2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
485 ロシア革命の真相(1)
2月革命
2006年4月27日(木)


(このシリーズは「第461 自由社会(3月26日)」のつづきのつもりです。)

 「ロシア革命?何をいまさら!」という声が聞こえそうだ。しかし未来を語るのには過去の誤謬を徹底的に追及することが必要だ。そして私はロシア革命の経緯をほとんど知らない。改めて勉強したい。「自由社会」を目指して始まったであろう革命が、どうしてあんなにも無残な粛清と抑圧に満ち満ちた国家をつくってしまったのだろうか。それを知りたいと思う。その誤謬の対岸にあり得べき「自由社会」の姿が見えるかもしれない。それは、虚偽と誤謬に満ちたこの国の未来を考えるうえでもなにほどか資するところがあるものと思う。

 まず、ロシア革命の経緯を、アナキストの目を通して概観しておこう。(以下は「FAQ」による。)

 一般には、ロシア革命はレーニンが率いるボルシェビキ党が主導し、やがてロシア全土をボルシェヴィキの制圧下に置いたと見なされている。

 歴史は勝者によって、勝者の都合のよいように書かれる。官製の歴史(ロシア革命のそれを「官許ロシア革命史」と呼ぶことにする。)を鵜呑みにすると大きな過ちを犯すことになる。ロシア革命の真相もそうだ。
 ロシア革命は当初、普通の人々が自由を求めて闘った下からの大衆運動であった。多くの思想潮流が存在し、数百万という労働者(都市や町の労働者だけでなく農民も)が自由社会を目指していた。アナキストの一人であるヴォーリンはそれを「知られざる革命」と呼んでいる。
 だが、そうした希望と夢はボルシェヴィキの独裁下(レーニン後にスターリン)で粉砕されてしまったのである。その経緯を追ってみる。

 官許ロシア革命史の説明では、「知られざる革命」は、せいぜい、労働者の自律的活動を賞賛している程度であり、それも党の路線と一致している時だけのことであった。党の路線からそれるやいなや、徹底的に労働者の活動を非難している。さらにあくどいことに、大衆運動・大衆闘争を前衛党の活動の背景に過ぎないと表現している。そしてやがては残虐な大弾圧に転じる。

 アナキストはロシア革命は社会革命の典型例ととらえている。そこでは、労働者の自主活動が重要な役目を果たしていた。ソヴィエトや工場委員会などの階級組織によって、ロシア大衆は、階級に支配されたヒエラルキー型国家主義体制の社会から、自由・平等・連帯に基づいた社会への変換を目指していた。革命の最初の数ヶ月は、まさに次のバクーニンの青写真を着実に現実化する過程であった。

『未来の社会組織は、労働者の自由提携や自由連合によってもっぱら下から上へと作られねばならない。当初は組合で、そしてコミューン・地方・全国へ、最後に、国際的で全世界的な大連合へと。』

 ロシア革命の発端、2月革命の概略は次のようである。(日付はロシア暦)

1917年2月
 皇帝打倒の発端は大衆の直接行動だった。ペトログラードの女性たちがパン騒動を引き起こした。
2月18日
 ペトログラードのプチロフ工場の労働者がストを行う。
2月22日までに、ストは他の工場にも広がった。二日後には20万人の労働者がストライキを行い、2月25日までにストライキは実質的に全面的なものになっていた。 2月25日
 抗議者と軍隊との間で初めて流血をともなう衝突があった。
2月27日
 この日がターニングポイントだった。いくつかの中隊が革命的大衆の側に付き、他の部隊を蹴散らしたのだった。このため、政府は強制手段を失い、皇帝は退位し、臨時政府が樹立される。

 労働者大衆のこの自発的な運動に、全ての政治政党は完全に立ち遅れて、置いてきぼりにされた観があった。もちろん、ボルシェヴィキも例外ではない。
 ボルシェヴィキのペトログラード組織は、このツアー(皇帝)体制を打倒する運命を担った革命発端の直前には、ストライキの呼びかけに反対していた。しかし労働者大衆はボルシェヴィキの「命令」を無視し、ストライキを続行した。革命は下からの直接行動の流れの中で実行されていたのである。労働者大衆がボルシェヴィキの指導に従っていたとすれば、ロシア革命が生じていたかどうかは疑わしい。

 労働者大衆の自発的な運動はさらに進展していった。仕事場・街路・大地で。
 大衆は封建主義を政治的に廃絶するだけでは充分ではないと徐々に確信するようになっていた。封建的搾取が経済面に存続している限り、帝政を打倒したところで本当の変化はなかった。だから、労働者は仕事場を、農民は大地を奪取し始めたのだ。ロシア中で、普通の人々が自分たちの組織・労働組合・協同組合・職場委員会・評議会(ロシア語ではソヴィエト)を作り始めた。当初、こうした組織はリコール可能な代理人を持ち、相互に連合するというアナキズムのやり方で組織されていた。

 この労働者の活動から、一般論としても、望ましい「管理システム」の重要な条件の一つが抽出できる。
 自由社会でも何らかの管理システムは必要だ。しかし、それはヒエラルキーを基盤にしたものではありえない。それは「リコール可能な代理人」によって運営されなければならない。

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486 ロシア革命の真相(2)
アナーキズム 対 ボルシェヴィキ(1)
2006年4月28日(金)


 労働者と農民の自主的な活動のプロセスには、多くの政治政党と政治組織が関わりそれぞれの役割を果たしていた。特に活動的だったのはアナキスト・ロシア社会民主労働党(メンシェヴィキとボルシェヴィキ)・社会革命党(農民を支持基盤にした大衆主義政党)だった。

 アナキストはこの運動に参加し、あらゆる自主管理の傾向に賛同し、臨時政府を転覆することを強く主張していた。革命を純粋に政治的なものから経済的・社会的なものへと変換することが必要だと主張していたのだ。レーニンが国外追放から戻ってくるまで、革命をこうした路線で考えていた政治組織はアナキストだけだった。

 1917年4月、ロシアに戻ったレーニンはただちに、いわゆる「四月テーゼ」を発表した。それは二つの柱からなる。一つは第一次世界大戦を継続している臨時政府を支持しないこと、二つ目は労働者と農民によるソヴィエト共和国の樹立であった。
 当初、「四月テーゼ」にはボルシェヴィキ内でも反対があったが、レーニンはそれを党の基本方針として採択させることに成功する。『全ての権力をソヴィエトへ』 というスローガンを掲げて、革命を前進させていくことになった。

 アナキストは、工場委員会を中心とする生産の労働者自主管理運動において特に活動的だった。アナキストは、労働者と農民が有産階級を収用し、あらゆる形態の政府を廃絶し、自分たちの階級組織――ソヴィエト・工場委員会・協同組合など――を使って社会を下から再組織するように主張していた。『全ての権力をソヴィエトへ』というスローガンはアナキストの闘争の方向とも一致していた。いや、このスローガンはむしろ、アナキストの活動の影響によるものだったといえる。

 『全ての権力をソヴィエトへ』。このスローガンは、ボルシェヴィキにとっては、それまでのロシア社会民主労働党の立場からの分岐を意味していた。この方向転換によりボルシェヴィキは、直接行動を擁護し、大衆の急進的行動を支援し、それまでにアナキストが主張してきた様々な政策を支持したのである。このことによってボルシェヴィキは大衆の支持を勝ち取っていき、ソヴィエトと工場委員会の選挙で多くの票を勝ち取るようになった。  以上のような、アナーキズムとボルシェヴィキの関係には多くの証言がある。いくつか掲載しよう。

『ボルシェヴィキは、それまでアナキストが特に繰り返し表明していたスローガンを掲げ始めた。』(「知られざる革命」)

『ボルシェヴィキが声高に述べていたアナキストのモットーは、確実に結果を出していた。大衆はボルシェヴィキの旗を信頼したのだった。』(バークマン「アナーキズムとは何か」)

『一般大衆レベルでは、特に(ペトログラードの)守備隊とクロンシュタットの海軍基地の中では、ボルシェヴィキとアナキストの区別は事実上ほとんどなかった。無政府共産主義者とボルシェヴィキは、無学で元気がなく不満を抱えた同じ人口層の人々から支持を得ようと争っていた。そして事実はといえば、1917年の夏に、無政府共産主義者は、幾つかの重要な工場と連隊で享受していた支持と共に、紛れもなく出来事の方向性に影響を与えるだけの力を持っていたのだった。実際、アナキストのアピールは、幾つかの工場と軍隊においては、ボルシェヴィキ自体の行動に影響を与えるのに充分なほど大きかったのである。

 実際、一人の主導的ボルシェヴィキ党員は、1917年6月に(アナキストの影響力の高まりに対して)次のように述べていた。「自分たちをアナキストから引き離すことは、自分たちを大衆から引き離すことになってしまいかねない。」と』(アレクサンダー・ラビノビッチ「1917年7月蜂起の研究」)
486 ロシア革命の真相(3)
10月革命
2006年4月29日(土)



 スローガン『全ての権力をソヴィエトへ』を掲げて勢力を伸ばしていたボリシェヴィキに対して、メンシェヴィキと社会革命党は臨時政府に6人の閣僚を出していた。ボリシェヴィキは臨時政府不支持を基本方針の一つとしていたので、当然、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ・社会革命党との対立は深まっていった。(以下の日付はロシア暦)


7月3~4日 七月事件
 ペトログラードで約40万人の労働者・兵士が「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げて武装デモ。臨時政府はこれを鎮圧、ボリシェヴィキへの弾圧を強める。レーニン、再び亡命(フィンランド)。

7月7日
社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相となる。

9月5日
 モスクワ=ソヴィエトでボリシェヴィキ勝利。

9月20日
 ペトログラード=ソヴィエト、トロッキーを議長に選出。

10月7日
 レーニンがペトログラードに戻る。

10月10日
 レーニン、武装蜂起を主張。党中央委員会が採択。

10月13日
 ペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織される。

10月24日 10月革命
 ボリシェヴィキ、武装蜂起。

10月25日
 全ロシア=ソヴィエト大会。メンシェヴィキ・社会革命党、武装蜂起に反対して脱退。

10月26日
 全ロシア=ソヴィエト大会、「平和に関する布告」・「土地に関する布告」を採択。人民委員会議(ソヴィエト政府)成立。議長にレーニン、外務委員にトロッキーを選出。


 2月革命が労働者大衆を主体とした下からの革命であったのに対して、10月革命はいわばボルシェヴィキによるクーデターであった。しかしアナキストは 10月革命でボルシェヴィキと共に行動した。なぜなら、ボルシェヴィキはその国家主義イデオロギーを隠してソヴィエトを支持していたからである。

『アナキストは現実に、10 月革命におけるボルシェビキの無名の同盟パートナーだった』([サミュエル=ファーバー「Before Stalinism」)

 しかし、ボルシェヴィキが権力を握ると事態は一変した。アナキストもボルシェヴィキも多くの場合同じスローガンを使っていたが、その間には重大な違いがあった。

『アナキストの口と筆から出るスローガンは誠実で具体的だった。なぜなら、アナキストの原則に一致し、そうした原則に完全に合致した行動を呼びかけていたからである。だが、ボルシェヴィキの場合、同じスローガンは、リバータリアンのスローガンとは全く異なる現実的解決策を隠しており、スローガンが表現していると思われる思想とは一致していなかったのである。』(ヴォーリン「知られざる革命」)

 10月革命は二つの意味があったということになる。
 一つは社会革命に参加した労働者大衆とアナキストの10月。労働者と農民の10月は、平等と自主管理の名において寄生階級の権力を廃止することである。
 もう一つは、社会革命を推進する労働者大衆から権力を奪い、革命の十全な発展を裏切り、革命の息の根を止めた政治政党・ボルシェヴィキの10月。ボルシェヴィキの10月は、党による権力略取であり、大衆を支配するための「国家社会主義」の導入である。

487 ロシア革命の真相(4)
アナーキズム 対 ボルシェヴィキ(2)
2006年4月30日(日)


 ボルシェヴィキがどのように変節していったのか。いや変節ではない。リバータリアンの衣を脱ぎ捨てて、その本来の「犯罪的愚鈍」(大杉栄全集「クロポトキンを思う」)の姿をあらわにしていった。その「犯罪的愚鈍」の姿を追おう。

 「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンのソヴィエトとは、アナキストにとっては正に文字通り「任務を命じられたリコール可能な代理人を基礎とし、直接的に社会を運営する労働者階級の組織」を意味していた。
 それに対してボルシェヴィキにとってこのスローガンは、ソヴィエトの上にボルシェヴィキ政府を作り出す手段でしかなかった。

 『アナキストが宣言したように「権力」が本当にソヴィエトに属すのならば、それがボルシェヴィキ党に属すことなどあり得ず、ボルシェヴィキが想像しているようにボルシェヴィキ党に属すのであれば、ソヴィエトに属すことなどあり得ないのである。』

 1918年の春と夏のソヴィエト選挙ではボルシェビキは大敗した。しかしボルシェヴィキの軍隊が、大抵、そうした地方選挙の結果を転覆してしまった。
 たとえばペトログラードの選挙。1918年3月に終わる任期中、政府はペトログラード=ソヴィエトの総選挙を絶えず延期していた。明らかに、政府は野党が票を多く獲得することを恐れていたのだ。
 ペトログラードでの選挙の結果、ボルシェビキはそれまで掌中に収めていたソヴィエトの過半数を失った。しかしなおも最大の政党であり続けていた。選挙はほとんど無意味なものになっていた。

『ボルシェヴィキが圧倒的な強さを持っていた労組・地区ソヴィエト・工場委員会・地区労働者会議・赤軍部隊・海軍部隊にかなりの数の代表がおかれ、ボルシェヴィキの勝利が保証されていた』

 つまりボルシェヴィキは、自分たちの代理人でソヴィエトを圧倒することで、ソヴィエトが持つ民主的性質の土台を崩したのである。ソヴィエトで拒否されそうになって、ボルシェヴィキは自分たちにとって「ソヴィエト権力」は党の権力なのだということを示したのである。権力の座に留まるために、ボルシェヴィキはソヴィエトを破壊せねばならなかった。そして、破壊したのだ。ソヴィエトシステムは、名前だけの「ソヴィエト」にされた。

 「生産の労働者管理」についてもボルシェヴィキはその本来の意味を捻じ曲げていった。
 アナキストと労働者工場委員会はそれを『工場委員会の連合を通じた労働者による生産管理それ自体(つまり賃労働の廃絶)』と考えていた。
 レーニンは『労働者管理』を単に『資本家よりも優れた、普遍的で包括的な労働者管理』と見なしていた。
 レーニン(ボルシェヴィキ)の提案は徹底的に国家主義で中央集権主義だったのだ。それに対して、工場委員会の実践は本質的に現場主義で自律的だったのである。

『労働者組織が(ボスよりも)効果的な管理を行うことができるならば、労働者組織はあらゆる生産を請け負うこともできる。その場合、民間産業の撤廃を即座に漸次的に行い、それを集団的産業に置き換えることができるだろう。従って、アナキストは、「生産の管理」という曖昧で不明瞭なスローガンを拒否したのである。アナキストが支持したのは集団的生産組織による民間産業の――漸次的だが即時の――収用であった。』

『ソヴィエト権力の最初の数ヶ月間で三度、(工場)委員会の指導者たちは自分たちのモデルを現実のものにしようとした。それぞれの地点で、党指導部は彼等の発言を封じた。その結果、経営権限と管理権限の双方を、中央当局に従属し中央当局が作り出した様々な国家機関に与えることになったのである。』

 結局レーニンは、1918年4月に(国家が上から指名した経営者を使った)「独裁的」権力で身を固めた「ワンマン経営」に賛同し、それを導入したのだった。

 1918年以来、アナキストはボルシェヴィキ独裁下のロシアを「国家資本主義」の国と呼ぶようになた。個々の資本家(経済的支配者)はいなくなったが、個々の資本家が行っているのと同じ役割をソヴィエト国家官僚制が果たしているからである。(「国家資本主義」という言葉を、私は大杉栄の論文で初めて知った。大杉栄の造語かと思っていたが、もっと普遍的な用語だった。)

 さらに、軍隊組織(赤軍)の変貌。
 1918年3月、ブレスト-リトフスク講和(ドイツ・オーストリアとの講和)の後に軍事コミッショナーに任命されたトロツキーは、すぐに赤軍を再編成した。それまで廃止されていた不服従に対する死刑が復活した。さらに段階的に、将校には、特別な敬称・別個の兵舎といった特権を持つようになった。将校の選挙を含む民主的組織形態は、すぐさま撤廃された。

488 ロシア革命の真相(5)

アナーキズム 対 ボルシェヴィキ(3)

2006年5月1日(月)





 1918年4月、ボルシェヴィキはアナキストに対する弾圧を始めた。

 1918年4月12日、チェカ(1917年12月にレーニンが創設した秘密警察)がモス
クワのアナキストセンターを攻撃した。続いて他の都市のアナキストもその
後すぐに攻撃された。アナキストの投獄・銃殺は1922年においてもなお続い
ていると、その惨状を訴えた当時の檄文(エマ・ゴールドマン、アレキサン
ダー・ベルクマン、アレキサンダー・シャピロ連名)は伝えている。



 大衆に最も強い支持を受けている目の上のタンコブの抹殺と同時
に、ボルシェヴィキは、自分たちが守っていると公言している大衆の自由を
制限し始めた。民主的ソヴィエト・言論の自由・敵対する政治政党や政治団体・
仕事場や大地での自主管理、これら全てが「社会主義」の名の下に破壊された。
レーニン主義支持者の大部分はボルシェヴィキの権威主義を非難したが、1918年5月末
に内戦が始まると弾圧か加速し、ボルシェヴィキはあらゆる方面の反対者を組織
的に弾圧した。権力を握ればその「独裁」を行使すると公言していた正にその
「独裁」の主体たるべき階級のストライキや抗議行動をも弾圧したのだった。



 内部にいる者にとっては、ボルシェヴィキが権力を掌握して数カ月で革命は
死んだ。内戦開始(1918年5月末)以前の数ヶ月間で、ボルシェヴィキの「労
働者の国家」は、他の国家と同じように、労働者階級に対する権力となり、労
働者とは縁もゆかりもなくなり、少数者支配(この場合は党による支配)の道
具となった。

 外の世界に対しては、「真の社会主義」の基盤を組織的に破壊してしまった
ボルシェヴィキとUSSR(ソヴィエト社会主義共和国連邦 )が「社会主義」
を標榜するようになった。ボルシェヴィキの「社会主義」は次のような「犯
罪的愚鈍」によって成り立っていた。



ソヴィエトを国家機構に変換すること。

ソヴィエト権力を政党権力に取り替えること。

工場委員会の土台を破壊すること。

軍隊と仕事場の民主主義を排除すること。

政治的敵対者と労働者の抗議行動を弾圧すること。



 ボルシェヴィキは労働者階級を労働者階級自身の革命から効果的に排除した
のである。権力を持ったボルシェヴキは、バクーニンの予言の通り、『プロレ
タリア階級の独裁』を共産党指導部による『プロレタリア階級に対する独裁』
に変質してしまったのだ。スターリン主義への道筋は必然であった。



 1921年、クロンシュタットの蜂起とウクライナのマフノ主義運動を粉砕する
ことで「真の社会主義」にとどめを刺し、ボルシェヴィキはソヴィエトの征服
を完成した。(「クロンシュタットの蜂起」と「マフノ主義運動」については
後ほど取り上げる予定でいる。)

 このようにして独裁者になったボルシェヴィキがやってのけた労働者・農民
へのおぞましい蛮行の一端を書き留めておこう。




 此の数ヶ月続いた旅行の豊富な経験を詳細に述べることは、到底此の論文の
よくする所ではない。私はそれを、いづれ、十分にそして完全に、出来るだけ
公平にやって見たいと思ってゐる。が、ここで私は、私がペトログラドやモス
クワで聞いた事や、クロボトキンが私に話した一切の事は、私が種々なる旅行
の間に、即ち最初はウクライナに次ぎには北部ロシアにそして最後には西部ロ
シアに見た事と較べると、殆んど何んでもない事だと云ふ事を極力語勢を強め
て云って置きたい。さう云ふのは悲しい事だが、しかしそれは総て本当なのだ。
実際、もつと多くそしてもつとひどい事があったのだ。そして今まだ繰いてあ
るのだ。



 (ボルシェヴィキのラアツヴョルストカ(強制徴発)は、最悪の皇帝政治も決
して及ばなかった程の事をしてゐるのだ。革命政府が、よしそれがマルクシス
トであるとは云へ、こんなにひどい残忍と野蛮な復讐とに堕落し得たと云ふ事
は、全く信すべからざる事のやうに思へた。復讐―これだけで農民に対するボ
ルシェヴィキの気違ひじみた政策を十分に云ひ現はしてゐる。ラアツヴョルス
トカ―食物の強制徴発は無茶苦茶に行はれた。



 全村々が荒らされて、其の住民がゐなくなって了つた。私は男の成年が全く
ゐなくなって了つた村々を見た。男は皆な銃殺されて、女と十四歳以下の男の
子とだけが残ってゐた。

 他の村々では男は一人づつ鞭打たれて、そして其の年齢には構はずに皆な強
制的に軍隊に入れて了つた。

 或る村々では、男は『懲罰隊の共産主義者』等を幾度も経験し、後に、山や
森の中に逃げとんで、そこで謂はゆる『グリインス』(草賊)となってボルシ
ェヴィキに対する復讐の容赦のない.パルチザン的戦闘に従つた。

 私は食物徴発のために最後の麦粉までも持って行かれ、又農民等が次ぎの種蒔
きの用意に取って置いた種子までも持って行かれた村々を見た。法律できめられ
た課税以外に、牛や馬も取られ最後の家禽や毛布やぼろぼろに裂けた枕までも
取られて、其の村々は乾いた骨のやうに裸になって了つた。全村々がボルシェ
ヴィキの懲罰隊の砲兵によって、或は懲罰のために、或は近隣の農民へ恐怖的
見せしめのために、全滅させられて丁つた。



 私は『共産主義』と云ふ言葉が、民衆の心には秘密警察や、不正不義や、圧迫
や、暴行と同意義になったのを見た。共産主義者と云ふ名は、都会では一般に、
そして農村ではどこででも、深い永続きのする、猛烈な憎しみを以て憎まれて
ゐる。それは瞞された希望と殉難とから生れた、恐ろしい程に激しい憎悪だ。



 ボルシェヴィキの此の農民『政策』は革命の死の鐘のやうに響く。クロボトキンが其の手紙の中
や又は来訪者に繰返し繰返し力説した所の、『ボルシェヴィキは、革命はどんな風にやってはいけな
いかを、世界に示した』と云ふ言葉の如何に正しかったかよ。
(アレキサンダー・ベルクマン「クロポトキンを思う」 世界文庫版大杉栄全集2所収)