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138. 自由について(1)
2004年12月30日


 「110回」(12月2日)で取り上げた『「非国民」手帖』の論説で、次のくだりに着目した。
 《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意 味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
 《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。

 そのとき、どうして『《自由》とは社会的不平等の謂い』なのか、という問いを自らの課題 とした。この宿題を済まそうと思う。


 旧憲法(大日本帝国憲法)にも一応表現の自由などの権利を認める条項はあったが、天皇が定めた 憲法(欽定憲法)だから当然のこと、それは「恩賜の権利」であった。あって無きが如し、国家 権力の都合でいかようにも制限・剥奪できるものに過ぎなかった。
 周知のように「表現の自由」など全くと言っていいほどなかった。また法律の留保条件のなかった 「信仰の自由」でさえ、〈安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リ〉 (28 条)であり、 天皇と国家神道 (靖国神社,伊勢神宮) への帰依を全国民が強制されていた。

 では、現憲法で規定されている「基本的人権」とそこで保障されているさまざまな「自由」の根拠 は何なのだろうか。「自然権」と言われている。
 「自然権」とは何か。

   「人権」はアメリカ諸州の州憲法において初めて法文化され、アメリカ合衆国憲法に集約された。 そしてその「人権」思想はロックの「自然法」に多くの影響を受けて形成されたと言う。
 「自然法」についてロックは次のように述べている。
 『しかしこれ〔自然のままの状態〕は自由の状態ではあっても、 放縦の状態ではない。この状態にある人間は、自分の進退あるいは 所有物を処理する制御し難い自由をもっているが、自分自身を滅ぼ す自由はもたないのであり、みずから所有するどのような被造物で も、それをただ保存することよりもより高尚な利用の途がそれを要 求しないかぎり、その被造物を滅ぼす自由はもたないのである。
 自然のままの状態を支配するものは自然法であって、その法は万人を 拘束している。そして自然法と同一であるところの理性は、それの 指示を求めようとするすべての人間に、あらゆるひとが平等で独立 である故に、誰もが他人の生命、健康、自由、所有物に害を与えて はならない、ということを教えるのである。』
(市井三郎訳・ラッセル「西洋哲学史」より)

 人間は神の被造物として神から「自然法=理性」を与えられていて、それは あらゆる「人間の立法」に優先するものとされる。その自然法に基づく権利は 「自然権」と呼ばれてる。

 この思想にもとづいて、アメリカの各州の憲法で人権が、たとえば次のように法文化される。

(以下はマルクス「ユダヤ人問題によせて」(岩波文庫版) を下敷きにしている。引用文も断りのないものは同書からのものである。)

「ペンシルヴァニア州憲法」第九集、第三項、「すべての人間は、その良心のすすめに従って全 能の神を崇拝する不滅の権利を自然から受けとったのである。そして何びとといえども、その意 に反して何らかの祭祀または勤行に従ったり、それらを創始したり、それらを支持したりするこ とを、法律によって強制されることはできない。人間的権威は、それがいかなるもの、いかなる 場合でも、良心の問題に干渉したり、精神の力を支配してはならない。」

「ニュー・ハンプシャー州憲法」第五条、第六条、「自然権のうちいくつかは、それらと同じ 価値のものがありえないがゆえに、本性上、他に譲渡できない。良心の権利はその一つであ る。」
 ここでも人間が「自然から受け取った」権利を「人間的権威」=政治権力が干渉したり、支配して はならないと言っている。

 この人権思想はフランス革命時の「人間および公民の権利宣言」へと引き継がれる。

「人間および公民の権利宣言」
 第2条、「これらの権利(自然的で不滅の権利)は、平等、自由、安全、所有権である。」
 第6条、「自由は、他人の権利を害しないことはすべてなしうるという、人間の権能である。」  
 この「権利宣言」は「人間および公民の」となっている。つまり人権は二つの部分からなる。
 一つは政治的な権利。それは他の人たちとの共同でしか行使されない権利である。つまり政治的な 共同体=政治的国家への参加の権利であり、「公民権」と呼ばれる。誰もが平等の一票を持ち、 平等の立場で「政治的な共同体」に参加している。
 二つは人間の権利、いわゆる「人権」である。これは「公民権」とは区別して扱うべき概念である。
 では「人権」=「人間の権利」と言うときの、公民とは区別された「人間」とは何なのか。 市民社会=社会的国家の構成員である。政治的国家に対する市民社会の関係として「人権」という。
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139. 自由について(2)
2004年12月31日


 さて、「人間および公民の権利宣言第6条」は、自由とは他人を害しない限りなにをしてもよい権利だ と言っている。

 各個人が自由にふるまって、かつ他者を害することのない人間の生活状況をロックは次のように 記述している。
 「地上に共通の優越者をもたずに、相互の間で裁く権威をもち、 ひとびとが理性に従ってともに住んでいた状態が、正しく自然のま まの状態である。」
(市井三郎訳・ラッセル「西洋哲学史」より)

 理性=自然法のみに従って互いに害し合うことがない「正しく自然のままの生活」が遠い過去に あったように描いているが、もちろん絵空事である。
 では遠い未来にそのような自由な生活状況がありえるだろうか。これは最後に考えるべき課題である。 いまはまず現段階での「自由」のありようを分析しよう。

 現在の人類のレベルでは、『理性=自然法のみに従って互いに害し合うことがない』ような 「全き自由」は絵空事である。
 では、人間の個々の行為が他人を害すものか害しないものか、その判断の基準は何か。
むろん、法律ということになる。法律は「各人が他人を害しないで行動できる限界」を定めている。 つまり法律が、自由にふるまえる領分を区分し、個人と個人を分離する。ここでいわれている自由とは、 個々ばらばらに孤立した利己的人間の自由である。

 このような自己に局限された個人の権利としての「自由」という人権は具体的には まず所有権=私的所有とう人権として適用される。
第16条(1793年の憲法)「所有権は、すべての公民が、自分の財産、自分の所得、自分 の労働および労務の成果を任意に享受し、また処分する権利である。」
 公民権としての平等(政治的な平等=だれもが同じ重さの一票を持つ)ではなく、市民社会の 成員としての平等(自由の平等)と、安全の保障も人権の一部とされる。
第3条(1795年の憲法)、「平等とは、法律が保護するにせよ処罰するにせよ、すべての者  にとって同一であるところに存する。」  第8条(1793の憲法)、「安全とは、社会がその成員のおのおのに、彼の人身、彼の権利  および彼の所有権の保全のため、保護を与えることに存する。」

 これが、いわゆるブルジョア革命を通して確立されていった「人権」である。公民としての 人間ではなく、市民社会の成員(ブルジョア)としての人間=個々ばらばらの利己的な人間こそが 本来の人間とされたのだ。

すなわち、ブルジョア革命によって
 封建社会は、その基礎へ、つまり人間へ、解消された。ただしそれは、実際にその基礎をなし ていたような人間、つまり利己的な人間への解消であった。
 市民社会の成員であるこのような人間が、いまや政治的国家の土台であり前提である。この人 間は、そのような土台、前提として、もろもろの人権において政治的国家により承認されている。
 しかし、利己的な人間の自由とこの自由を承認することは、むしろ彼の生活内容を形づくる精 神杓および物質的諸要素のとめどもない運動を承認することである。
 それゆえ、人間は宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たので ある。人間は所有から解放されたのではない。所有の自由を得たのである。人間は営業の利己主義か ら解放されたのではなく、営業の自由を得たのである。

すなわち『《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。』
 これが現在のところ人類が到達した最高の「人権」であり「自由」である。現今のどの国民国家であれ、 その成員はこれ以上の「人権」や「自由」は持っていないのである。

 それでは『理性=自然法のみに従って互いに害し合うことがない』全き自由は人類には望み得ない 絵空事なのだろうか。
 マルクスは「全き自由な人間」への、つまり真の人間解放への道筋を「ユダヤ人問題によせて」の結語で 触れている。
 ブルジョア革命による『政治的解放は人間を、一方では市民社会の成員、利己的な独立した個人へ、 他方では公民、精神的人格へと還元』したが、真の人間解放は『人間の世界を、諸関係を、人間その ものへ復帰させることである。』と言い、続けて次のように述べている。
 現実の個体的な人間が、抽象的な公民を自分のなかに取り戻し、個体的な人間でありながら、 その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで、類的存在となったとき、つまり 人間が彼の「固有の力」を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な 力をもはや政治的な力というかたちで自分から分離しないとき、そのときはじめて、人間的解放 は完遂されたことになるのである。

 「第17回」(8月31日)で紹介したパウロ・フレイレの「問題提起型教育」は、  抑圧者・被抑圧者がともどもに、抑圧-被抑圧の関係の矛盾(双方の非人間性)の 真の克服(双方の人間性の回復)を課題とする教育であり、『人間の世界を、諸関係を、人間その ものへ復帰させる』ための教育であった。
 しかしそのような『真の人間解放』は資本主義というシステムの下では完遂されることはない。
140. 自由について(3)
2005年1月1日(土)


『真の人間解放』は資本主義というシステムの下では完遂されることはない。

 この問題について吉本隆明が『超「戦争論」(下)』(アスキーコミュ ニケーションズ)で触れているので、それを紹介する。
 世界史の発展、人類史の発展という観点から見れば、資本主義は過渡的なシステムであって、 最終的なシステムではないし、最終的なシステムであることはありえない、ということになる と思います。
 形而上学的なことでいえば、資本主義というシステムは、「全き自由(完全な自由)」を実現 しうるシステムではないということですね。個々人が、精神の自由というものに基づいて、いか ように自由にふるまっても、相手の自由を侵害しないという社会を、「全き自由(完全な自由) の社会」であるとすると、資本主義が、そういう社会を実現できるかといえば、できないという ことです。
 個人の自由と個人の自由とが重なり合う領域があって、そこで互いの領域を侵害してしまうと いう形で、どうしてもマイナス面が出てしまう、そういうマイナス面をもつことを資本主義は免 れないよ、ということですね。そこに、資本主義というシステムがはらむ限界がある、というこ とになります。
 それは、個人のふるまいについてだけではなく、職業的なふるまいとか、企業活動なんかにつ いても、同じようにいえます。資本主義というシステムの限界は、自由と自由とが重なり合う領 域で、どうしても齟齬をきたすというか、矛盾が生じてしまい、そこで自由が制約されてしまう ということなんです。
 そしてまた、そこで、優劣といった差別が、どうしても生じてしまいます。資本主義というの は、利潤を上げるということを非常に大きなモチーフとしていますから、利潤を多く上げる個人 や企業と、利潤を少なくしか上げられない個人や企業との優劣の差が、どうしても生じてくるわ けです。
 資本主義社会では、利潤を上げるというモチーフに基づいて自由競争が行われ、その自由競争 の勝者は、いい目にあえて、豊かな生活を送れるけれども、自由競争の敗者は、いい目にあえず、 豊かな生活を送れないということになってしまいます。
 そういう結果をもたらす自由というものは、本当の自由じゃないと僕は思います。つまり、そ ういう社会では、個人は自由なふるまいをしているというよりも、勝手なふるまいをしていると か、任意なふるまいをしているとかといったほうが、より実態に近いわけです。ブッシュ大統領 がいっている「自由」というのは、せいぜい、その程度のものだと思います。
 個々人が、いかように自由にふるまっても、相手の自由を侵害しない、優劣というものが生じ ない社会をつくるということは、もちろん、一足飛びにはできません。また、こうやったらでき るという処方箋も、今のところ、あるわけではありませんが、資本主義が原理的にそういうこと を実現しえないシステムである、ということはたしかです。
 だから、現実的にいえば、現在の制約の中で、個々人の自由を最大限保証する形で、どうした ら優劣の差を少なくできるか、優劣の差を最小限にとどめられるか、ということを考えることが 大事である、ということになってきます。そういうことがやれたら、それだけでも、資本主義は 大したものであると思います。だけど、それをさらに超える理想社会を実現しょうというのであ れば、それは、資本主義を超えるしかないということですね。