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91. 『「非国民」手帖』を読む(1)

『「非国民」手帖』は、国家に抗する社会を作るための教科書である。
2004年11月13日
 表題(「非国民」手帖』は、・・・)は解説(宮崎哲弥)の最後の一行です。


 まずこの教科書の成り立ちから説明しよう。

 「反権威・反権力」を標榜する『噂の真相』が今年4月号で休刊になった。
 『噂の真相』には93年4月号から時評欄「撃」が設けられた。それぞれ 「(ひ ずみ) (またはゆがみ)」、「(くぐい)」というペンネームで二人の匿名氏が 担当した。それを加筆修正の上まとめたものが『「非国民」手帖』である。

  「撃」の時評はそれぞれ短文ながら、その時々の言説に激烈な舌鋒を浴びせて、その切り口は鋭い。 読んでいて胸のすく思いがする。逼塞した世界状況に抗い、ともすると深く傷つき鬱積 しがちな心を慰藉してくれる。しかし、そのような読み方だけで終わるわけには いかない。いや、終わらせてくれない。

 『どこまでも抗い続ける精神。決して権力にまつろわぬ言説。そうしたものが、あるときまで--- おそらく1980年代の初頭までは、いたるところに突出し、遊撃戦を展開していた。
 ところがいまや満目蕭条、寂として声なき有様である。権力者たちは不祥に脅えることなく 高枕で熟睡している。良民たちはセキュリティ・ブランケットにしがみつき、惰眠を貪ってい る。権力は睡魔に似ている。メディアは子守唄に似ている。
 かつて安らかな眠りから見放された一群の人々がいた。悪い時代、うつつの闇によって熟睡 を奪われた。少なくとも彼らはそう信じていた。そうして誰に頼まれるでもなく、機嫌の悪い 不寝番を買って出、微睡む私達を揺さぶり起こしてまわった。「目を醒ませ。眠っちゃ駄目だ。 醒めた目で現実を見詰めよ」と。
 いつのまにか、信頼できる不寝番は『サンデー毎日』の辺見庸「反時代のパンセ」と『噂の 真相』の匿名コラム「撃」の二つだけとなってしまった。自称不寝番は幾らかいるが、自分だ けは醒めているつもりの夢遊病者ばかりだ。
 然るに辺見庸はとうとう病に倒れてしまった。そして「撃」は『噂の眞相』休刊でひとまず 打留めとなる。ついにこの国は眠りに制覇されてしまうのか。皆挙って迷夢に退歩していくの だろうか。辺見や「撃」の筆者たちからすれば「保守反動ブタ」に違いない私までも不眠症に なりそうだ。(後略)』
(宮崎哲弥・解説「眠れぬ夜の共和国のために」より)

     『今となっては悲しいほどによくわかる。暴力的な圧政に抵抗しうるのは暴力的な言論だけだ。
  9・11以降、加速する反動の波はとどまるところを知らず、憲法改正すら目前に迫っている。
  堤防が決壊したのは1999年のことだった。
  短期政権を予想されていた小渕内閣は自由党との連携を取りつけ、旧田中派に脈々と受け継 がれる公明党との太いパイプを用いて、「自自公」という巨大な《怪物》を作り出した。わた したちはあの無能そうな笑顔の裏に潜むものを見逃したのだ。
 かの政権は国家権力の強化につながる超重要法案を矢継ぎ早に成立させた。野党はもとより、 「反対」のスタンスをとる新聞メディアの《正論》や《客観報道》もあまりに無力だった。《敵》 は---例えば盗聴法が---憲法の精神に整合しない、欠陥だらけの法律であることなど承知の 上で国会審議に臨んでいたのだ。絡め取られるのは必然だった。
 虚無と無関心がこの社会を覆い、慣れ、そして忘れた。
(中略)  だが、著者たちが撃とうとしている《本当の敵》は、狙上に載せられている言説 ではなく、それを称揚し垂れ流すメディアであり、ひいてはそれを許容し、無批判に受け入れ ている《世論》、つまりわたしたち自身だ。  「撃」が数年前に撃ったはずの虚妄の言説が、姿を変え、今もなお蔓延(はびこ)っている。頼れるのは あらゆる情報の政治性を自覚し、批判的に受容する、名も無き個人が紡ぐ《倫理》だけである。』
  (編集部記「まえがき」より)

 「撃」は、「虚妄の言説」は今もなお垂れ流されている、「目を醒ませ。眠っちゃ駄目だ。醒めた目で 現実を見詰めよ」と「私たち自身」を撃つ。

 『「非国民」手帖』は、「虚妄の言説」に真っ向から相対するための「ものの見方・考え方」の宝庫だ。 「国家に抗する社会を作るための教科書」たる所以である。
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92. 『「非国民」手帖』を読む(2)

好んで《国家》を語るくせに
2004年11月14日

俎上の鯉:①江藤淳『日本よ、どこへ行くのか』
    :②森嶋通夫『政治家の条件』(岩波新書)
料理人 :歪
料理記録日:92年4月号

 ①江藤について

 『基調はあまりに単純。要するにこうだ。「日本はなにごとも自分で決めてアメリカに口出しされないようにしなければな らない」
 国家間の関係を人間関係の延長でとらえる程度の能力しかない。好んで国家を語るくせに 《国家》についてまともに考えたことなど一度としてないのだ。揚句に、日本が軟弱なのは海 部首相が軟弱だからだ、という短絡に陥る。』

 と切り捨て、返す刀でリベラルと目されている②森嶋を料理する。

    『江藤と同じ方法をとっている。やはり《国家》や《政治》の問題を全 て個人の性格に還元するのである。当然日本の国際的孤立は海部の性格がもたらしたことにな る。ウエーバーを担ぎ出そうと、政治の本質は政治家個人の倫理に収斂されるものではない。
 根底を欠いた《リベラル》など所詮《反動》の鏡像として立ち現われる他ないのだ。』

 そして最後に止めの味付け。

   『過剰なまでに国家が語られながら、だれも《国家》を理解していない。
 《政治》が《政治家》という個人を媒介に顕現するのは確かだが、それは現象である。個人や 集団の意志が国家の意志として形成される過程と、国家の意志が個人や集団の意志を服従させ ながら実現していく過程のふたつを統合的に分析すること。これが《国家》を、《政治》を語 るということなのだ。
 しかし批判するのは知的怠慢によってだけではない。政治を政治家の占有に帰し、大衆を傍観者の圏内に封じる思想をこそ叩くのだ。』

 「批判するのは知的怠慢によってだけではない。」は分かりにくい文だが、「江藤や森嶋に対して その知的怠慢だけを批判しているのではない。」という意だろう。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
『個人や集団の意志が国家の意志として形成される過程と、国家の意志が個人や集団の意志を服従させ ながら実現していく過程のふたつを統合的に分析すること。』

 この部分(現実の政治過程の分析)の咀嚼とは、国家本質論を踏まえたうえでの統治形態論的な解明 ということになる。この問題についての最も良質な理論は、それをライフワークとする専門家が何年 もの研究を重ねたうえで構築するような質の事柄だ。
 専門家にも品質の差がある。「虚妄の言説」と「本物の言説」とは、自分の目でとらえた現実の世 界のあり様や自らの体験と厳しく付き合せることによって見定めるほかない。
 私が見定めた「本物の言説」、滝村隆一氏の国家論の助けを借りて咀嚼してみよう。 (次回に続く。)
94. 『「非国民」手帖』を読む(3)
《天皇制》の隘路
2004年11月16日

俎上の鯉:宮内庁編『道~天皇陛下御即位十年記念記録集』(NHK出版)
料理人 :歪
料理記録日:99年12月号

『《天皇制》は共同体に流通する価値を回収し、規範として再び共同体に提示する。いわばミラー ボールのようなものだ。それ自身が光源であるわけではない。社会に存在する支配的な意識 を映し出し、反射させている。
 本質を持たず、変容しながら、《空虚な中心》が支配の軸になりうるとはそういうことだ。  権力の生成の構造も知らず、支配者と被支配者を実体的に想定しても、敵の姿を捕捉するこ とはできない。
 戦後の《天皇制》は、とりわけ1959年の所謂《ご成婚》以降、マス・メディアと結びつ いたかたちで、《家族》の範型を提示することにおいて、大衆の支持と関心を集めてきた。
 宮内庁編『道~天皇陛下御即位十年記念記録集』は、平成の天皇明仁即位以 降、この十年間の天皇・皇后の発言集。本書に横溢する《護憲》《平和》《繁栄》などの言葉は、 これらこそが戦後の体制的言語であったことを示している。その一方で、折りにつけ天皇一家 の様子が報告されていることから、それが国家や社会と同じく重要な課題であることがわかる。
 しかし、社会や家族の急速な変容の中で、《天皇制》が立ち尽くさざるを得ない地点に来て いることも確かだろう。皇太后を家族全体で介護している姿を積極的にメディアに打ち出せず、 むしろ《隠匿》している印象を与えること。紀宮が未婚のままでいること。そして、陰に陽に 展開される皇太子妃への後継者プレッシャーもそうだ。国民が憧れる家庭像を提供してきたは ずの《天皇制》が、いつしか時代の流れから乖離しつつある。とはいえ、天皇一家がこの現在 の《家族》像に迎合してその形を変えることもできまい。
 《天皇制》が時代の共感を獲得し、次の世紀への延命をはかるには、この隘路を通過しなけれ ばならない。
 超越性にぶらさがることだけが秩序形成の唯一の途と、《国旗・国歌》の強制に血道をあげ ながら、ロックミュージシャンの人気にすがろうとする、足元のふらついた保守には《天皇制》 も市民社会も見えていない。』

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
本質を持たず、変容しながら、《空虚な中心》が支配の軸になりうるとはそういうことだ。  権力の生成の構造も知らず、支配者と被支配者を実体的に想定しても、敵の姿を捕捉するこ とはできない。

 『「非国民」手帖』からこれを選んだ理由はもう皆さん、お分かりでしょう。

 15日夕刊と16日朝刊と続けて、朝日新聞は天皇家の娘の婚約を一面トップで報じた。
 おいおい、一面トップで報じるほどのことかよ。いや、新聞が報じることじゃあるまい。 芸能人のゴシップと同様、そんなことはどうでもよいこと、知りたくもねえや。
 辺野古の過酷な闘いや権力の弾圧に対するさまざまな闘いが日々闘われている。国会では共謀罪という とんでもない弾圧法の審議が行われている。それらには一行の記事も書かないくせに、民衆の味方づら をするな。なんて、いまさら言っても始まらないか。他の新聞よりはいくらかましという理由で 購読しているに過ぎない新聞だから、まあそんなもんだろう。

しばらく、天皇制問題を取り上げた時評を取り上げていく。
95. 『「非国民」手帖』を読む(4)
危険な言説の在り処
2004年11月17日

俎上の鯉:皇太子妃の懐妊をめぐる報道批判
料理人 :歪
料理記録日:00年4月号

 『いま《危険な言説》はどこにあるのか。わたしたちが批判の対象とすべき、抑圧と統制を 招来する言説。それは、保守派オピニオン雑誌の中に見出せるのか。いや。むしろ誰も異論 をはさまない、至極当たり前の意見こそが、《危険な言説》に転化し得る。  皇太子妃の《ご懐妊》をめぐる騒動は、流産という結末を迎えることで、一転、報道批判 へと集約していった。天皇崇拝者からフェミニストまで。無論その論拠は異なっているが、 妊娠を報じること自体の必要性に対する疑問、とりわけ妊娠による身体的変化までを報じた ことへの怒りでは共通している。  そして皇太子もまた、「医学的な診断が下る前の不確かな段階で報道され、個人のプライバ シーの領域であるはずのこと、事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であり ます」 (2/22記者会見)と主旨を同じくする報道批判を語っている。  もちろん、妊娠をめぐる女性の身体的変化が子細にマス・メディアで報じられるのはグロ テスクな風景である。また、非婚者や子どもをもたないことを選択したひとたち、不妊に悩 むひとたちへの抑圧として機能したことも間違いない。  しかし、メディアにそう語らせてしまうことも含めて、これはまさに《天皇制》の問題と して考察されるべきなのだ。報道姿勢を批判することにとどまってしまえば、問題の淵源に はたどりつけない。 《家》的な思考の下に女性を生殖の手段とし、《性》を国家的な事業として、公的な意味合い を持つものとして位置づけているのは、《天皇制》そのものである。  報道があろうとなかろうと、皇太子妃は常に妊娠をうかがう視線に晒されているのであり、 報道があるとすれば、同じく低次元でしか展開されざるを得ない。。朝日新聞のスクープは《不 敬》ではなく、《翼賛》報道であるのは自明ではないか。グロテスクな風景はいずれまた再現 される。  皇太子妃《ご懐妊》報道批判は、《天皇制》そのものの考察へと射程を広げなければならな い。そうでなければ、あらたな皇室タブーをつけ加えたことでしかない。』
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 これはまさに《天皇制》の問題と して考察されるべきなのだ。報道姿勢を批判することにとどまってしまえば、問題の淵源に はたどりつけない。

 《家》的な思考の下に女性を生殖の手段とし、《性》を国家的な事業として、公的な意味合い を持つものとして位置づけているのは、《天皇制》そのものである。


石原の「ババア」発言は同根の問題である。《天皇制》はあらゆる低劣な差別思想の根源なのだ。
 石原の発言『“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア”なんだそうだ。 “女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。』

 昨日、朝日新聞が「辺野古の過酷な闘い」について一行も記事を書かないことを批判した。
 今日の朝刊の社会面にベタ記事でたった十数行の「辺野古」の記事が載った。しかしその内容は 「海底調査のため本格的な掘削を始める」ためのの「海上やぐらの組み立て準備作業」が波が高かったた めに見送られたというだけである。
 現地では「海上やぐらの組み立て準備作業」阻止を海上ヘリ基地建設阻止の正念場として、 さらに決死の闘いが行われている。その闘いについてはまったく触れていない。防衛施設庁提供の 情報をただ垂れ流しているだけなのだ。
 この記者は、どうして激しい反対闘争が起こっているのか、全く考えたこ ともないのだろう。いや反対闘争が行われていることすら知らないのだろう。知っていれば、 あんな垂れ流し記事で済ませることは出来まい。いずれにしてもジャーナリストとしてとんでもない 無知蒙昧な破廉恥漢だ。


「沖縄タイムズ」のホームページより
17日(水)朝刊
・辺野古調査、高波で作業見送り
・辺野古沖、決死の抗議/迫る台船 あわや衝突
辺野古

(写真説明)作業船にぎりぎりまで接近し、進行を阻止しようとする抗議船=16日午 後2時40分ごろ、名護市・辺野古沖
96. 『「非国民」手帖』を読む(5)
タブーを回避するゴーマニズムの矛盾
2004年11月18日

俎上の鯉:小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(幻冬舎)
料理人 :鵠
料理記録日:98年9月号

 今更本誌で小林よしのりを批判するまでもなかろうという気もするが、描き下ろしの新刊 の内容は相当に凄まじい。アジアの独立運動を促す「正義」があったとして「大東亜戦争」 を讃え、「八紘一宇」は白人の人種差別と戦う民族平等の思想だと主張し、「南京大虐殺」 や「従軍慰安婦」の強制連行を否定し、祖国のために死ぬ覚悟のない者は政治に参加する 資格がないと断じる、といった調子である。
 矛盾だらけの暴論とはいえ、藤岡信勝や西尾幹二でもさすがにそこまで言い切れていないの だから、それはそれで立派だという見方もあるかもしれない。だが、小林が戦後民主主義の空 気に逆らって自分の意見を主張する勇気ある発言者だと自認するのであれば、これを例えば中 国やアメリカで翻訳して出版すればいい。外国人が読まないことを見越して日本国内だけでゴ ーマンかましているというのでは、彼自身が戦後日本人の特徴として批判する「臆病」以外の 何者でもない。そればかりか、内容においても小林が「臆病」に避けている決定的な部分があ るのだ。
 例えば小林は、敗戦後の日本人が「国民は軍部にだまされていただけ」などと言うのは「決 定する主体たる自分はなかった」と言っているに等しく、責任の回避であり、信念や覚悟の欠 如であると批判する。また、東条英機には多くの犠牲者を出した戦争指導者としての責任があ るとした上で、誇りを失わずに東京裁判で戦い抜いた東条は立派だとも言っている。あるいは 特攻作戦で若者を次々と死地に送った責任をとるために自決した指揮官の「倫理観」を称賛し てもいる。
 これらは一つの考え方であるから、その是非については様々な意見があるとしても、論理的 に考えて決定的な欠如がある。小林の考えからすれば、責任を回避し、誇りを持たず、倫理観 が欠如しているのは、「国民」の誰よりも「天皇」ということになるはずではないか。ところ が小林は一切それに触れていないのだ。もっとも重要なその認識を回避して戦後日本人の批判 をしたところで、何の説得力もない遠吠えでしかない。
        
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 責任を回避し、誇りを持たず、倫理観 が欠如しているのは、「国民」の誰よりも「天皇」ということになる。
 もっとも重要なその認識を回避して戦後日本人の批判 をしたところで、何の説得力もない遠吠えでしかない。


 『責任を回避し、誇りを持たず、倫理観が欠如している「天皇」』という文に出会え ば、いやでも思い出すことがある。
 1975年、昭和天皇在位50年の年。戦前戦後をのっぺらぼうにして、「昭和」を一色にする ための詐術が盛り沢山に行われた。敗戦直後にGHQの命令で教科書に墨を塗って使ったとい うが、今度は支配者どもが歴史に同じ墨を塗って改竄しようという趣向。
 その一環として天皇・皇后の訪米が行われた。天皇は真っ先に、天皇の延命に力を尽くした GHQ最高司令官マッカーサーの墓を詣でたという。
 10月31日、訪米から帰った天皇が日米記者クラブで初の公式記者会見をした。

記者からの質問:「戦争責任についてどのようにお考えですか」
天皇の答:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」

 この空とぼけた答えはどうだ。天皇の名において理不尽な死を強いられた2000万強の死者に対する 冒涜ではないか。天皇教信者らにとっては天皇教の本山・靖国に祭られた死者だけしか念頭にないよ うだから、靖国の「英霊」だけに限ってもよい。天皇教信者よ、これでは「英霊」はうかばれまい。 まこと「責任を回避し、誇りを持たず、倫理観が欠如している」ものの見本ではないか。