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502 吉本隆明の「ユートピア論」(1)
<アジア的>ということ
2006年5月17日(水)


 吉本さんのマルクス理解は初期の頃から一貫して明瞭だ。「マルクスの思想」と「マルクス主義」を峻別している。
 「マルクス主義」とは、「マルクスの思想」をロシア的に(レーニン~スターリンと)展開したものをさし、「ロシア・マルクス主義」あるいは「スターリン主義」と呼んでいる。このマルクス主義に対しては一貫して激しく鋭い批判をしてきている。

 「マルクスの思想」については『今のところ異議を申し立てるところはない。』『優れたものは優れたものとして…それを信じる以外にない。』と手放しの評価をしているが、もちろん『(異議を申し立てるところが)もし見つかったなら、そこは否定すべきであるし、批判すべきであり、それは当然なんだ』という留保付である。そして、スターリン主義の弱点の特質は、実はマルクスの<アジア的>という概念の展開の不十分さに根ざしているのではないかと、最近の問題意識を提起している。

 マルクス思想のその弱点の淵源を吉本さんは、マルクスが「ヨーロッパの近代思想=世界思想」という前提の枠内で思想を展開していた点に求めている。古田さんがマルクスの宗教批判の弱点(第481回 参照)を、マルクスが「キリスト教単性社会」という枠組みを出られなかったところに見ていたことと重なる。


 アジアとかアフリカの問題については、マルクスの展開の仕方は不十分であるとおもっているわけです。マルクスは、…、あくまでもヨーロッパの近代思想の延長線に立ってかんがえを展開していますから、マルクスが<アジア的>というふうにいわざるを得なかった概念というのは、マルクスの中では割合に明瞭にあったとおもうんですが、その展開の仕方はとても不十分だったとぼくは理解しています。共同体論としても、あるいは共同体的所有という問題としても、もっとはっきりさせなければいけない。その中に全部、ロシアの問題も、アフリカの問題もはいってくるだろうとおもうんです。
 そうすると何が根本的な問題なのかというと、…、18世紀以降、西欧の近代思想イコール世界思想であるというふうにいえるから西欧近代思想が世界思想なんで、たとえば18八世紀以前の西欧思想は、西欧思想というだけで世界思想ではないというところに、<アジア的>という概念が世界的な意味でたどれるのではないか。ぼく自身はそう理解します。



 吉本さんは<アジア的>という概念を何よりもまず「共同体論とし
て、あるいは共同体的所有という問題として」重視している。インタービューアーの高橋さんの次の発言から、それをもうすこし詳しく汲み取っておこう。


 吉本さんは前に「アジア的なものについて」と題された講演をされて、<アジア的>なものの中に、ある意味では人類史の理想的なものというのが孕まれている、それと同時に、非常に迷蒙な部分もまたあり、この迷蒙な部分については徹底的に解除されなければいけないとおっしゃっている。これは吉本さんがずっと解明されてきた<天皇制>の問題とも関わってくるとおもうんですが。
 <アジア的>なものの中で救済すべき人類史の理想的な部分というものと、迷蒙として徹底的に解除すべき部分というものが、弁別した上でひとつの歴史概念として取り出し得るのかどうかというのが、ちょっとひっかかるところなんです。私はむしろ吉本さんが迷蒙といわれた部分も含めて<アジア的>なものの思考とか、文化とか、共同体の組まれ方というのは成り立っているんじゃないか、その辺のことを、先ほどの問題との絡みでお聞かせいただければとおもうのですが。



 <アジア的>共同体の組まれ方、さらに言えば<アジア的>所有=共同体所有が理想の共同体のあり方として、どう生かせることができるのか否か、という点が焦点となる。ロシア・マルクス主義がこの点において、一つの踏み外しをしたと、吉本さんは見ている。


 それからいま、高橋さんのおっしゃった<アジア的>ということなんですが、それはどこでかんがえているかというと、これはロシアのマルクス主義が、あるいはレーニンがといってもいいのですが、共同体所有という問題を先験化しすぎた。つまりレーニンは、共同体所有というものを生産手段の社会化とか、もっとひどい場合には国有化といっていますが、そういうことを資本主義から社会主義へ移行する場合に、疑問の余地ない前提のように理解している。けれどもこれはマルクスの思想の曲解だろうとぼく自身はおもうわけです。

 そのばあいの生産手段の社会的な所有というものが、共同体における個々のメンバーにとって利益である限りにおいて、共同体所有とか<アジア的>所有というのは、復元し得る余地があるということで、前提なんかではちっともない。マルクスも前提だというふうにはいってないとおもいます。

 だからぼくは、<アジア的>共同体の組み方とかが弱点だけじゃなく利点として、つまり迷蒙だけじゃなくて、開明的なものとして蘇生できるとすればどこまでできるか、どういうふうにできるかという原則が重要なのだとおもいます。その原則は、個々の成員にとって利益である限りでだけ生産手段は社会化されなければいけない、そこだろうとかんがえています。もっといいますと、レーニンが社会主義イコール生産手段の社会化あるいは国有化というふうに理解しているのはまちがいだとおもいます。



 「社会主義イコール生産手段の社会化あるいは国有化」というレーニンの誤謬が、反発するにしろ賛同するにしろ、そのまま通俗的な社会主義理解となって多くの人をとらえている。この弊害は大きい。
 またもうひとつ指摘しておくと、「共同体における個々のメンバーにとって利益である限りにおいて」という大原則は、アプローチの仕方の違いはあれ、ロールズの「正義の原理」に通じていると思う。
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503 吉本隆明の「ユートピア論」(2)
「プロレタリア独裁」の意味
2006年5月18日(木)


 レーニンのマルクスからの逸脱を、吉本さんはもう一つあげている。「プロレタリア独裁」である。
 『理想の未来国家としてイメージを提出されている唯一のもの』として、吉本さんはコンミューン国家を取り上げている。シリーズ「ロシア革命の真相」(第485回~第498回)でその実践例を見てきたが、その国家の基本的な骨格を箇条書きにすると次のようだろうか。

☆軍隊とか警察のような武力・暴力・抑圧機関を撤廃する。
☆管理システム(政府)の構成員(公務員)はいつでも大衆によってリコールすることができる。
☆公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。
☆生産手段・生産物は労働者・農民の自主管理にゆだねられる。

 これはいわゆる「国家」(近代民族国家)とは全く違うものであり、コミューン国家という呼び方は矛盾した呼び方になるが、いまはそれは置くことにする。

 さて、マルクスは資本主義から共産主義に行く過程にプロレタリア独裁というのは必須だと言っているが、これを吉本さんは『そのプロレタリア独裁ということと、コミューン型国家への国家の移行ということとはイコールだ』という理解の仕方をしている。それに対してレーニンは「コミューン型国家への国家の移行」をしようとはしないで、「プロレタリア独裁」の不可避性だけを肥大化してしまった。コミューン国家を試みたマフノ運動をレーニンが圧殺してしまったことも私(たち)は「ロシア革命の真相」でみてきた。


 そういうコミューン型国家へ近代国家というものを転換させるには、プロ独裁というのが必要なんだと(マルクスは)いっているので、だからコミューン型国家の形成ということとプロ独裁ということとはイコールだとぼくは理解しているわけです。

 ところがレーニンは、そういう志向性はあったんでしょうが、ちっともコミューン型国家に転換させないで、それでプロ独裁ということを文字通りにこれは不可避なんだというふうにうけとっているから、もうプロレタリアの前衛集団による大圧制ということになっちゃったんで、プロ独裁ということを、片一方だけで、つまり強圧・強制力という意味あいだけで理解しているというのはまったくナンセンスだとおもう。だけどレーニンはそうしちゃったんだから、そこで問題がこじれてしまっているわけですね。



 ロシア・マルクス主義が犯したマルクス曲解のせいで「プロレタリア独裁」と言う概念も、一般に流布されている通俗的な意味では、極悪非道は専制君主の独裁のようなものと、ひどく誤解されたものになってしまっている。そうではなくて、「プロレタリア独裁=コンミューン型国家の形成」と理解すべきだと、吉本さんが強調している。
 <アジア的>という問題も、『(<アジア的>な)感性とか意識構造とか、 …そういうものがのこっている国家ではコミューン型国家への転換が、しやすいのであるか、しにくいのであるか。しやすいとすればどこであって、しにくいとすればどこなのか、それはヨーロッパ国家とどう要素が遠うかということをはっきりさせるべき』問題として「コンミューン型国家」と関連させせて考えられている。

 ところで、この「コンミューン型国家の形成=プロレタリア独裁」ということを、マルクスの時代とは全く異なる現在の経済的・社会的状況下で考える場合、どういう問題点があるだろうか。

 まず、「プロレタリア」と言う概念。マルクスは資本主義社会の隆盛期の真っ只中で、生産手段を持たずに賃労働をしている労働者、疎外され搾取されている人間を「プロレタリア」と呼んだ。このときマルクスはこの言葉を「もっとも発達した資本主義」を典型として使っていたのか、あるいはもっと一般的に無条件の概念として使っていたのか、と言う疑問点を挙げて、吉本さんは次のように述べている。


 いまだったら、飢えて生活の再生産すら不可能であるような貧困から、先進資本主義国の労働者みたいに、たとえば日本のばあいに、平均の貯蓄額が400万円ぐらいあって、90%が中産階級意識をもっている、そういうプロレタリアートもいる。この格差というのは、これからもっと資本主義が発達していけば広がりますよね。そういったことを全部ひっくるめた上で、普遍概念としてプロレタリアートということばが使われたのか、それとも、もっとも先進的な資本主義国だけを扱うというふうにかんがえられていたのか。そのへんどうなっていたのかなという問題が、ぼくのなかにありましてね。

 プロレタリアートという概念は、これはもはや使っても使わなくてもいいんじゃないか。これからますますそうなっていくんじゃないかとおもうわけです。だからプロレタリアートということばのなかで、確かに貧困で明日も飢えるかもしれない人間というのが第三世界とかアジアにはいるわけですが、それとは別に、もっと豊かなイメージで描かなければならないプロレタリアートというのがいて、その広がりをどうとらえるかが問題になってくる。プロレタリア独裁というのが問題になるとすれば、そこだとぼくはかんがえているんです。



 つまり。現在の経済や産業や社会の構造は、「プロレタリア」という単一の概念ではとらきれなくなっていると言っていると思う。資本主義は、マルクスの時代には予想もできなかった段階に入っているという認識が吉本さんにはある。吉本さんはそれを「超資本主義」と呼んでいる。またそれは、管理システムとして、現存する資本主義国家と社会主義国家の違いがなくなってきているという点にも現れているという。
504 吉本隆明の「ユートピア論」(3)
現在のもっとも根本的な問題は何か
2006年5月18日(木)


 「現存する資本主義国家と社会主義国家の違いがなくなってきている」ということは、一つは、産業経済社会への国家の介入の度合いが同じになってきている点に現れている。それはますます接近していくだろうと、吉本さんは論じている。この点について吉本さんは他の著書で詳しく論述しているが、ここでは深く立ち入らない。インタビュー「未来国家のキーワード」からの引用にとどめる。


これらの体制の経済社会をつかまえるばあいの共通のイメージは、企業や産業の共同体、あるいは株式会社組織が高度になって巨大化し、それぞれ独立した国家のようなシステムをもって運営していること、それから経済共同体が運営上危機にひんしたとき、国家が介入してそのピンチを援助したり規制したりすることなんです。
 もうひとつ、独立王国的に企業体がなっていくと、ちょうど政府機関のように、頭脳部みたいなものもあれば手足みたいなものもある。このメカニズムは資本主義であれ社会主義であれ変わっていない。つまり同じ問題に当面しているんですね。

 マルクスやエンゲルスがかんがえた、資本主義の興隆期のように富や権力は資本家に集中するというよりも、現在では国家や産業の管理システムに集中していっているとみたほうがいい様相がでてきました。富の集中が個人や特定の階級に独占的に集積していくことは大きな規模で行われず、それよりシステム自体の方へ富が集約され、そこで管理されている。

 すると、近代資本主義社会の興隆期にえがかれたイメージとはちがった問題がでてきていることになります。つまり、資本主義と社会主義を区別するポイントが、制度のメカニズムの点だけからいうとなくなっていきます。そこにいまの問題があるとおもいます。またそこをつかまえきれないかぎり、これからの社会のイメージはつかめないだろうとかんがえます。



 この現在の社会主義国家と資本主義国家がが向かっている方向に、もちろん、理想の国家は望めない。富(剰余価値)を集積するものが国家であれ企業であれ、その配分がより平等となっていくとしても、それは「マルクスがその原型として描いた社会主義」とは異なる。理想の社会とは『価値法則の揚棄された社会』だと、吉本さんは言う。


 この理想として描かれる価値法則のない社会のイメージは、現在、資本主義国と社会主義国が共にたどっていっている様相とギャップがひらいていく一方です。そうすると理想の社会の原型を描くこと自体が空疎な無力な孤独な徒労ではないかという問題がでてきます。これは、社会的な問題についても、文化現象の中で個人の内面がどうあるかということは無力ではないのか、という問題としてあらわれます。こういう無力感、徒労感、孤立感に耐えてもなおかつ理想社会のイメージを描かなくてはならないのか。ほんとうをいえば、このことだけが現在の問題だとおもいます。

505 吉本隆明の「ユートピア論」(4)
徒労感に耐えるという課題
2006年5月20日(土)


 「価値法則のない社会」は「賃労働のない社会」と言い換えてもいいだろう。もっと言えば「『人間疎外』を止揚した社会」。

 「第503回 5月18日」でコンミューン国家(あるいはリバータリアン社会主義)の要件を4項目あげたが「価値法則のない社会」では当然その一つ「公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。」は不要となる。コンミューン国家よりさらに理想的な社会像になる。その真の社会主義のモデルとして吉本さんがあげている要件を別の著書「超西欧的まで」(弓立社)から抜き出してみる。

社会主義のモデル
①賃労働が存在しないこと
②労働者・大衆・市民がじぶんたち相互の直接の合意で、直接に動員できないような軍隊や武装弾圧力をもたないこと
③国家は、存在しているかぎりは、労働者・大衆・市民にたいしていつも開かれていること。いいかえれば、いつでも無記名の直接の票決でリコールできる装置をもっていること
④私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、「社会的な共有」とすること

 ③で「国家は、存在しているかぎりは」と保留条件をつけているが、もちろん、いずれ「国家は死滅しなければならない」。それが最終的な理想だ。

 現実の国家はこの理想の社会像からはますます遠ざかっている。まさに『無力感、徒労感、孤立感』が高じるばかりだ。しかし、理想なくしては現実を変えることができないのも真だ。このことをめぐっての吉本さんの論述を抜き出してみよう。少し長くなります。


 現在、資本主義も社会主義も区別なしに進んでいって、集中された富が再び大衆に還元される方法が、いずれにせよ両社会体制が共通にとろうとしている方法だとすれば、いまの世界の体制をおおすじに肯定しながら部分的に異議申し立てをしたり修正を加えていく以外にないというかんがえもあるでしょう。

 また、理想の原型を描くのはムダだから、どちらの体制もとっていく共通の考え方へむかって少しでもよくこしらえることのできるイメージをつくるのが具体的かつ現実的であって、それ以外に無力感を克服することはできないという考え方もあるとおもいます。

 現在のこういった状況のつかまえ方は、大ぎっぱであれば誰も似たりよったりです。ただ、それに対して理想のイメージの原型をどのように構築するか、あるいは理想のイメージの原型に近づかせるために部分的に補修していくことのほうが重大なのか、という岐路に立つとき、はじめてぼくは、現在の思想の状況的なきつさを体験する気がするんです。自分はどのようにそれを耐えるのか、あるいはどこまで耐えてイメージを明瞭にしなければならないのか、ということがいちばん切実な課題になっているんですね。

 (理想の未来国家は)近代民族国家のいくつかの柱を全部否定的にチェックする装置をかんがえた国家だとおもいます。
 こうしたコミューン型のイメージは、現在まで、社会主義国家でも資本主義国家でも実現されていません。これらの国家はむしろ現在、近代民族国家のイメージ内で軍備拡張や権力集中に精をだしている現状です。理想国家としてのコミューン型国家のイメージは、実現されるべきイメージとして固執する価値はあるとおもっています。

 ただ、これに固執することは、現在も個人が単独に頭の中で描きうるだけの現状ですね。どこかの国が、そのコミューン型国家にむかうというキザシはいまのところありません。どこをみても軍隊を増やそうという国ばかりだし、あちこちで小さな戦争をやっているし、人間を国家が管理するところまできていて、やりきれない気持ちはつのるばかりです。でもぼく自身は、描くに値するイメージだとおもっています。観念の中で描こうが、孤立しようが描くに値するイメージです。

 さらにまたぼくは、もっとちがう国家のイメージをつくらなければならないのではないかとおもいます。それは現在の資本主義国にも社会主義国にも追従するものではなく、なおかつ古典近代期にマルクスがかんがえたものともちがって、現在の産業構造の共同体のイメージをふまえられたうえでかんがえられてしかるべきであるとおもいます。それにはまず、各人が知識としてそのイメージをつくりあげる意思が必要でしょう。なぜかというと、マルクスがかんがえたコミューン型の国家は理想だとはおもいますが、あまりに世界の趨勢とかけ離れすぎており、コミューン型国家は、もともと不可能だったのではないかという疑問すら生ずる現状だからです。
 ですから、コミューン型国家は固執するに値するけれども、まったくのユートピアかもしれない。もっとちがう国家のイメージを生みだす必要があるというモチーフは相当重要なことだとかんがえています。

 コミューン型国家の柱のひとつである、軍隊および警察のような抑圧機関はやめるべきであるというイメージは固執するに値するとおもいます。それはたんに守るということだけでなく、要求するに値するものだとおもいます。社会主義国にむかっても資本主義国にむかっても軍隊と抑圧機関の撤廃は要求しなければならない課題だとおもいます。そして、こうした要求をつきつけていく場合、一個の知識人であれ大衆であれ、やはり世界に対して孤立していくことは避け難い運命のようにおもわれます。それと同時に、ある意味ではまったく現実離れしているということになるかもしれないことが前提としてなければならない。したがって、知識が立たされる岐路にいつでも立たされることになるけれども、理想のイメージを退かずに指し示し、そう発言できる権利を保有しておくことが本来的な知識の課題であるともいえるでしょう。



 知識人とは何か。不可避の知的課題を担ってしまった者を知識人という。たしか吉本さんの定義はこのようだった。不可避でもなんでもないことで知識を売り物にして得意になっているエセ知識人がごまんといる。こういう手合いを知的スノッブという。
 私(たち)は知識人からさまざまな知見や示唆や人生の糧を受け取り、それなりに知識人に対して敬意を持っている。が、だれが不可避の課題を闘っている知識人でだれが知的スノッブにすぎないのか、見誤らないようにしたい。


506 吉本隆明の「ユートピア論」(5)
私有と国家管理の問題
2006年5月21日(日)


 「社会主義のモデル」の④についての吉本さんの考えをもう少し詳しくたどってみたい。

 ソ連の崩壊、中国の市場原理の導入などを根拠に、社会主義国家は資本主義国家に敗北した、あるいは資本主義国家が社会主義国家に勝利したという言説が流布している。現在の時代を逆行するような反動的な趨勢はそのよう言説と無関係ではないだろう。
 なぜコイズミやイシハラのような反動が我がもの顔にまかり通ってしまっているのか。右からのものであれ左からのものであれ、社会主義国家は資本主義国家に敗北したという言説に、何を基準にして敗北や勝利を判定しているのか、その「基準」への問いが欠けているからだ。

 一般大衆の生を、その経済的にあるいは文化的にあるいはまた思想的に、どれだけ解放したか。吉本さんの基準はこのようである。私(たち)も理想の社会のイメージもこの基準によって追ってきた。
 この基準から見れば、現存の国家では、社会主義国家より資本主義国家の方がよりましである。「今のところよりましである」ということで、それ以上でもそれ以下でもない。この「基準」をまったく考慮せずに、「資本主義の勝利」だけをことさら言あげしているだけの言説が反動を許している。「反動」とはこの「基準」にてらして反動なのだ。

 吉本さんによる「社会主義のモデル」の④もこうした観点から考えるとき、よりはっきりと了解することができる。

④私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、「社会的な共有」とすること

 産業経済機構の国家管理あるいは公共管理が社会主義の必須の条件のように言われている。また先進的な資本主義国家でもすでにその30%~40%が国家管理下にあるという。この点においても社会主義国家と資本主義国家の差は縮まってきているわけだが、どちらも「価値法則を揚棄した社会」という理想のイメージからは違った方向に進んでいるとしか言えない。
 「社会主義国家体制の崩壊と一般大衆の理念」(「マルクス―読みかえの方法」所収)で、吉本さんはこのことを詳述しているのでそれを引用する。(なお、このインタビューは1990年6月に行われた。)


 一般論でいえば、資本主義が勝利したって意味がないけれども、社会主義が一般大衆の解放闘争において世界史的に敗北したとはおもってますね。
 市場原理というふうにみていきますと、もともと、ゴルバチョフでも資本主義の市場に代わっているのが国家の官僚機構だというだけで、別段そんなにちがったものだとおもわないんです。

 問題にしてみているのはそういうことじゃなくて、主として生産手段なんです。生産手段の私有化と国有化あるいは公有化というのがあるでしょう。
 レーニン以降の社会主義国は何をしてきたかというと、国有と公有、あるいは共同所有、コルホーズ,ソホーズというようなものが、先験的に作られねばならないという理念です。だけどぼくのかんがえている社会主義の理念というのはそうじゃなくて、個々の大衆にとって私有であるよりも有利であるという生産手段についてだけ、公有化するというのが大前提だとおもうんです。

 それと関連することで根柢的にいえることは、土地所有というのは私有であるほうがつごう悪いというところだけ、公有でありさえすればいいとおもうんです。あとは私有でいい。私有のほうがよければ私有でいいというのが社会主義の大前提だとおもうんです。私有をみとめればもちろん必然的に市場原理が導入されますね。だから市場原理云々とみるんじゃなくて、私有と国有・公有をどういうふうにかんがえるかというのが基本的な問題で、私的所有のほうが基本になるので、私的所有だったら個々の大衆にとって損である、利益にならないという場合に公有とか部分的な社会所有にすればいいというふうにおもいます。

 つまり、何が社会主義の原理なのかというと、国有あるいは公有が原理じゃないんですね。個々の民衆がどう解放されるかというのが原理なんで、そのほうが都合がよければ私有のほうがいい。究極の理念からいえば全部が私有になって、相矛盾しなければそれが一番いいのです。それが理想の状態、コミュニズムですから。だから市場原理をどこまで導入するか、部分的にどう導入するか、全面的に導入するかというのは、かくべつぼくには資本主義にかえることを意味してるとはおもえないんです。



 何時ごろからだろうか、「左翼」をカタカナ書きで「サヨク」と表記して冷笑する風潮がはびこっている。
 マルクスの思想についても、リバータリアン社会主義(アナーキズムと言ってもよい。)についての、あるいはロールズの思想についても、私はどれもチョッとかじった程度なので、自分をマルクス主義者とか、アナーキストとか、ロールズ主義者(なんていうのはないかな?)とか、とても規定することはできない。いや一般にも、そんな規定はことさら必要ないだろう。しかし、私は「左翼」の一員だとは思っている。私の「左翼」の定義はこうである。

 軸足を一般大衆の「人間解放=自由」のための道筋に置いていること。

 では「右翼」とは? おのずと明らかだろう。