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457 ロールズとアナーキズム
2006年3月21日(火)


 「第443回」で紹介した川本隆史著『ロールズ』(講談社)。まだ読書中なのだが、その中で特に私の関心を引いた文章をネタにいろいろ考えてみる。
 まず「プロローグ」から。(「プロローグ」は川本さんによるロールズへの架空のインタビューの形で書かれている。)


ロールズ
 (『正義論』は)今でこそリベラリズムの経典のように祭り上げられたり、逆にろくに読んだ形跡もない教条的な痛罵にもさらされていますが、1970年代の初頭は社会主義の文脈で読まれることもあったのです。国家主導型の社会主義ではなくリベラルな社会主義なら、『正義論』の社会構想を実現することは可能でしょうし。

川本
 「リベラルな社会主義」でも「財産所有の分散に基づくデモクラシー」でも正義の二原理を満たすことができる、というのがジャックの持論でしたよね。社会主義が破産した以上「リベラル・デモクラシー」しか体制の選択肢は残っていないなどと言い張る論客たちからは、煮えきらない態度だと文句をつけられるスタンスでしょう。



 「国家主導型の社会主義」は双生児である。吉本(隆明)さんはそれを「国家社会主義」(ヒットラーのファシズム)と「社会国家主義」(ソ連のマルクス主義)と呼び分けている。ともに社会主義を騙った社会主義にあらざる「社会主義」だ。「国家主導型の社会主義」なんて矛盾もはなはだしい。もう80年ほども前、大杉(栄)さんはソ連を「国家資本主義」と呼んでいる。大杉さんによればそれは社会主義ですらない。
 「社会主義は破産した」などとしたり顔でのたまうものたちは、「国家社会主義」や「社会国家主義」のことを社会主義と思い込んでいるらしい。どっこい社会主義はなお発展中である。

 「マルクス主義は死んだ」という物言いも同じだ。「マルクス主義」は死んでもマルクスの思想はなお健在だ。上記の架空のインタビューでロールズも言っている。『マルクスの資本主義批判は民主主義の伝統の重要な一部をなすものと判断しています。それなのに天安門事件、ベルリンの壁崩壊と続いた1989年以降、彼の思想を真剣に受け止めとようとしない嘆かわしい風潮が広まっています。』  さて上の引用文中の「リベラルな社会主義」に私は注意を引かれた。アナーキズムを「リバタリアン社会主義」とも言う。
 また「財産所有の分散に基づくデモクラシー」というのは、詳しい説明がないので推測の域をでないが、 アナーキズムが言うところの「生産手段と生産物の労働者による自主管理」と同じではないかと考えられる。 土屋さんの「正義論/自由論」を読んでいるときにロールズの思想とアナーキズムとの近親性を感じていたが、それがますますはっきりしてきたと思う。

 「社会主義は破産した」とか「マルクス主義は死んだ」というしたり顔は「イデオロギーの終焉」という言い方で現れることがある。「イデオロギー」とは「共産主義」あるいは「マルクス主義」のことだという勝手な解釈による物言いだ。

 「イデオロギー」に私は「虚偽意識」というルビを振っている。
 自分の労働や生活を通して自分で得た社会や経済や文化などについての考えを思想という。それに対して、マスコミや学校教育などを通して身につけさせられた、本来は自分のものではないよそよそしいはずのドグマ(教条)をイデオロギーと言う。イデオロギーとは所有した思想ではなくドグマに所有されてしまった意識のことだ。

 先に私は「どっこい社会主義はなお発展中である。」と書いたが、真の思想は流動・進化・発展する状況に応じて変化・発展する。社会が発展したり変化したりすれば、思想もまた発展し変化する。それに対しイデオロギーは、信仰している硬直したドグマであっていつも現実を、つまりは生身の人間を無視する。信仰しているイデオロギーに合うように無理やり現実や人間を変えようとする。硬直したイデオロギーが不正義や不自由や不公正や不寛容の、つまりは圧政の根源となる。そして、ほとんどのイデオロギーは支配階層の利益にかなっている。けだし、日の丸・君が代を強制したがる天皇教国家主義は硬直したイデオロギーの典型だ。

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458 リバータリアン社会主義(1)
2006年3月22日(水)

 アナーキズムは自由・平等・自主・公正・正義・寛容などに価値を置く。では、同じ価値観を基盤とする他の思想とアナーキズムとを隔てるものは何か。それはアナーキーの語源が示している。「アナーキー」=「支配者や君主がいない状態」
 現時点では国家に限らず、政党・官庁・軍・会社・宗教団体・大学など、集団・団体のほとんどはピラミッド型の構造で形成されていて、そのトップに権力が集中するように組織されている。このような人間関係を「ヒエラルキー」という。アナーキズムはそのヒエラルキーに内在する権力関係が人間を抑圧する諸悪の根源と考える。アナーキズムが目指しているのはそのヒエラルキーの棄揚に他ならない。

 「正義論」では単一のアイデンティティによらない共同体、「アイデンティティという閉ざされた観念から自由になった者たちが形成する共同体」を望ましい共同体としている(第437回参照)。これに「ヒエラルキーの棄揚」という条件を付け加えるとアナーキズムのめざす共同体ということになる。
 アナーキズムが提供している共同体についてのこの理想は、ばかばかしい空想事と大抵は一蹴されるのが落ちだ。しかしこれは単なる絵空事だろうか。いずれ検討することになるだろう。

 さて、リバータリアン。
 リバータリアンにも右派と左派があるようだ。アメリカ合衆国で三番目に大きな政党と言われてリバータリアン党は1971年の結成されている。明らかに右派リバータリアンの党だが、この党はどのような政治思想を基盤にしているのだろうか。

 インターネットで「リバータリアン」で検索したらヒットナンバーワンに

「リバータリアン保守思想20の特色」(http://kyuuri3.hp.infoseek.co.jp/20.htm)

という記事があった。その記事があげている特色の2番目に

『アナーキズムと紙一重である。政府や国家を可能な限り否定する。あるいは、最小限国家(夜警国家)論に立つ。国家は外交と国防と犯罪取締りだけを行えばいい。それも最小限度に。』

とあったが、ここでもアナーキズムは相当に誤解されている。13番目の説明がとても分かりやすく、その政治思想を鮮やかにイメージできる。

『わかりやすく言えば、西部劇のヒーロー、ジョン・ウェインのイメージを描くとよい。あるいはクリント・イーストウッドの、悪をたたきのめす強い男のイメージである。個人的英雄主義。西部のカウボーイのマッチョ主義。西部開拓農民(パイオニア)の独立独歩の精神、自己責任主義。人の助けを借りずに、自分と家族だけで真面目に働いて生活してゆく。』

 これが「リバータリアン」だとすると「アナーキズムと紙一重」とはとても言いがたい。「リバータリアン社会主義」とはとんでもなく矛盾した言葉ということになる。実際、おもに右派リバータリアンからアナーキストに対して、言葉の剽窃だというクレームが出されているらしい。これに対するアナーキズム側からの反論をみてみよう。

459 リバータリアン社会主義(2)
2006年3月24日(金)


An Anarchist FAQ(http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/index.html)
という英文サイトがある。私にとって格好の「アナーキズム入門書」となりそうだが、私の貧弱な英語力ではとても読みきれない。ところが、幸いにもこれを翻訳している人たちがいた。

アナーキ・イン・ニッポン(http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/index.html)


 以下アナーキズムについての記述の多くはここからの受け売りになる。「Anarchist FAQ」(以下、略して「FAQ」とする。)の作成者と翻訳者に敬意と感謝を込めて紹介しておく。

 さて「リバータリアン党」は、アナキストは「リバータリアン」の看板を盗んだという。「リバータリアン思想」に「社会主義」という「反リバータリアン」思想を結びつけて「社会主義」思想を受け入れ易くしようとしている、とアナーキストを非難している。

 これに対して「FAQ」は言う。
 アナキストは自らの思想を表現するために、1850年代から「リバータリアン」という言葉を「リバータリアン社会主義者」を短縮したものと、つまり「アナキスト」の同義語として使っている。そして、北米の右派リバータリアン(「FAQ」では「the pro-free market right」と呼んでいる。)とアナーキズムが言うリバータリアンとは本質的に異なる。どう異なるのか。

 前回述べたように右も左もおおかたは、「社会主義」を国家所有と国家による生産手段の管理であると誤解している。
 生産手段を国家が所有し管理してもそれは「資本」の本質は変わらない。国家が労働者を雇用したからといって「賃金労働」の本質も変わらない。アナキストは、資本の国家所有は全く社会主義的ではない、と認識している。それは『資本主義に反対する傾向ではなく、資本主義内部の傾向なのである。』
 「賃金奴隷の終焉」を目的とする社会主義にとって、国有化は、国家官僚を除いて、全ての人をプロレタリアにしてしまったことにすぎない。ソ連がそうであったように、国有化はすぐさま国家統制と官僚階級の特権を生み出す。官僚階級は、旧体制の支配者たち以上に労働者を搾取し、抑圧する。

 アナーキストがいう社会主義は次のようである。
 真の社会主義社会は労働者による生産手段・労働・生産物の自主管理を基盤にしたものである。これは、階級なき反権威・反権力社会を意味している。そこでは民衆が、個人としても集団の一員としても、自分自身に関わることを自分自身で管理する。つまり、労働も含めて人生を全面にわたって自主管理する。したがって真の社会主義が個人の思想・行動の自由を支持するのは必然である。
 真の社会主義者は、リバータリアンでなければならない。個人の自由を尊重するのならば、その自由を制限する権力の不平等に反対しなければならない。リバータリアン社会主義という言葉になんら矛盾はない。

 以上、「FAQ」による「リバータリアン社会主義」の定義は次のようになる。
 『 自由な意志による思考と行動の自由を尊重し、生産者が政治権力と生産手段・流通手段の両方を所有する社会システムを目指す思想。』

460 自由な意志力
2006年3月25日(土)


 アナーキズムは「自由な意志をによる思考と行動の自由を尊重」する。では自由な意志を基盤とした社会システムはどのようなものになるのか。
 最近出版されている吉本(隆明)さんの本はこれまでの吉本さんの営為の集大成という感がある。ただし難解と定評のころのものとはうって変わって、難しい問題を平易な言葉で実に分かりやすく書いている。
 そのうちの一冊の書名は「中学生のための社会科」という。中学生にも分かるように書くことを理想にしていた吉本さんの渾身の一冊というべきだ。想定した読者は中学生であっても決して程度を落としたり手抜きをしていない。書名に「中学生のための」という言葉を加えたのは、むしろ吉本さんの自負の表れではないかと、私は思っている。

 その本の第三章「国家と社会の寓話」に『「自由な意志力」とは何か』という一節がある。「自由な意志力」がどのような集団性を可能にするか。二つの実例をあげている。
 一つは島尾敏雄の小説から受けた感銘を深い共感ををもって紹介している。


 奄美大島の人間魚雷の基地隊長である島尾敏雄が人間魚雷を格納する海岸の洞穴を拡張する命令を部下に伝える。だが部下は動こうとしない。明日にでも出撃命令が下れば出撃して再び生きて帰還することはない。部下は洞穴を拡張する作業などやる気が起こらないのが当然で、隊長の命令は無視される。島尾隊長は部下を非難することなく、黙って自分だけがシャベルを持って洞穴を拡げる作業をはじめる。
 島尾隊長には命令に応じない部下を非難する気分など少しもないし、部下たちも自分の生命を賭けた「自由な意志カ」で、命令に服従して島尾隊長を援けることもしない。これは明日出撃して再び生きて帰還できないかもしれない生死の境で、島尾隊長と部下の集団が「自由な意志カ」だけで信頼し合っている瞬間の振舞いだといえる。つまらない優劣も差別もないし、不信のあげくの相互非難もない。「自由な意志カ」を発揮し合った者どうしのあいだに成立している集団性なのだ。

 わたしにはこれ以外に個人と「国家」と「社会」を貫いて歪曲されない「自由」は考えられない。集団や公共によって禁圧や制約を受ける自由などあり得ない。もちろんその逆もおなじだ。



 もう一つはご自身の学生時代の体験談である。


 わたしは戦中派と呼ばれる世代に属している。戦中派というのは太平洋戦争期に青春であった世代の俗称だ。そこでもう一つ戦争期のことに触れてみたい。それは「国家」と「社会」が神聖天皇制のもと、総力で軍国主義に傾き、人によってはファシズムと呼んでいる時代のことであった。
 わたしは工科の学生で学業半分、あとの半分は工場動員、農村手伝い、川原の石運び、田んぼの暗渠排水工事、そのほか勤労奉仕と呼ばれる無償の奉仕に動員されていた。お国のため、社会公共のためというのが政府筋から流れてくる第一義の課題だった。わたしたち個人個人は真剣だったが、疲れて作業したくないときも怠けて遊びたいときも家郷に帰りたいときもある。わたしたちのうちの誰かはいつも作業に精を出さないで、いい加減で、他のみんなが作業に出かけたときも誰かは遊びに出かけていた、などとはじめはいわゆる公共心と個人の都合のはざまで非難のし合い、相互不信の諍いが絶えなかった。

 しかし最後に到達したのは、他人でも自分でも、怠けたいとき、体を動かして奉仕する作業をやりたくないとき、遊びたいとき、非難も弁解もせずにそれを許容し、その欠落は黙って他人の分までやってしまうこと。自分が怠けたり作業を休んで家郷に帰っても他の者が黙って自分の分までやり、非難がましい言動は一切しないこと。そのような相互理解と個人の本音の怠惰を赦す暗黙の了解が学生どうしのあいだで成立したとき、わたしたちは公共奉仕を無理解、無体に強制する軍国主義のやり方を超えたとおもった。これは必然的に部下が休んで命令に従わないときの島尾隊長の態度と一致する。

 統率力のある指導者というのはファシズムであっても、ロシア=マルクス主義であってもダメな人物であるといっていい。そしてわたしたちが学生どうしでこの暗黙の相互理解に達したとき、軍国主義の命令に従いながら、確かにファシズムとロシア=マルクス主義を超えたということを信じて疑わない。「自由な意志力」以外のもので人間を従わせることができると妄想するすべての思想理念はダメだ。これはかなりの年月、本当は利己心に過ぎない「国家」「社会」「公共のため」の名目のもとに強制された経験と実感の果てに、わたしなどの世代が獲得した結論だといっていい。わたしはこれ以上の倫理的な判断に出会ったことがない。



 「アナーキー」という言葉は一般には「無秩序」と同義に誤解されている。しかし、何度も言うように「アナーキー」の原義は「支配者のいない状態」である。吉本さんが描き出した集団性はまさに「アナーキー」だと私は思う。
 イシハラによる「日の丸・君が代の強制」をきっかけにいくつかの市民集会に参加するようになったが、どの集会でもアナーキーな集団性が見てとれる。机いすを並べたり片付けたりなど、黙々として集会を手伝う人が必ずいる。「自由な意志」による参加者の集会なのだから、当たり前といえば当たり前の事だが……。

 「自由な意志による思考と行動の自由を尊重」する社会のシステムはどのようなものであるべきだろうか。社会全体を対象とする場合、たくさんの複雑な要素が加わる。小集団で見られるアナーキーな集団性がそのまま社会システムとしても可能であるかどうかは、今の私になんともいえない。しかしその理想的なあり方はイメージできる。

461 自由社会
2006年3月26日(日)


 アナーキストはどのような社会を構想しているのか。アナーキストにもいろんな派があるが、最大公約数的に次のように言ってよいだろうか。
 アナーキズムにのっとった社会を自由社会と呼ぶ。しかし、アナーキストは自由社会の青写真を描かない。アナーキズムはドグマではない、一つの活動なのだから。ただ自由社会が持っていなければならない一般的諸原理(枠組み)を示すだけである。一般的な諸原理とは自主参加・権力分散・自主管理・諸集団の自由連合等々である。具体的にどのように社会を構成していくのかという問題は、一般民衆がその叡智を集約して決めていく事柄なのだ。

「FQA」から引用する。


 自由社会の現実的枠組みと、それがどのように発展しそれ自体を形成するのかは、そうした社会に住んでいる人々やそうした社会を創り出そうとしている人々の欲望と願望に依存しているのである。このため、アナキストは、共通の問題を管理するために、地域と仕事場における大衆集会、そして、下からの集会連合の二つが必要だと強調する。アナーキーを創り出すことができるのは、大衆の能動的参加だけなのだ。
 マラテスタの言葉を借りれば、自由社会は『民衆集会で採択され、自発的に参加したり正規に委託された諸集団と個々人が実行する諸決定』に基づくであろう。『革命の成功が』依存するのは、『実際の課題に取り組む発意と能力を持った多くの個人である。共通の大義を少数者の手に任せず、代表者が必要な場合は、特定の使命と限定期間だけ委任する、こうしたことに大衆を慣れさせることによってなのである。』

 この自主管理が基礎になって、自由社会は、社会内部に生活している人々が創り出す新社会と共に変化し、発展するであろう。

 忘れてはならないことだが、自由社会がどのように始まるのかは大雑把に推論できるかも知れないが、長期的にどのように発展するのかは予測できない。社会革命は一つのプロセスの始まりでしかない。このプロセスは、我々にはどのようなものになるか予測もつかない別種の社会をすぐに導くであろう。

 不幸にして、我々は、希望する最終地点ではなく、現在自分たちがいる地点からスタートしなければならないのだ!この社会こそ我々が変化させるものである以上、ここでの議論は、当然、現在の社会を反映するものとなるだろう。



 アナーキズムはヒエラルキー型の政府を否定する。しかし政府に替わる管理システムは必要だ。その管理システムは、「政府レベル」に限らずいろいろなレベルの組織に必要とされるし、現行の政府とは全く異なる性質のシステムだから「政府」と呼ぶのはよそう。端的に「管理システム」と呼ぶことにする。