2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
578 唯物論哲学 対 観念論哲学(1)
観念論哲学と宗教は兄弟
2006年8月14日(月)


 「第570~571回 8月6日~7日」で天台智顗の一念三千という思想の解釈を めぐっての梅原さんの解説を引用したとき、梅原さんの考えに対して私には 本質的な異議があった。そのとき私は次のように書いた。

『私は「永遠の生命」という思想を肯定する梅原さんの考えには反対を 表明せざるを得ない。生命は物質と無関係なものとしたり、生命は死後も存在するとしたり 、さらには飛躍して自然=生命、宇宙=生命であるというような考えは、科学 的な認識論からすれば相対的誤謬に過ぎない。誤謬を思想の根幹にするわけ にはいかない。』

 このことをもう少し丁寧に再論してみたい。なお、上記文中で私の立場を 「科学的な認識論」としたが、正確に「唯物論的認識論」と言うべきだった。

 まず梅原さんは一念三千の思想を次のように読み解いた。

 地獄だの仏だのというものは、別にわれわれの心の外に実在しているもので はなく、われわれが心で感じる苦悩が地獄そのものであり、われわれが心で感 じる喜びが天そのものであり、しかも地獄の心を持つ人の心の中にもどこかに 仏の心、純粋慈悲の心があり、仏の心を持つ人の心の中にも煩悩をあらわす餓鬼 の心や、怒りをあらわす修羅の心があるというのである。

 私は一念三千の思想は仏教の生んだ偉大なる精神の研究であり、フロイドの精 神分析以上の偉大なる思想の萌芽をそこにみるのであるが、日蓮はここでは 唯人間ばかりか、山川草木も心があるというのである。


 地獄とか仏とかは「心の外に実在しているものではない」という認識は 至極真っ当な唯物論的認識である。そして仏教用語を日常的な言葉に言い換 えて、人は誰でも心の中に「苦悩、喜び、慈悲、煩悩、怒り」を併せ持ってい るといい、その人間理解を思想の根幹に据えるべきだと言っている。この点も 賛同できる解釈だ。しかし、この当たり前の認識をもって「偉大なる思想の萌芽」とまで 言うのは言いすぎだと私は思う。

 梅原さんが「偉大なる思想の萌芽」とまで言うのは、最後の日蓮の解釈とし て述べている「山川草木にも心がある」という解釈をも一念三千の解釈の中に 組み込んだ上でのことであり、その日蓮の解釈が正しいとするなば、 「偉大なる思想の崩芽」とまで言う理由は分かる。しかしその「山川草木にも心がある」 という日蓮の認識は、当然、現代の科学的な認識論では誤謬でしかない。

 上記引用文の後で梅原さんは次のように述べる。

 このように考えると日蓮の思想の眼目は普遍的にして永遠な生命論というと ころにあるように思われる。こうした普遍的にして永遠な生命とその生命への 慈愛こそ、たしかに日蓮が言うような大乗仏教の眼目であり、私は創価学会と ともにこの生命論を世界の思想を救済する可能性を持つ思想と思うのである。

①『地獄とか仏とかは心の外に実在しているものではない』→②『山川草木にも心が ある』→③『普遍的にして永遠な生命』。この一念三千の解釈の飛躍は、私は 典型的な観念論的踏み外しだと思う。
 ①でいう「心」は「観念の世界」と同義だ。だとすると②は『山川草木にも 観念の世界がある』となって、①の認識が拠ってたつ科学的な立場らかはまっ たく受け入れられない誤った認識となる。
 ②の「心」を①とは違う意味で「生命」と解釈すれば、②は『山川草木にも 命がある』となり、これならごく真っ当な認識ということになる。(「山川」も 命あるものとする点は今はおく。)
 しかし、この生命が③の『普遍的にして永遠な生命』となると、現実的な存在 と無関係に「永遠の生命」が宇宙に偏在していると言うのだから、これも またとんでもない観念論的踏み外しと言わなければならない。

 私は梅原さんからたくさんのことを教えられてきた。私がその発言を注目し ているお一人で、これからもその発言に耳傾け、そこからいろいろと学びた いと思っている。
 しかし、梅原さんの理論にはいつも根本のところで、上で縷々述べたような 疑義を持ってきた。その理由は梅原さんの思想の土台が観念論哲学だからだっ た。宗教と観念論哲学は紛れもなく兄弟である。その母体を共有している。 観念論哲学が必ず哲学と宗教の調和を図るのは当然の成り行きなのだ。 梅原さんは「近代科学の成果にも忠実」であろうとする立場をとっている (「第573回 8月9日」参照)が、観念論哲学が科学的な哲学ではないという 認識はまったくお持ちではないようだ。

 私は重箱の隅をほじくるようなつまらぬ議論をしてしまっただろうか。 いな、私は次のような問題意識を持ちながら書いている。
 これまで(「第534回 6月25日」以来)天理教、幸福の科学、統一教会、 オウム真理教、創価学会と5つの新興宗教の教義を調べてきたが、それらの教義の うちのバカ話はすべて観念論にその淵源がある。そのおおもとの観念論の批判 をしたい。それは同時に全宗教に対する批判でもある。つまりこれまでの個々の 宗派の批判に対して、宗教そのものの批判をすることになる。
 実は、観念論としての宗教の批判は「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったのだ」 というマルクスの言葉で全て言い尽くされている。私が持った新たな課題は、 そのマルクスの認識が生まれてくる根源的な理論を詳しく学び直すことにある。 当然のこと、それは観念論哲学と宗教の批判ということになる。宗教批判の 総論と言う意味合いと同時に、シリーズ「認識論と矛盾論」の続編だと思っている。

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579 唯物論哲学 対 観念論哲学(2)
番外編・私の師匠
2006年8月15日(火)


 今回のテーマは「認識論と矛盾論」の続編なので、師匠はやはり三浦つとむ さんです。お手本としては、今回のテーマに対して適切な内容を提供してくれ そうなだなというカン程度の判断で、次の著書や論文をとりあえず手元に置く ことにした。

お手本
① 「哲学入門」(仮説社)
② 「こころとことば」(季節社)
③ 「宗教論と言語論とのむすびつき」
④ 「哲学の教訓」
  ③④は「文学・哲学・言語」(国文社)所収の論文
⑤ 「現実の世界と観念の世界」
  これは「生きる学ぶ」(季節社)所収の論文
⑥ 再び「認識論と矛盾論」
  これは「認識と言語の理論第一部」(勁草書房)の第一章

 ずさんな事で恥ずかしい限りですが、まだ全体の構成ができていない。上記 の論文を全部利用するかどうかも分からない。どうなることやら…。

 何度か言ってきたように、もとより私には独自の研究などない。今までの 読書暦の中で出会った信頼すべき著者たちの思索を追体験するばかりです。 このつたないホームページを覗いた人たちが、私が取り上げた著書に興味関心 をもたれて直接その著書を手に取ってくだされば、このホームページをはじめた 甲斐があったと言える。

 ここまで書いてきて、本題から離れるが、私の師匠たちのことを書きとめ ておきたくなった。

 私が若い頃から親しんだ師匠は、吉本隆明さん・三浦つとむさん・遠山啓さ ん・板倉聖宣さんです。どの方も「先生」なんで呼ばれることを快く思わなそ うなので、かってに親しみを込めて「さん」付けで呼んでいる。この4人の方 からものの見方考え方あるいは生き方をたくさん学んできた。残念ながら三浦さん と遠山さんは故人です。それぞれ1989年、1979年になくなられました。
 最近になって、シリーズ「日本とは何か」を取り上げていたときに古田武彦 さんに出会った。新しい師匠です。古田さんにもっと早くに出会っていた かった。

 この方たちには知識人としての共通の生き方がある。権威・権力と いったものから自由にラジカルに研究・思索を重ねている。それぞれの 研究対象の本質にせまる見事な仕事を残している。そして、学会という 権威・権力の傘の下から出られないでいる象牙の塔の住人らからは見事に無 視されている点でも共通している。この私の師匠たちはネットのような自 由な情報源を通してでなくてはなかなか知られる機会がないのではなか。 だいぶ以前のことになりるが、吉本さんはご自分の著書の読者はせいぜい 2000人ぐらいだと言っていた。ぜひ多くの人にこれらの人を知ってもらいた ものです。

 実は先の四人の師匠はそれぞれに太い糸で結ばれている。

 吉本さんは敗戦直後の大学で遠山さんの講義を聞いて深い感銘を受けて いる。就職の世話までしていただいてる。遠山さんが亡くなられた時、心の こもった追悼文を書かれています。

 遠山さんは「数学教育協議会」という民間の数学教育研究団体の委員長として その会のよきリーダーでした。その会は官製の研究機関では決して見たれない 斬新な理論と授業を創造している。実は私は自分の授業に行き詰まって手探り をしていたとき、この会の存在を知って夏休みの大会に参加したのだった。 この会では委員長であろうともなんら特権はない。部屋割りは申し込み順のよ うだ。なんと私は初参加で遠山さんと同じ部屋に割り当てられていた。部屋 には会のいろんなモサがやってくる。いきなり「数学教育協議会」精神を目 の当たりにした。遠山さんのお話を直接伺う幸運な機会を得たのでした。

 同じ頃、板倉さんは理科教育の分野で斬新な理論と実践を積み重ねていた。 その研究成果は「仮説実験授業」というすばらしい授業に結実する。その 授業の全指導過程を記載した授業計画書は「授業書」と呼ばれている。その 授業書を読んで私の丸暗記の科学知識がいかにいい加減なものであるかを 私は思い知らされた。「授業書」は大人が読んでもワクワクするほど面白い。

 同じような教育理念と方針を持った「数学教育協議会」と「仮説実験授業研 究会」は共同の催しもしていた。遠山さんと板倉さんは個人的にも近しかった のではないかと推測している。お二人の教育論からもたくさんの示唆をもらって いる。お二人の目指している教育はまさに課題提起型教育です。(課題提起型教育 については「第17回 2004年8月31日」を参照)しかしこの二つの会が創ってきた すばらし授業も、教育行政が教育の中身や方法にまで介入してきている昨今、 学校での実践ができなくなってきているのではないかと危惧される。権力は 課題提起型教育を敵視する。

 さてその板倉さんは三浦さんの著書によって、それまでなじんでいた観念論 から唯物論に転じたと言っている。「仮説実験授業」の誕生には三浦さんとの 出会いが大きな要件となっていると思う。もちろんお二人には深い知的交流が あった。

 三浦さんは吉本さん主宰の雑誌「試行」に盛んに論文を投稿していた。 私は1974年9月号から「試行」を購読していた。シリーズ「国家について」や 「統治形態論」でお世話になった滝村隆一さんの存在は「試行」に掲載された 論文で知った。残念なことに「試行」は1997年12月号をもって終刊になってい る。吉本さんは最近の著書では三浦さんのことを「私の師匠」と呼んでいる。

 これで私の四人の師匠を結ぶ糸が一巡した。

 思わず大脱線をしてしまった。次回から本題に入ろう。

580 唯物論哲学 対 観念論哲学(3)
哲学には2種の哲学しかない。
2006年8月16日(水)


 「哲学入門」の初版本は1948年に発行された。今から62年前、敗戦後3年のこと です。「こころとことば」と同様、中学生以上の人を対称に書かれたのだと思う。 つまり中学生にも読める。しかし、決してレベルを落としてはいない。したがって、 もちろん大人が読んでも手ごたえのある内容となっている。まず「哲学入門」を ひもといてみよう。

(これからの文章は、いくらかは私の見解も入るが、三浦さんの著書を要 約していくものであることを改めて 断っておく。そして今回から一つの試みとして、長い文そのままの引用以外は 「三浦さんによれば…」とか「…と三浦さんは述べている。」とはいう添え 書きはしないで、まるで私自身の考えを述べるように書いていこうと思いま す。そういう添え書きは書いているときとても煩わしい。読む人にも煩わしい のじゃないかと思ったからです。また、三浦さんは具体的な例をあげながら分かりやすく論を進 めているが、なにせ61年前の著作なので、今の時点では知らない人の方が多いと 思われる例もある。そういう場合は、もし適当なものが私に思いつけば、それと入れ替えます。 以上の2点、許されるやり方だと勝手に判断しました。)

 哲学って何をする学問なの?答えはいたって簡単で、「哲学とは世界の根本原理 についての学問」です。だからそれは社会経済や政治の問題ばかりでなく、私たちの 身のまわりの問題にも役立つものであるはずです。はずなのだけれど実際には 多くの哲学書はちっとも役立っていない。いやいや著者に原稿料をもたらすと いう役には立っている。これは矛盾の一例ですね。

 身近な問題に丁寧に応じてくれる点では新興宗教の方が勝っている。宗教は 迷信であっても、宗教家の誤謬を真理と思い込んでいる頑迷な確信とそれを布教 しようとする献身的な熱意に感動してその教えを受け入れていく人が絶えな い。それにはそれだけの理由があるわけです。宗教のような間違った理論が 大いにはやる原因の一つは怠慢な哲学者にある。

 哲学は「世界の根本原理についての学問」だから、その研究の対象は現実の 社会や自然です。私たちは現実の世界の中で生活し、その生活を通してこの 世界についてのいろいろな知識や考え方を獲得していく。そうして得られた 知識や考え方は現実の世界から得られたものもだから、真理も誤謬も含めて、 やはり世界の根本原理に従っている。従って逆に、その知識の中身や考え方を 調べたりすれば、そこから世界の根本原理を引き出すことができる。これは もう立派に哲学していることになる。

 哲学がそういうものならば、それは誰にでも理解できるもののはずです。 はずなのだけれど、哲学のセンセイたちは哲学とはむずかしく分かりにくいも のだ、「哲学する」ということは日常の態度とは全く異なる、難しい本と取り 組み、厳しい研鑽を積み重ねた結果悟ることのできるものだ、などとおっしゃ る。
 高校生の頃、当時哲学の入門書として必読書と言われていた出隆の「哲学以前」 という本を、ごたぶんにもれず私も読んだ。さっぱり分からなかった。 その本の一節にこうある。「哲学の価値は所謂実用によって定められるもの ではない。用不用は真に哲学するものにとって問題ではない。」
 今から思えばこれも神ががり哲学だった。

 哲学には違った名前の幾種類もの哲学があり、数え切れないほどの流派 があり、それぞれにその難しさを競っているような観がある。
 しかし、数え切れないほどの哲学も表面上の違いだけで、突き詰めれば2種類 の哲学しかない。科学的な哲学と神ががり哲学。つまり唯物論的哲学と観念論 的哲学のふたつ。全ての哲学はこの二つの立場、唯物論と観念論のどれかに よって立っている。

 わたしたちは生活のうちに知らず知らず哲学的な見かたを身につけています。 これはありのままに世界を見ようとする科学的な哲学、正しい哲学の方向に 沿っているわけです。

 そこへ哲学の本をもってくる。その本には神がかり哲学が書いてある。読ん でいくとわたしたちが知らず知らず持っている正しい哲学の立場が、この神 がかり哲学を排斥する。どうも信じられないといった気もする。それをこれ が正しいものときめてムリヤリに信じようとする。だから苦しむし、努力が いるわけです。

 科学的な哲学と神がかり哲学とは決して両立しない。

 あちらを立てればこちらが立たない。自分の頭でその両立しないことがわ からなければ、日常の生活や行動は科学的な哲学を利用していて、学問の分 野だけを神がかり哲学にたよるという使いわけもできますが、神がかり哲学 で日常の生活まで解決しようとすると、現実のほうがいうことをきいてくれ ない。だから、学問の教えにあくまで忠実であろうとする人たち、その説を どこまでも実行しようとする人たちは、科学の立場と神がかり哲学の主張と のくいちがいにぶつかってなやむことになります。どちらをとるべきかが問 題になる。現実の教えにしたがうべきか、哲学の本の教えにしたがうべき か、どちらかに決めなければならない。

 昔からいうじゃありませんか、両方立てれば身が立たぬ、とね。世の中は 「不可解」だと、哲学にこった青年諸君が自殺するような結果にもなるので す。これは神がかりの哲学の罪ですが、たとえ科学的な哲学を勉強するので も、小学校の生徒に大学の教科書を渡して勝手に読めというような段階を無 視したやりかた、現実のなかから自分で理論をひきださせようとしない教え かたではむずかしくわかりにくいのがあたりまえでしょう。


 現実の中から理論を引き出すのが科学的哲学です。そして、「現実のなかか ら自分で理論を引き出すような教えかた」を根幹に置く教育が「課題提起型 教育」です。
581 唯物論哲学 対 観念論哲学(4)
「きっこの日記」は科学的な哲学です。
2006年8月17日(木)


 昨日の「哲学入門」からの引用文の一節を再掲載する。

『わたしたちは生活のうちに知らず知らず哲学的な見かたを身につけてい ます。これはありのままに世界を見ようとする科学的な哲学、正しい哲学の 方向に沿っているわけです。』

 毎日 「きっこの日記」 を読むのが日課の一つとなっている。8月16日の日記はいま私がテーマとしている問題 と重なる内容なのでうれしく読んだ。「きっこの日記」は上の文章でいう 「科学的な正しい哲学」の見事なお手本だと思った。一部を引用します。

‥‥そんなワケで、あたしは、「死んだ人の霊と交信できる能力」なんてもの が、あるとかないとか言う以前に、「死んだ人の霊」って何?‥‥って思って る。小学生くらいならともかく、いい年こいた大人が、守護霊だの背後霊だ のって、バッカじゃないの? そんなもん、あるワケないじゃん。前世だの生 まれ変わりだのって、そんなもん、あるワケないじゃん。天国だの地獄だのっ て、そんなもん、あるワケないじゃん。神様だの悪魔だのって、そんなもん、 あるワケないじゃん。すべては、人間の空想に決まってんじゃん。人間は、 地球上の他のすべての生き物たちとおんなじように、少しずつ進化して来て、 今の形になっただけじゃん。人間だって、猫だって、虫だって、木だって、 そのルーツは、おんなじなんだよ。それなのに、なんで人間だけが特別で、 死後の世界だの霊だの神様だの悪魔だのって、アホな妄想なんかに右往左往 してんの? 人間も、他のすべての生き物とおんなじで、「死んだら終わり」 に決まってんじゃん。

 だけど、前頭葉が発達しすぎちゃって、「死」に対して恐怖を感じるように なった人間は、その恐怖を少しでもやわらげるために、天国だの神様だのって いう夢物語を作り出して、それが、そのうち、宗教になっちゃったんだよね。 そして、現代では、この宗教っていうデタラメを悪用して、私腹を肥やすペ テン師どもが、次から次へと登場するようになったってワケだ。


 私はコイズミのガキの喧嘩なみの靖国参拝という愚行に関連して「へえ、皆 さん霊の存在を信じているのですかねえ」と書いた。(「第576回 8月12日」) また度々吉本さんの口癖の「死ねば死にきり自然は水際立っている」を引用して いる。これらと同じ認識をきっこさんは実に簡明に述べている。「哲学する」 とはこいうことなんですねえ。私も哲学をこのように簡明に語れたらと思うが、これがなかなか 難しい。わたくしの語り口はどうしても硬直したものになってしまう。

 さて、「天国だの神様だのっていう夢物語を作り出して」しまう観念の世界 の仕組みを明らかにするのが今回のテーマなのでした。

 近代日本の哲学会を代表する西田幾多郎や田辺元の哲学も宗教と同じ論理構造を 持っている「神がかり哲学」です。神の存在を表向き承認しなくとも実際には 神を承認しているのと同じ理論もたくさんある。無神論とか科学的な哲学とか を標榜していてもそれだけで「神がかり哲学」ではないと言うことはできない。

 では科学的哲学の根本原理と神ががり哲学の根本原理はどう違うのか。その違いは どうして何処から生まれるのか。バカバカしい「夢物語」が作り出される られる仕組みを明らかにするためには「人間の観念的な自己分裂」の仕組みを 知る必要がある。この課題については中学生向けに書かれた「こころとことば」(1977年初版)の中の「もう一人の自分」を読むことにする 。分かりやすい文章のうえに、イラスト入りで楽しく読める。

 なお、イラストの作者はいまは動物画で知られている木村しゅうじさんで す。子供向けのたくさんの絵本を手がけている。「笑点カレンダー」の絵の 作者は木村さんだそうです。

582 唯物論哲学 対 観念論哲学(5)
またまた番外編・靖国神社は戦死者への冒涜神社だ。
2006年8月18日(金)


 「第288 詩をどうぞ(19)2005年6月1日(水)」で掲載した愚作詩と 「第576回 8月12日」で書いた文章の一部を再掲載する。


メイモウの国

ヤギがメイとなくと
ウシはモウとなく

首相がヤギで
首都の知事がウシで
ヤギとウシがメイモウと勇ましい

ためにヤギウシが急速に繁殖して
メイモウの唱和が喧しく

メイモウヒノマル
メイモウキミガヨ
メイモウヤスクニ

ちかごろヤギウシは
「手味噌正義」のブッシュに迷い込み
1938年のヤギウシに退化して
いよいよ威丈高だ
メイモウメイモウと踊りながら
先の大戦での膨大な死者たちに
無駄死を強いようとしている

が、ヤギウシはその迷妄に気づかない

『全ての戦没者はその家族や友人や恋人の心の中で追悼されているし、それし か本当の追悼はありえない。国家がしゃしゃり出る問題ではない。国家はひた すらあの無謀な戦争を反省し、被害者に償い、戦争を起こさない外交や施策に 一生懸命邁進するだけでよいのだ。国家による殺人を正当化するために戦没者 を利用するな。』

 どちらの文も、私は兵士だけではなく、また日本人だけでなく、国家によって 殺された全ての戦没者を念頭に置いて書いているが、靖国問題の本質はやはり 「英霊」扱いされている戦死者の問題である。ヤギウシ(コイズミ、イシハラ) を代表とする国家主義者の靖国イデオロギーの本質をえぐるためには戦没者を とりあえずは「英霊」に限る議論が必要だろう。なにしろ彼らのイデオロギー では他の戦没者は見事に無視されているのだから。

 ヤギウシのメイモウがなぜ戦死者の死を無駄死に貶めることになるのか。 ヤギウシの靖国参拝が戦死者の冒涜でしかないことを論理的に明らかにした いと思っていたが、明確な言葉にできないでいた。

 コイズミの愚行に大騒ぎをするマスコミが垂れ流している靖国議論は、 「心の問題」はいいとかけしからんとか、「中国・韓国」に屈するなとか配慮 しろとか、賛成派反対派を問わず上っ面をなぞるだけの皮相な駄弁ばか りだ。そんなことは知れたことだから私は新聞社や識者という売文業者の 論評は全く読まなかった。もちろん靖国問題を扱ったテレビ番組など全く見 る気がしない。あんな愚行は無視すればよい。みんなが無視すれば、コイズミ はピエロだね。裸の王様だ。裸の王様を裸だと指摘できるものは何処にいる?

 マスコミと無縁の所で、本質的な議論がなされている。今日、私の思いを 代弁してくれている論考に出会った。筆者は三上治さんです。

「戦死をめぐる断章」

 その論考の一部を抜粋する。関心をお持ちの方はぜひ直接全文をお読みく ださい。

 [国家のために死ぬ]とか「英霊」とかいう言葉は実際にどのような現象 として存在したかを経験的に知っている人たちがいれば、恥ずかしくていえ ないという雰囲気もあったが、そのような人々が消えて行けば、神話化され て流通するようになる。戦死を身近で目撃した人や、戦死者の声を聞き届け られる人々が少なくなれば、戦死者を顕彰し、恥ずかしげもなく英霊を口に する連中がまたぞろ出てくる。

 戦争は死の契機を用意する。それは人間が殺しあうことであり、その場面 を用意することである。国家と国家が武力をもって対立することだが、そこ に他の国家の存在が恐怖としてイメージされている。侵略でもいいが、他国 によって殺されるかもしれないという恐怖がイメージされるのだ。この他国 への恐怖は歴史的に見れば自然に属することと思われてきたし、国民は他国 への恐怖と戦うために死を怖れない覚悟を要求されてきた。国民はそれに応 じ、戦場に出かけていった。これは戦死者に訪れた現実的契機であった。こ の戦争という現実的契機が戦死を生み出した。戦争の過酷さは普段ならば 想像しない死の恐怖を引き寄せたことである。死を想像して日々を生きる 残酷さである。それを至福の時というのは、それに距離のある人間がいうこ とである。現実に死が訪れた戦死者の心がどのようであったかは想像するし かないが、彼らが国家から与えられた栄誉ある戦死も英霊という観念も欺瞞 であることに気がついたのではないか。戦死に近いところから生還した人や 戦死を身近で目撃した人の証言はそれを語っている。国家の強いた観念的自 殺にこころのうちでは抵抗感を持ったのではないか。戦死者の声を聞く耳が あればそれは聞こえるはずである。

 だから、「英霊」などと戦死者を持ち上げることや顕彰として祀ることは 追悼ではなく、その名を借りた冒涜に過ぎない、と思う。戦死という時代的 な死を避けられなかった人々の追悼は、国家の本質と戦争の批判を抜きには ありえない。


 靖国神社も英霊も神がかり哲学が生み出した欺瞞以外のなにものでも ない。三上さんの思考はその対極にある科学的な論考です。