2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昨日アップした記事は年月日がたいへん混乱していました。いつもの悪いクセですが、点検を怠りました。また追加事項がもう一つありました。書き換えて改めてアップします。
166. 『「非国民」手帖』を読む(31)
2005年1月27日(木)

前々回(1月25日)の続きです。

 この社会ではすべてが個別的で、私意と私欲を構成要素としているとすれば、どのような意 味でも普遍的な《正義》をうち立てることはできない。結局そんなものは私意のひとつに過ぎ ないからだ。
 普遍的《正義》をうち立てようとする者は、現実に根拠を持たない普遍性を求めていること において《信仰》を求める者であり、そして、個別的利害を普遍性に仮装して強制しようとい う点において、絶対的な《敵》である。普遍的《正義》が虚構であることをあらかじめ暴露し ているだけでも、資本主義は《愛》の対象になり得る。

 ある個別的利害を根拠に打ち出された正当性をその個別性の範囲を逸脱して主張したり強制 したりすれば、それは不当な主張、不当な行為といわなければならない。
 そして、剥き出しの私利・私欲を存立基盤にして成り立つ資本主義社会では個別的利害しか その現実的根拠はない。この社会で打ち出される普遍的《正義》は虚構としてしかありえない。
 私はイデオロギーに「虚偽意識」というルビを振っている。あるイデオロギーを普遍的正義と してかざすのものは、虚構の正義を普遍的正義と錯誤しているのだ。イデオロギーはまさに《信仰》 という「虚偽意識」の謂いである。
 「個別的利害を普遍性に仮装して強制しようと」する「絶対的な《敵》」とは、資本家であり、 国民のためを偽装する政治政党であり、イシハラであり、コイズミであり・・・ なんのこはない、敵だらけだ。

   では、個別的利害による個別的正義しか成り立たないこの社会に真の共同性を打ち立てる可能性は あるのか。真の人間解放は可能なのか。
 抑圧者には真の人間解放の契機はない。それは被抑圧者だけが担える課題だ。

  普遍的な《正義》が不在のこの《世界》で生きるためには、ささやかな《倫理》が個々に紡  がれ、その《共感》をゆるやかに広げていくしかない。《共感》の細い糸を浮かび上がらせるた  めに、《敵》をひとつひとつ撃っていくしかないのだ。

   ここで言われている「個々に紡がれた」《共感》を「ゆるやかに広げていく」というイメージは、 私の中では、水田ふうさんの「無数の水溜りと水溜りがプチップチッとくっいていく」(第160回・1月21日) という「潮が満ちてくる海」のイメージと重なる。

 そこで、だ。
成熟し、膨化する資本主義のもとで、進行する《個》への解体と共同性の希薄化に耐えられ ない者が出てくる。まさに《大義》を掲げて、共同体への郷愁を《国家》幻想を強化する言説 で支えようとすることは、言葉の真の意味での《反動》に過ぎない。やつらが永遠に《勝利》 を獲得することがあり得ないのは、はなから明らかなことである。この社会のあり方どころか、 好んで口にする《国家》も《歴史》も《伝統》もまともに考えたこともなく、その知識も誤謬 に満ちたものでしかない。
「進行する《個》への解体と共同性の希薄化に耐えられない者」がその矛先を、逼塞状況の根源である 「資本主義」に向けるのではなく、手前勝手な《国家》とか《歴史》とか《伝統》とかにす がりつく。その典型がイシハラであり、イシハラの腰ぎんちゃくであり、イシハラのポチども である。

 一方、資本主義社会においては、私意の解放や欲望の充足に過ぎないことを自覚もせずに要 求される《市民的自由》など、いかに《反体制》のポーズをとろうと、ロマンティックな幻影に 支えられた概念で終わるしかない。「自由な市場経済」なんてもの言いを思い浮かべればすぐ わかる。それは《個》の対立と社会的不平等を必然的にともなうものだからだ。国家の管理か らの解放にとどまらない《自由》への構想がなければ、《市民的自由》の要求が資本主義社会 のしたたかさの証明としてしか機能しないこともまた、確かなのである。
 《右》も《左》も現実に立脚しない空虚な言葉を垂れ流しているだけだ。ものを考え、ものを 書くことで生きていることになっているはずの、大学教師や売文業者たちの怠慢と不真面目は どうだ。それらは全て本書で明らかにされている。
 思想の風俗への迎合を《権威》と勘違いし、たぶらかされて舞い上がっている《大衆》とや らも、また耳ざわりのいい言葉と戯れることで現実から逃亡しているに過ぎない。
 遠くへ跳ぶための想像力と、それを語る言葉なんだよ。要請されているのは。
 もちろんここに収められた文章は時評であり、その時々の事件や現象を扱っている。しかし それだけにとどまらない射程は有しているはずだ。
 まだまだいける。おら。もう一撃かましてやれ。
 そう、特にマスコミをにぎわす言説は「《右》も《左》も・・・空虚な言葉」だらけだ。それ に対して『「非国民」手帖』は最後まで切れ味鋭い舌鋒で、私の期待を裏切らなかった。
 「解説」で宮崎哲哉さんが書いているように「豊かな教養と緻密な推考と潔い倫理に裏付けされ た批判」だ。私はすっかり「歪」さんのファンになってしまった。「歪」さんは今なお何処かで舌鋒を 振るっているのだろうか。正体を知らないが、是非再び出会いたいものだ。

 「歪」さん、隠れていないで、私たち《同志》(と言っても私はいまだ「保守反動ブタ」と如何ほども 違わない浅薄者だが)激しく鼓舞し、《敵》を正鵠に撃つために、出てきてくれないかなあ。
164. 『「非国民」手帖』を読む(30)
2005年1月25日(火)

 『「非国民」手帖』は百二十数編の小論を収録している。そのうち約四分の一を読んできたこと になる。まだ四分の三を残しているが、シリーズとしてはひとまず閉じることにする。
 このページで今後どういう事柄を取り上げるか、いきあたりばったりで私には予定がない。今後取り上 げる論題と関わるものが『「非国民」手帖』の読み残しの中にあれば、その時はまた援用させて もらうことにする。

 さて、一応の締めとうことで「あとがき」を読むことにする。筆者は「歪」氏。
 
 本コラムは、資本主義に耽溺しながらも、けして満たされることのない淋しき《プロレタリ アート》の魂を抱えた《同志》にあてて書き継がれてきた。
 時評コラムに、いまさら総括でもない。足すべき言葉は、本来不要のはず。だが、まあ、せ っかく与えられた「あとがき」の場だ。もうひとコラムのつもりで付き合ってくれ。
 まずは、資本主義の愉楽をしゃぶりつくせ、ということだ。
 資本主義が《商品》とそれに対する《欲望》そのものをも同時的に生産しつつ、《欲望》の充 足を達成したのに対し、《左翼》はそれを超える《世界》像を提示し得なかった。
 《左翼》の想像力は資本主義の発達のスピードに遅れをとったのだ。
 ならば、資本主義のあり方にその身を根底から洗われ、深く沈潜させないことには、どんな 《思想》もはじまりはしないはずだ。

 私はここで言われている意味での《同志》と自認する。そして「資本主義の愉楽」をみみっちく 楽しんでもいる。いくらかの後ろめたさを覚えながら。
 「歪」氏はそんな私のみみっちさを蹴っ飛ばしている。後ろめたさなど覚えるからみみっちくなる、 後ろめたさなど不要だ。必要なのは「資本主義」の正体を透徹して見据えること。そのためにこそ 「しゃぶりつくせ」とアジっている。
 マルクスは『ユダヤ人問題によせて』でこう記している。「普遍的利害と私的利害との衝突」 即ち「政治的国家と市民社会との分裂」と(引用は岩波文庫版。傍点は原文)。
 本来なら、マルクスのご託宣をビリッと挿入しとけばそれだけのことだ。しかし、マルクス もとんと近頃は遠景に追いやられてることだし、ここはケーモー的にいこうか。
 つまりこうだ。

 『ユダヤ人問題によせて』について、「自由について(1)(2)」(2004年12月30日、31日)で私が 参考にした部分と同じくだりを「歪」氏も取り上げている。ただし私のは単なる要約に過ぎなかったが、 「歪」氏の論考は自分の言葉で噛み砕いているので分かりやすい。次のように論じている。
 近代では《国家》と《市民社会》は分裂している。あるいは《政治》と《経済》の分裂とい いかえてもよい。《国家》の成員という側面から人間を捉えた場合、それは共同的で普遍的な存 在といえる。政治的には、すべての国民は、同じ重さの一票を有し、平等の立場で共同体に参 加している。一方、《市民社会》の構成員という側面から見れば、バラバラな《個》が、全く不 平等な経済条件下で、個別的な利害を衝突させ、永遠に解消されない対立を展開している。  それが、人間は、《国家》という《幻想》上では共同性を有しつつ、現実の生活では相互に対 立する《個》でしかあり得ない、ということだ。 《国家》という共同性を疎外することで《個》に解体されるということ。それがまさに資本主 義社会における《自由》の由来だ。この社会では誰もが否応なしに《自由》であらざるを得な い。富裕があれば貧困もあり、栄光があれば悲惨もある。それが《自由》な社会ということだ。  制約や管理がない社会のことのはずだ、てか。それはもちろん《自由》だろうさ。そこでは 私意と私欲が剥き出しでぶつかり合っているはずだからな。

(次回に続く)
143. 『「非国民」手帖』を読む(30)
より激しい《暴力》を
2005年1月4日(火)


俎上の鯉:《自由》な言論が決定的に不在しているメディア
料理人 :歪
料理記録日:04年2月号

 《自由》な言論は、それを展開する場が休止したからといって、消失してしまうわけではない。 場の性格によってのみ言論の《自由》が保障されているのではなく、言論は言論によっていつ でも《自由》を獲得し得るはずだ。にもかかわらず、おびただしく氾濫するメディアを見渡し ても、《自由》な言論が決定的に不在であるとしか映らないのはなぜか。
 政治的権力の弾圧や商業的論理による抑圧は常に、言論の《自由》の前に立ちはだかる。こ うした可視的に出現する敵対者を想定することは容易い。しかし、外的な強制力には《自由》 な言論を本質的な意味で葬り去ることはできない。むしろ、弾圧や抑圧が明確に立ち現れてく ることで、言論の闘いがより深まり、《自由》の輝きが増すということはままある。
   言論の《自由》がほんとうの意味で危機に直面するとしたら、それは必ず言論の内部から訪 れてくる。法や道徳や、習慣、宗教など、日常の生活の中で醸成される規範意識に馴致され、 言葉もその足伽に繋留されてしまう。そのような制約に絡めとられていくことこそが、言論の 《自由》を危機の淵に追いやるものなのだ。
 いま直面している言論の《自由》の危機とは、表現する側の内部が規範の制約に幽閉されて いることに無自覚であることなのだ。
 自由を問う姿勢だけが自由を保障する。
 《自由》な言論とは、出来合いの構図の中で《反体制》的位置取りができるかどうかというよ うなこととは無縁である。読む者を既成の枠組みから解放し、新しい思考を可能にすることこ そが、言論が《自由》であるということに他ならない。
 《自由》な言論は必然的に、規範に敵対し、秩序を攪乱し、法を犯す。だからこそ、いま《自 由》な言論が要請される。
 世界に暴力が充満し、日本という国家も軍隊を派遣することで、より暴力を昂進させようと している現在、こうした暴力に抗する、より激しい《暴力》を準備しなければならない。 政治的な暴力を政治的な暴力で根絶することはできない。既成の言語を、既成の思考を破壊する《暴 力》的な言論こそが、現実の、政治の暴力を粉砕する。

 04年4月号で「噂の真相」は休刊している。その休刊を意識した書き出しとなっている。
 これまで見てきたように「撃」の言論は、ますます悪辣であからさまになる政治的な暴力に、 真に抗するといえる《暴力》的な言論を展開していたのだ。

 もう一人、「真に抗するといえる《暴力》的な言論を展開していた」のが辺見庸だ。
 政治的な暴力に抗する暴力。辺見さんはこれを「抗暴」と言っている。

『抗暴』(カンパオ)・・・反動的暴力に抵抗し反撃する(中日辞典)

すでにして国家暴力は連鎖的に膨らみ、拡大し、移動し、拡散しつつある。 有事法案もまた国家暴力の典型である。イラク戦に刺激されたタカ派たちは 法案採択に向けてなりふり構わない動きにでている。この流れに従うか (あらが)うか。絶対暴力を黙認するのか、それに抵抗するのか。 これからは日常の何気ない風景のなかで大事な選択が迫られるだろう。だから、 「抗暴」(カンパオ)を私は意識する。この言葉は国家暴力に対する熾烈(しれつ )な抵抗の経験を欠くこの国の辞書にはない。単に心のなかで暴 力を忌み嫌うということではない。抗暴は意思的な抵抗であり、反撃である。
(中略)
 まさに歴史は(むご)いほど徹底的だ。この果てしなく長い ドラマにあっては、9・11は序幕、アフガン攻撃は第二幕、現在はせいぜいがまだ第三幕だ。 暴力はもっともっと吹き荒れるだろう。抗暴の意思と力がいよいよ問われる。」

 辺見さんがこのように書いたのはほぼ3年前である。そのとき以来「暴力はもっともっと 吹き荒れ」て、なおとどまることがない。しかも反撃の力はかぼそい。

 私はあまりにも悲観的過ぎるだろうか。
141. 『「非国民」手帖』を読む(29)
赤き烙印を受けた者たちへ
2005年1月2日(日)


俎上の鯉:いわゆる《大衆》すなわち私たちだ
料理人 :歪
料理記録日:04年4月号


 「なにしに生れてきたと問はるれば/躊躇なく答へよう。反対しにと」とうたった漂泊の詩人。 間違いなくその胸には《反対》の赤き烙印が押されていた。
 同様に赤い烙印を受けた者たちが、叫びを呑み込んだまま、互いを血族とも気づかずすれ違 いながら、彷徨している。ほら。疼きのなかで赤い文字が浮かび上がってくるのを感じないかい。
 そう。テーマはいつも《権力》をどうぷっ叩くかだ。
 攻撃力は、憎悪の深さとパンチを繰り出すリズム感が左右する。
 で、問題は結局《権力》って何だよ、ということに帰結する。
権力者と支配される無垢な大衆という三流《左翼》的な図式。あるいは、投票で選ばれた市 民の代表が政治を司るという能天気な《民主》的図式。こうした平面的な《権力》観とは訣別 しなければならない。
 下から権力が組織される上向の過程と、上から《権力》が支配する下向の過程を、統合 的に把握する必要がある。実体としての敵を求めるのは安易な方途だが、媒介的な関係として しか《権力》は存在していない。
 したがって。批判の対象としては常に回避され、隠蔽されているもの、ここまで射程を有さ なければ《権力》には届かないのだ。それは《権力》を支え、それにすりよることで、暗鬱な 欲望を満たそうとするものたち、つまり《大衆》だ。
 おまえの《敵》はおまえだ。だから、わたしの《敵》はわたしだ。坊主懺悔としてではなく、 外部と内部の《敵》を同時に撃つために、《闘争》は言語による批評という形態を必然的に招来 する。そして言語の《闘争》は《政治》の枠を超えて、《文化》へと拡大し、生活の中で全面化 する。
 赤き刻印を負った者たちよ、《闘争》は可視に、不可視にすぐそこで展開している。
 この《闘争》は永遠だ。何も終わってはいない。終わらせるためには、はじめなければなら ない。
何のためにか、つて。叫びを解き放つために、だよ。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
おまえの《敵》はおまえだ。だから、わたしの《敵》はわたしだ。外部と内部の《敵》を同時に 撃つために、《闘争》は言語による批評という形態を必然的に招来 する。そして言語の《闘争》は《政治》の枠を超えて、《文化》へと拡大し、生活の中で全面化 する。

  「121回」(12月13日)で書いたものを再録する。

 『日常の生活とは国家意思の反映であり、規範意識の馴致過程の謂いである。「空虚な泰平に埋没する」 とはその日常になんらのささくれだちも感じなくなることである。それは支配権力への服従へ 通じるネットワークに絡めとられたことを意味する。そして、日常生活において感じるささくれだちを 掘り下げていく営為を「懐疑の精神」と言っていると思う。』

 「下から権力が組織される上向の過程」とは規範意識に馴致された大衆の日常生活が権力を支える過程 であり、 「上から《権力》が支配する下向の過程」とは国家意思が日常の生活に浸透してくる過程である。
 したがって、日常生活の中で全面化されるような言語による闘いとは、日常の生活で法や規範や四角な しきたりを強いられたり、それに抗ったりするときに「感じるささくれだちを掘り下げていく営為」 にほかならない。