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170. 憲法改悪の真の狙い
2005年1月31日(月)

 憲法改悪に対して、私は「憲法擁護」とは言いたくない。もちろん天皇条項の故である。くだんの条項を 削除する改正なら諸手を挙げて賛成したい。憲法改悪反対の立場の人の多くが同じ思いではないかと 推測しているがどうだろうか。

 憲法改悪を企む側も反対する側も第9条を一番の争点と考えているようだが、私はそれにもまして前文の 改悪を懸念している。

 いま都教委が行っている教育支配のための施策の多くが憲法違反あるいは教育基本法違反であることは 明らかだ。教育基本法違反を詰問された都教委員の某かが「いずれ教育基本法が改正されて、私たちのや っている事が正しいことになる。」とうそぶいたという話を仄聞したが、そういうものいいがあっても 驚くに当たらない。違反承知でやっているのだ。
 イシハラは現憲法を認めないと公言している。イシハラの腰きんちゃくも親分に倣っていることになる。

 イシハラは現憲法を目の敵にしている。特にその前文がもっとも癇に障るらしい。「醜悪」だという。 日本語の表現として悪文だと批判している(それはそれで当たっている)のだが、イシハラの数々の言動から、彼が目の敵にしている 本命のターゲットは前文に盛り込まれた「理念」なのだ。
 自民党らの改悪案は、前文がそのままでは、多くの条項が前文と齟齬をきたすに違いない。 改悪遂行者らは、憲法は国家が決めて国民に従わせるもの、という憲法前文と真っ向から対立する 観点から改悪しようとしているのだから、前文を全く反対の理念で書き換えねばならない。私はこの前文の 改悪が憲法改悪の骨子だと考えている。

 憲法前文の理念と真っ向から対立する「醜悪」な例が昨年度発表された与党の「教育基本法改正協 議会・中間報告」のなかにある。

 現基本法第10条
 「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」

 改悪案
 「教育行政は、不当な支配に服することなく、国・地方公共団体の相互の役割分担と連携協力のもと に行われること。」

 これはブラックユーモアだろうか。いや大真面目なのだ。こんな噴飯ものの詐欺を平気で行う精神も なかなか「醜悪」だ。

 「日の丸・君が代の強制」に対するさまざまな訴訟では憲法が保障する「思想の自由」と基本法の 10条が眼目となる。なるほど、こんな条文に改悪されれば、都教委が「正しい」ことになる。

 ところで、いまここで問題にしている憲法前文と天皇条項についての改正意見を1947年に発表していた 人たちがいる。
 次回はそれを紹介する。
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171. 「憲法改正意見」前書き
2005年2月1日(火)

 憲法が公布されたのは1946年11月3日。
 ちなみに「日本国憲法公布記念式典において賜わつた勅語」というのを掲載する。

本日、日本国憲法を公布せしめた。
 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、 自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争 を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人 権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。
 朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自 由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。
改憲大好きの天皇教信者たちはこのヒロヒトの決意をどう読むだろうか。占領軍に心にもないことを 無理やり言わせられて、おいたわしや、か。それとも、それごらんなさい、平和を愛する皇室でしょう、か。
 近頃の米長が引き出したアキヒトの「お言葉」同様、天皇の発言を「黄門様の印籠」にするような 言説は右左を問わず唾棄すべきだが、天皇教信者たちがこの「勅語」をどう糊塗するのか、興味がある。

 さて、本題に入る。
 紹介する「憲法改正意見」という論文は「『天皇制』論集」(三一書房)に収録されている。初出は 「法律時報(第20巻4号)」という雑誌で発表者は「公法研究会」とある。この研究サークルは今でも継続 しているのだろうか。早稲田大学に同名のサークルがあるが、同一のサークルだろうか。

 前書きから読んでいく。

  現行憲法が文字通りの意味でinterim constitutionであるかどうかは問題である が、少なくとも施行二年目までに日本人民の手で再検討が加えらるべきものである ことは、公布当時、極東委員会の見解として新聞紙上に伝えられたところである。 ところが遺憾ながら、今までのところでは日本人民の間から改正意見が活発に表明 されているとはいえない状態である。
 われわれ公法研究会の会員は、昨年春以来、憲法の研究に従事して来たが、その 際一番問題になったのは、現在広く行われている解釈の中に、ポツダム宜言の精神 に違反すると思われるもの、従って現在の日本の政治的構造の基本規定と認め難い ものが少なからず存在するということであった。われわれの研究の成果は何れ機を みて発表したいと考えるが、とりあえず、その一端として、われわれの問題にした ところを憲法改正意見として公にし、一方では右のように解釈上異論の起る余地を なからしめると共に、この二年間の日本人民の政治的成長に鑑みて、憲法を少しで もポツダム宣言の今日における意義に適するように改めたいと考えた。これが改正 意見の極めて簡単な要旨を、しかも憲法第三章までの部分だけを、取急いでここに 発表する理由である。これによって憲法を、自分自身の問題として絶えず真剣に考 えてゆくというわれわれ日本人民の権利が、正しく行使されることになるであろう。 各方面からの忌憚のない批判を期待したい。
 昭和二四年三月二〇日
(本文中*は現行憲法参照条文を示す)

 これによると「少なくとも施行二年目までに日本人民の手で再検討が加えらるべきもの」と されていたようである。
 憲法改悪論者は「押し付け憲法」だということを憲法改悪の理由の一つにしている。日本人民による 再検討の機会が設けられていたのなら、安易に「押し付け憲法」とは言えないのではないか。
 もっとも当時「押し付け憲法」に国体(自分たちの権力基盤)の危機を感じていた連中は 「押し付け憲法」を押し返すような「改正」案を出す勇気などなく、甲羅の中に閉じこもってじっと 隠れていたのであろう。

 ともあれ、「押し付け」か否かはたいした問題ではない。憲法が掲げる理念とその条文の内容そのもの が問題にされなければならない。

 上記の前書きによると、論者は「ポツダム宜言の精神」を規準に憲法を検討しようとしている。
 私は「ポツダム宣言」を丸ごと読んだ事がないので、ついでながら、この機会に読んでみることにする。
 そしてさらについでながら、「ポツダム宣言」に先立つ「カイロ宣言」も。

カイロ宣言(日本國に關する英、米、華三國宣言)
1943年11月27日 カイロで署名

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」總理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」 ニ於テ會議ヲ終了シ左ノ一般的聲明ヲ發セラレタリ
各軍事使節ハ日本國ニ對スル將來ノ軍事行動ヲ協定セリ三大同盟國ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蠻ナル敵國ニ對シ 假借ナキ彈壓ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右彈壓ハ既ニ増大シツツアリ
三大同盟國ハ日本國ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ
右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋 ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華 民國ニ返還スルコトニ在リ
日本國ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本國ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルヘシ
前記三大國ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且獨立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
右ノ目的ヲ以テ右三同盟國ハ同盟諸國中日本國ト交戰中ナル諸國ト協調シ日本國ノ無條件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大 且長期ノ行動ヲ續行スヘシ


「ポツダム」共同宣言(米、英、支三國宣言)

昭和20(1945)年7月26日 ポツダム(Potsdam,Germany)で署名
昭和20(1945)年8月14日 日本受諾


 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及「グレート、ブリテン」國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國 ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ

 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後 的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スルノ一切ノ聯合國ノ決 意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スル「ドイツ」國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ 明白ニ示スモノナリ現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」 國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持 セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナ ル破滅ヲ意味スベシ

 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又 ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ

 吾等ノ條件ハ左ノ如シ
吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル條件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ

 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐サラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノ ナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザル ベカラズ

 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本 國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ

 「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラル ベシ

 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ

 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ 虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的 傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
十一
 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本國 ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス) ヲ許可サルベシ日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ
十二
 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從いヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テ ハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ
十三
 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ對ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提 供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
172. 「憲法改正意見」・憲法前文
2005年2月2日(水)

 「憲法改正意見」(以後単に「意見」と呼ぶ)の前書きでいう「ポツダム宣言の精神」とは、「宣言の十」の後半部分の「日本 國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、 宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」を指していることは明らかだろう。

 まず憲法前文を改めて読んでみる。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫の ために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、 政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が 国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託による ものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利 は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くもの である。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するの であつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと 決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと 努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、 ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであ つて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、 他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理念と目的を達成することを誓ふ。

 「意見」は改正点を二点挙げている。
1. 前文及び本文に使用されている「日本国民」という言葉を「日本人民」に改める。
2. 前文中、「その権力は国民の代表者がこれを行使し」とあるのを「その権力  は人民がこれを行使し」と改める。

 その理由を次のように述べている。
 前文は日本国憲法の根本原則を示すもので、本文の基礎となっているも のであり、従って、憲法の改正手続によって軽々に、これを改むべきものではない、 ことに民主主義の根本原則は日本国憲法の鉄則ともいうべきもので、これを民主主 義に反する方向に改正することは許さるべきではないが、ただ、民主主義の原則を 深化・発展せしめるために改正を加えることは、前文にいう根本原則に反するもの ではない。従って、日本国民という曖昧な表現を明確にし、英文にあるように日本 人民Japanese people とすることは、本来の主旨を徹底させるものである。さら にまた、前文中に「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行 使し、その福利は国民がこれを享受する」と示されているのは、欧米のデモクラシ ーの原則としていわれるgovernment of the people,by the people, foe the people に相当するものであるが、このうち人民による政治にあたる部分は前文においては 「国民の代表者」とされ、間接民主政治をいみしている。しかるに、デモクラシー の原則としては直接民主政治を排すべき理由はなく、現に日本国憲法も直接民主政 治の諸制度を採用しているし、直接民主政治が建て前たるべきものである。従って、 民主主義の根本原則を示す場合には、あくまで直接民主政治を意味する「日本人 民」とすべきで、「代表者」という文字を削除する。

 まず、前文の「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」が私には気に入らない。
 私の行動を他者を通して行うとは一体どういうことなのか。私の行動規範の「自主自立」にまった く反する。何よりも現実の事実として「国会における代表者」に私たちの行動の範となるに足るものなどい ないではないか。(もしかすると何人かはいるのかな?)
実は、この私の議論はおかしいのだ。全文で言われている「行動」とは「政治的国家」の成員という 幻想上の「国民」としての「行動」であり、市民社会の成員・現実に生活している個々の市民の日 常的な「行動」を指しているのではあるまい。こうした誤解は、憲法前文がまともな国家論を 欠いているため起こる。

  「意見」は「日本国民」という言葉を「曖昧な表現」と言っている。これは漠然とではあるが、 「政治的国家」と「市民社会」(社会的国家)を区別し、その関係を踏まえようとしていると思われる。
 また「意見」は、「直接民主政治」が「建て前たるべき」であり「民主主義の根本原則を示す場合」は、 との保留つきながら、「日本人民」という言葉に「直接民主政治」という理念を込めている。
 この「人民」という言葉は上で私が使った「市民」と同意だろう。
 

 そういう意味で私も「日本国民」という言い方に異議がある。
 私たちは「国民」である前にまず「人民」である。理念としては、「人民」が合意によって「国家」を 形成し、そこで初めて私たちは「国民」となる。
 前文はあくまでも「人民」の立場から、「人民」が国家形成の主体であり「人民」が国家の在り方を 決めるのだということをもっと明確に宣言すべきだ。憲法は「人民」が「国家」に与える活動規準なの だという、改悪論者たちが最も忌み嫌っている部分を強化することになる。

    もう一つ、私は「前文」中の「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと 努めてゐる国際社会」に注目したい。このことについては「第26回」(2004年9月9日)で書いたことで はあるが、次回に繰り返すことになるかもしれない。

 ところで偶然にも今日から東京新聞(朝刊)が憲法全文を「遂条点検」する連載を始めた。その趣旨に いわく、
 最近、憲法改正をめぐる議論がマスコミをにぎわせています。「何とか止めな ければ」と思う人もいるでしょうし、「時代にそぐわないなら変えればいい」と いう声も聞きます。ただ、その理由を聞くと、「何となく」という人が案外多い ようです。そこで私たちは、百三条ある今の憲法を一条ずつ取り上げ、優れた 点や問題点を掘り下げることにしました。
 「憲法の記事を連日載せるのは改憲機運をあおるだけ」という批判もあるかも しれません。しかし、憲法をじっくり考えることは、護憲派、改憲派にかかわら ず、有意義なことだと考えました。
 なぜかというと、憲法は安全保障や天皇制の問題だけでなく、暮らしの中の森 羅万象にかかわっているからです。国会や各党の憲法論議では、脳死やIT(情 報技術)社会といった広範なテーマを議論しているのです。
 宮沢喜一元首相の背広には、いつも憲法の条文が入っているといわれます。  「私は学生時代、旧憲法はじっくり勉強して頭に入っているが、今の憲法は分 からないことがある。だから、持ち歩いて勉強しているのです」
 護憲派重鎮のこのひと言が、連載を始めるヒントになりました。長い連載にな りますが、ぜひお付き合いください。まずは「前文」の解釈からスタートしま す。   (金井辰樹)
 私は憲法をつまみ食いしかしておらず、全文を精読したことなどもちろんない。これを機会に 東京新聞に付き合ってみようと思う。私なりに記事を取捨選択し、「憲法改正意見」の残りの 部分(第1章・天皇条項の改正案)と私の意見も適時盛り込みながら紹介していく。
173. 東京新聞「憲法遂条点検」と「憲法改正意見」(1)
憲法前文・「平和」「国民主権」をうたう
2005年2月3日(木)

 東京新聞の記事は前文の中の文章を8ヶ所取り上げて、その「背景と解釈」を記述している。
(太字は憲法の該当文章)

 私の言い分は思いつくままに勝手なことを書いていくことにする。妥当な言い分かどうかは とりあえず考えない。

まず第1段から
1
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し

 「政府の行為によって」は、「過去の戦争が政府によって行われた」という前提に立っている。同じ 過ちを繰り返さない決意を示すことで、平和主義の理念をうたっている。

2
主権が国民に存する

 主権とは、「国家の意思を最終的に決定する最高権力」と解釈されている。大日本帝国憲法下で は、主権は天皇にあった。今の憲法では、主権が国民に移ったことを明記した。

3
国政は、国民の厳粛な信託による

 国政は本来、国民のものであり、権力を行使する者、つまり政府や国会議員のものではないとい う趣旨。

4
これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 旧憲法を認めないというだけでなく、原理に反するような将来の憲法改正も許さないという意味 も含まれる。法令や詔勅も、過去、将来にかかわらず、日本国憲法の原理にそぐわないものはつく ってはいけない。

 理念と現実は月とスッポンほども違うことは改めて言うまい。
 このくだりでは「その権力は国民の代表者がこれを行使し」がいけない。前回の「意見」の改正案 では「国民の代表者」を「人民」にするとある。
 さらに私は国会議員を「国会における(国民の)代表者」だとする規定がよろしくないと思う。「代理人」 とすればいくらかはましか。
 もう一つ。「日本国憲法の原理にそぐわないものはつくってはいけない。」と解説しているが、 その「日本国憲法の原理」をキチンと定義しなければ意味がない。

第2段

 
5
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するの であつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと 決意した。

 軍事的手段以外で、自国の安全と生存を保持すると決意することで、「戦争放棄」「戦力の不保持」 の考えを示している。この考えは憲法九条で具体化されている。
 ただ、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」の意味は、必ずしも明確ではない。
 「諸国民の公正と信義に信頼して」のくだりも、日本語としておかしいとの指摘があるうえ、 戦争、紛争、テロなどが頻発する国際社会の現状の中でそぐわなくなっているとの意見もある。


6
国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

 平和主義に徹することにより、「名誉ある地位」を占めたいとの意思を示している。政府が、 国際貢献をする際によく引用する一文。


 「人間相互の関係を支配する崇高な理想」の意味がよく分からないということを、確か辺見庸さんも どこかで書いていた。敢えて解釈をしてみようと思う。

 カギは「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと 努めてゐる国際社会」というくだりにある。
 この文はこの地上にはいまだ「専制と隷従、圧迫と偏狭」があり、「平和を維持」するのも難しい ことだという現実についてのまっとうな認識を前提としている。それは人類が落ち込んでしまった 陥穽「支配ー被支配」あるいは「抑圧ー被抑圧」のことと言い換えてもよいだろう。
 ではそれらを地上から永遠に除去しようと努めてゐる「国際社会」とは何を指しているのか。私は この地上の全人民のことと考えたい。国家という枠組み取り払った人民同志の直接の相互関係を指し ている。この後すぐに「全世界の国民が」とあるが、「国際社会」を言い換えたものであろう。
 だから「人間相互の関係」とは上述の意味での「国際社会」であり、「支配ー被支配」あるいは 「抑圧ー被抑圧」から人類全体を解放するという崇高な理想はその「国際社会」全体で共有すべき 理想と言うことになる。つまり「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とはそう言うことだ。

 ちょっと苦しい解釈かな?でも今までに解釈しようとした人はいないらしいから、ひとまず これでいいとしよう。
 「諸国民の公正と信義に信頼して」が日本語としておかしいというのは助詞の使い方の間違い でしょ。私もおかしな日本語を使うことがあるから口はばったいけど、 よっぽど日本語をきちんと使えない日本人が翻訳したんだね。
  7
自国のことのみに専念して他国を無視してはならない

国際協調主義を掲げたくだり。利己的な国家主義を排除して、他国と対等の関係で協調していく必要性 を強調している。小泉純一郎首相が二〇〇三年十二月にイラクへの自衛隊派遣の基本計画を閣議決定し た際、この部分を引用。「憲法の理念に沿った活動が国際社会から求めらいる」と大義を強調し、論議 を呼んだ。
 また、平和主義と国際協調主義の理念に基づけば、現行憲法下でも「自衛隊を国連待機軍として国連 に提供し、海外で活動させることは可能」という主張も、一九九一年の湾岸戦争以降出ている。これは、 国連の指揮下での活動は、憲法九条が禁じた「国権の発動たる戦争」にあたらないとの解釈からだ。
 しかし、政府は国連指揮下での活動でも、九条で禁止された「武力による威嚇または武力の行使」は できないとの立場を取っている。


8
自国の主権

 ここでいう自国の主権は、「主権国家」「独立国家」の意味。


 第二段までの主語は「日本国民」と「全世界の国民」である。「意見」の「改正案」を取り入れれ ば「日本の人民」「全世界の人民」が主語ということだ。
 第三段で始めて「国家」という概念が登場し、「国家」が主語になる。 そして、二段までに述べた人間解放の理想を遂行すること を普遍的な「政治道徳の法則」と言い、それが「国家の責務」であると言っている。
 また「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のは「崇高な理想」が全世界の人民 の課題である以上当然のことである。

 先に述べたように「国際社会」とは国家間の相互関係ではなく、各国の人民同士のそれである。 ましてやコイズミの「国際社会」は「アメリカとその追従国」のことで全く話しにならない。
 また「憲法の理念に沿った活動」が人民の大量虐殺の援助では「崇高な理想」に対する侮辱である。

 前文の最後の一文も「国家の名誉にかけ」ではダメだ。「日本人民」とすべきだ。つまり
「日本人民は、日本人民の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理念と目的を達成することを誓ふ。」
そして国家はその「崇高な思想」遂行のためのシステムに過ぎないことを明記すべきだろう。
 国家はでかい顔をして人民を抑圧するな!!
174. 憲法前文について追記
2005年2月4日(金)

 書棚に娘が大学生のときに使っていた教科書(佐藤功著「日本国憲法概説」)を見つけたので 「人間相互の関係を支配する崇高な理想」についてどんなことを言っているのか調べてみた。

 前文の第一段および第三段において、この憲法が単にわが国にのみ適用される原理に基づくもので はなく、「人類普遍の原理」に基づくものであるとされている。「人類普遍の原理」とは、世界の人 類が終始その確立のために努力し来たり、今日の世界において人類共通の原理と認められるに至つた 原理を意味するといえよう。日本国憲法は、わが国がこのような原理に基づくことによつて、はじめ て国際的にも新たな地位を占めることができるとしているのである。
 「人類普遍の原理」に基づくとすることは、従来わが国にのみ固有のものであり世界に比類がないも のと考えられてきたところの原理、すなわち「国体」の原理を排除するところに特別の意味がある。
(下線は仁平)
 こりゃなんじゃいな?何も言ってないと等しいではないか。何か言わなければ沽券に関わるとでも思ったのか、 無理やり文章をこねくり出したというところか。むしろますます分かんなくなってくる。
 しかし「人類普遍の原理」を『「国体」の原理』のアンチテーゼと読む読み方は一つの識見と 言えよう。

 もう一つ。
 『「人間相互の関係を支配する崇高な理想」の意味がよく分からないということを、確か辺見庸さんも どこかで書いていた。』と書いたままで横着を決め込んでいたが、やはり気になるのでこれも調べた。

 ただ「わからない」と言っているだけでなく、ちゃんと独自の解釈をしていた。
 憲法前文第二パラグラフにある「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、いった いなんであろうか。私にはよくわからない。憲法制定時の日本国民がそれを「深く自覚」 していたようにも思えない。けれども、指し示すものが、国家の準則などではなく、人間 として将来にわたり希求すべき、「非国家的」ことがらであることは、前後の脈絡からし て明白なのではないか。これにつづく、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と 偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めた いと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生 存する権利を有することを確認する」の有名なくだりは、小泉が一再ならず米国の戦争政 策を支持したり、自衛隊派兵の論拠とした個所だが、いったいどこをどう読めば彼のよう な解釈が導かれるのだろう。第一段落における宣言と決意と相侯って、ここで押しだされ ているのは、絶対的なパスィフィズム(不戦・平和主義)以外のなにものでもないのであ り、さらにそれにとどまらず、貧困や差別、人権侵害、環境破壊などの、今日的表現でい えば「構造的暴力」に対しても、国際社会と平和的に連携してそれらの克服のために闘う という決意であろう、と私は考える。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」を、私は 「よくわからない」と記したが、地球規模の構造的暴力(これは現在、グローバル化の必然的 結果でもある)をもわがこととして捉えて闘おうという発意ならば得心するのである。
(辺見庸著「抵抗論」所収「憲法、国家および自衛隊派兵についてのノート」より)

(下線は仁平)

 大筋において私の捉え方と同じだと思う。