2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
20. 「国家」について(1)
 2004年9月3日



 国家の本質は共同的な幻想である。この共同的な幻想は、政治的国家と社会的国家の二重性(二面性ではない)の錯合した構造としてあらわれる。」 (吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「情況とは何かⅣ」より)


 私はよく、卒業式や入学式での「君が代日の丸の強制」に反対する人に「君が代・日の丸ではない国歌・国旗ならいいんですか。」と問いかける。「君が代日の丸」の代わりの国家・国旗を作ることを問題解決の一つの方法と考えている人たちは肯定的に答えるだろう。
 しかしたいていの人は、戸惑ってしまって答えに窮するようだ。はっきりと「君が代・日の丸ではない国歌・国旗でもだめだ。」と答える人に出会ったことがない。
この問はたぶん、「国家とは何か」と言う問と同義であると私は思っている。

 「12. 十年前の高校生の意識」で紹介した生徒たちの意見の特徴の一つは、「君が代」に対する拒否感はかなり強いが、「日の丸」は結構受け入れられていることだ。オリンピックやサッカーの国際試合などのスポーツから受ける感動と強く結びついて、その限りでは好ましいもののようだ。
 しかし一方で、卒業式などに現れる日の丸はなんとなくうさんくさいぞ、と言う感覚もあるのだろう。日の丸は否定しないが、卒業式に日の丸を掲揚することには反対だという生徒が多い。
この二つに裂かれた感情・感覚の根拠を掘り下げていくと、ここでもまたたぶん、「国家とは何か」という問いに突き当たる。

 道路を整備したり橋を架けたり学校を建てたりなど公共の事業を遂行したり、国民の財産・生命の安全を図ったり、福祉を増進したり、景気対策を遂行したりなどなどの社会・経済的な役割を果たす国家を社会的国家と呼ぶ。相互扶助を旨とする村落共同体が発展してきたものと言える。

 これに対して国民を支配し抑圧する国家、君が代・日の丸の強制のように心の中まで支配しようとする国家(元号の強制で時間まで支配しようとしている。)を政治的国家と呼ぶ。歴史的に「宗教が法となり、法が国家となる」と言うように展開してきた共同幻想としての国家である。 この二つの国家が二重に錯綜して一体となったもを普通国家と呼んでいる。

 吉本氏はわざわざ「二面性ではない」と注意している。国家の本質としては「社会的国家」に「政治的国家」が覆い被さると言うところか。
 しかし実際に私たちが相対する国家を考えるときは、 たとえばこんなイメージで理解したらどうだろうか。ギリシャ神話の二つの顔を持ったヤヌスのイメージ。 例えば、お巡りさん。やさしくて親切で頼もしい街のお巡りさん(最近そうでもないお巡りさんが増えているけど)は公僕であり、国民に社会的国家の顔を向けている。
 それがくっると首を一回りさせると、反政府や反戦のデモの行列に嫌がらせのような規制をかけたり、時には棍棒を振るって襲い掛かる。国家権力の番犬として、国民に政治的国家の顔をまざまざと見せ付ける。
 生徒・父母から見たとき、教師も二つの顔を持ったヤヌスだと私は思う。果たしてこのことを自覚している教師はどのくらいいるだろうか。
 政治的国家の番犬・代弁者のような言行を無自覚にしている教師にずいぶん出会ってきた。いや無自覚どころか、政治的国家に奉仕するのが教師の役割だと思っているらしい教師は結構多い。

 この二つの国家は二重に分かちがたく錯綜しているので国家に関かわる問題の議論もいろいろと錯綜することになる。
 この二重に錯綜した国家そのものは真っ二つに腑分けすることは出来ないが、国家に関かわる個々の問題については、社会的国家と政治的国家に腑分けして考えることは、とても有効だと私は思う。

 例えば「日の丸」に適用してみる。
 国歌・国旗は国家の象徴だから、当然、政治的国家と社会的国家の二重の役割を担っている。国際航路の船舶が掲げている日の丸や、航空機の機体に描かれた日の丸は社会的国家の役割を果たしており、ほとんどの人は不快感を感じないだろう。
 本来なくてもよいところに現れる日の丸は、国家権力の要請で強制されたもので、政治的国家の象徴となっているとみなしてまず間違いない。
 天皇を歓迎するために小学生に強制的に持たせる日の丸。学校の入学式や卒業式に掲示される日の丸。スポーツの開会式の日の丸。国家権力間の国際儀礼での日の丸。

  「君が代」に適用するとどうか。
 君が代が社会的国家の象徴として使われる場面を、私は想像することができない。君が代は言葉の意味が示すところ、政治的国家の象徴以外のなにものでもない。多くの生徒が嫌悪感を示すのは当然である。

 生徒たちの二つに裂かれた感情・感覚の根拠は、日の丸が政治的国家の象徴と社会的国家の象徴という二重の役割を担っていることにある。
  どの国家も教育(学校)を政治的国家の最も有効で忠実な布教者として利用しようとする。教育は政治的国家からは常に相対的に独立していなければいけない。「君が代・日の丸ではない国歌・国旗」だって、政治的国家を象徴する限り拒否すべき対象だ。

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21. 「国家」について(2)
 2004年9月4日


 
 国家権力は、経済社会構成の上層に地位を占めるものがよりあつまってつくられるものではないから、社会的国家に公的権力が存在するのではない。社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめて権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。 (吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「自立の思想的拠点」より)


 専門家には憫笑されそうなものだが、自分なりの国家観を素描してみる。

 現代の国民国家では、現実過程として利害を異にするさまざまな階層の間の抗争があり、その抗争を調停する第三の権力として国家権力は成立している。しかし、政府を担当する政党はその支持基盤の階層の利害を優先するから、社会的国家が行う諸事業はとても公平とは言えない。
 戦後一時期、労働者を支持基盤とする政党が政権を担当したことがあったが、ほとんどは資本家よりの政党(現自民党)の独裁だった言える。
 しかし、独裁とはいえ圧倒的多数を占める被支配階級の支持をも得られなければ、政権は維持できない。被支配階級にもおこばれ程度の恩恵は与える。それをありたがる者たちが、現政府をあたかも自分たちのための政府と錯覚し、独裁を支えている。
 しかし、おこぼれだけでは、民衆の支持は続かない。民衆に国家への服従の精神を植えつけねばならない。

 社会的国家のイニシアチブをとった政権政党とその支持階層は、抗争に勝ち続けるためには政治的国家としての権力を保持・強化し、その政治的国家権力をを最大限に利用して、すべての階層を支配しようとする。
 そのためには学校教育の支配とマスコミのの取り込みが最大重要課題となる。

 次の引用文(秋山清「反逆の信条」)が書かれたのは1970年前後だが、まだ賞味期限は切れていない。


 国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄であるかのような錯覚に満ちわたっている。 日本の民衆は、自分たちが民衆にすぎないということすら、自覚していないのだ。かくては、毎日の生活と生活環境への順応、治安の維持(支配のための)のための道徳と法律、その法律をつくるための議会、議会のための選挙、われわれの坐臥、二十四時間、三百六十五日、この国家という権力機構の操作の外に出ることはできない。繁栄といわれている現在ほど民衆の精神生活が、わが精神環境の外側に吸収されて飢餓に瀕したことはなく、逆に国家権力がこれほど安定していることもない。国家が民衆のものであるなどと、ぬけぬけとしたいい方があり、しかもなお民衆がそれを疑惑することすらできない。

 いわゆる経済的高度成長によってわれわれの国では、従順にはたらく者の生活は保証されているかのようであるが、これは現体制の枠内で、国家と法律による階級的現状に不信と反抗を表明しない者だけにとっての保証にすぎないのである。そこでは自由そのものも、自由のための思考すらよろこばれはしない。不信と拒否、否定から反逆へという自由の発展的方向を含む志向は、常に反社会的として締め出されつづけている。

 われわれは国家というものが、大衆の意志などとまるでまったく無関係な政府によって、政府をつくる政党によって、政府をバックアップする階級によって、資本家によって、官僚によって、あるいは地主らの総合的利益のためによって、つくられて運営されて、下級民衆にはそのための必要によってのみ支配の手が緩急されるという事実をあまりにも痛切に経験しつつある。(中略)

 国家、それは、社会主義を名乗ろうと王国であろうとデモクラシーの近代的国家であろうと、その国家と民衆との関係は、圧制者と権力にしいたげられる奴隷との対立であることにかわりはない、ということにつきる。



 ここで国家の問題を考えるときに、もう一つ大事な視点があることがわかる。



 わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配と多数の被支配が現実を領しているということだけである。この課題が「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立、矛盾という概念によっては救抜されないということだけはあきらかである。 (吉本隆明「模写と鏡」より)


 この文が書かれたのは1963年。しかしこの文にも賞味期限はない。

 現在は「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立にかわって、「ならず者国家」と「自由主義国家」の対立が流布されている。これは多分にブッシュが一方的に描いた構図に過ぎないのが、この場合も「わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配と多数の被支配が現実を領しているということだけである。」

1. 国家本質を「政治的国家」と「社会的国家」の二重性として捉える視点
2. 国家と国家の対立などなく、少数の支配者と多数の被支配者の対立があるばかりだと、国際情勢を捉える視点、
 この二視点を通して時代の情況を眺めるようになってから、私はとても深く遠くま見通せるようになったし、大きく見誤ることはなかったと思う。進歩的革新的を自称する多くの人が陥った陥穽には無縁だった。「ソ連」や「北朝鮮」を労働者・被抑圧者の味方の国などと思ったことなど一度もない。
93. 滝村隆一の国家論
2004年11月15日

   私は国家に関わる文を書いているとき、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、 被支配層、国家権力などなど」の中からどの言葉を使うの が適しているのか、迷うことが多々ある。それぞれの文脈に応じて一応は考えて選んでいるつも りではいるが、その選択の基準はそれほど明確ではなくかなり直感的である。 わたくしにとって一つの課題であった。
 しっかりとした選択の基準をもたないのは、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、 被支配層、国家権力などなど」が、現実の政治過程でどのような相互関係にあり、どのように抗争したり共闘 したりして国家意志が形成されてい くのか、という問題についての理解が曖昧なためであろう。今回のテーマにはその課題を果たす目的 もある。

 滝村隆一著「国家論をめぐる論戦」(勁草書房)に「国家の本質と〈階級独裁〉」という一節が ある。今回のテーマにぴったりの内容なのでそれを要約する。が、まずは以前に取り上げた 吉本隆明氏の「国家の本質」についての言説の復習から。

 『国家の本質は共同的な幻想である。この共同的な幻想は、政治的国家と 社会的国家の二重性(二面性ではない)の錯合した構造としてあらわれる。』

 『国家権力は、経済社会構成の上層に地位を占めるものがよりあつまっ てつくられるものではないから、社会的国家に公的権力が存在するのではない 。社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめ て権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。』

 「国家権力=支配的階級(経済社会構成の上層に地位を占めるもの)の権力」 (これは俗流マルクス主義の国家観)ではないと言っている。
 では国家権力とは何なのか。また「政治的国家と社会的国家の二重性の錯合した構造」 とはどのようなものか。それらの問題が少しでも解ければと思う。

(以下は「国家論をめぐる論戦」所収「国家の 本質と〈階級独裁〉」の要約)

 まず論考を進める上での歴史的・現実的前提がある。「〈近代的〉市民社会」=「統ー的 な階級社会」の形成がそれである。
 その形成を待って初めて国民的な統一社会が支配階級(ブルジョアジー)と被支配階級(プロレタリ アート)の二大階級を軸とした諸階級・諸階層へと分裂する。その結果必然的に、諸階級・諸階層の 〈特殊利害〉と統一社会的な〈国民的共通利害〉との構造的分裂が起こる。

 支配階級と被支配階級は、その現実的な社会的・経済的利害や、観念的な(共同幻想上の) 政治的利害にもとづく独自の意志・要求を、それぞれ階級意志として押し出すことによって、 不断の対立と抗争を展開する。その対立・抗争は統一社会そのものを衰退や解体に追い込む 危機を孕んでいる。
 そこで、社会全体の「一般的共通利害」の立場から、統一社会を防護するための強力で組織 的な実践的制御と干渉を行う権力が社会的に不可欠なものとして必要となる。これも 完成された統一的な階級社会を現実的前提とする限り、必然的な成り行きといえる。

 従って、「一般的共通利害」の立場から、諸階級へと分裂した社会全体の秩序維持のため、 形式上は二大階級〈権力〉の上に立った〈第三権力〉が成立する。 これが国家権力である。すなわち国家権力は、 支配階級・被支配階級の如何を問わず、社会の全構成員に対して法的規範としての 〈国家意志〉への服従を強制する形態をとって成立する。

  しかし、国家権力は形式上は第三権力という形態をとっているが、その実際の社会的 ・階級的性格はどうなのか。実際には支配階級の階級意志=総資本的意志の支配下に置か れているではないか。

まず、支配階級(ブルジョアジー)の階級意志=総資本的意志はどのように形成されるのか、検討する。

   ブルジョアジーは、日頃は〝産業の自由″の名の下に不断の相互的対立と抗争をくり返してい る。だがこの自由競争は、競争の必然の結果として産業上の覇権と集中化をもたらす。 さらに、プロレタリアートの階級的結集・全国的組織化に対して対抗し闘争する必要からも、 国民的ないし統一社会的レヴェルでの資本の有機的な連合と中央集権的な統一的組織化が 必然となる。
 従って総資本的意志は、このようなブルジョアジー全体の階級的結集と中央集権的組織化にも とづいて形成されたものである。しかもそれは、資本制的生産様式全体に関わるもの として市民社会全体に関わり、この意味で直接に〈政治的性格〉が付随している。
 しかしブルジョアジーは、現実的にはあくまで個々の資本家として、 傘下の企業労働者を経済的に支配できるだけである。総資本的意志を、 プロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体に直接押しつけ、服従させることはできない。 それをなすためには、総資本的意志を特殊に、社会全体の秩序維持に任ずる法的規範としての国家 意志にまで、転成させねばならないのである。

 その転成はどのようにして行われるのか。

 一つは、国家は社会的国家として、各種公共土木事業や文教・福祉・医療等に関わる 社会的・経済的政策を〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」の履行として打ち出してくる。
 しかし上述のように、第三権力という形態をとった国家権力による社会全体の法的秩序維持は、 全社会的規模における階級分裂と階級社会の形成の結果として 必然化されたものであるから、社会的・経済的政策の実質的な遂行は、たてまえとしては第三権 力による大きな政治的指揮・統制の下で行われるとしても、実際には個々の民間企業(ブルジョア ジー)に委託する他はない。つまり、〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」 である社会的・経済的政策が実質的にはブルジョアジーの階級的特殊利害によって支配され、主導 されることになる。

 二つに支配階級は、支配階級を中心とした諸階級・諸階層の〈特殊利害〉を「国民的共通利害」= 「一般的共通利害」と仮構・僭称して強力に押し出し、被支配階級の相当な部分を取り込みな がら、その総資本的意志を国家意志のなかに大きく反映させ、貫徹させていく。そして、〈政治的 (共同幻想的)〉と〈社会的・経済的〉の如何にかかららず、 支配階級を中心とした諸階級・階層の〈特殊利害〉が一般的諸法として、 あるいはそれを直接の法制的前提として展開される〈政策〉の形態をとった国家意志として現実化さ れる。
 これは、ブルジョアジ一による階級支配が、政治的国家においても貫徹されるを意味している。

 このように、ブルジョアジ一による国家的支配(つまりブルジョア独裁)とは、その総資本的意志が 国家意志を実質上大きく支配することである。また、ブルジョアジーはそのことによっ てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので ある。
 これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体 に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。