる国際協定にも規定されていない」と非難。
1951/09/08 日米安保条約(「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)調印。
1951/09/18 周恩来中国政務院総理、中国不参加の対日講和条約は無効と声明。
1951/10/03 三木武夫、千島列島の領土権、奄美・琉球・小笠原諸島住民の国籍不変更等
      の条件付きで講和条約批准に賛成、同時に安保条約の説明不十分を理由に批
      准は延期すべきだとの民主党方針を表明。
1951/10/25 社会党、講和・安保両条約の賛否をめぐり第二次分裂。左・右社会党樹立。
      左社:講和条約・安保条約反対。右社:講和条約賛成、安保条約反対。
1951/10/26 衆議院、講和条約を307対47、日米安保条約を289対71で各承認。
1951/11/18 参議院本会議、講和条約(174対45)、日米安保条約(147対76)で承認可決。
      批准手続終了。
1952/04/15 トルーマン米大統領、対日講和条約批准書・安保条約批准書に署名。
1952/04/28 サンフランシスコ平和条約、日米安保条約発効。
      GHQ(連合軍総司令部)解消。
1952/04/28 日米安保条約第3条に基づく行政協定発効。
1952/05/01 血のメーデー事件。逮捕者211人死亡2、重軽傷1500人以上、
      警官重軽傷832人。
1952/06/24 吹田事件。大阪府吹田市で朝鮮戦争2周年記念集会後、
      デモ隊と警官隊衝突。60人逮捕。
1952/06/25 新宿駅周辺でデモ隊と警官隊衝突、30人逮捕。
1952/07/31 公安調査庁法(法241)、保安庁法(法265)成立。
      警察予備隊を保安隊に改編。
1952/10/15 保安隊発足。
 5月~6月の警察力による弾圧は、これも仕掛けられた謀略ではなかったかという説がある。 メーデーでは講和条約、日米安保への抗議も行われていた。
 ちなみに警察に機動部隊を設け、特殊放水車、金属カブト、ジュラルミンのたて、防弾チョッキ、 乱闘服、パトカー等々今日にいたる弾圧用装備を整備したのはこのときからのことだという。

 これらの暴力による弾圧は功を奏して、国民の政治に対する批判は急速に封じられていった。
 一方、政界の混迷は社会党のみではなく、保守政党も政策対立と利権を巡って派閥抗争を展開 していた。そのような状況の中でアメリカは日本に対して太平洋防衛機構の創設や、地上軍30万 の即時整備、防衛産業の育成、それらの裏付けとしてのきびしい均衡財政、予算支出の削減など 繰り返し強く要求していた。

 「第188回」(2月17日)で引用した文章の中で鶴見俊輔さんが「吉田が、戦後に憲法を逆手に とってアメリカに対抗しているのは、よくわかったね。」と言っていた。確かにこのとき吉田首 相は再軍備より経済復興を優先課題としていていた。
 そしてこれ(アメリカの要求)に抵抗する吉田の内意を体して、池田が一人で渉外工作を引きう けていたことも今では明らかになっている。
 吉田はアメリカの要求にストレートに応じていたわけではなく、憲法のわくをたてにとって、 急速な再軍備を拒んでいた。これに反し鳩山は旧軍人の服部卓四郎元大佐(米軍と再軍備を画 策した)の意見を不用意に取り次ぎ、安易な自立再軍備と改憲をとなえた。改進党もその前身 国民民主党のころは三木武夫らの強硬な再軍備反対論がリードしていたが、重光総裁とともに 自衛再軍備に大きく傾いた。

 それでは吉田は警察予備隊から保安隊への改編をどのように位置づけていたのか。
 8月4日吉田は保安庁長官事務取扱いとして保安庁で本庁幹部および第一幕僚監部(保安隊)、 第二幕僚監部(警備隊)の制服幹部に訓示し、保安庁新設の目的は新国軍の建設であると述べ、 世論にショックを与えた。
 再軍備をスローダウンさせていたが、本格的な軍隊への一過程と考えていたことになる。
 またスローダウンしたとはいえ再軍備への道は、朝鮮戦争特需がしぼんだ後を継ぐ、 旧財閥系列企業の甦生と肥大化の道でもあった。資本は戦争を食い物にして肥えていく。今アメリカの イラク侵略でどこの国のどの資本が肥えて続けているのだろうか。

 吉田の経済復興政策は電力開発、海運・造船、鉄鋼合理化、石炭振興、道路網の整備などを重点とし ていた。旧財閥系列企業を中心とする財界主流の要求に応えた政策と言える。
 そしてこれらの政策が吉田側近派(それは池田派などに長く受けつがれる)に大きな政治資金ルート をつくり出した。その資金は政治資金規正法によって届け出られるものばかりでなく、巨大な「裏金」 を生んだ疑いがあり、今日にいたる政治腐敗の発端をなしているようにみえる。有名な造船疑獄 (1954年1~4月捜査)はその最大の実例であった。
 また政府は旧軍用施設の払下、電力開発、兵器生産の保護育成、鉄鋼・海運等の合理化、企業の 整理統合などにあたり、旧財閥系企業の再結集に大きな援助を与え、対日援助見返資金、MSA見返 資金、世界銀行借款などをさかんに活用した。これに対して別の巨大な「裏金」が流れたときに、 吉田派の権勢が急速に傾いたように見える。
 「裏金」という献金を多く獲得するものが権力を握る。なるほど立派な民主主義国家だ。

 こういう事例と並べて読んでみると、例えば、次のような一節がよく理解できるように思う。
「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制 度》をいう」のだと橋爪は定義する。なにも救抜するまでもない。この程度の凡庸な民主主義 観は蔓延している。
 しかし橋爪などという大学教師より財界首脳や労組幹部の方が政策決定への影響力が強いと いうのが、近代国家における民主主義のうんざりするほど陳腐で凡庸な事実である。政治的権 利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。
(「第109回」・2004年12月1日)

 選挙を通じて国政に民意が反映する、という神話は、あるフィクションを前提としている。 それは、個々人が一票というかたちで平等な権利を有している、ということだ。
 しかし、政治的平等は市民社会における不平等に裏打ちされている。対等な個々人の主体 的な判断によって、政治の動向が決せられるなんて全くのうそっばちだ。政治を左右してい るのは、企業献金の多寡であり、労組や宗教組織の動員数であることは明白だ。組織票より 浮動票の方が多いはずだ、てか。カネもヒトもなくてどうやって票を獲得するのか。社会的 不平等の中にこそ、《政治》の決定要因があるのだ。
(「第149回」・2005年1月10日)

このように、ブルジョアジ一による国家的支配とは、その総資本的意志が 国家意志を実質上大きく支配することである。また、ブルジョアジーはそのことによっ てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので ある。
 これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体 に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。
(「第93回」・2004年11月15日)
202. 再軍備はどのうに行われてきたのか(4)
保安隊から自衛隊へ
2005年3月4日(金)


 朝鮮戦争は1951年3月から38度線での一進一退の攻防戦となり、膠着状態になった。
 休戦会談は相互の駆け引きのため何度も休会・再開を繰り返し、停戦にこぎつけたのは1953年で あった。

  1953/07/27 朝鮮休戦協定に調印。22時に朝鮮停戦実施。

 東西冷戦は緊張緩和期を迎えた。この国際情勢に助けられて日本の再軍備 はゆっくりとしたペースで、しかし、情報秘匿とウソと憲法の詭弁解釈で国 民を欺きながら、確実に既成事実を積み上げていった。

 保安隊から自衛隊へと、名実ともに世界有数の軍隊になっていく経過を年 表にしてみる。

1953/06/09 保安庁長官木村篤太郎、記者団に警備5ヵ年計画案につき発言。
      1957年度に保安隊二十万人、艦船十数万トン、航空機千数百機の
      実現をめざす長期防衛計画、問題化。

1953/07/30 衆議院予算委員会で吉田茂首相と芦田元首相間に保安隊の自衛
      軍化をめぐり防衛論争おこる。吉田茂首相、国力の充実まで自
      衛軍を持たずと言明。

1953/09/27 吉田茂(自由党)・重光葵(改進党)会談。保安隊を自衛隊に
      切替え、直接侵略に備える長期防衛計画に意見一致。

1953/11/03 吉田茂首相、衆議院予算委員会で、「交戦権がない以上、保安
      隊は軍隊とはいえないが、しかし軍隊の定義いかんによっては
      戦力にいたらしめないという制限のもとに保安隊を軍隊という
      ことは自由であると思う」として「戦力なき軍隊」論提唱。

1954/02/01 保守3党防衛折衝で、自衛隊などの設置要綱につき意見一致。

1954/03/08 防衛庁設置法案・自衛隊法案を決定。

1954/03/11 防衛庁設置法案・自衛隊法案、衆議院提出。

1954/04/16 衆議院内閣・外務連合委員会で佐藤達夫法制局長官、
     「自衛隊の海外派兵はその任務が平和的仕事に従事するものである
      ならば、公務員の海外出張で憲法違反にあらず」と答弁。

1954/05/07 防衛庁設置法案・自衛隊法案、衆議院通過。

1954/06/02 防衛二法案(自衛隊法案、防衛庁設置法案)、84日間の審議のの
      ち、政府原案通り可決。

1954/06/09 防衛庁設置法・自衛隊法公布。保安隊を改組して陸・海・空の3軍
      方式とする。
      戦後初めて外敵への防衛任務を規定。自衛隊16万4,538名となる。

1954/07/01 防衛庁設置法・自衛隊法施行。総理府内に防衛庁設置。自衛隊発足。

1954/12/21 衆議院予算委員会で外交方針、自衛隊をめぐる憲法論議(-23)。

1954/12/22 木村篤太郎防衛庁長官、憲法第9条に対する政府の統一解釈発表。
      自衛隊保有は独立国の当然の権利であるが国際紛争解決のための武
      力行使とは本質的に異なるのであり、侵略への対処のための「軍隊」
      保有は違憲ではないとの内容。

1955/08/01 日本、防衛庁設置法・自衛隊法改正公布。自衛隊員19万5,810名となる。

 サンフランシスコ会議でグロムイコ・ソ連全権は、講和条約を強く批判するとともに 自衛のための日本の軍備の限度を数字で示し、保有を禁止する兵器をあげていたという。 福島氏は自衛隊の戦力がグロムイコの数字を越えていく年度を調べている。

(1)〔陸軍15万〕1955年に15万。56年16万となった。          (上記年表によると1954年16万、55年19万・・・仁平)    〔戦車200台〕 53年7月には340台であった。 (2)〔海軍2万5000人〕58年。    〔総トン数7万5000トン〕魚雷艇、揚陸艇などまで加えて57年。              主要艦種のみでは61年。 (3)〔空軍2万人〕 56年。    〔戦闘及び偵察機200機〕 57年。 (4) 保有禁止。    〔原子、細菌、化学兵器、射殺30キロをこえる大砲、人間魚雷〕      公表のかぎり未だにもっていないはずである。       (これは1977年ごろの記述です・・・仁平)    〔ミサイル〕グロムイコのいう範囲が明らかでないが、56年ごろ      から対戦車誘導弾の実験が進められ64年制式化し、地上用ロ      ケット弾は67年、艦対空ミサイルは65年から、対空ミサイル      ナイキは59年から訓練を始め、63年から装備した。      空対空ミサイルは57年末に供与を受けた。      IRBM(中距離弾道弾)以上はもっていない。

 福島氏は日本政府に再軍備を強要してきたアメリカの真の意図を次のように推測している。

 それでは日本の再軍備とは何であったのか。アメリカにはもし朝鮮休戦会談が決裂して戦争 再開となった場合には、出兵を求めて米韓地上軍の補強とする計画があったに違いない。それ には多分吉田が抵抗したであろう。だが、拒否しきれたかどうかは疑問である。前節で記した 政界の状況からすれば、吉田に代ってアメリカに協力する政治指導者をおしたてるクーデタを 計画することは容易だったと思われる。

 一般に吉田はアメリカ一辺倒だったという評価をされているが、一応はある程度の抵抗をしていた。 アメリカはいざという時はその吉田を廃して、いわゆる傀儡政権を樹立することも視野に入れ ていたというとか。保守政治家が虎視眈々と派閥抗争にうつつを抜かしていたのは事実だし、中には 歓んで傀儡政権の担当をしたがる者もいただろう。今のイラクのように。
203. 再軍備はどのうに行われてきたのか(5)
再軍備の経過がはらんでいた問題点
2005年3月5日(土)


 福島氏は「再軍備の経過がはらんでいた問題点」を5点挙げている。それぞれ長い文章なので 要約をして紹介する。

(1) 警察予備隊ほ警察の名で実体をおおったので、地上部隊のみに限られていた。しかし保安庁の下 で陸海二部門をそろえた上、航空部隊の準備を始めた。それらは54年7月には航空自衛隊に合流した。

(2) 保安庁発足時に大量に旧軍人が入隊し、編成、訓練等の主導権はたちまちかれらに移った。 54年5月の保安庁幹部級軍歴表(旧軍尉官以上)によれば、旧軍人は保安隊で24.4%、警備隊で 実に80.2%をしめた。隊内では昭和初期のファッショ的青年将校が愛好した「昭和維新の歌」が教 えられ、社会では在郷軍人会、戦友会が復活した。これら旧軍人はその後20数年自衛隊を指導し、 その下で新しい幹部自衛官の団体精神が養なわれたのである。

(3) それと関連してシビリアン・コントロールの問題が深刻となった。
 保安庁法第16条6項では内局の課長以上の幹部は幹部保安(又は警備)官の経歴のない者のうち から任用すると定めていた。これが審議中から旧軍人の激しい攻撃を受け、大橋国務相は修正 を考慮していたが、原案どおり制定され、批判は続けられた。54年6月の防衛庁法ではとうとう この制限を撤廃するにいたった。そのことにより内局幹部は制服よりに立場が変っていったと みられる。
 そればかりでなく55年3月の第二次鳩山内閣では野村育三郎元海軍大将の防衛庁長官起 用を求め、内閣法制局の異論で断念している。

(4) その点にも示されたように政治指導層には軍事政策立案・検討能力がなく、在日米軍や MSA軍事顧問団と直接連絡した部隊幹部の決定によって、重要な政策路線が既成事実として先行 的につくられる慣習が確立した。
 例として
 ① 海軍の設置は米軍からのフリゲート艦の半ば強制的貸与によって行われた。
 ② 航空部隊の設置も在日米空軍と旧陸海軍幹部との間で協議されていた。
 ③ レーダー部隊の養成、スクランブルの航空自衛隊によって担当なども米軍との合意によって進められた。
などがあり、
 このように重大な政策は国会はおろか閣議でも事前に検討されたことはなく、国民には全く知 らされなかった。

(5) MSA援助を受けるにあたってのアメリカからの強い要請にこたえようと、長期防衛計画 の立案が非公式に始められている。
 ① 53年5月12日経団連は「防衛生産八ヵ年計画」を発表。
   59年までに総額2兆9700億(米への依存2兆3200億)という大きな規模を示した。
 ② ついで木村保安庁長官が談話の形でやや小規模な「警備五ヵ年計画」を発表も吉田首相 に政府正式見解ではないと叱貴され、取り下げる。
 ③ 9月2日あらためて保安庁が「防衛五ヵ年計画案」を発表。
 ④ 経済審議庁もその頃さらにひかえめな「防衛六ヵ年計画」を作っている。
 ⑤ 53年10月の池田・ロバートソン会談で「防衛五ヵ年計画池田私案」を示す。総経費9000億円。
 ⑥ 最も極端なものは増原恵吉保安庁次長が同じ10月7日自由党総務会で理想案を説明。五ヵ年で 7~80兆円と大風呂敷をひろげる。米顧問の希望意見と日本案がひかえめなものだと見せる演出をした。
 これらの計画案の競演によって、再軍備が不可避であり計画的に進める義務を負っているという 国民的意識の刷り込みをはかっていた。

 いずれにしても憲法第九条を無視し国民に対する説明と討議を行なわずに、すべて既成事実のつみ 重ねによって進められてきたという点が重要である。

 前回の年表でも略記したが、池田・ロバートソン会談の直前9月27日に吉田・重光の自由・改進両 党首会談が行なわれた。吉田は重光に衆議院202名の少数与党の上に立つ第五次吉田内閣の防衛政策 への協力を求めた。両者の合意は、
1. 長期防衛計画を立て、自衛力増強の方針を明らかにする、
2. 保安隊を自衛隊に改め直接侵略にも対抗できることにする、
3. それに関する憲法問題を協議する、
4. 長期経済建設の政策も協議する、
というものであった。

 上記の3.とは別に、53年11月17日吉田が分党派自由党をひきいる鳩山に復党を懇請 し、その条件として党内に憲法改正調査会を設けることを合意した。このときから、 憲法「改正」への歩みがふみ出されることになった。
204. 再軍備はどのうに行われてきたのか(6)
再軍備の完成=九条改定
2005年3月6日(日)


 吉田が鳩山と党内に憲法改正調査会を設けることを合意した53年11月17日が憲法改定へと 大きく踏み出すスタートラインだった。以来約50年にわたって、支配階層は軍備増強と平行して 改憲のための布石も積み重ねてきた。そして今、ようやくその念願をはたすときを迎えたと 勢いづいている。

 3月4日、政府は昨年成立した「国民保護法」(正しくは「国家総動員法」という)に基づく 「国民の保護に関する基本指針」案を公表した。朝日新聞(3月4日付夕刊)の見出しに 「政府 武力攻撃時の対応を示す」とある。この見出しを目にしてすぐ思ったことは、 「一体どこの国の攻撃を想定しているの?」「脅威・不安を煽るのが真の狙いじゃないのかな」 ということだった。九条改定をスムースに運ぶための布石の一つだ。

 隠蔽のためか怠慢の故か、いずれにしろマスコミが報道しない重要な情報はかなり多いと思っている。 情報補充の一つの手段としてインターネットを利用している。国際情勢については
「田中宇(さかい) の国際ニュース解説」

を読んでいる。

 そのサイトの3月1日の記事「中台関係と日本の憲法改定」で、2月19日の『日米の「2+2協議」 (防衛・外務のトップどうしの安全保障に関する協議)』を取り上げて解説をしている。
 「2+2協議」について一般には「台湾海峡の問題を平和的に解決することが日米の共通目標であると 初めて両国が表明した。日本ではこの話が、日米が共同で中国を封じ込める姿勢を強めたことの証 しであると解釈されている。」
 しかし、田中さんはアメリカの中国に対する長期的な政策傾向や、北朝鮮をめぐる問題での中国 への対応や台湾をめぐる中国・台湾双方の動きを俯瞰した上で
『この協議の前後のアメリカ側の対応を見ていくと、 実はアメリカは「日本と組んで中国を封じ込める」という動きを採りたがっていないように思える。』
『アメリカは2+2の宣言を発しつつも、中国を刺激する結果にはしたくない。このようなややこしい 状況になっている理由として推察できることは、宣言に台湾海峡問題を盛り込みたかったのは、ア メリカではなく日本なのではないか』
と述べている。

 そして、「そのように考え始めると、ほかにも思い当たることがある。」と、「竹島問題」・「東シ ナ海の石油・ガス田問題」・「拉致問題」などに対する政府とその周辺の姿勢の硬化を挙げて「周辺 諸国との関係悪化の流れは、最近になって頂点に達し」たと指摘している。
 以下、田中さんの記事をそのまま引用する。
 ここまでそろって悪化すると、私には、何かおかしいと感じられる。日本政府には、 中国や韓国、北朝鮮と、わざわざ対立しなければならない特段の事情でもあるのだろうか、 と思っていたところ、国会で出てきたのが、日本国憲法改定のために必要な国民投票を行う 構想であった。

 憲法を改定して日本が正式な軍隊を持てるようにする国民投票を成功させるには、周辺諸国 が日本にとって脅威である状態の方が良い。小泉政権は、憲法9条を改定するために、周辺諸国 との関係を悪化させる方向へと事態を微妙に動かしてきたのではないかと思われる。

 小泉政権が憲法9条の改定を急ぐために周辺国との関係を悪化させているのだとしたら、なぜ そこまでして急いで憲法を改定しなければならないのか。その理由はおそらく、すでに前回の記 事で書いたことだが、在日米軍が日本から撤退していくので、自衛隊を軍隊に格上げするなど、 日本は軍事的な行動の自由を広げて対応しなければならなくなっている、ということだろう。

 九条を改定しなければ再軍備は完成したことにならない。九条改定はまさしく再軍備の画竜点睛 なのだ。再軍備完成のために、支配階層はさらに周到にあの手この手の布石をしてくるだろう。