2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
30. Kさんへの批判・反論(8) 
 2004年9月13日


(5)
 「国旗と国歌が嫌ならば、オリンピックで金メダルを獲得した日本選手が、日の丸を持って観衆に応える場面も批判したらどうであろう。君が代を涙で歌う金メダリストは憂慮すべき事態なのか。
 今年の夏はアテネオリンピックが開催される。「日の丸」と「君が代」がテレビで放送されればされるほど、日本中は感動で熱くなるのではないか。日本人がアイデンティティを認識するオリンピックである。」

 Kさん、この段落になってあなたの気持ちはだいぶ高揚してきました。高ぶっている息遣いが行間から聞こえるようです。オリンピックに絡ませれば、反対の余地はあるまい、と思っておいでのようです。これが目に入らないか。黄門さんの印籠みたいですね。

 「金メダルを獲得した日本選手が、日の丸を持って観衆に応え」ようが、「君が代を涙で歌」おうが、それを批判する必要はありません。それは選手の勝手でしょう。ただ私はばかばかしいとは思います。私がこう思って、ばかばかしいからチャンネルを切っても、「処分だ」と恫喝されることはありません。学校での「日の丸君が代強制」とは一緒に論じられません。
 選手は批判の対象にはなりませんが、オリンピックというスポーツの祭典になくても一向に差し支えない国旗・国歌を持ちこむ意図は批判すべき対象です。前に私はスポーツと国旗・国歌について、次のように書きました。

 「オリンピックで人は何に感動するのか。選手たちが持てる力を出し切って記録や勝負に挑む姿、その過程で見せてくれる見事な技、限界に挑戦する精神力。総じてたゆみない日ごろの厳しい修練の結実に感動する。それがいつのまにか「君が代日の丸」に感動してるように錯覚している。
 表彰台上の選手自身も、目的を見事に成し遂げた達成感と、そこに到るまでの苦楽のすべてを反芻しての感動のはずなのに、「君が代日の丸」に感動してるように錯覚して、実際にそんな感想を述べたりする。ばかばかしい。国家権力の思う壺にはまっている。」

 「『素朴な愛国心』育成のために権力者はスポーツも利用する。スポーツの利用はもしかすると教育利用以上に効果的かもしれない。対象が子供だけでなく圧倒的に大人が多い。成人してからの意識の変革はむずかしいが、たいした反対に出っくわすこともなく、当人にそれと気取られることもなく、いつのまにか「素朴な愛国心」の「刷り込み」が出来てしまう。利用しない手はない。」

 オリンピック開会間近の8月5日付朝日新聞夕刊に評論家の多木浩二氏が「オリンピックの憂鬱」という一文を寄せています。その中から。


 アテネの市民にとって迷惑な状況なのか、歓迎すべきことなのかは情報不足で分からない。たったひとつ今からでも期待できるのは、選り抜きのアスリートたちが力を出し切って記録や勝敗に挑む姿だろう。それはスリリングでもあれば、美しくもある。これは本質的に個人の争いなのだ。不思議なことに多くの人間が応援するのは自国の選手なのである。これはメディアを介して選手を知っている人間の自然かもしれない。だがそれがメダル、日の丸、君が代とエスカレートしていくと、もう無邪気だと見のがすことはできない。思想の自由を確信する学校の教員たちが教育委員会からのどのような締め付けにあっているかをわれわれは知っている。この陰険さにくらべて、メディアが「日の丸、君が代」と言いつのるのはあまりにも楽天的ではないか。


 これがオリンピックと国旗・国歌についてのまともな考え方ではないでしょうか。
 だいぶ以前に、国際オリンピック委員会の中のなにかの機関でだと思いますが、オリンピックでの国旗・国歌をやめようという議論がされたと、新聞報道で読んだ記憶があります。いつの間にか立ち消えになりました。もし、オリンピックに政治を持ち込むなというなら、まず第一に国旗・国歌の使用をやめることだというのは常識でしょう。

 折りしもほとんど時を同じくして、8月6日、ニューヨークのテレビラジオ博物館で、「オリンピックとナショナル・アイデンティティ」というテーマで、シンポジウムが行われました。JMM配信の「五輪と国のアイデンティティ」(from 911/USAレポート)という記事で知りました。レポーターは米国ニュージャージー州在住の作家・冷泉彰彦氏です。
 そのシンポジウムは、「開催国が威信をかけて大会の成功を目指すのも、選手が国や国旗を背負って戦うことも、政治的行為に他ならない、そうした醒めた判断に基づいて」オリンピックと政治問題の歴史を論じています。

 オリンピックと政治といえば、私はすぐ1968年のメキシコオリンピックを思い出します。表彰台上で自国の国旗(星条旗)に向かって拳を振り上げて抗議行動をした黒人選手がいました。私はその行動に深い共感を覚えました。しかし、その映像だけが記憶に残っていて、選手の名前やそのときの種目など忘れてしまいました。
 上記のレポートに、その日のシンポジュームの目玉として、そのことが話題になったと言うことです。その部分を引用します。


 当日の目玉は、何と言ってもトミー・スミス氏でした。1968年のメキシコ五輪の陸上200メートルで優勝した際に、表彰台の上で星条旗に対して抗議行動を行ったスミス氏のことは、五輪の歴史の中で多くの人の記憶に残っていると思います。銅メダルを取ったジョン・カルロス氏と一緒に黒手袋をした拳を振り上げた写真は、「怒れるブラックパワー」というイメージで全世界に伝えられました。

 そのスミス氏も、すでに60歳。往事の激しいイメージは消えていました。ですが、穏やかな微笑を浮かべながらも冷静な弁舌を駆使するスミス氏には、ある種のオーラが漂う感じがありました。パネリストや会場からは、多くの質問が寄せられ、それに丁寧に応える中で、歴史に名前を刻んでしまった男の人生が浮かび上がってきた、シンポジウムの流れは、そんな趣がありました。

−−そもそもどうして、国旗への抗議という激しい行動に出たのですか?
 「熟慮の結果でした。あの時代、黒人の社会的な地位は本当に低かったんです。私も親や祖父母からは、白人に反抗しては殺されるから、言われるままに生きなくちゃいけない、そう教えられて育ったんです。でも、大人になり、大学に入る頃からは、そうした差別への怒りというのが生まれてきた、やがて、怒りそのものが自分が自分であることになって行ったんです。ですから、今の私という存在も、あの時の行動が基になっているのを感じます。今でも全く後悔していません。」


 トミー・スミス氏はアメリカのオリンピック委員会から除名されて、開催地のメキシコからも追放されました。その後の人生では、無視や差別や嫌がらせなど、さぞ多くの艱難辛苦に見舞われたことでしょう。それでも「今でも全く後悔していません。」と言い切るスミス氏の姿勢に、敬意と安堵の入り混じった大きな感動を覚えます。

 Kさん、これで私のあなたへの批判・反論を終わります。普段あいまいのまま放置していた多くの事柄を、考え直す機会となりました。その機会を与えてくださったことに、再度お礼申し上げます。

 ただ一つ宿題が残りました。「アイデンティティ」です。これは一度きちんと考えてみなければならない問題だと思っています。今は取り敢えず、それは国家権力への「アイデンティティ」であろうはずがない、とだけ申し上げておきます。
 では、この国が、あなたも私も共々に自由で生き生きと生きることが出来る国になることをを願いつつ・・・ごきげんよう。



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 私が加入した「反ひのきみネットML」の会員数は約500人だそうです。ここにメールを送ると、そのメールが約500人の全会員に送られる仕組みになっています。
 送られてきたメールのうち、特に私がより多くの方々と共有したいと判断した情報を随時、紹介していきます。
 「反ひのきみネットML」に加入されている方には重複する情報になりますが、ご容赦下さい。
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『予防訴訟』第五回口頭審理に結集してください!

(日 時)9月16日(木)午後13時頃までに集合/13時30開廷
(場 所)東京地裁 民事第36部;103号法廷
(報告集会)14時過ぎから弁護士会館で報告集会
 毎回、傍聴券で少し並ぶようになってきていますが、今回は参加者が少ない傾向にあるようです。103号法廷は100人ほどが入る大きな法廷です。是非皆さんの参加をお願いします。
 今回は、尾山弁護団長から「上申書」を提出し、弁論して頂きます。同弁護士は、裁判全体について進め方を述べます。この中で、何が立証されねばならないか、教育とは何か、人権とは何か、自由と民主主義・平和等々、全般について原告側の主張の基本を述べます。教科書裁判をはじめ沢山の有名な裁判を手がけて来られた尾山弁護士の信念に満ちた弁論が聞けます。必見・必聴です。


 時間が取れたら行ってきます。
29. Kさんへの批判・反論(7) 
 2004年9月12日


(4)
 「また、国旗と国歌を憲法上の思想・良心の自由に結びつけるのは、あまりに飛躍しすぎる感がある。国歌斉唱の時に生徒に起立しないように促した教師こそ、生徒の思想・良心の自由を侵害したことにならないか。親の立場で見れば、自らの思想を生徒に押し付ける教員は願い下げである。」

 この主張に対する批判は済んでいます。大事なことですから繰り返します。
 日の丸という旗と君が代という歌が存在するというだけの事実が思想・良心に関わるなどと誰も主張していません。国家権力あるいは都の行政権力が、本来の責務から踏み外して国民あるいは都民を隷属・圧迫しようとし、その道具として日の丸・君が代を利用するなら、それに異議を申し立てることは、国民として真っ当な事で、おおいに思想・良心の自由に関わるのです。

第十九条【思想及び良心の自由】思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 この条文は、踏み外しをした国家権力や行政権力への異議申立てを保証しています。やはりまだ飛躍しすぎてすか。

  校長・教頭・都会議員(一種の圧力、監視のため招待されている)らが、教師や生徒に「立ちなさい」と恫喝したり、教頭が教師の後をうろちょろしながら本当に歌っているかどうかスパイしたりと言う例はたくさん聞いていますが、「国歌斉唱の時に生徒に起立しないように促した教師」がいるとは、初耳です。そういう例があるのなら、ぜひ教えてください。
 このことで私が知っていることは新聞の記事や友人からの情報程度でしたが、つい最近、詳細な報告を読む機会を得ました。Kさん、あなたには事実に基づいて考えていただきたいので、引用します。

 「都議を式に招待せよという要請も徹底し、強制の急先鋒である土屋敏之都議(民主党)は、招待された板橋高校で不起立の生徒たちに「立ちなさい」等と怒鳴り、校長・教頭も怒鳴りはじめ、式場は三人の怒声の合唱の場となりました。しかし生徒たちは従いませんでした。式の最後に卒業生たちは目の見えないクラスメートのピアノ伴奏で息の合ったすばらしい合唱を披露しました。」(「良心的『日の丸・君が代』の拒否」所収池田幹子「『「日の丸・君が代』はどのように強制されてきたか」より)

 生徒たちはもう18歳ですよ。それぞれに判断力を身につけています。私はこの生徒たちに敬意を表するものです。
 それにひきかえ、校長・教頭・都議のなんと言うぶざまさでしょうか。大日本帝国が侵略戦争にのめり込んでいったとき、国家権力に媚びてより先鋭な言行を競い、父母や生徒を恫喝して死に追いやったのはこうした権力の提灯持ちでした。
 先の引用文の筆者はこのような校長・教頭をナチス・ドイツの戦争犯罪人・ホロコーストの責任者アイヒマンになぞらえています。アイヒマンは裁判で次のように抗弁したそうです。上司の命令をただ下に伝えただけだ、命令にサインして伝えただけだ、自分は義務に忠実であっただけで、ほめられることはあっても犯罪者ではないと。
 続いて筆者は次のように校長・教頭の姿勢を批判しています。

  「日本の学校特に都立高校で都教委の職務命令を通達に従って出している校長、同じように通達に従って不起立者を摘発している教頭は、すでにアイヒマンだといっていいのではないでしょうか。
 こうした校長や教頭とアイヒマンの似ている点は、自分で判断する自由を奪われているだけでなく、自分で判断することを自ら放棄していることです。そして与えられた指示をただ下に伝達するだけで、責任を免れようとしているところだといえます。
 こういったシステムは軍隊や官僚機構や全体主義国家の本質に他なりません。日本の学校がそんな場になることを望む人はいないはずです。」

  自らの思想・良心に反して、屈辱感を味わいながらいやいや憲法違反の通達に従っている教師たちを非難する気は、私には毛頭ありません。もし私がいま学校の教師だとしたら、私はその中の一人だと思いますから。

 旧聞に属しますが、3月28日に放送されたTBS「報道特集」のまとめのコメント(野田正彰教授・心理学)で、次のような指摘がありました。
 「抵抗する教師ではなく、『40秒のことだ。形だけ従っておけばよい。歌うフリをしておけばよい』という教師たちに、無気力な精神の荒廃が生じている。」

 やむなく憲法違反の通達に従っている教師たちの自分との闘いも過酷なものでしょう。想像に余りあるものがあります。しかし心までは売り渡さないで下さい。自らの思想・良心をしっかりと保持し続けていって欲しいと願っています。
 それに引き換え、上記のような校長・教頭は確信犯でしょう。親の立場で見れば、自らの思想・良心を放棄したこんな教師は願い下げです。そして、あなたのように「日本の学校がそんな場になることを望む人」が父母の中にいることを、むき出しの牙を向けて来る権力者よりも、私は恐ろしいと思います。
28. Kさんへの批判・反論(6) 
 2004年9月11日


(3)の2
 「国際社会では、国旗や国歌はシンボルとして大切に扱われる。起立して人に礼をつくすように、国のシンボルに起立して礼をつくすことが、子供の教育に憂慮すべきことか。逆に起立しないことの方が、憂慮すべきことではないか。それは、人に会って挨拶しないのと同じだからだ。会釈をして挨拶する習慣は、親が小さな子供に教える基本的な躾である。」

 Kさん、このくだりに対する私の批判はいままでの議論の中で済んでいますが、改めてまとめます。
 君が代・日の丸を政治的国家が国民を支配・抑圧する目的で使用するとき、私たちはむしろ異議を申し立てるべきなのです。そしてそのように使われる君が代・日の丸を子供の教育に持ち込むことはおおいに憂慮すべきことなのです。

 Kさん、あなたのお子さんが、直立不動で日の丸を仰ぎみながらわけの分からない歌のため口を無理にこじ開けられるような入学式・卒業式を、あなたは本当に望んでおいでなのですか。
 入学式・卒業式に限りません。入学式・卒業式での強制が定着すると、次は日常的に日の丸を掲揚し、休み時間に君が代を放送で学校中に流すようになります。子供たちに、日の丸の前では最敬礼をし、君が代が流れるとどこに居ようがその場で直立不動の姿勢をとることを強要されます。既にそういう学校があるのです。あなたのお子さんが通う学校がそういう学校であって欲しいと、本当に願っているのですか。
 そうだとすると、あなたを、国家イデオロギー(虚偽意識)に取り憑かれた偏狭なナショナリストと呼ぶほかありません。お気の毒に思います。

 このくだりではもう一つ、指摘すべきことがあります。国家と個人の関係の問題と、日常的な個人と個人、あるいは家族と家族の関係の問題とを、同列に並べて論ずる論じ方です。前にも指摘しましたが、これは一種の詭弁です。
 Kさん、人と国家のシンボルとは全く違うもので、同列に並べて論ずることは出来ません。人と挨拶するのために起立することと日の丸に向かって起立することが同じとは、全くあきれた議論です。同様に「君が代日の丸の強制」に反対することと「人に会って挨拶しない」ことは全く位相の異なる問題です。「君が代日の丸の強制」に反対している人たちだって、日常生活での挨拶ぐらいはあなたと同じぐらいには出来ると思いますよ。

 Kさん、あなたの論理を逆手に取るとこう言えます。あなたは街中で日の丸に出会うたびに最敬礼しているのですか。外国の国旗に出会うこともありますよね。それにもいちいち礼を尽くしているのですか。そんことしないでしょう。大体無視するのが普通でしょう。だから、あなたは街中で知人と出会ってもきっと無視するでしょう。
 これはあなたの主張の対偶です。あなたの主張が正しのなら、これも正しいことになります。ばかばかしいでしょう。

 この詭弁がこのレベルで済んでいるのであれば、笑って済ますことも出来ますが、これがもっと大規模なものになると笑って済ますことが出来なくなります。
 大日本帝国時代、全く位相の違う家族と国家を結びつけて、家族国家論という俗論がおおいに幅を利かせていました。その結果が「国民は天皇の赤子である」でした。だから「天皇のために喜んで命を投げ捨てろ」となっていきました。心しなければいけません。
27. Kさんへの批判・反論(5) 
 2004年9月10日


 Kさん、わたくしは憲法前文を精読して本当にびっくりしています。繰り返します。
 前文は「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することを人類普遍の最重要課題として掲げているのです。とても崇高な理念だと、私は思います。そして国家はこの理念に基づいて責務を遂行せよ、と言っているのです。
 そしてもう一つ、「国家」があって「国民」があるという思想を真っ向から否定しています。その底流に流れている思想は、まず国民があって国民が国家に権力を委託していると言っています。
 支配ー被支配の枠組みを維持・強化しようとしている抑圧者らは現憲法を眼の敵にする理由が、改めてよく分かりました。まさに目の上のタンコブで、とても目障りなのでしょう。

 しかし、現実の日本国家は憲法が掲げている理想となんと遠いことでしょう。抑圧者らにとってはなんと居心地よい国家になってしまったことでしょう。いまや目の上のタンコブを取り去る機が熟したと、憲法改悪の動きが急になってきました。

 憲法改悪の焦点に第九条ばかりが取り上げられていますが、彼らの本当のねらいは前文じゃないかと、いま私はそのように思うようになりました。本当のねらいは、憲法を、国家が国民に下賜し管理支配するための法に作り変えることです。例によって、耳目に入りやすいおためごかしの改定と抱き合わせで、狡猾に作り変えようとするでしょう。

 Kさん、如何でしょうか。あなたが憲法改悪に賛成されているのかどうか分かりませんが、国家権力に支配される立場にある仲間として共に、この立派な憲法を守ろうではありませんか。

 いま私は立派な憲法と言いましたが、現憲法には改正すべき大きな瑕疵があります。第一章の天皇条項です。私は第一章を不要と考えるものですが、たぶんこれはいくつもの意見に分かれる種類の問題でしょう。いまはこの問題に深入りしません。機会を見つけて改めて考えることにします。

 憲法前文を精読しながら、そこに書かれている憲法の理念を崇高だと思う一方、私は次のような疑念を抱いていました。
 平和を壊し、「専制と隷従、圧迫と偏狭」を強いるもっとも強力な張本人は国家です。国家の本質とも言うべきその特質を、国家自身が取り除くことが出来るのでしょうか。もし出来たとしたら、それは「国家の死滅」を意味します。

 Kさん、ここで、国家について、その本質に迫る理解が必要になります。私の知る限りでは吉本隆明氏の国家論が一番本質に迫っていると思います。ちょっと復習させてください。

 吉本氏は「国家の本質は共同的な幻想である。この共同的な幻想は、政治的国家と社会的国家の二重性の錯合した構造としてあらわれる。」と、国家の本質を指摘しています。
 人間の生活の社会的経済的な現実過程は相互扶助的な共同体の形成を必然とします。これを社会的国家と呼びます。小林よしのりが好んで使う「公」とか「公共」は社会的国家のことと言えると思います。この社会的国家に共同幻想としての政治的国家が覆いかぶさり、二重に錯合した構造となりさす。
 吉本氏はまた「社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめて権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。」、「あらゆる共同幻想は死滅すべきである。」とも言っています。

 私たちが「国家権力」と言うときの国家は「政治的国家」を指しています。「国家の死滅」というときの国家も「政治的国家」です。
 「国家の死滅」なんてあり得るのでしょうか。これも稿を改めるべき問題ですが、ここで思い出した国があります。デンマークです。この国の国家権力はその権力の行使を必要最小限に抑制しているように思われます。「国家の死滅」への道筋の一つではないでしょうか。
 話が前後しますが、デンマークの小学生の入学の始まりを詳しく記述した文章を思い出しましたので、それを全文紹介します。日本の小学校の入学式と比べてみてください。日本の国家権力とデンマークの国家権力の在りようの落差がとてもよく分かると、私は思いました。

 出典は、村上龍さんが編集長をしておられるJMM(Japan Mail Media)というメール新聞?の記事です。 JMMに配信申し込みをすると随時記事を配信してくれます。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/

 紹介する記事の筆者は、高田ケラー有子さんとおっしゃるデンマーク在住の造形作家です。

「ゼロ年生の初登校」

 私の息子も8月9日から学校に通い始めました。以前にも書いたようにデンマークでは1年生から始まるのではなく、幼稚園クラスと呼ばれるいわゆるゼロ年生にあたるものがあり、そのゼロ年生になりました。入学式なるものはなく、初日は9時に集合ということで、保護者も招待されて学校に行くという感じでした。遅い夏の到来で、にわかに暑くなっていたので(といっても26度ほどでしたが)、先生も保護者もそのほとんどがTシャツに短パン姿、サンダル履きといった格好でリラックスしておりましたが、何処も同じでビデオやデジカメで我が子のファーストスクールデイの記念撮影をする保護者の姿がありました。

 これが普通なのだなとつくづく思ったのは、ほとんどが両親といっしょに来ていたことです。もちろん平日な訳ですが、夫婦共働きの家庭が多い中で、90%以上が両親に付き添われていたのは、自分も当たり前のように夫と2人で参加しながらも、父親の育児や教育への関わり方を象徴しているようで、素敵なことだなと思いました。今後も、またいろいろと学校の様子など観察しながらゼロ年生なるものがどのようなものなのか書いていきたいと思いますが、今回は初日の様子を中心に紹介しておきたいと思います。

 学校が始まる前の週の木曜日に、担任となる先生から息子宛に手紙が届きました。内容は「9日からいよいよ学校が始まりますね。楽しみにしていることでしょう。先生からみんなにお願いがあります。教室をきれいに飾りたいので、お花を持って来てください。それと、床に座ってお話を聞くこともあるので、クッションも忘れずね。では9日、9時に。ピア(先生の名前)」というものでした。そして9日、ゼロ年生たちはお花とクッションを抱えて初登校しました。

 まず、入り口で校長先生が、「おはようニコラス」と息子の名前を言いながら握手をしてくれたのには驚きました。校長先生はすでに全てのゼロ年生(といっても田舎の小さな学校ですので全部で2クラス36名)の名前を覚えておられるようでした。教室の前では担任の先生が校長先生と同じように子供の名前を言い、また自分の名前を知っているかどうかの確認もしながら握手をしていました。校長先生、担任の先生共に、もちろん私たち保護者もよろしくの握手を交わしています。

 教室に入ると、机の上にはネームカードがおかれ、ダネブロー(デンマークの国旗)のミニフラッグが付いたジュースにお菓子、そして太くて柔らかい鉛筆(この鉛筆にもゼロ年生の象徴である足跡のデザインが施されています)と消しゴム、練習帳のようなものが2冊と歌の歌詞ホルダー、それに連絡ホルダーがおかれていました。みながそれぞれ持って来たお花を机の上に置くと、ほんとうに教室が一気に華やかになり、天井いっぱいに飾られた色とりどりの風船とたくさんの手旗ダネブローも手伝って、そこはすっかり居心地のよいヒュッゲリ(デンマーク語で快適な、心地よいの意味ですが、そこに人やなにかしらの暖かみを感じるような意味合いが含まれ、日本語でズバリ言えません)な空間と化しておりました。


 素敵な入学行事ですね。Kさん、そう思いませんか。ジュースとお菓子に添えられたミニフラッグ。こういう風に使われれば、子供たちも国旗さんも幸せですね。
 それにひきかえ日本の入学式では、子供たちは直立不動で日の丸を仰ぎ見ることを強いられたうえ、わけの分からない歌のため口を無理にこじ開けられます。入学早々、「服従せよ!」と威嚇されているです。



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 先ほど「反ひのきみネット」を開いてみましたら、私が依頼していたこのホームページの紹介が掲示板に掲載されていました。100倍ぐらい、人の目に触れるチャンスが増えたことになります。
26. Kさんへの批判・反論(4) 
 2004年9月9日


 Kさん、今日は初めにあなたにお礼を申し上げます。
 あなたの労作を通り一遍に読み捨てずに、一度きちんと批判しようと記録しておきました。きちんと批判するためには文章を精読しなければなりません。精読すると、短い文章の中にも実にいろいろな問題が含まれていることが分かってきます。それらの問題について、私は調べたり考え直したりします。その過程で、びっくりするような新しい発見をします。
 憲法の前文を通して読んだのは、高校生のときでしたか、中学生のときでしたか、定かでありませんが、いずれにしても通り一遍に読んだ、と言うより、読まされたと言った方がよいでしょうか。今日、50年ぶりに精読しました。日本国憲法の理念の中に、改めてびっくりするようなことを発見をしました。50年間に私が得た思想にぴったりの理念が謳い上げられているのです。
 精読する機会を与えてくれたあなたのお陰です。


(3)の1
 「むしろ、国際社会で名誉ある地位を占めたいと願うのであれば、国旗や国歌をないがしろにする振る舞いこそ、外国の支持を得られない。」

 今回も本論に入る前にはっきりとさせなければならない概念があります。「国家」です。
 あなたは国家という言葉を使わず「国」といいます。このことで思い出した人があります。小林よしのりです。ご存知ですか。読む前から言ってることの底は見えていて、小林の著書を読む気は私にはまったくありません。しかし、他の著書での引用文で小林の文?(漫画のセリフと地の文)に触れることがあります。そのとき、ああやっぱり予想したとおりだ、底が浅いと思います。
 引用文で知った範囲でのことですが、小林は国家という言葉を使いません。「国」か「公」か「公共」です。「国」と「公」・「公共」はまったく違う概念です。これをご都合によって使い分けます。だからその論理はしっちゃかめっちゃかです。しっちゃかめっちゃかでも、単純浅薄でも、すっぱりと割り切っているところが受けるのでしょうか。小泉首相・石原都知事の場合と同じです。私には小林の読者が理解できません。
 「国」と言う概念は非常にあいまいです。その意味するところは、国土であったり、故郷であったり、政府であったり、国家であったり、あるいはそうしたものすべてを含めた所謂「国」であったりします。しかしあなたの場合も小林の場合もその指し示すところは「国家」以外ではありえません。なぜはっきり「国家」と言わずに「国」というぼやけた言葉で代えるのでしょうか。
 「国家」という概念にはかならず「支配−被支配」の問題が最重要な課題として付きまといます。もしかすると無自覚なのかもしれませんが、あなたも小林もその問題を避けて、見て見ぬ振りを決め込んでいるとしか思えません。お二人ともにその論旨全体に「支配−被支配」という観点が欠けています。
 あなたのいう「国」は「国家」であるということで論を進めます。

    「国際社会で名誉ある地位を占めたいと願う」

 小泉首相はイラク派兵を正当化するために憲法前文の文章をいくつか利用しています。これはその一つですね。憲法違反を平気で犯しながら、憲法の権威だけはちゃっかりと利用する。しかも文脈から切り離して自分の都合のいいように意味を変えて。小泉の詐術は聞く方も恥ずかしくなるような見え透いたものですが、本人は恬として恥じない。破廉恥な男です。そうは思いませんか。
 Kさん、あなたはそうは思っていないのですね。詐術までそっくり真似ているのですから。我らが首相はうまいことを言うな、と感心したのでしょうか。でも、真似るにしても、最小限、原文を確かめてからすべきではないですか。

 そのくだりは次のようです。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 あなたや小泉の主張と並べてみると、何が違うのかよく分かります。「国際社会」が違うのですね。小泉が使うときの「国際社会」は「アメリカ国家とその同調国家」群のことです。あなたの場合は地球上のすべての国家が対象でしょうか。いずれにしても諸国家の関係概念のようです。

   憲法前文の「国際社会」もそうでしょうか。
  前文の主語・「われら」は国民です。その前の段落ではっきりと「われら国民」と言っています。「わが国家」ではありません。
 そして前文中の「国際社会」は「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」社会です。この文脈では明らかに「国家」ではありません。文字通り国際「社会」です。ですから、次の文節でも「全世界の国民が」とあり、「全世界の国家」とはなりません。
  これはどういうことでしょうか。
 まず、国際社会にはいまだ「専制と隷従、圧迫と偏狭」があると認識しています。そしてそれを「地上から永遠に除去」するのが国際社会の最重要課題だといっています。その課題を担うことにおいて「名誉ある位置を占めたい」と言うのです。
 前文の次の段落は次のようです。

  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 ここで初めて「国家」が出てきます。「いずれの国家」も普遍的な「政治道徳の法則」に従うことが国家の責務だと締めくくっています。
 ここで言われている普遍的な政治道徳の法則が、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」ることを指しているのは、文脈から明らかでしょう。
 つまり最後の段落で、国民が、国民に源泉する権力を国家に委託し、国家にそのあり方を指示しているのです。

 よく言われるように、大日本帝国の欽定憲法とは異なり、民主主義国家・日本の憲法は、国家が国民に下賜し管理支配するための法ではありません。国民が国家にその在り方を示し、国家がそこから踏み外さないように歯止めをしている法なのです。「国家」があって「国民」がある、という支配者たちがよく強調する思想を真っ向から否定しています。まず国民があって、国民が国家に権力を委託しているのです。
 
 国家が本来の責務から踏み外して国民を隷属・圧迫しようとし、その道具として日の丸・君が代を利用するなら、それに異議を申し立てることは、国民として真っ当な事なのです。

第十九条【思想及び良心の自由】思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 これは、踏み外しをした国家への異議申立てを保証するための条文だと、私は理解し直しました。


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 「日の丸・君が代に対抗するネットワーク」( 略して「反ひのきみネット」)というサイトに出会いました。もう大きなネットワークを形成しているようです。より広い場に出て行くことにしました。
 リンクを貼り付けるための問い合わせをしたところ、早速返事を頂きましたので貼り付けます。
 このサイトの「メーリングリスト(ML)」というのにも加わりました。多くの人と意見交換ができます。私もホームページの記事を書き直したりして送り、より多くの方に読んでいただこうと思っています。
 私のホームページそのものを掲示板に掲載する申し込みものしました。(リンク集に加えてもらった方がよかったかな。)これは返事待ちです。
 ぜひ覗いてみてください。そしてよかったら「メーリングリスト(ML)」に加入してください。