2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
22. 読者への挑戦 
 2004年9月5日

 昨年10月23日に石原とその下僕たちが出した「通達」の内容を知って以来、私の怒りと危機感は一向に収まりません。怒りは静かに沈潜させて長く持続し、根底から敵を打倒しようと言う意味で、トップページの画像に広目天を選びましたが、これまでの私の怒り方では、むしろ東大寺三月堂・二力士像の中の阿形(あぎょう)像を掲げるべきだったかもしれません。「怒髪天を突く」ほどの怒りなのです。私の頭はほとんどスキンヘッドなので、怒りのほどをお見せできなくて残念です。代わりに阿形さんのお姿をお借りします。


 初めから通して読んでくださっている方は、そろそろ私の語調が鼻についてくる頃でしょう。今回から静かに深く怒ることにしました。肩肘の力を抜きます。
 そこで今回から、文体も変わったわけです。
 私はクソ真面目で、遊びが下手なのですが、時には遊びも取り入れようかと思います。

  「君が代日の丸の強制」と言う権力側からの攻撃は単に「君が代日の丸」だけの問題ではなく、私たちの「国家観」や「教育観」への攻撃であると思います。私は私自身の「国家観」や「教育観」を検証し、より強固なものにする必要があると感じました。そこで私なりの「国家観」や「教育観」を改めてまとめ直してみようと思いました。他人の言葉を頼りのしどろもどろの言説でしたが、一応一通り終わりました。
たぶん欠陥だらけでしょう。必要に応じて修正・訂正・補強を随時やっていこうと思います。

  ということで一区切りつきましたので、そろそろ敵の論旨の全体を明らかにした上で、全面的な批判・反論をしてみようと思います。いままで多くの人たちが行ってきた批判・反論に何か新しいものを付け加えることはおぼつかないとしても、ともかく自分自身のために、一度は自分の言葉でやってみる必要があると感じています。

 「市民が記者になってニュースを送るNPO型インターネット新聞」と謳っている「JANJAN」( http://www.janjan.jp/)と言うサイトがあります。時折、マスコミが報道しない情報が得られるので、一応毎日覗いて、関心のある記事を読んでいます。
 その「JANJAN」に、6月中ごろ、「君が代日の丸の強制」に賛意を表する記事が掲載されました。「JANJAN」の基本姿勢にそぐわない記事だと、他の記者たちから非難の声がたくさん上がったようです。

 しかし、その文は、それこそマスコミを通して石原や右翼新聞・雑誌が垂れ流している論点をそっくりなぞったようなもので目新しいものはないのですが、国家権力や石原からご褒美が出そうなほど、よくまとめています。私の知る限りでは、敵にはそこに盛られている以上の論点はないと思われます。権力に支配されることを喜びとする期待される正しい日本人の典型だと思い、記録しておきました。
 こういう意見をただ無視したり、問答無用で否定するだけでは、私たちのためにもならないでしょう。私たちの身近にいる多くの人たちの意見なのです。やはり真正面から取り上げるべきです。
 これを紹介して、全面的は批判・反論の材料とします。段落とその番号は、便宜上、私がつけました。
 (権力を持ったものの口撃には遠慮は不必要ですが、ここでは、筆者を槍玉に上げるのが目的ではありませんし、筆者は私たちと同じ無名の一国民ですから、筆者の名前はあげる必要はないでしょう。)

「読者への挑戦」
 次の文を読んで、ご自分なりの批判・反論・論破を用意してください。
 あるいは下記の文にない敵の論点を知っていたら教えてください。ディベートのつもりで、賛成の表明・賛成意見の補強でもいいです。より手強い理論が出てくると面白くなると思います。
(「メールの輪」に投稿してくださると、さらにありがたいのですが。)


 
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「国旗掲揚・国家斉唱は憂慮すべきこと? 」

(1)
 日本は卒業式や入学式のシーズンになると、国旗掲揚や国歌斉唱の是非が議論される不思議な国である。諸外国の学校で、国旗や国歌に抵抗して、起立しないことがあるだろうか。植民地であれば統治国に反抗する意図は理解できるが、独立国であるのに、なぜ、国旗と国歌を無視できるのであろう。

(2)
 国旗掲揚と国歌斉唱の強要は戦前の軍国主義を連想させるので、思想・良心の自由を妨げると憂慮するのであろう。しかし、戦後59年が経過し、国際社会の一員として見事に復興した日本が、国旗掲揚や国歌斉唱をしたからといって軍国主義に戻るはずがない。

(3)
 むしろ、国際社会で名誉ある地位を占めたいと願うのであれば、国旗や国歌をないがしろにする振る舞いこそ、外国の支持を得られない。国際社会では、国旗や国歌はシンボルとして大切に扱われる。起立して人に礼をつくすように、国のシンボルに起立して礼をつくすことが、子供の教育に憂慮すべきことか。逆に起立しないことの方が、憂慮すべきことではないか。それは、人に会って挨拶しないのと同じだからだ。会釈をして挨拶する習慣は、親が小さな子供に教える基本的な躾である。

(4)
 また、国旗と国歌を憲法上の思想・良心の自由に結びつけるのは、あまりに飛躍しすぎる感がある。国歌斉唱の時に生徒に起立しないように促した教師こそ、生徒の思想・良心の自由を侵害したことにならないか。親の立場で見れば、自らの思想を生徒に押し付ける教員は願い下げである。

(5)
 国旗と国歌が嫌ならば、オリンピックで金メダルを獲得した日本選手が、日の丸を持って観衆に応える場面も批判したらどうであろう。君が代を涙で歌う金メダリストは憂慮すべき事態なのか。
 今年の夏はアテネオリンピックが開催される。「日の丸」と「君が代」がテレビで放送されればされるほど、日本中は感動で熱くなるのではないか。日本人がアイデンティティを認識するオリンピックである。
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23. Kさんへの批判・反論(1) 
 2004年9月6日


 (「国旗掲揚・国家斉唱は憂慮すべきこと? 」の筆者を Kさんと呼ぶことにします。)

(1)
 日本は卒業式や入学式のシーズンになると、国旗掲揚や国歌斉唱の是非が議論される不思議な国である。諸外国の学校で、国旗や国歌に抵抗して、起立しないことがあるだろうか。植民地であれば統治国に反抗する意図は理解できるが、独立国であるのに、なぜ、国旗と国歌を無視できるのであろう。

  Kさん、あなたは、まず最初に事実誤認をなさっています。日本は「卒業式や入学式のシーズンになると、国旗掲揚や国歌斉唱の是非が議論される」から不思議な国なのではなく、「卒業式や入学式に国旗掲揚や国歌斉唱を強制する」から、不思議な国なのです。不思議と言うよりばかばかしい国なのです。
 日本は民主主義国家あるいは自由主義国家を自称しているようですから、あなたが比較する諸外国も民主主義国家あるいは自由主義国家に限りましょう。
 諸外国の学校では国旗掲揚や国歌斉唱などやらないのです。私にはいま直接調べることができませんので、信用できる人の証言を信じることにします。

 「そもそもそうした儀式をしないという選択肢もありうるし、現場に任されるべきことです。それをしたいという要求が教員や生徒の中で高まってくれば、それをすればよいのです。どういう形態をとるかはまったく自由です。それは異常なことでも何でもありません。私の娘は一年半ほどフランスの現地校に通ったことがありますが、そこでは儀式的なものはほとんどありませんでした。イギリスやドイツヤフランスの学校行事で国旗国歌が強制されるということはありません。」 (「良心的『日の丸・君が代』の拒否」の前文・高橋哲哉「この国の地金を変えていく一歩」より)

 こういう国家を民主主義国家あるいは自由主義国家とうのではないでしょうか。
あるいはあなたは、日本は民主主義国家でも自由主義国家でもなく、どちらかというと「北朝鮮」に近い国家という認識をお持ちなのでしょうか。それならば、「諸外国の学校で、国旗や国歌に抵抗して、起立しないことがあるだろうか。」というあなたの主張には一貫性があります。

 Kさん、あなたはもう一つ、位相の違う概念を並列して論じるという過ちを侵しています。「植民地」と「独立国家」です。「植民地」のままで「独立国家」を形成することは可能です。「領土・人民・政府(国家権力」を国家を国家たらしめる三要素と言うようです。植民地に欠けているのは国家権力です。従って、征服国家からの少数の入植者階級が担っても、先住民が担当する傀儡政権であっても、植民地を直接支配する独自の政府があれば、それはやはり「独立国家」ではないでしょうか。
 征服国家が植民地を自国の領土の一部に組み込み、直接支配する場合は、まさにその地域は、あなたが言う「統治国」の一地方に過ぎないことになります。現在ほとんどの植民地は独立していて、統治国に支配されているという意味での植民地は十数地域ぐらいだそうです。
 しかし、かって植民地だった地域の多くは、独立国家となったとはいえ植民地時代の問題を引きずっています。国家の権力を掌握しているのが、少数の入植者階級(つい10年ほど前までの南アフリカ)であったり、先住民が担当していても傀儡政権(これは枚挙にいとまないほど例があるでしょう。)であったりして、その国の国民の大多数を占める先住民たちは植民地時代と変わらぬ状況におかれています。

 植民地から独立したといってもカナダ・オーストラリア・ニュージーランドは国土を先住民から奪い取って出来た国家です。これらの国の先住民の人口比はカナダでは2%弱、オーストラリアでも混血も含めて1.5%ぐらい、ニュージーランドは 9%程度ということです。
 それにそれらの国家は紛れもない独立国家ですが、形式的にはいまだにイギリスを宗主国とする植民地なのです。元首は英国国王で、総督までいます。
 そして、いま世界で一番危険な「ならず者国家」のアメリカも先住民を虐殺しながら、国土を奪って立国した国家です。

 Kさん、植民地での統治国への反抗は理解できるが、独立国での反抗は理解できないというあなたの立言の根拠の薄弱さをお分かりいただけたでしょうか。

 Kさん、それでもあなたはこう言うかもしれませんね。日本は植民地から独立した国家ではないから、国家に反抗する理由はないと。これはおそらくあなたの主張(2)と関連します。そこで論じることになるでしょう。
 そのとき、もう一つ論じなければいけないことがあります。あなたは植民地での反抗には理解を表明されましたが、それは何故ですか。

 ところで、Kさん、毎日のように無辜の人たちが国家によって殺されています。大学を卒業なさった知性あふれるお方のようですから、たぶん無関心ではいられないことと推察いたします。
 この数日間は、毎日のように北オセチア共和国(ああ、事件が起きない限り、私はこの国名の国を知らなかった!)で起きた武装集団の学校占拠事件が大きく報道されています。昨日の報道写真のなかの母親や姉や祖父らしい人たちの慟哭する姿に、私はつい落涙しました。あなたは何をお感じになられましたか。日本とは無縁とお思いでしょうか。


 Kさん、あなたは小学生か中学生のお子さんをお持ちのお母様のようですが、どうか、権力者やマスコミの言うことを鵜呑みにしてそれをそっくり真似るのではなく、ご自分の耳目を使って調べ、ご自分の頭と言葉を使って考えてみてください。あなたの大事なかけがえのないお子さんのためにも。

ではまた次回に。

24. Kさんへの批判・反論(2) 
 2004年9月7日


 (2)
 「国旗掲揚と国歌斉唱の強要は戦前の軍国主義を連想させるので、思想・良心の自由を妨げると憂慮するのであろう。しかし、戦後59年が経過し、国際社会の一員として見事に復興した日本が、国旗掲揚や国歌斉唱をしたからといって軍国主義に戻るはずがない。」

 Kさん、あなたは「日の丸・君が代」とは言わず「国旗・国歌」と言っています。あなたには、「日の丸・君が代」は「国旗・国歌法」で法的に「国旗・国歌」となった、だから、それに反対するのはけしからんと言うことを、暗に強調したい意図があるのではないですか。「日の丸・君が代」の議論をしているのではなく「国旗・国歌」の議論をしているのだと。
 あなたは、はっきりとその姿を晒しても大多数の賛成が得られそうだと判断したからでしょうか、オリンピックとの関わりを論ずるときは、「国旗・国歌」という法の衣を脱いで、「日の丸・君が代」と本当の姿を使っています。私には「国旗・国歌」と「日の丸・君が代」を意図的に使い分けているように思えるのですが、私の勘ぐり過ぎでしょうか。

 ともあれ、日本の「国歌・国旗」は歴史的に特殊な負の遺産を引きずっているので、はっきりと「日の丸・君が代」と言うべきだと私は考えます。あなたもその負の遺産のことはご存知ですから、法の衣を着た「国旗・国歌」というを言葉を使いながら、「軍国主義を連想させる」危惧を表明しています。
 私は、以後は、「日の丸・君が代」と言うことにします。あなたにも異存はないことと思います。

 本題に入ります。
  Kさん、それが何であれ、何かを連想すると思想・良心が妨げられるとは、またずいぶんと珍妙な理屈ですね。
 何かの連想を強いられて、思想・良心が侵害されたと主張する人を私は想像できません。
 思想・良心に反する言動を強いられて、初めて思想・良心は侵害されたと言えます。そして今、良心的な教師たちが精神的な拷問といってもよいほどに苦しんでいるのは、軍国主義を想像したなんていうばかげた理由ではなく、行政権力が処分を振りかざしてまで、思想・良心に反する言動を強いているからなのです。

 次にあなたは日の丸を掲揚したり、君が代を斉唱したりしたからと言って、軍国主義に戻るはずがない、と自信を持って断言なさいます。
 日の丸を掲揚し君が代を斉唱するだけで軍国主義に戻るとしたら、いまそれを目論んでいる支配者たちは諸手を上げて大喜びし、いま進めている面倒な政治的策略の手続きを、すぐ放棄することでしょう。
 むろん、いま支配者たちが目論んでいるものは、大日本帝国のような剥き出しでハードな軍国主義ではなく、耳目に入りやすいソフトなオブラートに包まれています。

 Kさん、一市民として「NPO型インターネット新聞」の記者を買って出ていらっしゃるあなたが支配階層の方とはとても思えません。たぶん、私と同じ被支配者の一人かと推察します。なのに、どうしてこうも物の見方考え方が違うのか、と考え込まされます。

 あなたは植民地での被支配者の支配者に対する反抗には理解を示されました。植民地には支配-被支配という対立があり、不当で理不尽な抑圧には反抗する権利があると考えておられるものと推察します。
 しかし、日本国民の日本国家に対する反抗には嫌悪感を隠しません。私にはとても不思議です。日本には支配-被支配という対立などないし、不当で理不尽な抑圧を受けている国民などいないとお思いになっていらっしゃるのかもしれません。
 しかし残念なことに、世界のどの国家にも支配-被支配の対立が厳としてあるというのが、正しい現実認識ではないでしょうか。むしろ、支配-被支配を維持強化しようとする最強の権力が国家なんだと言ってもよいのではないでしょうか。
 こうした世界の現実認識を欠いたまま微温な日常に埋没している人たちが、その自分たちの微温な日常の中に隠されている実態を暴きそうな人や事件や言行に出食らわすと、あわてて集団的なヒステリーを起こします。最近では、イラクで活躍していた人たちに対する「自己責任」バッシングがそうでした。

 Kさん、あなたが、支配-被支配という矛盾の解決を願って行動している隣人たちに「非国民」や「反日分子」などのレッテル張りをするような卑劣な国家権力の手先にならないことを祈ります。老婆心ながら、あなたがその一歩手前にいるように感じますので。

  さて、Kさん、「日の丸を掲揚したり、君が代を斉唱したりしたからと言って、軍国主義に戻るはずがない」というあなたの論理は、部分を取り出して全体を裁断するという、詭弁の一つです。
 しっかりと全体像を検証して、そのなかに「日の丸・君が代の強制」を位置づけた上で判断すべきではないでしょうか。
 あなたが誇らしげに指摘している「戦後59年が経過し、国際社会の一員として見事に復興した日本」の本当の在りようを検証してみましょう。

長くなりなしたから、それはまた明日。
25. Kさんへの批判・反論(3) 
 2004年9月8日


 支配者たちによる日本の戦前回帰の志向は、1950年の朝鮮戦争勃発に誘発されて起こった一連の反動の嵐から始まります。
 GHQの指示を受けて、並行して行われた「レッドバージ」と「追放解除」。革新勢力が追放され、戦前の日本を牛耳っていた政財官界人・言論界人が復帰します。大日本帝国の敗戦後たったの5年目のことです。

 以来自由と民主の砦は、少しずつ、狡猾に、確実に、削られ続けてきました。そして、多くの人が指摘していますが、1999年に状況は急展開します。自由と民主の砦は大きく崩壊するほどの攻撃を受けました。支配者側から見れば、念願成就に大きく近づいたことになります。
 時代の様相は、戦後が終わってついに戦前に回帰したようです。

 1999年に何があったのか振り返ってみましょう。

 日本の今後の進路を決定付けるような重要法案が、当時の首相・小渕の人間的軽さを体現したようにホイホイと、なんとも軽々しく成立してしまいました。
 実は小渕は私の高校時代の友人です。もっとも彼が代議士になったときから、付き合いはありません。小渕は自分が率いる政府がやっていることの重要性をまったく自覚していなかったのではないかと、私は疑っています。

5月24日 ガイドライン関連法(周辺事態法・改正自衛隊法・改定日米物品役務提供協定)成立。
 対米軍事協力の項目を明文化し、米国による戦争に日本が自衛隊のみならず、民間まで動員・協力させるを決めています。大日本帝国の「国家総動員法」に匹敵します。

8/9 国旗・国歌法成立。
 「決して強制するものではない」というオブラートをかけて成立させています。それが現在、人の心を圧殺するような法律になっています。
 また「君が代」の「君」は天皇のことだと、首相がはっきりと答弁しています。

8/12 盗聴法含む組織犯罪対策三法が成立。
 国民の安全を守ると言う耳目に入りやすいものと抱き合わせでとんでもない法律を成立させます。このような抱き合わせ手法を権力はよく使います。
 この法律は大日本帝国の治安維持法に匹敵します。
 盗聴法(通信傍受法)は明らかに憲法第21条第二項「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」に違反しています。

8/12 改正住民基本台帳法成立。
 国民総背番号法です。私たちは全員11桁の数に過ぎません。戦場での兵士の標識番号みたいなものです。徴兵制がしかれたとき、さぞ威力を発揮することでしょう。

 さらにこの年の全国戦没者追悼式で、いままで演奏だけだった「君が代」が、天皇・皇后の前で歌われたというのです。これはずいぶんグロテスクな光景だと思いませんか。天皇の名において遂行された無謀な戦争の犠牲になった300万人に対する冒涜ではないでしょうか。大日本帝国の侵略軍に殺されたアジア諸国の犠牲者は2000万人と言われています。この人たちへの追悼の心は皆無です。
 もしかするとあなたには、感涙に咽びなくほどにうれしい光景でしょうか。

 1999年以降も戦争遂行するための法律と国民を管理統制するための法律の整備が続けられています。
 2003年12月から、とうとうイラクに自衛隊が派兵されました。イラクには何を自衛しに行ったのでしょうか。
 全く憲法が無視されているような様相です。憲法を戴いた憲法違反だらけの国家権力が、憲法の都合のよいところだけつまみ食いして自己正当化の具とし、一方で憲法改悪のプログラムを着々と進めているのです。

 Kさん、如何でしょうか。「戦後59年が経過し、国際社会の一員として見事に復興した日本」の行きついた先がどんなに無残なものか、あなたには見えませんか。「日の丸君が代」が果たしている役割がまだ分かりませんか。
 日本はもう十分に立派な戦争遂行可能国家です。自衛隊と言う軍隊は世界第三位の戦力を誇っているそうですね。徴兵制も目論まれているようです。
26. Kさんへの批判・反論(4) 
 2004年9月9日


 Kさん、今日は初めにあなたにお礼を申し上げます。
 あなたの労作を通り一遍に読み捨てずに、一度きちんと批判しようと記録しておきました。きちんと批判するためには文章を精読しなければなりません。精読すると、短い文章の中にも実にいろいろな問題が含まれていることが分かってきます。それらの問題について、私は調べたり考え直したりします。その過程で、びっくりするような新しい発見をします。
 憲法の前文を通して読んだのは、高校生のときでしたか、中学生のときでしたか、定かでありませんが、いずれにしても通り一遍に読んだ、と言うより、読まされたと言った方がよいでしょうか。今日、50年ぶりに精読しました。日本国憲法の理念の中に、改めてびっくりするようなことを発見をしました。50年間に私が得た思想にぴったりの理念が謳い上げられているのです。
 精読する機会を与えてくれたあなたのお陰です。


(3)の1
 「むしろ、国際社会で名誉ある地位を占めたいと願うのであれば、国旗や国歌をないがしろにする振る舞いこそ、外国の支持を得られない。」

 今回も本論に入る前にはっきりとさせなければならない概念があります。「国家」です。
 あなたは国家という言葉を使わず「国」といいます。このことで思い出した人があります。小林よしのりです。ご存知ですか。読む前から言ってることの底は見えていて、小林の著書を読む気は私にはまったくありません。しかし、他の著書での引用文で小林の文?(漫画のセリフと地の文)に触れることがあります。そのとき、ああやっぱり予想したとおりだ、底が浅いと思います。
 引用文で知った範囲でのことですが、小林は国家という言葉を使いません。「国」か「公」か「公共」です。「国」と「公」・「公共」はまったく違う概念です。これをご都合によって使い分けます。だからその論理はしっちゃかめっちゃかです。しっちゃかめっちゃかでも、単純浅薄でも、すっぱりと割り切っているところが受けるのでしょうか。小泉首相・石原都知事の場合と同じです。私には小林の読者が理解できません。
 「国」と言う概念は非常にあいまいです。その意味するところは、国土であったり、故郷であったり、政府であったり、国家であったり、あるいはそうしたものすべてを含めた所謂「国」であったりします。しかしあなたの場合も小林の場合もその指し示すところは「国家」以外ではありえません。なぜはっきり「国家」と言わずに「国」というぼやけた言葉で代えるのでしょうか。
 「国家」という概念にはかならず「支配-被支配」の問題が最重要な課題として付きまといます。もしかすると無自覚なのかもしれませんが、あなたも小林もその問題を避けて、見て見ぬ振りを決め込んでいるとしか思えません。お二人ともにその論旨全体に「支配-被支配」という観点が欠けています。
 あなたのいう「国」は「国家」であるということで論を進めます。

    「国際社会で名誉ある地位を占めたいと願う」

 小泉首相はイラク派兵を正当化するために憲法前文の文章をいくつか利用しています。これはその一つですね。憲法違反を平気で犯しながら、憲法の権威だけはちゃっかりと利用する。しかも文脈から切り離して自分の都合のいいように意味を変えて。小泉の詐術は聞く方も恥ずかしくなるような見え透いたものですが、本人は恬として恥じない。破廉恥な男です。そうは思いませんか。
 Kさん、あなたはそうは思っていないのですね。詐術までそっくり真似ているのですから。我らが首相はうまいことを言うな、と感心したのでしょうか。でも、真似るにしても、最小限、原文を確かめてからすべきではないですか。

 そのくだりは次のようです。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 あなたや小泉の主張と並べてみると、何が違うのかよく分かります。「国際社会」が違うのですね。小泉が使うときの「国際社会」は「アメリカ国家とその同調国家」群のことです。あなたの場合は地球上のすべての国家が対象でしょうか。いずれにしても諸国家の関係概念のようです。

   憲法前文の「国際社会」もそうでしょうか。
  前文の主語・「われら」は国民です。その前の段落ではっきりと「われら国民」と言っています。「わが国家」ではありません。
 そして前文中の「国際社会」は「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」社会です。この文脈では明らかに「国家」ではありません。文字通り国際「社会」です。ですから、次の文節でも「全世界の国民が」とあり、「全世界の国家」とはなりません。
  これはどういうことでしょうか。
 まず、国際社会にはいまだ「専制と隷従、圧迫と偏狭」があると認識しています。そしてそれを「地上から永遠に除去」するのが国際社会の最重要課題だといっています。その課題を担うことにおいて「名誉ある位置を占めたい」と言うのです。
 前文の次の段落は次のようです。

  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 ここで初めて「国家」が出てきます。「いずれの国家」も普遍的な「政治道徳の法則」に従うことが国家の責務だと締めくくっています。
 ここで言われている普遍的な政治道徳の法則が、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」ることを指しているのは、文脈から明らかでしょう。
 つまり最後の段落で、国民が、国民に源泉する権力を国家に委託し、国家にそのあり方を指示しているのです。

 よく言われるように、大日本帝国の欽定憲法とは異なり、民主主義国家・日本の憲法は、国家が国民に下賜し管理支配するための法ではありません。国民が国家にその在り方を示し、国家がそこから踏み外さないように歯止めをしている法なのです。「国家」があって「国民」がある、という支配者たちがよく強調する思想を真っ向から否定しています。まず国民があって、国民が国家に権力を委託しているのです。
 
 国家が本来の責務から踏み外して国民を隷属・圧迫しようとし、その道具として日の丸・君が代を利用するなら、それに異議を申し立てることは、国民として真っ当な事なのです。

第十九条【思想及び良心の自由】思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 これは、踏み外しをした国家への異議申立てを保証するための条文だと、私は理解し直しました。


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 「日の丸・君が代に対抗するネットワーク」( 略して「反ひのきみネット」)というサイトに出会いました。もう大きなネットワークを形成しているようです。より広い場に出て行くことにしました。
 リンクを貼り付けるための問い合わせをしたところ、早速返事を頂きましたので貼り付けます。
 このサイトの「メーリングリスト(ML)」というのにも加わりました。多くの人と意見交換ができます。私もホームページの記事を書き直したりして送り、より多くの方に読んでいただこうと思っています。
 私のホームページそのものを掲示板に掲載する申し込みものしました。(リンク集に加えてもらった方がよかったかな。)これは返事待ちです。
 ぜひ覗いてみてください。そしてよかったら「メーリングリスト(ML)」に加入してください。