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<title>自由のための「不定期便」</title>
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<description>2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。</description>
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<title>「倭人伝」中の倭語の読み方(22)：｢洛陽古音」って何？</title>
<description> 《続・「真説古代史」拾遺篇》(79)


「倭人伝」中の倭語の読み方(22)
｢洛陽古音」って何？


　もう一回、面倒な寄り道に付き合ってください。


　楠原氏は『地名学…』の執筆に当たって『「倭人伝」が書かれた時代の洛陽で使用されたという長田氏の「洛陽古音」説が大いに参考にできた。』と述べている。長田氏の「洛陽古音」というのを随所で取り上げている。例えば「邪馬臺」を「ヤマダ」と読む根拠に用いている。そ
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<![CDATA[ <font color="#ff0000"><BIG><B>
《続・「真説古代史」拾遺篇》(79)
</font><BR><BR></BIG></B>
<FONT COLOR="#0000FF"><BR><BR>
「倭人伝」中の倭語の読み方(22)<BR>
｢洛陽古音」って何？
</BIG></B></FONT><BR><BR>

　もう一回、面倒な寄り道に付き合ってください。
<BR><BR>

　楠原氏は『地名学…』の執筆に当たって『「倭人伝」が書かれた時代の洛陽で使用されたという長田氏の「洛陽古音」説が大いに参考にできた。』と述べている。長田氏の「洛陽古音」というのを随所で取り上げている。例えば「邪馬臺」を「ヤマダ」と読む根拠に用いている。その地名読みの概略を紹介しよう。
<BR>

　まず、「臺」「台」の字について、漢和辞典（藤堂明保『学研漢和大辞典』）の各時代の字音と「洛陽古音」とを並べた表を提出している。
<BR><BR>

<img src="dainoyomikata.jpg" align="" hspace=""><a href="http://blog-imgs-51.fc2.com/a/d/a/adat/dainoyomikata.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-51.fc2.com/a/d/a/adat/dainoyomikata.jpg" alt="臺の音韻" border="0" width="142" height="724" /></a>
<BR><BR>

　これから、臺も台も「タイ」と読むようになったのは中世以降であることを確認し、「ヤマタイコク」と読んできた従来の読みを否定する。次ぎに、「洛陽古音」では「邪馬臺」はi&#594;-m&#594;-d&#145;&#477;&#301;という発音になると言う。「洛陽古音」提唱者の長田氏自身はこれを「ヤマド」または「ヨモド」とカナ表記している。楠原氏はこのカナ表記退ける。落陽古音の「臺」の発音記号をカタカナ表記するなら、「ド」よりもむしろ「ダ」ではないか、と主張している。
<BR><BR>

　ここで用いられている発音記号は何だろう。手許の中日辞典の「中国語音節表」を調べたが、それではないようだ。ネットで調べてみた。「国際音声記号」のようだ。一般に英和英語などもこの記号を用いているらしい。ならば私の貧しい知識でもある程度は読めるだろう。うん、私にも「ド」ではなく「ダ」としか読めない。楠原氏は<BR>
「多くの邪馬台国論者と同じく長田説の場合も、誰でもが周知のヤマト（大和）という後世の巨大で著名な地名が先入主となって、ほかの地名の可能性を検討することなく、早々に結論を導き出したのではないか。」<BR>
と長田氏の誤解の原因を推定している。
<BR><BR>

　何度も言うように「邪馬臺（台〉国」という表記を選んだのが間違いなのだから、こういう議論を追うのは無駄なことなのだが、楠原の地名読みの方法を確認するために付き合ってみた。
<BR><BR>

　「洛陽古語」とは何なのか。『「倭人伝」が書かれた時代の洛陽で使用された』言語というのなら、その音韻は、なんのことはない、呉音ではないか。と考えたが、そうではないらしい。念のため長田夏樹著『邪馬台国の言語』を借りて来た。「洛陽古語」と称している音韻を独自に創り上げているのだった。その手法は次のようである。
<BR>

　まず、倭人伝の次の固有名詞を取り上げている。
<BR><BR>

多<I>模</I>・伊<I>都</I>・卑<I>奴</I>母離・卑弥<I>呼</I>・未<I>廬</I>
<BR><BR>

　これらは従来<BR>
ト<I>モ</I>・イ<I>ト</I>・ヒ<I>ナ</I>モリ・ヒミ<I>コ</I>・マツ<I>ラ</I><BR>
と訓まれでいたと言い、これを次のように批判している。
<BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

　しかし中国の唐未、五代に成ったと考えられる漢字を日本の五十音図のように配列して、その字音の帰属を表示した『韻鏡』（図2）によれば、〈模〉〈都〉〈奴〉〈呼〉〈廬〉　はいずれも内転第十二開合の平声一等に属していて、母音を等しくする文字であるから、これらの訓み方がいかに恣意的なものであるかがわかるであろう。
<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

　すぐ次のような疑問が出てくる。<BR>
「唐時代に作られた『韻鏡』を用いて読む音韻を３世紀の洛陽での音韻としてよいのだろうか。」<BR>
　長田氏は図2（内転第十二開合の写し）に次のような注を付けている。<BR>
「『韻鏡』自体は中古音の体系を示した韻図であるが，この図に関するかぎり上古音の体系としても用いられる。」
<BR>
　内転第十二開合だけは「上古音の体系としても用いられる」と言っているが、その根拠は何も示されていない。私の疑問は解消しない。
<BR><BR>

　『韻鏡』をウィキペディアでにわか勉強してみた。私には理解出来なかった。副産物がありました。「韻鏡十年」ということわざがあるんですねぇ。その意味は「理解することが、きわめて難しいこと（韻鏡の理解には十年かかる）」でした。
<BR><BR>

　分らないのに「韻鏡」を根拠にした議論を読んでも仕方がないのだが、ついでなので、興味がある人あるいは分る人のために続きを紹介しておこう。
<BR><BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

　では内転第十二開合一等の示す具体的な洛陽音の音価はどのようであったか。『魏志』巻30に引用しである『魏略』の「西戎伝・臨児国」の条には、仏陀に関する簡単な記載がある。
<BR><BR>

<FONT COLOR="#0000FF">
「浮屠経」に云く。其の国の王、浮屠を生む。浮屠は太子なり。父は屑頭邪と曰い、母は莫邪と云う。
</FONT><BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

　筑摩書房版『三国志』で確認してみた。「倭人伝」の直後（つまり「魏書」の最後の記事）に長い注釈がある。その中の一節だった。ちなみに、筑摩版では「浮屠・屑頭邪・莫邪」を「「フト・セットウヤ・マヤ」と読んでいる。
<BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

　ここにいう浮屠とはもちろん釈迦牟尼その人であり、サンスクリットのbuddhaの音訳である。とすればシヤカの両親である〈屑頭邪〉と〈莫邪〉は浄飯王の&#347;uddho-danaおよび摩耶夫人のm&#257;y&#257;の訳音であることが明らかであろう。
<BR><BR>

<a href="http://blog-imgs-51.fc2.com/a/d/a/adat/inkyou_20120515172830.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-51.fc2.com/a/d/a/adat/inkyou_20120515172830.jpg" alt="韻鏡" border="0" width="640" height="570" /></a>
<BR>

　このdha,m&#257;の音を表記した〈屠〉〈莫〉〈この場合〈暮〉と同音〉を『韻鏡』にあてはめれば、内転第十二開合一等に属しているから、その母音は〔&#593;〕を表わしていることとなり、さきの字はそれぞれ〈模〉mw&#593;〈都〉t&#593;〈奴〉n&#593;〈呼〉&#967;&#593;〈廬〉l&#593;となる。
<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

疑問<BR>
（理解出来ていない者が口をだすのはおこがましいが、内転第十二開合一等の母音は「オ」じゃないの？　第一列の漢字が「韻母」だとすると、「模」の音は「モ・ボ」しかないものなぁ。）
<BR><BR>

　氏は「他の文字についても、こうした手続きをふんで音価を比定すると表3のごとくなる。」と続けて、「倭人伝」に登場する固有名詞の「洛陽古音」とやらによる読みの一覧表を提示している。「洛陽古音」は私には疑問だらけの音韻だが、「洛陽古音」による長田氏の倭語の読みは必要に応じて紹介していこう。
<BR>
 ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>続・「真説古代史」拾遺篇</dc:subject>
<dc:date>2012-05-15T16:51:51+09:00</dc:date>
<dc:creator>たっちゃん</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
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<link>http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1749.html</link>
<title>「倭人伝」中の倭語の読み方(21)：倭語音韻の基本法則(2)の補足</title>
<description> 《続・「真説古代史」拾遺篇》(78)


「倭人伝」中の倭語の読み方(21)
倭語音韻の基本法則(2)の補足


　全くの門外漢が今まで考えたこともない事柄を取り上げている。私の考えが正しいのかどうか、はなはだ心許ないが、乗りかかった船、もう少し続ける。


　『地名学…』（2002年）を読んでいて、楠原氏が溝手理太郎という方と共編で『地名用語語源辞典』（1983年）を出版していることを知った。参考にしようと思い、さ
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <font color="#ff0000"><BIG><B>
《続・「真説古代史」拾遺篇》(78)
</font><BR><BR></BIG></B>
<FONT COLOR="#0000FF"><BR><BR>
「倭人伝」中の倭語の読み方(21)<BR>
倭語音韻の基本法則(2)の補足
</BIG></B></FONT><BR><BR>

　全くの門外漢が今まで考えたこともない事柄を取り上げている。私の考えが正しいのかどうか、はなはだ心許ないが、乗りかかった船、もう少し続ける。
<BR><BR>

　『地名学…』（2002年）を読んでいて、楠原氏が溝手理太郎という方と共編で『地名用語語源辞典』（1983年）を出版していることを知った。参考にしようと思い、さっそく図書館から借りてきた。その辞典に「た」という項目が設けられていて、「タ」接尾語説が説かれている。次のようである。
<BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

た〔田、太、多、大、駄、丹、手、&#x57F5;〕<BR><BR>

①接尾語。「方向」、「場所」、「部分」、「位置」などを示す。カナタ（彼方）、コナタ（此方）、アナタ（彼方）、シタ（下）、ハタ（端）、ヘタ（辺）などのタ。「方向」を示すテ（手）と同義（『岩波古語辞典』）といわれるが、むしろ地名での用例からすると「場所」を示すト（処）に近い。<BR>
②耕作地。水田。ト（処）の転〔松岡静雄〕か。<BR>
③接頭語。テ（手）の意か。単に語調をととのえるものもあるか。<BR>
④タ（咫）で、上代の長さをはかる単位に由来するものもあるか。<BR>
⑤「多」、「太」などの字音による地名もあるか。
<BR><BR>

〔解説〕日本の地名（とくに集落名）中には、語尾に「田」のつくものがきわめて多い。このことは水田耕作に依拠する民族性を示すことはその通りであろうが、しかしこれらの地名の「田」すべてを「水田」の意と解しては明らかな語義矛盾に陥るものも少なくない。むしろ、①の「処」の意のタで、「田」という用字は瑞祥的・願望的好字として使用されたものと理解したほうが、ほとんどの地名の解釈においては有効有益であろう。
<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

　前回書いたように、③の接頭語はどの辞典にも載っている。例として前回は現代語を挙げたが、古語辞典では「たやすし」「たばかる」「たばしる」などの例が挙げられている。<BR><BR>

　①の接尾語を再論する。前回、カナタ（彼方）、コナタ（此方）、アナタ（彼方）の「タ」を接尾語とするのは誤りだということを述べたが、ここではシタ（下）、ハタ（端）、ヘタ（辺）もその例としてあげられているので、これを検討してみよう。
<BR><BR>

　「ハ（端）」「ヘ（辺）」はその一音だけで、それぞれ「はし」「ほとり・あたり・へん」という意味をもつ「部分」を表す語である。従って「ハタ（端、半）」「ヘタ（辺、端）」はそれぞれ「ハ（ヘ）」と「タ」の合成語」と考えられる。
<BR><BR>

　これに対して「シタ」の場合、「シ」一音で「部分（部分）」を表すのだろうか。どの辞典にもない。この場合は「シタ」を「シ」と「タ」の合成語とは考えがたい。「キタ（北）」は「方向」をあらわす語だが、これも「キ」と「タ」の合成語だと言うわけにはいかないだろう。
<BR><BR>

　「語根」という概念がある。この概念を用いれば、「ハ」「ヘ」「タ」はそれぞれ語根であり、「ハタ」「ヘタ」は二つの語根の合成語である。また、「シタ」「キタ」はそれ自身が語根である。このように考えるのが穏当ではないだろうか。
<BR><BR>

　もちろん、「タ」を接尾語と定義したければ定義してもよいが、それでは接尾語だらけになってしまう。この伝で行くと、例えば「カタ（肩）」「シタ（舌）」「マタ（股）」から「タ」は身体の部分を表す接尾語である、などという説もまかり通ってしまう。例えば「サ」という状態・程度を示す接尾語がある。「寒さ」「暑さ」「薄さ」「厚さ」「深さ」「浅さ」「美しさ」「醜さ」「愛しさ」「憎さ」……。接尾語にはこのような普遍性がある。上・下や東・西・南・北を示す語が全て「…タ」と表音されるぐらいの普遍性がなければ、「タ」を接尾語などと言うわけにはいかないのではないか。
<BR><BR>

　上で「語根」という概念を取り上げたが、古田さんの「言素」はこれと同じ概念ではないだろうか。その言素に関連して、古田さんは『俾弥呼』で接頭語・接尾語という用語を用いている。例えば<BR>
『「マ」は、日本語に最も多い接尾語。「やま(山)」「たま(玉)」などの「マ」である。』<BR>
というように用いている。楠原氏の場合と同様、不適切な使い方である。二つの言素（語根）の合成語と言うべきだろう。
<BR> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>続・「真説古代史」拾遺篇</dc:subject>
<dc:date>2012-05-13T11:03:28+09:00</dc:date>
<dc:creator>たっちゃん</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
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<link>http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1748.html</link>
<title>「倭人伝」中の倭語の読み方(20)：倭語音韻の基本法則(2)</title>
<description> 《続・「真説古代史」拾遺篇》(77)


「倭人伝」中の倭語の読み方(20)
倭語音韻の基本法則(2)


　前回、④・⑤の先頭音の濁音化を「後世における音韻変化」と書いたが、そうではなく、「漢字の読み方の変化」と言った方が適切かも知れない。例えば⑤「造果郷」について『和名抄』には「サウカ」という訓注があるという。倭音「サウ」に「造」という漢字を割り当てていることになるが、念のため漢和辞典を調べると、「造」には
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <font color="#ff0000"><BIG><B>
《続・「真説古代史」拾遺篇》(77)
</font><BR><BR></BIG></B>
<FONT COLOR="#0000FF"><BR><BR>
「倭人伝」中の倭語の読み方(20)<BR>
倭語音韻の基本法則(2)
</BIG></B></FONT><BR><BR>

　前回、④・⑤の先頭音の濁音化を「後世における音韻変化」と書いたが、そうではなく、「漢字の読み方の変化」と言った方が適切かも知れない。例えば⑤「造果郷」について『和名抄』には「サウカ」という訓注があるという。倭音「サウ」に「造」という漢字を割り当てていることになるが、念のため漢和辞典を調べると、「造」には確かに「ソウ（サウ）」という音がある。この「造(サウ)」が、後に「造(ゾウ)」がより一般的な読みとなり、「造果」という地名にまで波及したと考えられる。
<BR><BR>

　このような漢字の読み方の変化ではなく、倭語そのものの音韻変化がある。通韻（同韻相通、段訛り）・通音（五音相通、行訛り）・「連濁」である。
<BR><BR>

<FONT COLOR="#FF0000">
通韻（同韻相通、段訛り）
</FONT><BR><BR>

　五十音の同じ段の音に変わる音韻変化である。例を挙げると<BR>
「けむり」→「けぶり」<BR>
　マ行ウ段の「む」がバ行ウ段の「ぶ」に変化している。<BR>
「のく（退）」→「どく」<BR>
　ナ行オ段の「の」がダ行オ段の「ど」に変化している。
<BR><BR>

<FONT COLOR="#FF0000">
通音（五音相通、行訛り）
</FONT><BR><BR>

　五十音の同じ行の別の段の音に変わる音韻変化である。例を挙げると<BR>
「ありく（歩）」→「あるく」<BR>
　ラ行イ段からラ行ウ段に変化している。<BR>
すめらぎ（皇）」→「すめろぎ」<BR>
　ラ行ア段からラ行オ段に変化している。
<BR><BR>

<FONT COLOR="#FF0000">
連濁
</FONT><BR><BR>

　広辞苑では<BR>
「2語が複合して1語をつくるとき、下に来る語の初めの清音が濁音に変わること。」<BR>と説明して、次のような例を挙げている。<BR>
「みか(三日)」+「つき(月)→「みかづき(三日月)」<BR>
「じ(地)」+「ひき(引)」→「じびき(地引)」
<BR><BR>

　少し身近な例を挙げてみよう。<BR>
げたばこ・はりばこ<BR>
ざぶとん・かけぶとん・しきぶとん<BR>
ほんだな・かみだな<BR>
かなづち・きづち<BR>
　動詞にもある。<BR>
さきばしる・ねぎる・てまどる
<BR><BR>

　「連濁」の起こり方のルールは相当複雑である。面白い問題だが、今は深入りしない。
<BR><BR><BR><BR>

　<td bgcolor="#ffff00"><a href="http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20120505.html">『「21国」の読み：準備編』</a></td>で楠原氏の「邪馬臺国」の読みを紹介したが、実はそのとき一つ疑問に思ったことがある。それが倭語の音韻変化を改めて学習しようと決めたきっかけだった。その疑問を取り上げておこう。
<BR><BR>

　楠原氏は「邪馬臺」を「ヤマダ」と読み、<BR>
(1)<BR>
『「山田」という言葉の語構成は、ヤマ・ダという形で、ダはタの連濁であろう。』<BR>と述べている。そして、この「タ」は「アナタ」「コナタ」の「タ」であり、これは<BR><BR>
(2)<BR>
『「方向・場所」を示す接尾語のタではないか。』<BR>
と言ってる。
<BR><BR>

　(1)では「ヤマダ」は「ヤマ+タ」という複合語で、連濁で「ヤマダ」となったと主張している。この部分には問題はない。
<BR><BR>

　(2)では「？」付きながら「タ」を接尾語だと言っている。初耳だ。手許にあるどの国語辞典・古語辞典にもそのような接尾語はない。接頭語ならある。「名詞・動詞・形容詞の上に副えて、語調を整え強める」接頭語で、例としては「たやすい」「たばかる」「た靡く」が挙げられている。（広辞苑）
<BR><BR>

　「アナタ」「コナタ」は複合語だが、「アナ+タ」「コナ+タ」ではあるまい。
<BR><BR>

　「この道・その道・あの道・どの道・かの道」と言うように「こ・そ・あ・ど・か」は代名詞である。これらの代名詞と「なた」という方向を意味する抽象名詞との複合語が「此方(こなた)・其方(そなた)・彼方(あなた)・何方(どなた)・彼方(かなた)」である。「なた」は「このかた・そのかた・かのかた・どのかた」の「のかた」が語源だろう。とすると、「これ・それ・あれ・どれ・かれ」なども、代名詞「こ・そ・あ・ど・か」と事物を意味する抽象名詞「れ」との複合語ということになる。
<BR><BR>

　楠原氏は「邪馬臺＝ヤマダ」説に30ページほどを費やしているが、「ヤマダ（タ）」は「ヤマ」と「アナタ・コナタ」の「タ」との複合語という謬論のところで既に破綻している。全ての「邪馬台(タイ)国」説と同じく、楠原氏の「邪馬臺(ダ)国」説も謬論の積み重ねで論旨を取り繕うほか、議論を保つことができない。氏は「序章」で従来の「邪馬台(タイ)国」論者を次のように手厳しく批判している。
<BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

　文献史学なり考古学なりの専門研究者の大勢は、地名論としては新井白石・本居宣長以来のレベルからほとんど一歩も出ていない。否、むしろ新井白石や本居宣長は彼らなりに地名の持つ意味を真剣に究明しようとしていたのに、後世の論者は彼らの研究態度や成果に何ら学ぼうとしていないし、その欠陥を検証することもなかった。邪馬台国論争の停滞は、まさに日本における地名研究、とりわけでその語源研究の停滞と軌を一にするといっても過言ではない。
<BR><BR>

　地名の意味もわからずに、音の類似だけを頼りに後世の地名に当てはめようとすれば、それは必然的に〝当て物・判じ物″、挙げ句は〝当るも八卦″のレベルに陥るほかない。<BR><BR>

　そんな程度の知識では、ブームを呼んだ古田武彦氏の「邪馬壱国」論の奇妙さを指摘し、その論理を真っ向から批判することもできるわけがなかった。さらに、「邪馬台国東遷」論が唱える「ヤマトほか筑紫平野周辺の地名多くが、邪馬台国の東遷に伴って畿内に移植された」などという、地名の常識から見ても、民族と文化の伝播・展開という面からしても、奇怪きわまる論の跳梁を許すことにもなったのである。
<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

　すさまじいまでの自信である。氏は果して従来の〝当て物・判じ物″的論理を越えただろうか。それは論理的に無理なのだ。何度でも言うが、「邪馬壹国」ではなく「邪馬台（臺）国」を公理として選んだスタートの時点でその後の論理展開は〝当て物・判じ物″的に成らざるを得ないのだ。誤謬の公理からは真理を導き出せないのは当然のことである。
<BR><BR>

　また、氏は『古田武彦氏の「邪馬壱国」論の奇妙さ』を「真っ向から批判」出来ているだろうか。これも「否」と言わざるを得ない。<td bgcolor="#ffff00"><a href="http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20120505.html">『「21国」の読み：準備編』</a></td>で指摘したように、氏が言う「奇妙さ」は古田説に対する全くの曲解に基づいている。曲解からは有効な批判が成し得ないのも当然なことである。なお、『地名学…』にはこれ以外に古田氏への批判は見あたらない。
<BR> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>続・「真説古代史」拾遺篇</dc:subject>
<dc:date>2012-05-10T16:29:20+09:00</dc:date>
<dc:creator>たっちゃん</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<link>http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1747.html</link>
<title>「倭人伝」中の倭語の読み方(19)：倭語の基本法則(1)</title>
<description> 《続・「真説古代史」拾遺篇》(76)


「倭人伝」中の倭語の読み方(19)
倭語の基本法則(1)


　今回は『「21国」の読み：邪馬国(2)』という表題で、『地名学…』の「邪馬国」説を検討する予定だったが、そこに入る前に『地名学…』を読むに当たって必要な倭語の音韻に関する法則を確認しておきたい。



和語には本来濁音から始まる語はない。


　言葉は後世にさまざまな影響を受けて変化するものであり、清音が濁音に
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <font color="#ff0000"><BIG><B>
《続・「真説古代史」拾遺篇》(76)
</font><BR><BR></BIG></B>
<FONT COLOR="#0000FF"><BR><BR>
「倭人伝」中の倭語の読み方(19)<BR>
倭語の基本法則(1)
</BIG></B></FONT><BR><BR>

　今回は『「21国」の読み：邪馬国(2)』という表題で、『地名学…』の「邪馬国」説を検討する予定だったが、そこに入る前に『地名学…』を読むに当たって必要な倭語の音韻に関する法則を確認しておきたい。
<BR><BR>

<FONT COLOR="#FF0000">
和語には本来濁音から始まる語はない。
</FONT><BR><BR>

　言葉は後世にさまざまな影響を受けて変化するものであり、清音が濁音に変わることもあるだろう。そういう意味で「本来」という限定を付けた。
<BR><BR>

　今は古代地名が問題になっているので、古代地名に限って論じよう。地名はもともとはそこに住む人々が、その地の景観や動植物や産物などをもとに、その実生活や精神生活を通して生み出していったものである。しかし、その地名も後世にはいろいろな変化を受けて変わっていく。特に行政上の人工的な変化がほとんどだろうと推測する。試みに吉田茂樹著『日本古代地名辞典』から濁音で始まる地名を抜き出してみる。（〈〉内の引用文は左記辞典から）
<BR><BR>

①蒲生(ガモウ)・②郡上(グジョウ)・③群馬(グンマ)・④馭謨(ゴム)・⑤造果(ゾウカ)・⑥太宰府(ダザイフ)・⑦出羽(デワ)・⑧備前(ビゼン)･⑨備中(ビッチュウ)・⑩備後(ビンゴ)・⑪豊前(ブゼン)・⑫豊後(ブンゴ)
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　⑥は倭語ではない。太宰（あるいは大宰）は春秋時代からある中国の官職名。
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　⑧～⑫はもとはそれぞれ吉備(キビ)国・豊(トヨ)国と呼ばれていた国が後世になって三国あるいは二国に分けられたときにつけられた人工的な地名である。
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①について。<BR>
　二例挙げられている。ともに『和名抄』からで一つは「近江国蒲生郡」、もう一つは「豊前国企救(きく)郡蒲生郷」でどちらの「蒲(がま)の生えた地」という意に取っている。
<BR><BR>

　同じ「蒲」を使った地名に蒲田(カマタ)・蒲原(カマハラあるいはカンバラ)がある。「ガモウ」ももとは「カマウ」だったのではないか（これは何の根拠もない推測）。
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　手元に『日本地名ルーツ辞典』があるので、念のためこちらも調べてみた。上の二例はないが、蒲生峠(ガモウトウゲ）という例が取り上げられていた。次のように説明している。<BR>
「岩美郡岩美町蕪島(かぶらじま)と兵庫県美方郡温泉町千谷(ちや)の間の県境の峠。地元の人はカモウともいう。（以下略）」
<BR><BR>

　「カマウ」→「ガモウ」も可能性があるかもしれない。
<BR><BR>

②は行政上の人工的命名である。<BR>
〈『文徳』斉衡(さいこう)2年（855）に美濃国の「武儀(むぎ)郡の北部を割いて郡上郡を置く」とあり、岐阜県郡上市の地域をいう。武儀郡の上(かみ)に郡を設置したので、「郡上」の地名が生まれた。〉
<BR><BR>

③はもとは「クルマ」だったようだ。<BR>
〈『続紀』宝亀8年（777）に上野国の「群馬(くるま)郡」で見えるが、『藤原宮木簡』に「車評」(くるまこほり)で初見し、群馬県群馬郡、前橋市、高崎市、渋川市の一帯をいう。「くるま（車）」の意で、上毛野君の一族、車持公の部民が乗車を(のりくるま)を作った所をいう。〉
<BR><BR>

④・⑤は不確定ながら、後世における音韻変化のようだ。
<BR><BR>

④<BR>
〈『類聚三代格』天長元年（824）に「能満(のま)合於馭謨(ごむ)」「益救(やく)令於熊毛(くまけ)」で初見するが、実際には、益救郡を馭謨郡へ、能満郡を熊毛郡へ合併したとみられる。鹿児島県の屋久島全域の部名で、明言できないが、山ばかりの狭い土地に、多くの人が来住したので、「こむ（込）」と呼んだことも考えられる〉
<BR><BR>

⑤
〈『和名抄』安芸国賀茂郡に「造果郷」で見え、広島県東広島市造果の地をいう。「サウカ」の訓注があるが、「さはか（沢処）」の意ではあるまいか。山中にあって、川水の集まる地域で、水たまりに草の生えた地を「沢処」と呼んだ可能性が極めて高い。
〉
<BR><BR>

　<td bgcolor="#ffff00"><a href="http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20120413.html">「投馬国(1)」</a></td>では「倭語には濁音で始まる語はない」という法則が全く念頭になかったので、次のような妥協をしておいた。
<BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

「投馬」を「つま」と読むことが出来るのだろうか。
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　「投」には「とう」のほかに「づ」という音があるが、「つ」はない。３世紀頃の倭国では「投」を「つ」とも読んでいたのだろうか。万葉仮名にはそのような例がある。「豆」「頭」「図」が「つ」という音としても使われていた。「投」の場合については、私にはこれ以上の判断材料がないので断言は出来ないが、とりあえず「つ」とも読めるとしておく。
<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

　「投」の音の「ヅ」→「ツ」は「倭語には濁音で始まる語はない」という法則によるとしてよいようだ。
<BR> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>続・「真説古代史」拾遺篇</dc:subject>
<dc:date>2012-05-09T17:08:58+09:00</dc:date>
<dc:creator>たっちゃん</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
<item rdf:about="http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1746.html">
<link>http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1746.html</link>
<title>「倭人伝」中の倭語の読み方(18)：「21国」の読み：邪馬国(1)</title>
<description> 《続・「真説古代史」拾遺篇》(75)


「倭人伝」中の倭語の読み方(18)
「21国」の読み：邪馬国(1)


　今回から〈第二グループ〉の国々の読みと所在地の比定を検討するが、そのうちの(24)邪馬国と(29)奴国については『「女王の境界の尽くる所」(3)』で既に取り上げている。従ってまた「女王の境界の尽くる所」の南にある狗奴国（第三グループ）の所在も決定している。「倭国地図」に記入しておこう。




　さて、古田
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <font color="#ff0000"><BIG><B>
《続・「真説古代史」拾遺篇》(75)
</font><BR><BR></BIG></B>
<FONT COLOR="#0000FF"><BR><BR>
「倭人伝」中の倭語の読み方(18)<BR>
「21国」の読み：邪馬国(1)
</BIG></B></FONT><BR><BR>

　今回から〈第二グループ〉の国々の読みと所在地の比定を検討するが、そのうちの(24)邪馬国と(29)奴国については<td bgcolor="#ffff00"><a href="http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20110924.html">『「女王の境界の尽くる所」(3)』</a></td>で既に取り上げている。従ってまた「女王の境界の尽くる所」の南にある狗奴国（第三グループ）の所在も決定している。「倭国地図」に記入しておこう。

<img src="wakokutizu.jpg" align="" hspace="">
<BR><BR>

　さて、古田さんは<BR>
『今回のわたしの解読の方法による帰結が、決して「究極の決定性」をもつものではなく、一つの可能性の「示唆」にすぎない。』<BR>と、「当然至極の道理」を記している。私もこの「道理」にならって、「井に中」の説も取り上げることにする。どちらがより信憑性があるか、判定できればよいが、保留せざるを得ない事例も出てくるかも知れない。すでに古田説を紹介済みの上の２国（邪馬国・奴国）について、改めて「井の中」の諸説の紹介をしておこう。
<BR><BR>

<B>邪馬国</B>
<BR><BR>

　『評訳倭人伝』から引用する。
<BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

　邪馬壹国の邪馬であるならば、「ヤマコク」と訓むべきである。しかし一般には「ヤメコク」と訓む。これは筑後国の八女なる地名を念頭におくからであろう。「馬」は、音「ボ」「ム」という呉音のほかに、漢音では「バ」「メ」であるから、「ヤメ」と訓んで悪くはない。これを「ヤメ」と訓むならば、邪馬壹国・邪馬臺国は、「ヤメイ（チ）コク」・「ヤメタイコク」と訓むべきであろう。そうならば、私はしたがって「ヤマコク」、あるいは「ヤバコク」と訓むべきだと思うのである。
<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

　「…と訓むべきであろう。そうならば、私はしたがって…」というずいぶん変な文脈がある。私の転記間違いかと調べなおしたが間違っていなかった。でも言いたいことは分かる。次のように主張している。
<BR><BR>

　「邪馬壹国を「ヤマイチ」と読んでいるのに「邪馬国」を「ヤメ」と読むのは一貫性がない。「邪馬壹国」を「ヤマイチ」と読んでいるのだから、当然「邪馬国」も「ヤマ」と読むべきだ。　―　その通りである。しかし並記している「ヤバ」も、結論先出しの読み「ヤメ」もあり得ない。「バ」や「メ」は漢音だから、『「倭人伝」中の倭語の読み方』の「ルール・その一 漢字の音は呉音」に反する。もちろん例外はあるだろう。そのようなケースと思われる場合は当然再考しなければならないが、私としてはこのルールを重要なフィルターとして使っていきたい。どうやら「井の中」では呉音・漢音を区別する認識が全くないようだ。
<BR><BR>

　では、「マ」は呉音にも漢音にもないのに、どうして「邪馬」を「ヤマ」と読めるのだろうか。「マ」は慣用音なのだった。
<BR><BR>

　慣用音については、私にはよく分らないことがある。「慣用」と言うけど、いつ頃からの「慣用」？…これは漢字毎に異なるだろうと思う。では「馬」の慣用音「マ」は三世紀にも使われていたのだろうか。それは誰にも分らないのではないだろうか。ただ、万葉仮名の「マ」の中に「馬」があるので、三世紀にも「マ」が使われていたと考えるほかない。
<BR><BR>

　ここで思い付いて『…なかった』の「邪馬壹国をどうよむか」を読み直してみた。次のような論拠が挙げられていた。
<BR><BR>

「馬」―母下(もか)切〈集韻〉ma<SUP>3</SUP>
<BR><BR>

　では「邪馬国」を「ヤマコク」と読んで、水野氏はこれをどこに比定しているだろうか。<BR>

<BLOCKQUOTE>
<BR>

　すでに白石は、邪馬国を筑後国上陽郡の八女国と比定し、本居宣長もそれに同じ、牧氏また筑後国八女郡としている。宮崎氏は「ヤマのくに」と訓み、筑後国三瀦郡・上妻郡・山門郡・三宅郡の地で、現在の福岡県三瀦郡・八女郡・山門郡・三池郡およびこの郡の中にある各市を含む地域とする。この時代に三瀦郡はほとんど海中にあり、大川市などが点々と島になっていた。山門郡も鉄道以西の大半が海で、筑後川の河口は、佐賀県三根町天建寺附近と、筑邦町住吉附近を結んだ線であって、それより下流は筑紫海と呼ばれた大湾入であった。一方大和説では、内藤氏は伊勢国員弁郡野麻に比定し、米倉氏は播磨国好摩駅（赤穂郡上野町山野里）かとする。

<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>

　水野氏は諸説を紹介しているだけで、氏自身の説を提出していない。「ヤメ」説は「ルール・その一」により除外。内藤説の「ノマ」、米倉説の「ヤマノ」など、「ヤマ」との類似音を探し出す手法での比定である。宮崎説は「ヤメ」と「ヤマト」と欲張って二つもある。それにしても「福岡県三瀦郡・八女郡・山門郡・三池郡およびこの郡の中にある各市を含む地域」という広大な所在地比定にはびっくりした。この広さは邪馬壹国をもしのぐのではないだろうか。私の感覚では21国中の国の広さは大きくともせいぜい「郡」ぐらいだ。
<BR><BR>

　「この時代に三瀦郡はほとんど海中にあり、……それより下流は筑紫海と呼ばれた大湾入であった。」<BR>
という指摘にもびっくりした。出典が示されていないのでその信憑性を確認できないが、信じてよいだろう。ウィキメディアで「筑紫平野」を検索した。次のようなくだりがあった。
<BR><BR>

「筑後川と矢部川により形成された三角州は非常に平坦で、クリークが発達している。三角州の外側には鎌倉時代以降すすめられてきた地が有明海に向かってのびており、ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている。」
<BR><BR>

　「クリーク」とは潅漑用の水路である。手元の地図帳から「筑紫平野」を転載する。
<BR><BR>

<a href="http://blog-imgs-51.fc2.com/a/d/a/adat/tikusiheiya.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-51.fc2.com/a/d/a/adat/tikusiheiya.jpg" alt="筑紫平野地図" border="0" width="576" height="427" /></a>

<BR><BR>

　ウィキメディアからの引用文も文脈がはっきりしない点がある。「鎌倉時代以降…ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている」と読めてしまうが、私は「有明海に向かってのびている」と文はここで切るべきで、「（三角州は）ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている。」と読んだ。
<BR><BR>

　当時の筑後川の河口が水野氏の言う通り佐賀県三根町天建寺附近だとすると、現在の河口より約20㎞ほど上流になる。そうすると当時の河口から現在の河口まで陸地化するのにおおよそ2000年かかったことになり、水野氏の記述とほぼ一致することになる。氏が言う「鉄道以西」の鉄道が鹿児島本線を指しているのなら三潴市・大川市・柳川市などは海の中だったことになる。東側では佐賀市辺りも海だった可能性がある。
<BR><BR>

　ここまで書いて、もっと確かな情報はないだろうかと」筑紫平野古地図」という検索をしてみた。なんと「古田史学会報 四十四号」がヒットした。下山昌孝という方の論文<td bgcolor="#ffff00"><a href="http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/kaihou44.html">「古代の佐賀平野と有明海」</a></td>だった。これを読むと、これまでの私の考察はペケだった。この論文を読むと、水野氏の用いた資料はどうやら「久留米市史第一巻」あるいはその原典「九大教養部地質研究報告第４集（昭和三二年）」だったようだ。詳しくは直接読んでいただくこととして、下山論文の結論部分を引用する。

<BLOCKQUOTE>
<BR>

　縄文時代前・中期には「古筑紫海」が大きく広がっていたが、後期から弥生時代にかけて筑後川周辺の陸地化はかなり進んだ様である。図４は、佐賀県教育委員会編集「吉野ケ里遺跡」（2000年2月発行）に示された「吉野ヶ里を中心とした集落（弥生時代後期）」である。これを見ると、現諸富町の辺りが筑後川の河口になっていて、多数の「環濠をもたない集落」遺跡が分布している。そして吉野ヶ里を中心とする「国」の構成を説明した一節に「（弥生）終末期から古墳時代初頭に属する諸富町の三重檪ノ木遺跡や土師本村遺跡など当時の海辺の遺跡からは、東海地方以西の系統の土器が多く出土することから、吉野ヶ里集落など山麓部の拠点的な集落のための港であった可能性が高い」と記されている。最近の考古学的調査結果を反映した、佐賀県教育委員会による説明を見れば、諸富町の津は弥生時代に既に港として機能していたことは明白である。
<BR>
</BLOCKQUOTE>
<BR>


　上の地図で諸富町を確認してください。弥生時代にはもうそこまで河口は南下していたのですね。考古学的調査結果をふまえた議論なので、疑問の余地はない。
<BR><BR>

　ということでした。出来上がったものを発表しているのではなく、一緒に考えましょうという趣旨で、考えながら書いているのでこういう事がよく起こる。改めて書き直しはしないで、このまま記録しておきます。まったく知らなかったことを学ぶことができたので、無駄骨を折ったとは思っていない。
<BR>
 ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>続・「真説古代史」拾遺篇</dc:subject>
<dc:date>2012-05-06T16:35:22+09:00</dc:date>
<dc:creator>たっちゃん</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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