2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
559 「創価学会」とは何か。(1)
牧口常三郎と「新カント派」
2006年7月25日(火)


 国政選挙のたびにまるで記憶にない中学校時代の同窓を名乗る人物から公明党 への投票の依頼電話がかかってきていた。ほとんど忘れていた教え子がやってき たこともある。そんなもので私の考えが変わるわけがない。またそんな人と論争 しても仕方ないのでただ生返事を返していた。しかしコイズミの自衛隊イラク 派兵に公明党が同意した後の選挙の依頼電話のときは強い口調で批判してやっ た。以来電話はない。それにしても、この人たちは創価学会の何に惹かれている のだろうか。

 創価学会について私が知っているのは、強引でしつこい「折伏」によって 巨大化してきた怪しげな教団ということと、公明党との関係が「政教分離」の 原則に反しているようだということぐらいだ。だから最近、創価学会の「マス ゲーム」の映像(「第545回」参照)を見てその異常さに本当にびっくりした。 創価学会の本質を知る必要を感じた。

 創価学会が関わってきた犯罪行為や教団のカルト性をただ糾弾をするのでは なく、創価学会・公明党の成り立ちや本質を客観的に分析している本を探してみた。

島田裕己著「創価学会」(新潮新書)

を選んだ。以下断りがない限り、この本から得た情報です。

 創価学会の創立者は牧口常三郎は小学校の校長を歴任した教育者であった。 牧口が1930(昭和5)年に創立した団体の名称は「創価教育学会」といい、これは宗教 団体ではない。会則要項の第二条でこの会の目的を「本会は創価教育学体系 を中心に教育学の研究と優良なる教育者の養成とをなし、国家教育の改善を 計るを以て目的とす」と記している。会則には宗教的な活動については何も 書かれていない。

 ではこの会はどのような思想を基本理念としていたのだろうか。「創価教 育」という独特な名称がその理念を示していよう。その根底には新カント派 の「価値論」を下敷きにした牧口独特の「価値論」があった。このことにつ いては梅原猛さんの「創価学会の哲学的宗教的批判」(「美と宗教の発見」 所収)を読むことにする。

 まず、日本哲学界における新カント派の位置とその浸透状況。

 価値論は日本の哲学界の潮流から見れば、新カント派という名前とむすびつ き、大正時代、日本の哲学界を風靡し、大正時代が終り、実存哲学とマルキシ ズムが流行するとともに「価値から存在へ」の合言葉のもとに忘れられていっ た、かつての哲学的問題であるかにみえる。西洋哲学の輸入に懸命であった明 治以後の日本の哲学界は、西洋、とくにドイツの哲学界の流行にはなはだ敏感 であり、ドイツで新カソト派がはやれば日本でも新カソト派がはやり、ドイツ で生の哲学が出現すれば日本でも生の哲学の講義が行なわれ、ドイツで実存主 義が流行すれば日本でも実存主義が流行するという風であった。

 ヴィンデルバント、リッケルトを代表者とするドイツ哲学の主流は、昭和2 年(1927年)のハイデッガーの「存在と時間』の出現とともに実存哲学にとっ てかわられるが、日本においても新カント派を熱心に読んだ多くの哲学者たち は、ドイツ哲学の潮流の変化とともにいつの間にか実存哲学を愛する哲学者に かわっていった。

 こうした風潮にあってあくまで新カント派の立場にたちつつ、しかも独自な 経済哲学を作り出したのは左右田喜一郎であろう。左右田銀行の頭取でもあり 日本のブルジョワ哲学の代表者であった左右田喜一郎はリッケルト的な新カン ト派の立場から、大正15年、アカデミックな哲学の代表者西田幾多郎に論戦を しかけたが、それに答えるというより強引な自説の主張をした西田の反批判に 反撥する前に自己の銀行のパニックにあい、その心労のあまりか47歳をもって 死んだ。この左右田の死とともに新カント派ならびに価値論は過去のものとな り、もはや二度と日本の哲学界の中心問題とならなかったかに見える。

 哲学界においてはたしかにそうであった。しかし左右田によって進められた 価値論は学界とは別な所で、左右田の影響を受けつつ独自な価値論を作り出し た牧口常三郎によって日本の民衆の中に浸透し、いまや巨大な文化的あるいは 政治的現象の源泉となったのである。

 このように考えると私は哲学というものの不思議な伝播力、影響力に驚かざ るを得ないが、問題は新カント派から左右田を通じて牧口に到り、価値論はい かに変貌したかということであろう。

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560 「創価学会」とは何か。(2)
左右田喜一郎の「価値論」
2006年7月26日(水)


 梅原さんの牧口「価値論」批判はかなり長いが、創価学会の「生命論」と並んで 創価学会の教義批判の要になる理論なので、煩をいとわず、丁寧に読んでいくこと にする。

 さて新カント派では、価値を真善美という三つの価値を基本にして考える。 牧口はこのうちの「真」を落とし、新たに「利」を加えた。すなわち美利善 という三つの価値を基本にして考えた。さらに牧口は美利善という価値を 一直線に同じ段階に並ぶ価値とは考えず、三つの価値は三段階の位階秩序 を構成すると考えた。この牧口の理論を詳しく分析する前に、牧口に大 きな影響を与えたと思われる左右田喜一郎の価値論を見てみよう。

 牧口が利を価値の中心においたのは理論的には左右田喜一郎の経済哲学の影響 であろうが、この新カント派の価値論から牧口の価値への移行に左右田の価値論 を入れて考えると、その辺の関係が一層はっきりする。

 左右田喜一郎に『価値の体系』という論文がある。この論文は左右田の新カン ト派を中心としたヨーロッパの価値論への批判でもあったし、また同時に彼の 独自な経済哲学への方法叙説でもあった。彼はここで、従来のヨーロッパ哲学 が価値の位階づけを無批判に行なった、つまりヨーロッパ哲学ではおもに真、 善、美が最高の価値とされ、しかもその真、善、美の間にも例えばへーゲルは 真を、カントは善を、シェリングは美を最高価値としたように価値の位階づけ が行なわれているが、これはまちがいである。価値には本来先天的な位階づけ は存在せず、どの価値も平等だというのである。

 「余は此の如き意味に於て凡ゆる考へ得べき社会的文化的生活及び其の論理 的基礎たる文化価値の上に何等の意義に於てもWertordnug(価値秩序)を発見 することを得ない。論者が立し得べしと信ずる上下の段階は、亦全く同じ生活 様式及び価値につきて、其の反対の階段を考ふることも同一理由により立証し 得ることを示すは、即ち此等の諸様式及び諸価値の間に只相関倚属の乍併相互 に独立せる関係の存在することを明瞭に示すのみである」(『文化価値と極限 概念』120頁)。  すべての価値の平等化を説く左右田の中には、明らかに大正デモクラシーの 思想があろう。すべての価値が平等であるとしたなら、経済行為も倫理行為も 同じ価値を持ち、一商店の店員が小切手に署名する行為と、一国の帝王がその 詔書に署名するのと同じ価値をもつということになる。

 ここで、特に経済的価値が、真、善、美という価値と同じ段階に高められてい ることに注意する必要がある。銀行頭取左右田喜一郎にとって彼がそれに属する 銀行家達が、学者や芸術家達と同じ価値を追求しているという理論ははなはだ好 ましい理論であったに違いない。しかもこの価値の同一性の理論を説くこの論文 において左右田は創造者価値なるものを説いている。

 価値には二つの側面がある。一つは文化価値として客観的に実現された側面で あり、もう一つは創造者価値として個人が積極的に新しい価値を作って行く側面 である。両者は一見相矛盾するように見え、文化創造者である天才はその時代の 客観的価値観と矛盾するように見えるが、実は両者は相まって存在し、両者の統 一がわれわれの目標になるというのである。

 この左右田の創造者価値の理論は、あるいは左右田の論敵、西田のポイエシス の理論の影響により作られたものではないかと思われるが、牧口は左右田から、 この創造価値の理論を暗示されたのであろう。しかし、この創造価値の理論を 牧口は彼なりに全く変えてしまったのである。

561 「創価学会」とは何か。(3)
牧口常三郎の「価値論」
2006年7月27日(木)


 左右田の価値論を要約すると
① 真、善、美という価値に「経済的価値=利の価値」を加えたうえ、さらに
② 全ての価値の間には「位階秩序」はないとした。
③ また価値には「文化価値として客観的に実現された側面」の他にもう一つ 「個人が積極的に新しい価値を作って行く」という「創造者価値」という側面 があるとし、「創造者価値」という概念を付け加えた。

 この左右田の価値論を牧口はどう変えていったか。
(1) 「真善美」という価値から「真」を除外し、「利」を付け加えて「善利美」 とした。
(2) 利を中心に価値の「位階秩序」を再構成した。
(3) 創立した団体の名称「創価教育学会」に見られるように、「創造者価値」を 「創価」という概念として継承した。

 (1)について梅原さんは次のように詳しく分析している。

 まず牧口が真を価値の表から落すのは次のような理由による。

 真は価値ではない。なぜなら価値は人間と物体との関係をあらわし、した がってそれは人間の側と、物体の側の二つの条件に相対的に左右される。しかし 真理は客観的な物の認識に属し、それは主体の意志によって左右されない。主体 と客体の関係をあらわす評価作用と、客体そのものの研究である認識作用は全く 異なった能力であり、したがって認識作用に属する真を評価作用に属する価値に 包摂するのは間違いだというのである。

「真理とは実在及び其の相互間の関係現象を客観した質的同等の概念で、価値 とは実在及び其の相互関係現象の影響性に動かされたる主体の反応量によって、 対象の関係力を測定した結果を云うのである。……故に真理は人にも時代にも 環境にも関係なく不変であるが、価値は人と対象との関係性であるから人によ り時代により環境によって変化することは当然である」(『価値論』 11頁)。

 この認識と評価、価値と真理の牧口の区別は、彼や創価学会の信者が思う程、 独創的なものではない。大正時代に日本で最も多く読まれた哲学概論であり、 牧口が愛読したであろうヴィンデルバントの『哲学概論』に次のような言葉があ る。

「かのアリストテレスは哲学を分けて理論的方面と実践的方面となしたが、之は 現今に至るまで広く用いられて来た。そこで今我等はここに論ぜんとする対象を ば知識の問題と生命の問題、即ち実在問題と価値問題或は理論と実践 ― 近 頃の言葉では価値 ― 問題とに分って論じた方が最も良いと思ふ」(ヴィンデ ルバント『哲学概論』松原完訳26頁)。

 この言葉のようにヴィンデルバントは『哲学概論』を第一篇、理論問題、第二篇、価値 問題に分けるが、彼が強調しようとしたのは、このように理論と価値、認識と評 価とは全くはなれた二つのジャンルではなく、互に密接に関係するものであると いうことであった。この存在と価値、認識と評価とを結びつけるものがむしろ真 なる実在という観念であった。真なる実在という観念は一面において存在の問 題、認識の問題であると同時に他面において「人間精神の価値規定」であり 「理想の実体化」であり、ようするに価値の価値たるものでもあった。

 牧口はヴィンデルバントとは逆にこうした二重の世界を峻別することに急であ り、異なるものの二重的性格を認めようとしないのである。
(中略)

 むしろ真なる価値への否定はもっと別な所に根拠があろう。

「重ねて例をいえば、お米はどのようにして作るかという方程式を知ることは、 真理の概念の問題であって、お米を売買する、お米を食べる問題とは別であり、 作り方をいくら知っていても、満腹にはならないのである」(『折伏教典』、 第4版、255頁)。

 この『折伏教典』の言葉は表面上の理由はともあれ、真を価値からはずした 牧口常三郎の隠れた動機を物語っているように思われる。学者は価値として真 を求める。しかし民衆の腹はそれだけではいっこうにふくれぬではないか。こ の真の価値の否定は、民衆の幸福と直接につながらない真理を追求している当 時の日本の学問にたいする牧口の批判から生れたものであろう。

 このように真を価値の座からはずす牧口は真のかわりに利を加え、利をむし ろ価値の中心におくのである。牧口が利を価値の中心においたのは理論的には 左右田喜一郎の経済哲学の影響であろう。


 いまだ宗教色のない段階での理論だが、昭和初期の日本の庶民特に農村の疲弊 が牧口に「利」を最重要視せしめたといえそうだ。後に宗教団体に変貌するとき、 この経済的貧困という物質的な「欠乏(感)」を取り込む性質の宗教となる必然 性が牧口の価値論の中にすでにあった。

 (2)についての梅原さんの詳論は次のようである。

 彼(牧口)によれば美という価値は結局快感価値であり、われわれは自分の肉 体の一部の快感にうったえてあるものを好き嫌いと言う。それは結局外界に対し て、われわれの一部が反応する価値である。外界に対してわれわれの全生命が 反応する価値は利の価値であり、利の価値こそわれわれと物との関係の基本であ り、その関係を増進されることこそわれわれと物との関係を緊密にすることであ る。善という価値も結局社会的利であり、社会的利をのぞいて善そのものがある わけではない。彼による新しい価値の表は次のようになる。

一、美的価値=部分的生命に関する感覚的価値
二、利的価値=全人的生命に関する個体的価値
三、善的価値=団体的生命に関する社会的価値(『価値論』125頁)

 牧口の価値論は、結局左右田によって権利回復させられた利の価値を中心とす る、左右田によって否定された価値の位階秩序の再編成であったであろうが、こ の辺に銀行家の立場から利を説く左右田の思想と、庶民の立場から利を説く牧口 の価値論との違いがあろう。

 昭和6年に書かれた牧口の実践的に切迫した調子の序文が示すように、庶民の一人であった牧口は民衆の求めているものを如実に 知っていたのである。腹のすいた民衆にはまず米が、メシが、パンが必要なの だ。そのためには利が価値の中心となり、すべての民衆が利を得る社会を作るこ とが善でなくてはならぬと言うのであろう。

 こうした現実主義の立場から彼はまた聖の価値を価値の概念からのぞくのであ る。彼は宗教は生活の基本原理を与えるものであり、生活の基本原理は美、利、 善の価値の追求に他ならず、このような価値をはなれて聖なる価値があるのでは ないと言う。この牧口の聖なる価値の否定は結局、彼の現世主義が、この世から 超越した、神の恐怖と恩寵を示す概念である「聖なるもの」、という概念を拒否 したからであろう。

562 「創価学会」とは何か。(4)
梅原さんの牧口「価値論」批判
2006年7月28日(金)


 新カント派→左右田の影響を受けて構築されていった牧口の価値論は、新カン ト派の理想主義と全く違った功利主義の価値論になっていった。牧口は自力で 独創的な思想を思索していった点では評価できる。しかし、「利」を最重要な 価値とする功利主義が人類が目指すべき理想世界の指導原理にはなり得ないこと を、私(たち)はすでにロールズの「正義論」において学んでいる。(「第440 回 2月19日」参照)

 梅原さんの批判を読んでみる。

 創価学会が言うように、この価値論が現在の世界の指導原理になるかどうかを 問う時、私は多くの疑問を感ぜざるを得ないのである。この点を明らかにするた めに、私自身の価値論を明らかにする必要があろうが、創価学会批判を目的とす るこの論文では、唯二つの疑点を指摘するにとどめるよりほかはない。

 真を価値の座からしりぞける牧口の理論は、実践的な結果として、真の価値を それ自身として求める人生態度を否定するということになる。創価学会ではしき りに空理空論にふける学者への攻撃がなされるが、利を尊ぶ創価学会は一見空 論に見えるものがいかに人間生活を変え、いかに人間の幸福を増進せしめるか ということに対してあまりに近視眼的であるかに見える。この態度は後に論ず るように彼らの宗教的ドグマを真理追求の精神によってあくまでも問いつめて いく理論的徹底さを許さない原因ともなろうが、今後人類はあくまでも科学的 な真理にもとづいて出来るだけ理性的に戦争をさけ、人類全体を平和と繁栄の 方向に持って行くという方向をたどらねばならない以上、価値の座から真を引 きおろした創価学会の価値学説は世界の指導原理として好ましくないものと言 わねばなるまい。

 同時に、美を部分的生命に関係する価値とする牧口の価値論においては、美は すなわち快であり、美、快は利よりも一段低い価値とされるが、私は美と快は 違い、しかも美は決して部分的な生命の価値と考えるべきものでもなく、ある 場合には利以上に全生命的な対象にたいする関係の仕方になりうると思う。牧 口は利及び社会的利である善にあまりに執着し過ぎるけれども、私は現在まで 人類はあまりにも善の価値に執着し過ぎ、現在逆に美と真の価値を強調する必 要があるように思うが、このことについてはまた後にふれたい。

 さて、以上みてきたように宗教色の見られなかった牧口の「創価教育学会」は どのようにして宗教教団へと変貌して言ったのだろうか。梅原さんは、牧口の「価 値論」と第2代会長・戸田城聖によって解釈された日蓮の「生命論」との教会内 での扱われ方の変遷から、そのおおまかな変貌をあとづけている。

 戸田城聖監修の第三版『折伏教典』では第二章として、生命論の次にあった 価値論が、池田大作監修の第四版では総論の終りの第十四章に移されている。 このような変化は創価学会の思想が牧口から戸田へ、哲学から宗教へと移りつ つあることであり、したがってその批判も価値論より生命論、宗教論に批判の 中心点を置かねばならないかのようである。

 第2代会長戸田のときに宗教へと大きく傾斜して第三代会長池田で牧口の哲学は 宗教の背後へと退けられていった様相がはっきりと分かる。ここから梅原さんの 論考は創価学会の「生命論」の批判にはいるが、それはしばらく後にまわして、 宗教との関わりを軸に「牧口→戸田」=「創価教育学会→創価学会」という変遷 の過程をを少し詳しくたどっておくことにする。
563 「創価学会」とは何か。(5)
牧口と日蓮正宗
2006年7月29日(土)


 創価学会の創立者の牧口にも、それを引き継いでいった戸田・池田にも、 分裂症やパラノイアの症候を思わせるような神がかりな宗教体験はない。この 点がいわゆる新新宗教と大きく異なる。いわゆる教祖はいないのだ。牧口の仏 教への接近はごく普通の信者と変わらない。

 牧口は、創価教育学会創設の2年前1928(昭和5)年(牧口57歳)に、 日蓮正宗の末寺、池袋・常在寺大石講の幹部であった三谷素啓という人物と 出会っている。このときから日蓮正宗の信仰をもつようになったと言われているが、 三谷素啓とはすぐに袂をわかち、創価教育学会発足直後の1931年からは、日蓮正 宗の僧侶であった堀米泰栄から直接日蓮正宗の教義を学ぶようになる。さらに 1936年には、日蓮正宗の法主であった堀日亨(にちこう)を招いて「富士宗学要 集講習会」を開いている。また大石寺でも講習会を開くようになる。

 牧口が日蓮正宗に入信したのは何故だろう。このことについて本人は何も 語っていない。
 牧口には定職がなく経済的に苦しかった時期がある。また入信の前後に家族の 不幸が続いている。1924年には次男を亡くなり、1929年には四男が、翌年には長 男が亡くなっている。いずれも結核であったと推測されている。この貧苦と病苦 の境遇が牧口のこころを日蓮正宗へと導いていったのかもしれない。
 しかし、「貧苦と病苦の境遇」がもとで宗教に傾斜していったのなら、入信する 教団は日蓮正宗に限らないだろう。日蓮正宗を選んだ理由があろう。

 牧口は札幌の北海道尋常師範学校に学んでいる。札幌は、内村鑑三 ・新渡戸稲造などキリスト者を生んだ札幌農学校もあり、キリスト教プロテスタ ントの伝道の拠点であった。牧口自身、「苦学力行の青年期に敬愛し親近した師 友は、大概基督教徒であった」(『創価教育学体系梗概』)と述べている。
 キリスト教に親しんでいた牧口が、貧苦や病苦に瀕した際に日蓮正宗の信仰に 救いを求めたのには次のような時代背景がある。
 その時代に、日蓮宗の元僧侶田中智学が「国柱会」という国家主義の宗教団体 を組織していた。その教団は一世を風靡していて「日蓮主義」が流行していた。 牧口も、1916年頃、鷺谷の国柱会館で催された田中の講演会に何度か参加してい た。しかし、必ずしも田中の主張には全面的に賛同はできなかったようだ。 牧口が国柱会の会員になることはなかったが、こうした時代背景が牧口を日蓮正 宗に向かわせたもう一つの理由と考えられる。

 余談になるが「国柱会」という宗教団体の名を私は宮沢賢治の評伝や研究論文で お目にかかって知っていた。宮沢賢治は両親をも改心させようとした熱心な日蓮宗 信徒だった。一方、賢治は化学に造詣が深く、詩や童話などその作品にはその影響が 濃厚である。賢治の中で科学と宗教がどのように折り合いをつけていたのか、私は 大きな関心を持っている。これを次回のテーマにしようかな、と思っている。

 以上みてきたように牧口が宗教へと傾斜していく素地はたしかにあった。牧口 は創価教育学会の機関誌のなかで、「所詮宗教革命によって心の根底から建て直 さなければ、一切人事の混乱は永久に治すべからず」と述べるようにまでなる。 やがて日蓮正宗の教義をもとに独自の宗教思想として「法罰論」を展開する。
 この法罰論については梅原さんは言及していないので島田さんの解説を引用す る。

 法罰論については、1937年に刊行された『創価教育法の科学的超宗教的実 験証明』という、かなり際どいタイトルがつけられた本のなかで展開されてい る。牧口は、自らの信奉する日蓮仏法には、利的価値、つまりは功徳を生じさ せる力が備わっていることを強調した上で、日蓮仏法を包含して新たに登場す る超宗教には、「制裁的威力」が備わっていなければならないと説いている。 つまり、悪人を罰するくらいの力をもっていない神には、善を保護する力など なく、罰するだけの力があるかどうかを、宗教の価値の基準として用いるべき だというのである。

 要するに、価値のある宗教は、それを信仰する者に利益をもたらし、逆に、 その信仰に逆らう者には罰を下すものでなければならないと考えられたわけで ある。戦後の創価学会は、現世利益の実現を約束し、あわせて法罰論を強調するこ とで、急速に拡大していくことになる。


 ところで創価教育学会はどのくらいの規模の団体だったのだろうか。

1935年(『創価教育学体系梗概』が刊行された年)
 会の顧問には柳田国男をはじめ11人の著名人が名を連ねていたが、牧口を研究 所長とする研究部に所属する教師はわずか三十名だった。

1936年中ごろの時点
 創価教育学会刊行の雑誌(「新教」や「教育創造」)に掲載された名簿によれ ば
顧問12名、特別賛助会員15名、創価教育学研究所員10名、創価教育学研究員 13名、東京正会員22名、地方会員25名。

 牧口は法罰論を「伝家の宝刀」と呼んでいて、それを折伏のための武器とし て折伏による会員増加を図った。会員は漸増して

1939年12月
 麻布の菊水亭で創価教育学会の事実上の第一回総会では数十名が参加。

1940年10月
 九段の軍人会館(現在の九段会館)で第二回総会では全部で300名の参加者。 この総会で、牧口は会長に就任した。