2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
440 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(1)
効率優先社会への批判
2006年2月19日(日)


 私の関心に引き寄せて、これまでは「アイデンティティについて」という表題をつけてきた。今回からはテーマは「アイデンティティ」からは明らかに離れることになるので、表題に本来のテーマである「正義論」を取り入れ稿を改めることにした。ロールズの「正義論」の現実問題への応用編という意味合いとなる。土屋さんの著書「正義論/自由論」の第3章以降にあたる。
 今回のテーマはきわめて今日的である。現在進行中の「新自由主義」に依拠するコイズミの改革路線はまさに最悪の「効率優先社会」をつくりつつある。

 効率優先社会への批判は「実力主義=競争原理」と「効率主義」の2点について展開されている。

 ロールズの「正義の原理」のもとでは実力主義は認められない。実力主義はこの社会の不平等を助長こそすれ、決して解決することはない。しかしロールズは競争原理に留保をつけているが、全面否定をしてはいない。

 競争の原理を否定しないのは、「社会の活力を保持する」という効用面においてであり、「市場の自由にすべてをゆだねる」という手放しの自由放任主義を認めているわけではない。
 一つは、大前提として、「競争の公正な機会の均等」がなければならない。
 また、異なる才能と資質をもつ人間によって社会が構成されている以上、社会が不平等を結果として生み出すことは否定できないが、「正義の第2原理」に従って、その不平等の結果を競争のなかで破れ去った者の状態を有利にするために使われるべきであるという。たとえば、教育への助成・社会福祉・税金の軽減などを通して、競争に勝ち残った者のその成果をを自分だけで享受するのではなく社会的配分にゆだねよという。

 次に功利主義への批判。
 功利主義は「社会全体の幸福計算の総和が高まるように、個人は自分の幸福を追求すべきである」と主張する。
 この考えのもとでは、いつでも個人の自由は社会全体の効率のために犠牲にされることになる。「正義の第1原理」を選択した時、社会全体の効率を理由に「平等な自由の権利」を否定するいうな考えは否定されている。このことを土屋さんは次のように述べている。


 たとえば、奴隷制が正義にもとるということを、功利主義は説明することができない。奴隷制によって、社会が効率よく運用されるならば、奴隷制は認められてしまうことになる。たとえ、功利主義者が奴隷制に反対したとしても、思想家個人の感情であって、自分の理論とは矛盾しているのだ。
 これを、私たちのトピックスとして考えれば、「国内総生産」とか、「国民総所得」という統計上の計算が、個々人の幸福の増大とは直接関係がないことに対応している。世界第二位もしくは、世界第一位の経済大国などといばってみても、私たちの生活は、まったく貧弱である。



 「国内総生産」とか「国民総所得」という統計上の計算結果を提示して、日本は経済大国であるという。「国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄である」かのように、日本の民衆は錯覚させられている。
 このことに関連して、土屋さんはイギリスでの次のような見聞を紹介している。


 (土屋さんの下宿先の)大家さんは、ロシア占領後に、ポーランドから亡命してきた、ポーランド人であった。彼の家は、隣にあったが、三人の子供がいて、どれもが大学教育を受け、娘さんは音楽大学にいっていた。ご主人はもう相当な年になっていて、ハインツの缶詰工場に勤めていて、ポーランドの農夫という感じの好々爺になっていた。彼は、日本にもハインツの缶語は売っているというと、びっくりして喜んでいた。この老夫婦は、停年の年を迎えるので、ウェールズに土地を買って、そこに引っ越すということだった。ウェールズは、イギリスの田園地方で、美しい場所である。
 戦後に亡命してきたポーランド人が、ハインツの缶詰工場に勤めていて停年を迎えれば、ウェールズに引退することができる。私は心底羨ましかった。こんなことは日本では考えられない。停年後も働くであろうし、下手をすれば、相当過酷な労働条件のもとで働かなければならないのが、日本人の停年後の姿である。亡命者ではないのだから、田舎はあるかもしれないが、そこに引退して優雅に老後を過ごすなどということは、夢のまた夢である。

 生活の質の向上というスローガンは聞き飽きるほど聞いても、いっこうに庶民の現実とはならない。いたずらに「国内総生産」とか、「国民総所得」といった数字だけが、新聞にある。
 この日本の姿は、まさしく効率優先の社会の姿である。計算上の総和が、経済の指標であるのだ。

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443 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(2)
宗教
2006年2月26日(日)


 第4章は「宗教とリベラリズム」と題されているが、宗教にかぎらず、一般的に思想・信条の問題として読むことができるだろう。
 「原初状態」と「無知のヴェール」のもとでの必然的な選択として、人は宗教・思想・信条の自由を認めることになる。


 「原初状態」と「無知のヴェール」の条件のもとでは、いかなる宗教者であっても、無神論の存在を認め、異なる宗教の存在を認め、多神論にならざるをえない。また、信じる神が変わることの可能性も認めるだろう。自分がいったいどんな宗教を信じるかが分からない状態において、また、無神論者になるか、信心家になるかもわからない状態において、宗教も無神論も彼にとっては、併存していなければならないものである。
 つまり、人々が、自分がどのような宗教、思想、信条をもっているかを知らないという条件のもとで、正義の原理を選択するとしたならば、当然に、彼は、その宗教、思想、信条を理由にして、人々が不利益をこうむり、差別をこうむり、あまつさえ投獄され処刑されることを、けっして認めることはないだろう。 この「原初状態」を基盤にしてみれば、私たちは、この社会が、宗教、思想、信条の多数性によって成り立つことを求めるのだ。




 勿論この自由は宗教・思想・信条の内容に関わらない。もしその自由が制限され得るのは自由の名の下においてのみである。つまりその宗教・思想・信条が社会における自由の存続を侵害したときのみである。  このことからロールズの国家論はおのずと次のようになる。


国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげているものではない。
 彼(ロールズ)にとって、国家はさまざまな価値や思想をもった者たちの連合体なのだ。国家そのものは、この自由の連合体の保証人であるにすぎない。宗教国家がそこでは存在しえないように、民族への忠誠を求めるような民族国家も存在しえない。多民族国家や多人種国家において、一つの人種への忠誠を求めることは、自由の条件への侵害である。そこでは、平等な自由への権利は侵害されている。



 勿論、「多民族国家や多人種国家」だけの問題ではない。一つの偏狭なイデオロギーへの忠誠を求めるイシハラの教育支配の目論みは全面的に否定されなければならない。


言い訳:
 ここまで書いてきた過程で、より詳しく知りたいことや疑問点や新たな課題がいくつかでできました。なによりもロールズに対する理解が不十分です。まずは、ロールズの著作を直接読んでみたいと思い本屋に行き、次の2冊を入手しました。

(1)ジョン・ロールズ著「公正としての正義 再説」(田中成明・亀井洋・平井亮輔訳 岩波書店)
(2)川本隆史著「ロールズ 正義の原理」(講談社)

 (2)はロールズの評伝です。その中に『正義論』は600ページほどの大冊でしかもずいぶんと難解とありました。
 そこで(2)を購入しました。(2)は『正義論』を「説明をよりよいものに改め、多くの誤りを正し、幾つかの有益な修正を加え、そして、若干の比較的共通の反対への返答を示」し、「また、多くの箇所で議論を書き直した」ものということなので私の必要にかなっていると思いました。
 しかし読み始めてみると、ページ数は『正義論』の半分ほどですが、これも相当に難解です。(1)(2)ともに読み終えるのにかなりの時間がかかりそうです。
 ということで、しばらくは「正義論」を中断します。(1)(2)を読み終わった段階で「正義論」に戻る……かどうか、予測できません。

 ともかく、次回からは別の記事を書くことにします。またこれを機会に「反ひのきみ」というテーマに縛られずに、話題を自由に選ぶことにします。



444 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(3)
同性愛(1)
2006年2月27日(月)


(昨日このシリーズの中断を決めたばかりなのに、もうチョッとだけ続けることにしました。)
 今日の朝刊(朝日新聞)に『「同性愛」告白されたら?』という小さな囲み記事があった。
 『最近は、同性愛者自身の支援グループは少しずつ増え、自分が同性愛者であることを公にする人も増えてきた。だが、家族や友人、恋人などに正しい知識を教える場がなく、告白に戸惑ってパニックを起こし、事態を悪化させてしまう例が問題になってきた。』
 そのような人たちへの悩みに答える無料電話相談のスタートを紹介する記事だ。

 その電話相談を始めた方(かじよしみさん)の肩書きはカミングアウト・コンサルタントという。恥ずかしながら「カミングアウト」という言葉を私は知らなかった。

 研究社版「新英和大辞典」によると「(若い女性の)社交界へのデビュー」とある。これじゃ意味が合わない。きっと新しい用法なんだな。ならインターネットだ。
 インターネットは便利ですね。「はてなダイアリー」によると「自分が,社会一般に誤解や偏見を受けている少数派の主義・立場であることを公表すること。」これこれ、これならピッタリだ。
 (この段落は余分ごとでしたかな。)

 さて、上の記事が最近ケーブルテレビで見たトム・ファンクス主演の「フィラデルフィア」(1993年)という映画と結びついた。

 同性愛者でエイズに侵された弁護士ベケットが勤務先の事務所を解雇される。直接の解雇理由は重要書類を紛失するという失態である。しかしその失態は仕組まれたものであり、真の理由は「同性愛者でエイズ」に対する偏見だ。ベケットはその解雇の不当性を裁判に訴え、ある裁判での係争相手だった弁護士ミラーに裁判の弁護を依頼する。
 法廷での一場面。

 ミラーがそれまでとは略脈のない質問を証人にいきなり激しい口調で浴びせかける。
 「あなたはオカマか?クイーン?フェアリー?かま掘り? あなたはゲイか!」

 当然相手弁護人から「異議あり」の声が上がる。
 「証人の性の問題は本件に関係ありません。」

裁判官「何を考えているのか説明してくれんかね。まるで私には見当がつかない。」
ミラー「裁判長!この法廷の人々は性のことが頭から離れない。性的な興味がだ。(中略)ならはっきりさせたほうがいいのだ、隠さずに。話はエイズだけじゃない。本当のことを話すべきだ。我々の中に嫌悪、恐怖。同性愛へのだ。その嫌悪と恐怖の気持ちが、この同性愛者の解雇にどうつながったか。ベケット氏の解雇にです。」
裁判官「この法廷では正義だけを考え、人種も、宗教も、肌の色も、個人の性の趣向も、いっさい関係ありません。」
ミラー「しかし我々の社会は、法廷の中とは違います。」

 「正義論/自由論」の第6章は「セックスとリベラリズム」。

(というわけで、「正義論」に戻った言い訳でした。)

445 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(4)
同性愛(2)
2006年3月1日(月)


 私たち日本人は、たぶん、同性愛を犯罪とは思わない。趣向の問題と思っている。しかしヨーロッパでは同性愛はかっては犯罪であったという。例えばイギリスでは 19世紀中ごろではその最高刑は死刑だった。土屋さんは当時の「ピロリー」というおぞましい公開死刑の新聞記事を紹介している。


 たとえば、ロンドンで「さらし刑」がある日には、朝早くから五千人をこす見物人が集まってくる。特に、魚河岸で働く女性が多かった。この見物人たちにかこまれながら、「同性愛」で告発された男は、町中を引きまわされ、広場にさらされた。首には首かせがかけられている。見物人は、そこで売られている、テームズ河からひろってきた犬や猫の死骸を買って、それを同性愛の男に投げつけるのだ。それだけではない。石を投げたり、殴打することは黙認されていた。
 「顎は割られ、眼は潰され、ほとんど気を失って、そのまま首かせで首がしまって死んでしまう」のだ。そう当時の新聞は書いている。



 同性愛が「犯罪」から「趣味」の問題へと正当化されるのには、多くの思想家の自由をめぐる言説を必要とした。ロック、ミル、ベンサムという思想の継承発展を土屋さんはたどっているが、それは割愛する。
イギリスで同性愛が完全に合法化されたのは、なんと、1967年だという。なぜこれほどまでに同性愛に対する禁忌が根深いのか、たぶん宗教上の問題だろう。

 映画「フィラデルフィア」。証人台に立った解雇者が原告側弁護人から解雇の真の理由を厳しく問い詰められる法廷場面がある。同性愛に対する憎悪の感情を隠せなくなりそうな場面で「旧約や新約にも…」と言いかける。その後の言葉は弁護人のたたみかける質問でかき消されるが、同性愛を忌み嫌う自分の感情の正当性を聖書に求めようとしたのだろう。

 宗教が果たしてきたこのような役回りに触れるとき、「宗教はアヘンである」というマルクスの言葉を私は肯う。勿論それが宗教の一面に過ぎず、多くの人には宗教が人生の支柱になっていることは承知している。しかし私の中には本質的に「宗教は迷妄」という認識が根強くある。その自分の認識を検証するためにも「宗教とは何か」という課題がずーっと念頭にあった。いずれ取り上げたいと思っている。

 さて、土屋さんはベンサムの次の文章を引用している。


 テーブルの快楽の場合は、プロテスタントは禁じられた食物を食べでもけっしてそれを道徳の問題とはしなかった。人々は健康を害しない程度に過食を戒めながら口の喜びにつかえたのだ。プロテスタントもカトリックもこの非合法の快楽(同性愛)が実際にどんな害になるかをたずねることもなく古くからの禁制にしたがったのである。



 同性愛は「性の趣味」の問題にすぎず、食卓の問題と同様、性の問題にも公権力は介入すべきではないと言っている。
 「正義の原理」にそって言えば次のようになる。


 問われているのは、「生きることの多様性」である。どう生きるかは、私たちが決める。教育も福祉も、本来的には生きることの多様性を基盤にしている。文部省や厚生省のマニュアルで決まるものではない。ドラッカーならば、教育と福祉に、政府は資金を提供しても、実際の運営は、外部に委託すべきである、ということになる。現場の独創性、柔軟さ、多様性こそが、教育と福祉の活力になる。 それは、私たちの私的な世界でも同じである。誰を愛するかまで、社会が口を出すことはできない。ましてや、誰を愛したかを理由にして、平等な自由への権利を制限することはできない。



 イシハラらには「正義の原理」を理解する精神と能力が決定的に欠けてる。

 「予防訴訟」は3月20日に最終弁論が行われて結審すると言う。せめて裁判官には「正義の原理」を理解する高邁な精神と能力を持っていてほしいと願っているが、はたしてどうだろうか。


446 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(5)
言葉のうらおもて(1)
2006年3月6日(月)


 「知」をなりわいにしている人たちの「知」には、それなりの敬意を払うのにやぶさかではない。しかし、それだけに皮相な俗論を開陳されるのはやりきれない。頭のどこかから、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」がいくつも飛び出してくる。
 立川昭二という歴史家が朝日新聞の「こころの風景」というコラムを担当している。2,3回前の記事で34年前の「あさま山荘事件」を取り上げていた。最後に次のように締めくくっている。


 あのような自己中心的な若者をつくった土壌は、今日もかたちを変えてこの国に残っているように思えてならない。



 「あさま山荘事件」に関わった若者たちを「自己中心的な若者」だという。ことの本質をまったく見ていない評語だ。氏がどのような若者を今日の「自己中心的な若者」と考えているのか分からないが、例えば私は、このくだりを読みながら、その代表としていま話題の「ホリエモン」を思い浮かべた。
 私の認識では「あさま山荘事件」の若者たちの理論には大きな過誤があったかもしれないが、「自己中心」とはほど遠い。今日の「自己中心的な若者」とはどんな線でも結びつけようがない。「月とスッポン」だろう。

 さて、「正義論/自由論」にお世話になっているが、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」が飛び出したところが2ヶ所あった。

 一つはロールズの国家論について述べている次の個所。


ロールズの「原初状態」のもとでは、宗教国家は存在しえない。誰もその選択の道をとることができないからだ。複数の価値、複数の宗教、そしてまた無神論者も生きることができるのが、ロールズの正議論の社会である。
 この基本的な自由への平等の権利を認めあうことを、「原初状態」のなかで契約したのだ。国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげているものではない。
 実は、ここにはロールズの重大な国家論の問題があらわれている。彼にとって、国家はさまざまな価値や思想をもった者たちの連合体なのだ。国家そのものは、この自由の連合体の保証人であるにすぎない。宗教国家がそこでは存在しえないように、民族への忠誠を求めるような民族国家も存在しえない。多民族国家や多人種国家において、一つの人種へ の忠誠を求めることは、自由の条件への侵害である。そこでは、平等な自由への権利は侵害されている。
 しかし、それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へとつながるものではない。政府は存在するのだ。ただその政府は、自由の条件を裏書きする存在であって、それ自身が、なんらかの思想、宗教を主張する存在ではない。



 何に引っかかったかというと、「それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へとつながるものではない。」というところ。アナーキズムを「過激」と評している点と「アナーキズム=無政府主義」という認識が、私にはきわめて皮相で通俗的な見解に思える。
 現在のブルジョア国家の基本理念「民主主義」はそれまでの為政者=王侯貴族にとっては「過激な」思想だった。それと同じ意味でならアナーキズムは「過激」と言っていいだろう。

 「アナーキー」という言葉の語源は「ギリシア語」で、「An-archy=支配者がいない」という意味だ。アナーキズムは「支配-被支配」というヒエラルキーを基盤とする組織に反対している。アナーキズムの政治思想においても「政府は存在するのだ。」しかしそれはブルジョア国家の政府とは似ても似つかないものだろう。したがって「政府」=「ブルジョア国家の政府」と限定するなら「アナーキズム=無政府主義」と言ってよい。
 私はアナーキズムにますます強く引かれている。

 ここで私にもうひとつの課題ができた。
 アナーキズム、特にその「相互扶助論」とロールズの「正義論」との同一点や相違点を考えるという課題。ロールズの「正義論」を直接読んでみようと思い立った理由の一つだった。

 「正義論/自由論」で引っかかったもう一つの点。
 ロールズの正義論はあらゆる宗教にたいして「寛容」である。では「不寛容」な宗教に対しても「寛容」なのだろうか、と言う問題が起こる。土屋さんは「オーム真理教事件」を取り上げている。

(次回に続く)