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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

453 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(11)
オウム真理教事件について(5)
2006年3月15日(水)


 吉本さんは麻原彰晃の何を高く評価しているのか。麻原彰晃が「生死を超える」という著書で、仏教の修行の内実を白日の下にさらしていることを評価している。「世紀末ニュースを解読する」から、その部分を、これも全文引用する。


 『生死を超える』という本の前半は麻原彰晃がヨガの修行者として経過した段階が実感的に書かれているので、実際に体験したことだとわかります。ヨガの修行者としてはそうとうのステージにあるのだということがわかります。これは仏教的修行がなにかを明らかにしていると思います。
 たとえはチベットの『死者の書』などには仏教でいう死後遊行のことが神秘めかして書かれています。彼は『生死を超える』でそのことを実感を込めて明らかにしています。こういうことをすれば死後の世界に接触できる、死んだあとにそこにいけるといっているんです。死後の世界は幻覚なんですが、そのように修練の体験を語っています。この本は僧侶の修行史と出家の修行史のなかで一つの場所を占める書物だと僕は思います。人によってはそうはいわないでしょうが、僕はそう思います。

 最澄も空海も自分がどんな修行をしたかについて、はっきりいえばいいのにいっていないわけです。ただ麻原彰晃がここで解き明かしていることを読めば、仏教の修行がいかなるものかがわかります。

 仏教が、死を恐れることはないという根拠は、修行により死後の世界にいけるからだということです。信仰者は、そういう修行をしている高僧がいうんだから極楽往生できるんだと信じてきたわけです。死後の世界はこうあるんだという死後遊行のところまでいったから、高僧は一般の信者に死は怖くないと説いているわけです。こういうことはそうとうはっきりした見解をもっていないとやれません。神秘めかしておいたほうが偉くみえるわけですから、そこまでは旧仏教はやらないのが普通です。

 麻原彰晃がそこまでやったということは、自分自身に対する自信や自負もあるのでしょうが、既成の仏教的なものや市民社会の上にある国家や政府に対する否定がそうとう徹底していることを意味していると思います。



 ここで吉本さんはヨーガの修行者としての麻原を「評価」しているだけである。また「評価」しているだけで「肯定」しているわけではない。むしろ吉本さんは難行苦行による解脱ということを根底にした仏教を否定している。だから、そのような仏教を否定することから考え抜かれた親鸞の思想を、吉本さんは考究し続けている。
 実はその親鸞の思想と関連する事柄の論述がまた、もろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちからの激しいバッシングの対象となった。
453 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(12)
オウム真理教事件について(5)
2006年3月16日(木)


 サリンによる無差別殺戮という事件の本質をどうとらえるか。その違いが、もろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちからの激しいバッシングの対象となった。
 吉本さんの見解を読んでみよう。


 何度でもはっきりさせなくてはならないが、わたし(たち)が許しがたいとおもって関心をもっているのは、どんな者たちによってなされても(もちろん国家=政府によってなされても)サリンを発生させることで無辜の民衆を無差別に殺傷した行為と、そのサリン行為に含まれた殺傷次元の高度化(たとえばふつうの爆弾と原子爆弾の相違のような)ということだけなのだ。
(「超資本主義」より)



 この発言に対して「それなら敵対している人間だったら殺傷してもいいのか。」といった言葉尻をとらえるような幼稚な非難もあったようだが、まともに文章を読めば、そんな益体もない非難が出てくる余地はない。
 吉本さんが「殺傷行為の高度化」といっていることが、たぶん大方の理解を拒んだようだ。このことを吉本さんは次のように詳しく論述している。「余裕のない日本を考える」から引用する。


 いままで、敵対する国家のあいだに戦争が起こって武力衝突の結果、直接に戦闘員が死傷することはたくさんあった。またそれに巻きこまれて非戦闘員が殺傷されることもあった。いわゆる国家間戦争の武器の役割がそうだった。



 思えば支配者どもの歴史はそのような殺戮の連続であった。その殺戮を是認あるいは正当化しておいて「一人の命は地球よりも重い。」などといういうことをいけしゃしゃと御託宣して恥じないやからがよくいる。毎日世界のどこかで国家による殺戮を行っている人類の現段階では、そのような物言いは罪の深い虚偽である。
 ところで、吉本さんはサリンや原子爆弾のような無差別殺傷兵器による殺傷は、これまでの殺傷とは本質的に違うと言う。


 だがこんどの松本サリン事件、とくに、東京の地下鉄サリン事件は、国家間の戦争でもないし、敵対している人間や勢力の争いでもない、まったく関わりのないただの無辜な民衆を承知のうえで殺害している。これはサリンという猛毒性の気化物質の無差別な拡がり方から起こる無差別な殺傷力がつかわれたからだ。それと一緒に、(人間を人間が殺そうとする)動機や理由に、かつて無い意味をつけくわえた。もちろん結果だけからみれば殺傷行為に変わりない。だがある事柄に関わっていないし、関わる気持ちさえももっていない者が殺傷されることがはじめから見込まれていて、天災とおなじ不意打ちの行為を意味している。言いかえれば殺傷行為をする人間(または集団組織)はゼロであるように雲隠れしながら、ほんとは「人間」全部を殺傷し、抹殺しようとするモチーフをもった行為だと見倣してよいことになる。これはたとえば狂気の人間が、機関銃を乱射したり、車の中で放火したりして無差別に狙いを定め、その結果なんの関わりもなく偶然そこに居合わせた人間を殺傷してしまったというのと同じようにみえて、実はまったくモチーフの次元が違っている。もちろん人が人を殺傷するというのは、どんな場合でもよくないに違いない。だがそれはサリン(や原子爆弾)による殺傷とはまったく次元が違うことだ。
 敵対している人間を殺傷する行為は、口で言い争うことからはじまって、腕力沙汰になって傷つけ合うという喧嘩の延長線で考えられることだ。サリン(や原子爆弾)による殺傷は、まったく次元の違う殺傷行為だと、言いたいわけだ。同じように人間を殺傷するのだから、結果は同じじゃないかという考え方を、とるべきでないとおもう。次元が違う殺傷だということが重要だ。なぜかというとサリン(や原子爆弾)は、無限に多様な殺傷行為に道を開く糸口をつけることになるからだ。

 人類はやがて人間どうしの殺傷を止めるところから始まって、すべての殺傷行為を止めるのが理想だ、という「理想」というイメージを、阻止してしまうことになる。松本サリン事件・地下鉄サリン事件は、わたしたちに無限に多様な殺傷行為がありうることを示唆して、衝撃とやりきれない絶望感を与えてしまった。これは重大に考えて考えすぎることはないとおもう。



 市民社会に流布している一般的な善悪観をはみ出してしまった悪だと言う。したがってこれまでの善悪観に則って裁いてことたれりと済ますことのできない問題をはんでいる。土屋さんは「組織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自由の原則を放棄しない。」と言っているが、たぶん「正義論」の枠内では収まらない問題だ。あるいはまったくの別問題だというべきか。人間を救済するはずの宗教(国家という宗教も含めて)にともすると凝縮して現れる人間精神の闇を深く考察することを、この問題は要求している。

 吉本さんの言説は、これまたバッシングの対象の一つとなった親鸞の「悪人正機」に関わる論考へと進んでいく。

454 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(13)
オウム真理教事件について(7)
2006年3月17日(金)


 「歎異抄」の有名な二つの文言。
『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。』

 俗に「悪人正機説」と呼ばれている。

『なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき 業緑(ごふえん)なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。』

 こちらは「契機論」と言う。

 麻原彰晃は自らの宗教による世界観・倫理観を語る気配を全く見せない。サリンによる無差別殺傷の背後にある「契機」はついにはっきり見えぬまま裁判は終わりそうだ。しかしサリン事件がこの社会に突きつけた問題は残る。
 吉本さんの問題意識を追ってみる。


 無関係、無差別の殺人が成り立つ契機は、いまのところどこにもみえてこないんです。うかうかと想像力を働かせればなにかいえそうなんだけど、いってしまうと全部不正確でもどかしい感じが残ります。オウムの問題は、ある意味で契機自体が浮遊した現代の社会的段階がもろにかぶさっているともいえます。善と悪が明瞭にならず、フワフワしているような情況があるわけです。
 僕はオウム・サリン事件からずいぶん多くを学びました。
 親鸞が「善人なおもて……」というのは、こちらの琴線にひっかかってくる鮮明で深い言葉です。これは一種のアイロニーというか、反語なんですね。こういうことによって、親鸞は善悪の奥行きを鮮明に浮かびあがらせています。
 僕が感じたのは、親鸞というのは本気で極悪非道の人間のほうが浄土にいきやすいと考えていたんじゃないか、そういう解釈の仕方がオウム事件を通して僕のなかに生まれてきました。

 極悪非道というのはなにかというと、目にみえないかたちで善を包括している悪が極悪非道で、目にみえるだけで奥はなにもないというのがただの悪じゃないか。極悪非道というのは、要するに悪のなかに善が潜在的に含まれていて、庶民の社会でいう悪にはそれだけの含みはないと、親鸞は本気で思ってたんじゃないか。

(中略)

 市民社会にあいまいなまま流布されている善悪観をはみ出すのは確実ですが、そのはみだしが極悪のなかで浄土により近い善だという、人間性に対する理解を親鸞はもっていたのかなという実感が出てきました。ただ悪をした、善をしたというならなにもいらないのですか、極悪をするためにはどこかに潜在的に善へいける要素が合まれるんじゃないかと、親鸞はそう人間を理解したのではないでしょうか。



 オウム・サリン事件をきっかけに吉本さんの親鸞理解に大きな変化がきざしていることがうかがえる。極悪非道のなかに潜在的に善へとつながる要素が含まれるという人間理解を親鸞がもっていたのではないか、というところへ踏み込んでいる。もちろん、親鸞を語りながら吉本さん自身の内部で起こっている思想の展開を語っていると思う。ここのところが激しいバッシングを呼び起こした個所なのだろう。
 「歎異抄」を通り一遍に読んだだけの私の親鸞理解からはとても大きくはみ出した言説で、私はまだよく理解できないでいる。ただ同じモチーフが、宗教思想の問題ではなく現代的な倫理の問題として語られるとき、私(たち)の課題へと確かに重なってくる。


 阪神大震災と、オウム真理教とサリン事件を結びつけるとすればこの二つの東西の事件で、僕らの呑気な生活感覚は、一挙に縮められた、崖っぷちの所まで持っていかれたという感じを持ちました。それくらい重要な問題だと考えています。
 そうすると、「これは本当は何を意味しているのか」ということは、これから様々なことが分かってきたら、本格的に解いていかないといけないはずです。朧げな予感で、阪神大震災とサリンの事件をいうとすれば、とても大きな影響力と衝撃力を持っていて、後々これからの問題に長く尾を引いていくだろうと思います。ある意味で戦後五十年の平穏さ平和性を、一挙に荒れ狂う波の中に放り込んだことと同じ大きな意味を持っています。これの影響は、これから出てきましょうし、また、これからよく分析し、確かめて、自分らの進路を決めていかなければ駄目じゃないかと思うのです。
 そういう意味では、大変な事件で、マス・コミや、その影響で一般的に市民社会に流布されている善悪観から見ますと、とてつもない無差別無関係凶悪な殺傷事件ということで片付けられそうです。しかし、僕らが善悪の倫理を考えるとすれば、我々は現在まで通用している倫理は、多分、高度の資本主義消費社会においては疑わしくなった前触れ状態にあるということです。市民社会の枠内の倫理として善悪と言われていたものは、もっと「普遍的な倫理は何なのか」という問題に立ち向かっていかないと、これから後の社会の動向に対して、通用しないんじゃないかと僕は思います。

 その普遍的な善悪へ向う倫理のモチーフに対していまの市民社会の善悪の枠内でやられている非難は、一面ではもっともなことでしょうが、他の一面では小っぽけな、従来に捕われた枠内の規模しかない善悪で、善悪の問題は本当は、もっと普遍化して、拡大していかないと、これからの社会的な成り行きに耐えられないんじゃないでしょうか。
 僕がサリン事件とオウム真理教と結びつけるとすれば、市民社会における善悪という所で無差別無関係の人に対する殺人ということで、殺傷の次元を一挙に新しい次元の殺傷に持っていった事件ということになります。また、市民社会の規模の善悪だけで済むかという問題になってくると、善悪の倫理性を普遍的な善悪の問題にまで、どういうふうに拡大していけば、実りがあるのかという所へもっていかないと、対応できないでしょう。その二つの善悪の問題。つまり、普遍性にまで拡大されてゆく善悪の規模と市民社会的善悪の規模と、その両極を踏まえた上で、オウム真理教とサリン事件の問題を考えてきましたし、これからもするだろうと思います。これは、社会的常識から言うと、それに反する所があるかもしれません。しかしその辺の常識にとどまるのなら、僕らの思想の存在する根拠はないので、たんに法律の責任にしかならないでしょう。僕らは思想の問題をよく踏まえて「倫理はどう普遍化して行けば、これから後の社会の進展に対応できるか」という所まで考えなきゃいけない。これは、僕の基本的な考え方です。オウム真理教をサリンによって結びつけられている事件は、僕なんかには、いちばん重要な観点を作る課題なわけです。



 「普遍的な善悪」の問題を、「誰もが持っている人間性の闇」の問題と同義だと、私は考えている。その「人間性の闇」をも包括したもっと普遍的な倫理というモチーフを、吉本さんは自らの課題としている。どちらかというと文学に似つかわしいモチーフといえる。
 ところで親鸞は、人は「業縁」がなければ一人とて殺せないが「業縁」があれば百人でも千人でも殺してしまうものだ、と言っている。この「業縁=契機」とはなんだろう?「契機」をつくるのは1歳未満までの間に形成される「無意識」だと、吉本さんは別のところ(「超『20世紀論』」)で言っている。人間精神の「無意識」の領域が「人間性の闇」の淵源だという。仏教ではこれを「業」と言ってきた。
しかし「無意識」だけでは「業縁」は生まれない。「縁」という他者との関係がもう一つの要因としてある。これは吉本思想のキーワードの一つである「関係の絶対性」のことではないかと、ふと思った。単なる思い付きだから、いまは深入りしない。

 「オウム真理教事件について」が、思いかけず、ずいぶん長くなってしまいました。しかも「正義論」のモチーフからはずいぶん離れてしまったようです。一応今回でこのシリーズを終わります。