2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
433 「アイデンティティ」について(1)
2006年2月6日(月)


 シリーズ「Kさんへの批判・反論」の最終回(第30回 2004年9月13日)で

 『ただ一つ宿題が残りました。「アイデンティティ」です。これは一度きちんと考えてみなければならない問題だと思っています。今は取り敢えず、それは国家権力への「アイデンティティ」であろうはずがない、とだけ申し上げておきます。』

と自分自身に宿題を出した。
 この宿題を忘れていたわけではない。時々あれこれと考えてはいたが、私には独力で思考を発展したりまとめたりする力がない。これまでと同様、他者の言葉を借りながら考えていくほかないと思っていたところ、格好のテキストに出会った。前回に紹介した「正義論/自由論-寛容の時代へ-」だ。
 この本は、ジョン・ロールズ(1921~2002年、ハーバード大学教授、倫理学・政治哲学者)の「正義論」という著書を下敷きに自由と寛容を論じたものであり、二部に分かれている。

Ⅰ リベラリズムの政治哲学
Ⅱ 寛容の時代へ

 このうちの「Ⅰ」を読んでいく。まず結論を提示する。


 コミュニティは、あくまでも個人相互の関係の集積としてあるのであって、なんらかのコミュニティのイデオロギーへの忠誠を前提にしない。
 相互の自由と平等への配慮によってのみ、コミュニティは成立する。私たちが、ロールズの正義論から学ぶことができるのは、このことである。
 また、その場面で、私たちは共同体論者とわかれるのだ。
 共同体論者の決定的な過ちは、いつでも共同体独自の価値を設定してしまうことである。強固な中心のもとでの共同体を構想してしまうことである。

 私たちは、そうした立場をとらない。いえるならば、こういってしまうのがいい。「中心なき統一性」と。あるいは、「中心なき共同性」ともいっていいだろう。
 これには、ただちに国家主義的な側からの反論が予想される。伝統主義の側からの反論があるかもしれない。しかし、私はあくまでも強固な価値を中心にして構成された共同体は、必ず人間を不幸にするといいきってしまおう。


 ここでいう「コミュニティ」はどんな種類どんな規模の集団としてもよい。しかし、今の私の問題意識からは「日本国家」を想定して読むのが一番わかりやすい。「コミュニティのイデオロギー」とは、もちろん、「日の丸・君が代」に象徴される天皇制イデオロギーであり、そのイデオロギーを中心においた国家を恋い焦がれて、そのイデオロギーへの忠誠を教育を通して強要しようと愚昧な暴走をしている代表がイシハラということになる。イシハラは本人の自慢に反して文学者とはほど遠い。単なる国家主義イデオローグである。そのよって立つ「共同体論」は、本人は新しい独創と得意がっているようだが、大日本帝国時代に農本ファシズムに対抗するすべなく萎んでいった社会ファシズムの亡霊である。

 次回から上記のような真っ当な結論に至る論理の道筋をたどってみる。



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434 「アイデンティティ」について(2)
「無知のヴェール」
2006年2月7日(火)


 シリーズ「自由について」の第1回(第138回2004年12月30日)で、「人権」思想はロックの「自然法」に多くの影響を受けて形成されたことを知った。ロックの自然法とは次のようであった。
『人間は神の被造物として神から「自然法=理性」を与えられていて、それはあらゆる「人間の立法」に優先するものとされる。その自然法に基づく権利は「自然権」と呼ばれてる。』

 さらにその「自然法」のもとでの人間のあるべき「自然状態」を次のように述べていた。

 『地上に共通の優越者をもたずに、相互の間で裁く権威をもち、ひとびとが理性に従ってともに住んでいた状態が、正しく自然のままの状態である。』

 現代の人権思想へと繋がる理論のいわば公理とも言うべき「自然法=理性」を「神から与えられて」たものとし、そこに正当性の根拠を置いている。信仰を持たない私はこのことになんともすわりの悪い違和感を抱いていた。

 ロールズもロックの「自然法」と同様な公理から理論を組み立てていくが、ロックの場合のような神の介在はない。ロールズは次のような「自然状態」(ロールズは「原初状態」と呼んでいる)を仮定している。(「公理」「定理」という用語は私の好みによる。)

公理1
 誰も社会のうちで自分がどの位置にあるかを知らない。階級・社会的身分・資産・知能や体力といった能力などが生来どのように与えられているのかまったく知らない。
 さらに誰も自分がいだいている善の概念や自分に固有な心理的傾向がなんであるかも知らない。

 つまり『自然の運の結果や社会的環境の偶然の結果によって、誰も有利になったり不利になったりすることはない、ということである。』この公理を「無知のヴェール」という。

 「原初状態」における人間について、もう一つの条件が加えられている。

公理2
 誰もが社会の一般的事実や差別の存在についてはすべて知っていて、しかも、他人の利害に無関心であり、自分の有利な条件を追求している。

 この二つの公理から全ての定理(社会のなかでの関係の原理)を導くとしたら、どのような原理が得られるだろうか。

 ここまでを土屋さんは次のようにまとめている。


 つまり、自分の利害のみに関心がある者が合理的選択をする場合に、かりに、自分がいったいどんな階級に属し、あるいは、男であるか女であるかも知らず、ロックフェラーの一族であるのか、ニューヨークのホームレスであるのかも知らず、あるいは、どのような権利や名誉を大事であると思うのかも知らず、また、自分が野心的な人間であるのか、それとも控えめでシャイな人間であるのかも知らない場合に、いったいどのような正義の原理、つまり、社会のなかでの関係の原理を選択するであろうか、とロールズはいう。

 その人間がエゴイストであればあるほど、自分が差別されたり、自由を奪われたりする可能性を排除するにちがいない。しかも、自分がいったいどんな人間であるかを、男か女かということすら知らないのだから、当然に、男が差別されたり、女が自由を奪われたりすることを認めることはありえない。すべての人間の自由と平等を、当然に選択するのである。


 





435 「アイデンティティ」について(3)
正義の第1原理
2006年2月10日(金)


 前回の結論を改めてまとめる。
 「無知のヴェール」のもとで(「公理1」「公理2」からの帰結として)、

定理1:正義の第1原理 
『人は「すべての人間の自由と平等」を選択する』

 このことを土屋さんは次のような比喩を用いて説明している。(土屋さんは「イチゴのショートケーキ」で説明していますが、「アップルパイ」に置き換えました。「イチゴのショートケーキ」に特に恨みがあるわけではありません。)


 大きなアップルパイがテーブルにあったとして、五人でそれを食べることになった。全員がアップルパイが大の好物であったので、全員が、人より大きいところを食べたいと思っている。五人で分けるのに、ナイフを入れるのだが、ナイフでアップルパイを切る人間が、最後に食べることにしておいた場合、いったいこのパイを切る人間はどのようにパイを切るだろうか。
 答えは、均等に切る。つまり、大きさをちがえて切ってしまえば、自分より前に必ず誰かがその大きいところを食べてしまう。自分には一番小さな部分しか残らない。ナイフでパイを切る人間が、どんな場合よりも自分が最大限食べるためには、アップルパイを均等に切るしか方法がない。均等に切った部分が、彼にとっては一番大きい部分である。


 勿論これは比喩であり、現実はこんなに単純ではない。しかし、人が原初状態のもとで社会を構成した場合、構成員は全員が相互の合意としてこの「正義の原理」を選択するほかないという機制をよく説明していると思う。
 この「無知のヴェール」を前提としたロールズの方法は、発表された当時から激しい非難をあび、今でも非難が絶えないという。土屋さんの解説を読んでみよう。


 こんなことはありえない、というのがもっとも単純な批判である。どんなに複雑な批判があったとしても、やはりこの単純な批判以上のことをいっているわけではない。つまり、ありえない虚構の前提に立って、社会の基本的な原理を導き出すことはできない、と。
 だが、このことは、ロールズの「無知のヴェール」を批判したことにはならない。そもそも、ロールズは、この「原初状態」を仮説であると認めているからである。ロールズにとっては、正義の原理への自発的なかかわりが生まれる条件を設定することによって、政治社会における平等な市民の自由を基礎づけることができればいいのであって、社会における、所得、富、地位、名誉といった、市民の生活の根本にあるものの配分のあり方を示すことができればいいのである。
 そうした抑制が、ロールズにはある。なにごとにも、「正義の原理」が優先することを主張することにおいて、ロールズの正義論は、きわめてイデオロギー的であるが、それを導きだす手続きは、仮説された条件からの合理的選択によるのであり、その選択を取るかぎりにおいて、誰もが認めざるを得ない結論が、正義の原理である。


 「全ての人間の自由と平等」は神から与えられているというロックの「自然法」に代わって、人間の論理的・必然的な選択としてそれは措定されている。私にはとってもよく納得できる。
436 「アイデンティティ」について(4)
他者への眼差し
2006年2月12日(日)


 前回の論旨をもう少し詳しくたどってみる。まず公理2について。
 公理2は「一番大きなパイを得たい」という「エゴイズム」が人の「原初状態」での偽らざるありようだといっていると思う。私は自分自身を振り返って、この仮定を肯定せざるを得ない。
 しかしその「エゴイスト」には『一般の全ての社会的事実を知っている』という条件がついている。
 すなわち、社会にはさまざまな差別や不幸があることを知っている。それらはときには他者の環境であるとしても、同時に自分をとりまく環境でもある。他者と自分はいつでも入れ替わる可能性がある。エゴイズムの中に閉じこもっているわけにはいかない。「他者への眼差し」が必然であり、原初状態でのエゴイズムはそこに留まることなく、他者へと開かれていく。


 「無知のヴェール」のもとでは、自分がいったいなんであるかをまったく知らないのだから、いつでも、他者は自分自身と入れ代わることが可能な存在である。この他者の環境が存在しつづけ、しかもそれはけっして固定することなく、次々と新しい他者の環境があらわれるのであれば、自由の創出のシステムは、けっして閉じることなく、他者の回路をとおして、他者の環境へとひらかれていくことになる。その結果、私たちは、この世界を、「原初状態」をとおして、他者とともに共有することになるのだ。
 この他者の環境の不確定さは、私たちが「原初状態」で行う選択を、さらに普遍的なものにするだろう。いかなる自由の抑圧も認めることはできないからである。そこに例外があるならば、その例外はいつでも自分にふりかかる可能性がある。

 こうして、私たちは、現実の他者の環境にコミットすることになる。自分のエゴイズムは、反転して、他者への配慮に変わる。他者は、自分であるからだ。しかも、けっして他者は、私と同じではない。不確定な変数として残りつづけるのが、他者である。

 ここでは、私たちは、他者への同情や情緒から、他者との共生を考える必要がない。私たちの自由が、神からの施しではなかったように、他者へのかかわりが、社会による施しであるわけがない。それは私たちの選択と自発的なコミットメントによるものなのだ。

 他者の問題を、自分の問題として考えるといった、世間のルールは、ロールズの正義論のなかで、正義の原理を選択する条件の自己創出としていわれたことになる。


 定理1:正義の第1原理(誰もがパイを平等に配分することを選ぶ。)は同情や哀れみに由来するのではなく、必然の選択である。信仰上の義務的な施しとは異なる。ましてや、社会的不平等の上にあぐらをかいて行う貴族や資産家の同情や哀れみに由来する慈善という名の施しとはまったく異なる。


437 「アイデンティティ」について(5)
偶然性の排除
2006年2月13日(月)


 「第30回(2004年9月13日)」で私に「アイデンティティ」の宿題を与えてくれた文は次のようだった。

 『「日の丸」と「君が代」がテレビで放送されればされるほど、日本中は感動で熱くなるのではないか。日本人がアイデンティティを認識するオリンピックである。』

 「identity」の訳語には「自己同一性,自我同一性,主体性,自己確認,帰属意識」などがあるが、上記の場合は「帰属意識」という意味で使われている。さらにそれだけにとどまらず、「自分の存在を保障する不可欠の与件」というほどの強い意味合いを含んでいるように思う。そのとき前提として、現在のブルジョア民主主義国家を固定的絶対的な存在とみなしている。さらに日本人の場合は「万世一系の天皇」という虚偽意識(イデオロギー)がその根底にあるから、さらに度し難い。
 「アイデンティティ」という言葉を、このような絶対的な意味合いをこめて使っているのに出会うと、『冗談言っちゃいけないよ、「国家」ごときにそんな大それた資格も条件もないぜ。』と言わざるを得ない。

 さて、公理1「無知のヴェール」は端的に次のように言い換えることができるだろう。

 なん人も自らのアデンティティを知らないし、必要としない。

 この場合の「アイデンティティ」はかなり広い意味で使っている。
 「男性・女性」といような性別の意識も「性」を基準とするアイデンティティであり、「上流階級・中流階級・下流階級」といったような階級意識も「資産」を基準とするアイデンティティに他ならない。

 公理1はこうした意味でのアイデンティティ全てにたいして全ての人がまったく無知であると仮定している。すなわち、共同体の構成員のそれぞれが持つ自然的要因や偶然性を排除した上で、共同体のあるべき姿を探ろうという立場を表明している。
 この点についてのロールズの論述を土屋さんは次のようにまとめている。


 それを、彼(ロールズ)は、大略して、こんな言い方で示している。
 「無知のヴェール」のもとで、合理的な選択をする場合に、六フィートの身長の人や晴れた日に生まれた人の権利を特別に尊重すべきであるといったことを、誰も提案することはないだろう。それと同じで、誰も、基本的権利が皮膚の色、肌の色で異なるべきだとも いわないだろう。
 そういわないのは、「無知のヴェール」と「原初状態」の条件づけのプロセスに立った時、自分がいったい何であるかというアイデンティティについてまったく無知であるのだから、自分がどうなるかもわからないままに、ある特別な徴をもった者に有利な特権をあたえるべきだとは、けっして誰も選択しないからである。

(中略)

 ロールズが、正義論のなかで、人間のアイデンティティを問わないのは、「共同体」をこえた「共同体」の構成を視野に入れることができるからである。もっといえば、「共同体なき者の共同体」(否定の共同体)といったものも、ロールズの正義論の果てに見ることができる。



 「共同体なき者の共同体」とはどういうことか。私は「アイデンティティを持たない共同体」ととらえるとよいと思う。またここでいう「共同体」とは国家に限らない。会社・学校・家族など、およそ人が協働共生すべく寄り集うどのような集団を想定してもよいと思う。
 アイデンティティという閉ざされた観念から自由になった者たちが形成する共同体。個々人は分離されたまま、かつ相互に関係を持つ。自己に閉じこもることなく、かつ全体に融合することもない。土屋さんはこれを「無縁」の共同体にほかならないと指摘している。(私は網野善彦さんの「無縁・公界・楽」の副題が「日本中世の自由と平和」であることを思い出した。)

 ここで土屋さんは共同体論者のロールズに対する論難を取り上げ、それに次のように反論している。


 サンデルをはじめとする共同体論者は、ロールズの「原初状態」に立つ人間は、アイテンティティを失い、物語を失った、「負荷なき自我」であるという。人間は抽象的な個人ではなく、家族、都市、国家といった共同体の物語を背景にして、自らの物語を生きる者であるという。
 私は、共同体論は、いつでも過ちを犯すと考える。共同体論と個人のアイデンティティとが結びつくとき、全体主義の過誤から自由であることは絶対にできない。「絶対」にという言葉に強調符をつけよう。

 人間が自分の物語をもつことは、誰でも認めることだろう。しかし、その個人の物語を、共同体の物語に還元するならば、共同体は物語に参加しない者を排除することから出発せざるをえない。物語を共有する者だけが、共同体を構成することになる。

 ロールズの正義論の社会は、その社会自身の目的をもたない。ただ、「原初状態」における、正義の原理から出発するからである。平等な自由への権利は、共同体の中心であるけれども、その先で人々がいかなる目的のために生きるのかを指示しない。この社会が、多数の物語から成立していて、それを統一する、全体の物語へと収赦することができないからこそ、平等な自由への権利を人々は選択するのである。いかなる物語を選択するかは、人々の自由である。