2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(41)

大日本帝国の住民抑圧政策(8)

日本ファシズム論(7)



【ファシズム体制の成立(2)】

 新党運動に乗り出した近衛文麿が三つの文書を用いてその構想を語りましたが、その構想を改めてまとめると、次のようです。

 (1)
    全政党の解散を前提に自由主義的な民政党主流派(町田派)と政友会正統派中の鳩山派を除外した事実上の一国一党の結成をめざしている。
 (2)
    第二に新党は下からの盛り上がる国民政治力の結集体であり、人材を広く政党外に求める。
 (3)
    軍部の政治への容喙を排除し、統帥を国務に従属させて軍部を抑制しようとしている。

 つまり近衛たちは、一方では陸軍や「革新」右翼や親軍的政党人が唱えるナチス的な一国一党には反対し、さらに観念右翼や内務官僚が指導する精動運動を否定し、組織化された国民的政治力を背景として軍部・官僚を抑制しうる事実上の一国一党=近衛新党を構想していたのでした。
 そしてまた彼らは、新党運動という言葉がもつ既成観念を一新するため、新党のことを「政治新体制」とよぶことにしていたのでした。

   しかしこの構想には三つの重大な矛盾が内包されていました。そもそも、一元的な天皇制体制下での「政治新体制」が矛盾を孕むことは当然のことではないでしょうか。この論考の筆者はその矛盾を三点にまとめて、次のように論じています。


 第一は、国民再組織論と天皇制支配原理との矛盾である。
    既に述べたように、人民の自発性の喚起を重視し、国民政治力の結集をはかるという国民再組織論は、「天皇帰一」「承詔必謹」などの天皇制イデオロギーによる国民精神総動員方式 (=天皇制支配下における人民支配の基本的原理と運動)を修正するものであり、現実政治の次元では天皇制特有の官僚主義やセクショナリズムをはじめ国民再組織を阻害する要因を除去しなければならず、論理的には多元的な天皇制国家機構の改革にまでおよばなければ事態の本質的解決はありえないという矛盾をはらんでいた。
    それだけに改革を実施しょうとすれば軍部や官僚の抵抗が予想され、また「一国一人」という天皇制の支配原理を唯一絶対のよりどころとして精動運動を推進してきた勢力、とりわけ「観念」右翼にとっては、国民再組織論に根ざす近衛新党運動こそ反国体的行動であり、がまんならない性質のものであった。彼らは、近衛新党を「反国体」「幕府政治の再現」ときめつけてこれに反対した。
 こうした「一国一人」と事実上の「一国一党」との矛盾に逢着し、「国体」の壁にたじろいだ天皇主義者の近衛は、しだいに新党運動にたいする熱意を失いはじめるにいたった。

 第二は、新党の性格と治安対策との矛盾である。
    治安警察法は、すべての集会と結社を「政事」と「公事」の二種類に分類し、それらの警察にたいする届出を義務づけ、かつ現役軍人・警察官・神官・僧侶・官公私立学校の教員と学生生徒・女子・未成年者などの「政事結社」への加入を禁止していた。近衛は、新党への加入をすべての国民によびかけると語ったが、新党を「政事結社」とすれば右の人びとは排除され、「公事結社」とすれば参加は認められるが政治活動は禁止される。さきにあげた5月26日の「申合せ」の最後には「新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入すること」とあるが、これには陸海両相はふくまれるのかどうか。しかしこのような新党構成員の資格問題について、近衛らがどこまで詰めた議論をおこなっていたかどうかは疑わしい。
 それなら治安警察法を改正して二つの結社の区別を撤廃すればよさそうだが、これは天皇制下の治安対策の根本的修正であり、人民の本来的な自発性の噴出を本能的に恐れる支配者にとっては提起不可能な問題であった。

 第三は、新党の組織原理がきわめてあいまいであったことである。
    既存の国家機関とくに軍隊・官僚機構・議会などと新党との関係が不明確であり、かつ新党結成の方法と手段もあいまいなままであったため、軍部・官僚・政党人などの諸勢力が新党へのなだれこみを策し、そのなかで主導権争いを演ずるであろうことは始めから予想されるところであった。
    しかも近衛自身は、宮廷勢力と少数の側近以外に特定の政治基盤をもっていなかったから、統制派や「革新」右翼を抑制するためには皇道派や「観念」右翼を利用するという「毒をもって毒を制す」式の政治技術を身につけざるをえなかった。
    したがって組織原理があいまいなまま近衛が新党の党首になるとすれば、それはけっきょく支配層内各勢力の均衡と制御のうえに身をおく以外に道はなかった。その意味で近衛新党は、歴代の挙国一致内閣がもっていたのと同じ寄合世帯的な弱点をはじめから内包していたのである。


 近衛新党構想に内在するこれら三つの矛盾こそ、近衛を困惑させ、新党運動を変質させたばかりでなく、ひいては新体制運動を精動化させ、大政翼賛会を上意下達の行政補助機関たらしめる根本原因となったのである。
 また、ここでもヨーロッパの戦況が新党運動の成り行きに大きな影響を及ぼしていた。

 6月に入りドイツ軍のパリ占領が近づくにつれ、これに呼応するかのように新党運動は倒閣運動と交錯しながら急速に発展した。
 6月4日、近衛ははじめて新党問題についての抱負を記者団に語ったが、近衛新党にたいする陸軍の諒解がとりつけられていなかったため、かんじんの出馬問題にはふれなかった。
 6月10日、武藤章軍務局長は金光庸夫と会い、「近衛公の出馬、新党の結成には軍は挙げて賛成」であり、第二次近衛内閣の陸相には東条英機か阿南惟幾が適任であると言明した。
 米内内閣に不満をもつ陸軍は、倒閣=第二次近衛内閣の成立による内外政策の全面転換と、近衛新党によるナチス的な親軍的一国一党の実現とを期待していた。この会談内容は、なんらかの方法で近衛につたえられたと推測されるが、近衛は6月17日に犬養健をつうじて陸軍の意向を再確認のうえ、24日に枢密院議長を辞任し、「新体制」の確立に挺身するとの声明を発表した。

 新党賛成派は6月4日の近衛談話に色めきたち、新党へのなだれこみを策した。6月11日、加盟議員が議席の過半数をこえる約250名にふくれあがっていた聖戦貫徹議員連盟は、各党首に解党を進言したが、政友会の両派と各小会派は賛成し、民政党も方向転換の断行を宜言せざるをえなくなった。既成政党の新党派は、米内内閣への対決姿勢を強める一方、近衛新党のなかで主導権を確保することに活路を見いだそうとしていた。

 ナチス的一国一党を主張する「革新」右翼は、新党運動に積極的であった。6月23日、「革新」右翼団体の連合体である東亜建設国民連盟は、聖戦貫徹議員連盟と共同して国民時局懇談会を開催し、「時代錯誤的政治諸勢力の総退却を要求」した。
 ついで27日には聖戦貫徹議員連盟と島中雄三・角田順・矢吹一夫、津久井竜雄らが会合し、新党への「協力」を申し合わせた。そして東方会の中野正剛も「安達、末次、小生、橋本を招請せらるればその他は自ら疎通致すべく」と自信のほどを近衛に書き送っていた。
 これにたいし日本主義を唱える「観念」右翼は、新党がナチス的一国一党となることを恐れ、新党運動に「幕府政政治の再現」「公武合体運動」などの非難をあびせかけ、活発な運動を展開した。

 その間近衛は、出馬声明以後なに一つ新党運動のために積極的行動をとることなく、7月6日、政治新体制の構想をねるためと称して軽井沢へでかけ、27日まで滞在した。
天皇主義者の近衛にとっての焦眉の急は、「一番不愉快」な「反国体」「近衛幕府の再現」という「観念」右翼からの非難をかわすことであり、そのため彼は7月7日の記者会見で、わざわざ新体制が憲法に基礎をおくものであることを強調したのであった。
 しかし近衛は、新党の理論的基礎づけを依頼した矢部貞治からも「関白が首相となってから又挙国的政党組織をやるといふことは、国体上、憲法上、どうも疑はしい。幕府論になる」といわれ、さらに三上卓・菅波三郎らの元青年将校一派も軽井沢へ押しかけ、近衛に声明発表を強要するといったありさまであった。
 そのうえ新党の構想と運動方針はいっこうに具体化されなかった。

 かくて近衛は、「国体」の壁の厚さにたじろぎ、具体的な構想と運動方針を見出しえないまま、軽井沢滞在中に「新党」構想を放棄し、「新体制」構想、つまりのちの大政翼賛会のように、支配層内部のあらゆる勢力を無原則のまま丸抱えにして組織するという構想に移行していったのである。

 このようにして政局は一気に日本ファシズム体制への道を突き進むことになったのでした。ということで、次回からいよいよ「日本ファシズム体制の完成」つまり「大政翼賛会の成立」を取り上げることになりました。
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明治150年、何がめでたい(40)

大日本帝国の住民抑圧政策(7)

日本ファシズム論(6)



【ファシズム体制の成立(1)】

『昭和の15年戦争史(28)』 で、軍部が国政を牛耳るようになってきた苛酷な状況の下で、軍部に敢然と抵抗して議会で「反軍演説」を行った斎藤隆夫という政治家を取り上げました。この時の「反軍演説」事件が政党の自壊作用を早め政界再編成の気運を高めるきっかけとなったのでした。今回からのテーマ「ファシズム体制の成立」はここから始まります。

19401940年2月2日 第七五議会再開2日目、民政党斎藤隆夫が反軍演説を行う。

 この事件以降の政界再編成は次のように進んでいきます。

 陸軍は強硬に斎藤の処分を要求し、これに呼応して政友会「革新」派・時局同志会・社会大衆党・第一議員倶楽部は斎藤の懲罰除名を主張した。
 これに対し民政党と政友会正統派の中には除名反対の空気が強かったが、結局軍部などの圧力に抗しきれず3月7日の衆議院本会議で斎藤の議員除名が圧倒的多数で可決された。
 しかし採決にあたり政友会正統派の五名(牧野良三・芦田均ら)が反対投票を行い、社大党の十名(党首安部磯雄・鈴木文治ら旧社会民衆党七名と水谷長三郎ら旧労働農民党系三名)は欠席し、除名の党議に反対する行動をとった。
 そのため政友会正統派では、反対票を投じた五議員の処分方法に不満な西岡竹次郎らの親軍派五名が脱党して政友会新中立派を名乗ったほか、親軍的一国一党結成に積極的な久原派とこれに消極的な鳩山派との対立が激化した。
 民政党では、分裂の動きはなかったが、親軍新党運動に熱心な永井派とそれに反対する町田派との対立が深まり、特に町田派は各方面の「革新」派から集中攻撃を受ける破目になった。

 これに対し社大党では、1939年2月の東方会との合同によるファッショ的新党樹立の試みが失敗したのち、産業報国運動に便乗し国家社会主義的一国一党を唱える麻生久・亀井貫一郎・三輪寿壮らと、日本労働総同盟に依拠して産報運動に消極的な安部磯雄・松岡駒吉・西尾末広らとの内紛が表面化していたが、麻生らが斎藤除名の票決に加わらなかった一〇名のうち八名を除名したため、党は分裂し、安部らは勤労国民党を結成しようとして5月7日に結社禁止を命ぜられた。

 こうした状況を背景に、政友会正統派の山崎達之助・民政党水井派の山道嚢一らは、政友会正統派中の久原派、社大党麻生派、時局同志会および第一議員倶楽部各派の有志議員約百名を糾合し、3月25日、聖戦貫徹議員連盟を結成した。連盟は全政党の解消と「一大強力新党」の結成を旗印とし、政党側における新体制運動の推進母体となった。
 かくて政党の解体は必至の情勢となったのである。

 以上のような政党解消の動きの中から新体制運動が急速に高揚していきますが、その直接の原因は、ヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の大攻勢による衝撃でした。ヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の攻勢は次のように進行しました。

   1939年9月に第二次世界大戦が勃発して以後、東ヨーロッパでは独ソ両国によるポーランド分割やソビエトによるフィンランドおよび東欧諸国にたいする進出の動きが目立ったが、西部戦線ではドイツと英仏間には大戦闘がおこなわれず、いわゆる「奇妙な戦争」とよばれる状態がつづいていた。
 ところが1940年4月9日、ドイツ軍は突如ノールウェとデンマークに侵入したのち、5月10日には西部戦線で大攻撃を展開し、たちまちのうちにベルギー・オランダ・ルクセンブルグ三国を席捲、さらに6月5日からフランスにたいする総攻撃を開始し、14日にはパリを占領した。22日、フランスはドイツに降伏した。その間イギリスでは、5月10日にチェンバレン内閣がたおれてチャーチル内閣が成立し、6月10日にはドイツの勝利を信じたイタリアが英仏両国に宣戦した。ドイツは西ヨーロッパを制覇したかの観があった。

 ドイツ軍の勝利を契機に軍部とりわけ陸軍は、日独伊三国同盟の締結・南進政策の推進および政治新体制の樹立という内外政策の全面転換を要求して勢力を盛り返したのでした。民間右翼もこれに呼応して活発な活動を開始します。

 こうした動きを察知した久原房之助政友会正統派総裁は、4月30日の臨時党大会の席上、「一大強力政党」結成のためには解党辞せず」と演説し、その後各党を歴訪して同意をうながした。
 社大党麻生派などの小会派は、久原提案を積極的に支持したが、町田民政党総裁はこの提案に反対して政党連携を主張し、中島知久平政友会「革新」派総裁は静観の態度をとった。

 しかし、5月25日には聖戦貫徹議員連盟が正式に強力新党結成の方針を打ち出し、6月2日には中島総裁も連盟の方針を容認するにいたり、4日には金光派と新中立派よりなる政友会統一派が「政治新体制」への参加を表明して解党を決議した。そしてこれらの新党運動は、いずれも近衛の出馬を前提として展開されたのである。

 このような新党運動の動きのなかで、近衛や彼の側近はなにを考え、どのように行動したか。
 近衛が新党運動にのりだす決意を固めるにいたった主観的意図は、第1次近衛内閣のような「何等の輿論の後楯も無い」「中間内閣」を否定し、「既存政党とは異なった国民組織、全国民の間に根を張った組織とそれのもつ政治力を背景とした政府」を樹立し、「軍部を抑へ日支事変を解決すること」にあった。そして近衛新党の下部組織を固めるための理論として唱えられたのが、「ドイツのナチスの如く国民の政治組織化」にあるという国民再組織論であった。そこには官製国民運動を排し、下からの盛り上がる人民の自発性に期待する姿勢が示されており、具体的には有馬が指導する産業組合、近衛の友人河原田稼吉元内相が理事長をつとめる産業報国連盟、近衛側近の後藤隆之助を指導者とする壮年団のほか各種の婦人会や青少年団などの教化団体を新党のもとに再編成することが予定されていた。

 有馬頼寧の日記によれば、近衛は1940年3月下旬から新党問題に取り組む姿勢を示しはじめている。しかし近衛新党の具体的なプログラムとしては、5月26日に近衛・木戸・有馬の三者間で決定されたつぎのような「申合せ」が最初であった。それは次の四項目から成っていた。
「 (一)大命を拝する以前に於ては新党樹立は積極的にやらぬこと。但し政党側の自発的行動によって新党樹立の気運を生じる時は考慮すること。
  (二)大命降下ありたる場合考慮すべき事項
     (イ)陸海軍両総長、内閣総理大臣、陸海軍大臣を以て最高国防会議を設置すること。
       (ロ)陸海軍の国防・外交・財政に関する要望を聴取すること。
     (ハ)新党樹立の決意を表明し各政党に対し解党を要求すること。
  (三)総理と陸海軍大臣だけにて組閣し他は兼任とすること。但し情勢により二三の閣僚(例へば外務等)を選任すること。
  (四)新党成立の暁党員中より人材を抜擢して全閣僚を任命すること。新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入するこ     と。」

 ついで三日後の5月29日、近衛・木戸・有馬に風見章と太田正孝を加えた五名によって、つぎのような「申合せ事項」が決定された。
 「(一)政党側は左の目標により自発的に運動を開始すること、
     (イ)国防国家の完成、
     (ロ)外交の振張、
     (ハ)政治新体制の建設、
 (二)諒解事項(秘密)、
    (イ)既成陣営中参加せざるものに対しては対手とせざること(民政党の主流及び久原の一部)、
    (ロ)参加政党側の事実上の解党手続は新体制結成準備次第直ちに行ふこと、
    (ハ)広く人材を政党外に求むること」。

  さらに近衛と彼の側近たちとのあいだで当時作成されたと推定される「国務と統帥とについて」という文書のなかでは、大命拝受の条件として「国防会議」の設置のほかに、
 「(一)軍が直接政治に干与せざること(要すれば大本営命令を出す)、
     (イ)陸軍省、参本、海軍省、その他軍付属庁の機構改革並に整理(情報の統合を含む)、
     (ロ)関東軍並に支那総軍の編成替(特務部廃止、特務機関の任務を明確にすること等を含む)、
  (二)駐支、在満軍隊の政治機構に改革を行ひ、直接政治に干与せざることとすること」
 これらの数項目について
 「大本営との諒解を遂げ御前会議の決定を経べきなり。その諒解決定を得ざる場合は大命を拝辞すべきが国家を思ふ忠誠の所為なりと信ず」
というように、思いきった軍政改革構想がのべられている。


 以上のような近衛新党構想には重大な矛盾が内包されています。(この問題は次回で)
明治150年、何がめでたい(40)

大日本帝国の住民抑圧政策(7)

日本ファシズム論(6)



【権力集中をめぐる政争(2)】

 前回は
「国家総動員法の成立に伴って、新党運動が挫折し、衆議院の解散も立ち消えになった」
ところまで読みました。今回はそれ以後の政争を追っていきます。

 前回に「15年戦争」下の挙国一致内閣」のトラウマとなった事項として
 「人民の組織的抵抗を排除することには成功しながら、……つねに戦争と国際政治の圧力にふりまわされることになった」
という指摘がありましたが、 「国家総動員法」成立後の政局はこのトラウマに振り回されながら、着実に「ファシズム体制」の道を進んでいきます。

 これも前回取り上げたことですが、近衛首相は1938年1月16日に「国民政府を対手とせず」との声明を発表し和平交渉を中止してしまいました。
 その後、1938年4月7日~5月19日に徐州作戦(中国軍の抗戦意志を喪失させようとした作戦で、中国の徐州付近に集結した中国軍70個師団を日本軍が南北から挟撃)が遂行されました。

 その徐州作戦終了直後の5月から6月にかけて、近衛首相は、局面打開のために内閣改造(字垣外相・池田蔵相兼商工相・荒木文相・板垣陸相入閣)を断行します。さらに内閣の強化のため、

6月10日 最高国策検討機関として五相会議(首・外・蔵・陸・海相)を設置。

 しかし対外政策の面では日中和平交渉と興亜院設置問題をめぐる対立から9月30日に宇垣外相が辞任(後任有田八郎)します。
 また、日独伊防共協定強化問題ではその対象をソビエトに限定しようとする近衛・有田・池田・米内と英仏をもふくめよという板垣・末次の意見が対立します。
 また、対内政策の面では議会での公約に反して国家総動員法の発動が陸軍省や内務省から強要され、池田がこれに反対します。

 このように、基本国策をめぐる支配層内部の対立が目立ってきましたが、その間政界の裏面では、各種の新党運動がひそかに進行していました。
 7月2日には国民精神総動員運動の不振にあきたりない有馬農相が国民再組織論にもとづく政界再編成を近衛首相に進言し、
 8月下旬から9月上旬にかけて近衛が新党運動に積極的であるとの情報が政界に流れました。これをきっかけに近衛の擁立を前提とする新党運動が表面化します。その主な推進勢力は次のようです。
(80年も前のことであり、登場してくる人たちは全て未知の人たちですが、一応そのまま転載しておきます。)

 産業組合青年連盟を背景とする有馬頼寧のグループ
 後藤隆之助らの昭和研究会、
 一国一党論の久原房之助グループ
 前田米蔵・中島知久平・桜内幸雄ら政民両党内の「革新」派グループ
 風見章のグループ
 秋田・秋山・麻生・亀井らのグループ

 このうち具体的な新党計画を持ちある程度組織的に行動したのは秋田らのグループでした。
 このグループは「既成政党の解消を前提とする一国一党=大日本党」を構想していました。そのグループの「大日本党部綱領」によると、その党は、
『「国体ノ本義」を立党の精神として「国民各般ノ組織ヲ指導」「皇謹ヲ翼賛シ聖慮ヲ安ンジ奉ル」』
ことを目指していました。
 木坂さん(この論考の執筆者)はこの新党運動の問題点を次のように指摘しています。

 ここで重要なことは、
 第一に新党と各国家機関との関係が明示されていなかったことであり、
 第二は大日本党部を頂点とする「国家ノ新体制ヲ整備完成スル」ことが、「反共圏ノ確立」による「新世界秩序ノ樹立」、とりわけ「東洋国家協同体ノ実現」をはかることと表裏一体と なってl認識されていたこと、すなわち新党結成が帝国主義的侵略のための体制づくりとして考えられていたことである。

 なぜなら前者は、のちに述べるように新体制運動のなかでも問題にされ、大政翼賛会が精神運動家化する重要 な原因となり、後者も大東亜共栄圏建設のための新体制樹立という認識と同一次元のものであったからである。

 こうして各種の新党運動が交錯するなかで、9月下旬から三相会議(末次内相・塩野法相・木戸厚相)が新党構想の検討を開始し、10月末にはナチス的一国一党の色彩が濃い「大日本皇民会案」ができあがった。

 ところが近衛は、10月22~25日になんらかの心境の変化をきたして新党運動を放棄し、精神運動中央連盟の改組による官製国民運動指導体制強化の方向へ方針を転換したため、新党運動は画餅に帰した。

 以上のように新党運動挫折の直接の原因は、近衛の変心と新党運動を担ったグループのカ量不足でしたが、日中戦争と国際政治の圧力による政党政治の大混乱も新党運動挫折の大きな一因だったのです。論考のその問題を論じている部分を直接転載しておきます。

 1938年10月下旬に広東・武漢作戦が終了しても政府は日中戦争解決のめどがつかめず、ヨーロッパ情勢も1938年3月の独墺合併以後のドイツの東方領土侵略政策よって戦争の危機がさしせまったが、小国の犠牲によって 侵略者と和解するという英仏両国の宥和政策の結果、9月30日にミュンへン協定が調印され、戦争の危機は一時回避された。
 しかしヨーロッパ情勢が流動的であるため、日独伊防共協定強化問題をめぐる支配層内部の対立も容易に氷解せず、国際政治の圧力を利用して新党運動を推進するといったような状況はついに生まれなかった。
 そして近衛内閣は、11月から12月にかけて東亜新秩序声明と近衛三原則を発表したのち、1939年1月4日に総辞職した。

 後をついだ平沼・阿部・米内の三内閣は、新党運動にたいしていずれも冷淡であり、権力集中への道を模索したが失敗し、泥沼化した日中戦争の現状と変転する国際情勢に対応した確固たる軍事・外交政政策を確立しえず、いずれも挙国一致内閣の弱点をさらけだして短命に終わった。
 まず1月5日に成立した平沼内閣は、日独伊防共協定強化問題をめぐって小田原評定をつづける一方、南進政策(海南島・新南群島・汕頭(スワトウ)・福州などの占領)と北進政策とを同時に遂行したが、ノモンハン事件で大打撃をうけて北進に失敗し、独ソ不可侵条約締結の衝撃を受けとめきれずに、8月28日総辞職した。

 ついで8月30日に成立した阿部内閣は、9月3日に勃発した第二次世界大戦への不介入と日中戦争解決への邁進を声明し、日独伊防共協定強化交渉の打ち切りとノモンハン停戦協定の調印によって平沼内閣から引きついだ外交課題を処理したのち、野村吉三郎を外相に起用し、対中国政策の修正と米ソなどに対する「協調外交」を展開しようとした。
 しかし現実の対中国政策、とりわけ「江兆銘をして新政権を立てしむるの件は現下陸軍の謀略として取り扱う所」となっていたため、その修正は不可能に近く、日米通商航海条約廃棄をめぐる対米関係の調整も、日本の中国独占政策阻止を主張するアメリカとのあいだで折り合いがつかず、1940年1月27日から日米両国は無条約時代に突入した。

 一方阿部内閣は、権力集中を実現するため、平沼内閣時代の五相会議を廃止して全閣僚10名という少数閣僚制をとって発足し、9月30日には枢密院の審議をへることなく、国家総動員法などの施行に関する首相の指示権を認めた勅令を公布・施行した。
 しかし少数閣僚制は、支配層内部の抵抗にあってわずか一ヵ月半で原則を放棄することになり、貿易省設置問題では外務省と正面衝突して方針を撤回し、官吏の身分保障制度撤廃の企ては枢密院の反対にあって無期延期となるなど、阿部内閣はその弱体ぶりを暴露した。

 そのうえ戦時統制経済の矛盾の深化によって国民生活の不安がひろがり、政党はそれを口実に公然たる倒閣運動を開始し、1940年1月7日には内閣不信任署名代議士276名の氏名が公表された。秋田厚相と永井逓相は、衆議院解散強行論を唱え、阿部首相もこの意見にかたむいたが、陸軍は選挙期間中に反戦反軍気運が高まることを恐れて解散に反対し、江兆銘派との間で妥結をみた「日支新関係調整要項」が1月8日の閣議で承認されるのを待って、政府に退陣を勧告した。かくて1月14日、阿部内閣は総辞職に追いこまれた。

 1月16日に成立した米内内閣は、その親英米的・現状維持的性格のゆえに、陸軍やそれと提携する「革新」派からの攻撃にさらされなければならなかった。1月21日の浅間丸事件をきっかけとする反英運動の高揚は、その最初の現れであり、2月23日に松井石根・末次信正・松岡洋右の三名が米内首相の留任懇請をふりきって内閣参議を辞任したのは、その第二のあらわれであった。

 また米内内閣は、外交面では陸軍の主導する東亜新秩序建設路線に押され、3月30日に汪兆銘の「国民政府」を成立させ、4月以降ヨーロッパ戦局の急展開を契機に陸軍を中心に高まってきた南進論に対応し、仏印・蘭印・タイへの進出を企図したが、これらの措置は蒋介石政権との和平交渉の道をみずからとざし、かえって対米英関係を悪化させる結果をまねいた。

 このように平沼・阿部・米内の三内閣は、日中戦争の解決・対欧米諸国との関係の調整・国家総力戦体制の樹立といった政治・軍事・外交の基本課題の解決に失敗したばかりか、深刻化する経済危機を打開することもできず、政局の混迷状態が1年以上にわたって続いた。そのため国民の不満やいらだちは内訌し、しだいに現状打破のための強力政治体制の実現を待望する気運が高まり、やがて新体制運動が展開されることになるのである。

 この「新体制運動の展開」により「ファシズム体制」が成立していったのでした。次回から「ファシズム体制の成立」に入ります。
明治150年、何がめでたい(39)

大日本帝国の住民抑圧政策(6)

日本ファシズム論(5)



【権力集中をめぐる政争(1)】

(ごめんなさい。ついつい1週間ほど空けてしまいました。再開します。)

 第一次近衛内閣(1937年6月4日~1939年1月5日)の緊急課題は「天皇制の多元的国家機構を整備統合し、支配層内部の対立を一掃して強力な権力集中を実現すること」でした。
 この課題は日中戦争勃発後に「挙国一致を目指す政治・軍事体制の整備と新党運動による政界再編成の問題」へと展開していきました。

 ではまず、近衛内閣成立に至るまでの「挙国一致」政策の推移を確認しておくことにします。

1932年 五・一五事件勃発
 この事件以後に成立した斎藤実内閣以後の歴代内閣は、いずれも軍人・官僚または宮廷政治家を首相とする挙国一致内閣でした。
 斎藤・岡田啓介両内閣は、軍部・官僚・政党・財界など支配階級内部の各勢力の微妙なバランスのうえに成立していました。

1936年 二・二六事件勃発
 この事件を契機に支配階級内部のバランスがくずれ、その後は軍部が政治の主導権を掌握していきました。
 このような政党政治を抹殺したような挙国一致内閣の成立は、これまで曲りなりながら実現していた普通選挙を基礎とする国民代表制の原理が人民統合の機能を果しえないまま空洞化したことを意味していました。
 しかもこの挙国一致内閣は、普通選挙にかわる新しい人民統合の政治原理を創造したわけではなく、「挙国一致」という抽象的スローガンをかかげたに過ぎなかったのですから、そのことによってただちに強力な国民的基盤をもつ政治主体に成り得ないのは当然なことでした。
 また、軍部が政治の主導権を掌握したといっても、挙国一致内閣はしょせん支配階級内各勢力の寄合世帯にすぎず、各勢力は国民的基盤を欠いているためにかえって挙国一致内閣に依存せざるをえず、かつ現実の政治判断をくだす場合には、「挙国一致」の名のもとに自己の利害を主張することになり、それがまた各勢力間の新たな相剋と対立をひきおこす原因にもなっていたのでした。そしてこの相剋と対立のくりかえしは、つねに政治的不安定をもたらす重大な要因となり、その政治的不安定は逆に戦争と国際政治の圧力がつねに国内政治の動向を規定し左右する条件になっていったのでした。
 その結果、15年戦争下の挙国一致内閣は、人民の組織的抵抗を排除することには成功しながら、いずれも短命におわり(もっとも長かった東条英機内閣でさえ2年9ヵ月)、重大な局面に遭遇しても主体的かつ的確な判断をくだしえず、つねに戦争と国際政治の圧力にふりまわされることになったのでした。そのうえ天皇制国家機構は、その頂点に立つ天皇による以外には統合のすべをもたないという多元的性格をその本質としていたのでした。
 近衛内閣はこうした挙国一致内閣と天皇制国家機構がもつ矛盾を解決しうるかどうかという深刻な問題と対応する課題を担うことになったのでした。

 続いて、近衛内閣成立((1937年6月4日)後の政治動向の推移を見てみましょう(以下、一部書き換えがありますが、資料の論説を転載します)。


 近衛内閣による権力の集中は、行政権の強化と国務・統帥の矛盾解決をめざしてすすめられた。すなわち
  1937年9月25日
    内閣情報委員会の内閣情報部への昇格による言論・思想統制と報道・宣伝のための機関の整備、
  10月25日
    内閣参議設置、
  10月22日
    木戸幸一の文相就任による天皇側近との結合強化、
  10月25日
    企画院設置、
  10月27日
      郷誠之助・池田成彬ら財界巨頭6名の大蔵省顧問任命、
1938年1月22日
      厚生省設置、
    4月1日
      国家総動員法公布

 などの措置がそれであった。また政戦両略の一致について近衛首相は、
  (一) 憲法改正による統帥権の首相への移譲、
  (二) 首相の信任する少数閣僚と陸海相による戦時内閣制、
  (三) 首相の大本営列席
  という三方法を考えたが、いずれも閣内の同意がえられず、日の目をみなかった。

そこで1937年11月20日、大本営の設置と同時に大本営政府連絡会議が創設されたが、たんなる連絡機関であって決定機関ではなかったために十分な機能を果すことができなかったばかりか、1938年1月16日の「国民政府を対手とせず」声明による和平交渉中止問題をめぐり、多田駿参謀次長の強硬な反対によって会議が紛糾したため、それ以後は自然休会となった。 そこで
1937年11月20日 大本営の設置と同時に大本営政府連絡会議を創設

 しかしこの会議は単なる連絡機関であって決定機関ではなかったために十分な機能を果すことができなかったばかりか、

1938年1月16日  「国民政府を対手とせず」声明による和平交渉中止

 という問題をめぐり、多田駿参謀次長の強硬な反対によって会議が紛糾したため、それ以後は自然休会となった。
 その後平沼騏一郎・阿部信行・米内光政の三代の内閣のもとでは、連絡会議は一度も開催されず、国務と統帥の矛盾は解決されなかった。

 このような動きとならんで、1937年暮から新党運動が起こってきた。
 既成政党は、すでに政権の中心から疎外されていたとはいえ、その拠点である衆議院は憲法によって一定の地位と権限を保障されており、いかなる内閣も衆議院安定した与党を持たないことには政局の運営が困難であった。そのため挙国一致内閣は、つねに既成政党の与党化に腐心しなければならなかったし、反対に既成政党は有権者のエネルギーを掘り起して国民的基盤を固めることよりも、国策に順応して内閣に協力するか、あるいは挙国一致を旗印に新政党を結成して衆議院で圧倒的多数派を形成する方が、政権の中枢部へくいこむ近道であった。
 また政治の「革新」=ファッショ化を主張していた小会派や一部の無産政党は、政治の先物買いによって自己の存在を印象づける手段として新運動にとりくむ傾向が強かった。 挙国一致内閣のもとで多くの新党運動があらわれた害はここにあり、各派による近衛擁立の新党運動もまたその一つであった。

1937年12月 南京占領

 この戦捷に国内が歓呼にわきかえり、第七三議会の開会がせまるなかで、政友・民政両党の議員からなる常盤会が、両党合同による新党樹立を提唱した。この動きは、両党の主流派を動かすにいたらなかったが、1938月1月には政界の黒幕秋山定輔配下の右翼中溝多摩吉がひきいる防共護国団が、既成政党の解消と挙国新党の樹立を唱えて代義士を歴訪し、2月17日には政友・民政両党本部占拠事件を引き起して政界に衝撃をあたえた。中溝の背後には近衛がいたといわれ、さらに社会大衆党の麻生久や亀井貫葺一郎、第一議員倶楽部の秋田清らも秋山と結んで近衛新党結成に動いていた。
 ときあたかも第七三議会の衆議院では、国家総動員法の審議が難航中であり、閣内には末次内相のように新党樹立と解散・総選挙によって政局安定をはかろうとする意見もあったが、政民両党の腰くだけによって国家総動員法が成立し、近衛自身も出馬の意志を示さなかったので、新党運動は挫折し、衆議院の解散も立ち消えとなった。

         (この項、次回に続きます)
明治150年、何がめでたい(38)

大日本帝国の住民抑圧政策(5)

日本ファシズム論(4)



 本道に戻ります(前々回の続きということになります)。

 日本ファシズムを体制として成立させた大政翼賛会の結成にいたる前提条件が「国民精神総動員運動」と「産業報国運動」の大規模な展開だったのでした。 前々回では「国民精神総動員運動」の展開の経緯とそれが全くの官製運動だったことを学習しましたが、今回は「産業報国運動」の展開を取り上げます。

 産業報国運動も国民精神総動員運動と同様、日中戦争の勃発にともなう国家総力戦体制の樹立と生産力拡充政策推進の一環として展開されましたが、  それはまず、懇談会や工場委員会制度のような労資協議機関の運営を中心に産業報国運動を推進しようとする内務官僚と 企業活動への官僚の介入を排除し「労資一体」の精神運動として展開しようとする資本家との間での、対立と妥協として展開されていきました。

 官憲の側では労働運動対策として産業報国運動が取り上げられました。その端緒となったのは愛知県工場課が立案した
1937年10月 時局対策労資調整案」
 でした。これを一部修正して、愛知県警察部が公表したのが
1938年2月 「労資調整組織案」
 です。
 この案は「産業報国」「国体に基く労資一体」の指導理念のもとに、各工場に労資双方を構成員とする工場懇談会を組織させ、 そこで労働時間・賃金・労働災害防止・職工養成訓練などの問題をとりあげさせることを提案していました。
 しかし資本家側は、企業にたいする官僚統制を懸念してそれに反発し、労働組合側も同案が組合そのものを否認していることに不満を表明したため、 同案は廃棄されました。

 一方戦時下の新たな労働政策を模索していた協調会は、国民精神総動員運動に協力しかつ軍需工業動員法の施行を円滑にするため、 1937年9月から11月にかけて主要工業都市で戦時労働対策懇談会を開き、翌年2月2日にはこの懇談会をもとに政界・財界・官界・軍部の代表 31名からなる時局対策委員会を設置しました。

1938年3月30日 「労資関係調整方策」を決定
 時局対策委員会内の第二専門委員会が「労資関係調整」問題を審議したのえすが、ここでも産業報国運動の国民精神総動員運動化を 主張する財界代表と懇談会中心の運営を主張する厚生省および松岡駒吉が対立しましたが、結局は双方妥協のうえ第二専門委員会が策定した 「労資関係調整方策」が総会で正式決定され、4月28日に近衛首相以下の関係各大臣に手交されました。

 これに対し全国産業団体連合会は、6月16日、
「産業報国運動ハ産業部門ニ於ケル国民精神総動員運動ノ一翼トシテ出発スルモノナルコト」
を強調する決議を行い、政府に圧力をかけました。財界は、企業活動への官僚の介入と同時に、懇談会が労働者の不満のはけ口となることを 恐れたのです。
 いずれにしても1938年2月以降、産業報国運動のプラン作りが急速にすすんだ背景には、国家総動員法の制定に象徴される内外情勢の進展 とならんで、日中戦争の勃発後激減した労働争議が1938年にはいると増加しはじめてその争議が戦時体制下の矛盾のしわ寄せをうけた未組織労 働者のあいだにも広がる傾向があらわれてきたという事情があったのです。

(以下、その後の経緯は原文をそのまま転載します。)


 かくて近衛内閣は、7月30日、産業報告運動の中央指導機関として産業報国連盟を発足させ、理事長には河原田稼吉元内相、理事には本間精内務省警保局長・横溝光暉内閣情報局長・膳桂之助全国産業団体連合会常務理事・三輪寿壮社会大衆党代議士ら9名がそれぞれ就任した。 そこには労働組合代表は一人もみられず、産業報国運動ははじめから労働者不在の官製国民運動として出発した。

 同時に発表された「綱領」は、「国体の本義に則り」「産業報国の実を挙げ以て皇運扶翼の仕命を完了せむことを期す」とし、 「労資一体」「事業一家」の実をあげることを宣言したのである。

 ついで8月24日、内務・厚生両次官名による「労資調整方策実施に関する依命通牒」が知事あてに発せられ、労働者選出委員が参加する懇談会をもった企業単位産報会の結成が奨励・指導されたが、資本家側はこれに不満であった。そこで産報連盟理事会は、一方では「産業報国会規約例」を作成して資本家側が懇談会の労働者委員を任命しうる道をひらき、他方では産報連盟の事業を機関誌発行・指導者養成・講習会開催などに限定しつつ、同時に産報連盟と企業単位産報会との関係を強制的なものとしないとの措置をとらざるをえなかった。そして産報連盟は、9月中旬から10月にかけて厚生省や地方官庁と協力して資本家にたいする産報会結成奨励のための懇談会をひらいたが、実際に各地で産報会の結成を指導したのは道府県警察部であった。

 このように産報連盟は、地方組織をもたず、また企業単位産報会の連盟への加盟が任意であったため、1938年末の企業単位産報会数1158のうち連盟へ加盟したものは23、1939年3月になっても30余を数えるにすぎなかった。その原因は、なによりも「官憲からすすめられたから」産報会を作るという風潮が労資双方に根強かったことにあり、また懇談会の運用についても、待遇問題をとりあげる場合には、紛争予防のため警察が労働者委員を事前に呼び出して自粛を命ずるか、または臨席して適宜発言を抑えることが少なくなかったから、労働者の自発性喚起というにはほど遠い状況であった。

これにたいし1938年10月末日の全国産業団体連合会常任委員会では、産業報国運動の官僚主義化を批判し、産業報国運動を民間の自発的運動とするために産報連盟を強化すべLという意見が支配的であった。しかし産報連盟にはその要求に応ずるだけの力量がなく、結局1938年4月22日、産報連盟は平沼内閣にたいし産業報国運動への積極的指導を要請するとともに、自らは政府の指導に協力する立場を表明した。そこで政府は、4月28日、内務・厚生両次官通牒「産業報国連合会設置に関する件」を知事あてに発し、知事(東京府は警視総監)を会長とする道府県連合会と、その下に警察署管区を単位とする支部連合会を結成するよう指示し、ここに中央機関の産報連盟と企業単位産報をつなぐ組織が完成した。
こうして内務官僚と警察は、財界の意向と妥協しつつ産業報国運動の指導権を掌握するにいたったのである。

 これを契機に企業単位産報会の多くは、道府県警察部の行政指導によって結成された。産報会の設立状況は、1939年と1940年の一企業単位産報会あたりの平均会員数を比較すると、111名から47名へ減少しており、それは企業単位産報会が中小企業を中心に急増したことを示していた。かくて産報会は、その内実はともかくとして、1941年12月には全労働者の70%を組織することに成功したのである。

 産業報国運動の展開は、労働組合や無産政党に大きな衝撃をあたえた。まず日本主義を横棒する労働組合は官憲と一体になり、産報会結成の尖兵の役割を果たした。しかし産報会の結成が具体化すれば、既存の労働組合の存廃が問われることになり、混乱を恐れた官憲は、産報会設置を理由に「労働組合の解散を強ふるが如き挙に出づることは之を避けしむること」を注意したが、これによって現実の動きを押えることはできなかった。すなわち社会大衆党は、労働組合の解散による産報会一本化の方針に全面的に賛成し、同党組織部長で代議士の三輪寿壮を産報連盟理事におくりこみ、日本労働組合会議はやや消極的ではあるが産報連盟に協力した。これにたいし全日本労働総同盟は、すでに自身の手で「産業報国」の実をあげていることを理由にいちおう産業報国運動を批判したが、消極的協力を表明せざるをえなかった。こうして1940年7月から8月にかけてほとんど全ての労働組合が解散し、産業報国運動の第一の目的は達成されたのである。

 以上のべたように、国民精神総動員運動精動運動と産業報国運動は共に、内務官僚と警察が指導する官製国民運動として展開され、いずれの場合にも運動がもつ警察取締り的性格と人民の自発性喚起との矛盾が露呈されていました。しかも常に官権が人民の自発性を圧倒する形で運動が発展していったのでした。

 そして、1940年の新体制運動が展開される重要な要因がもう一つあります。政党政治の自壊です。 次回はそこに至る「権力集中をめぐる政争」を取り上げます。
 
広目天の怒り
広目天

怒りは静に深く沈潜させ
より遠くまで射抜く眼差しとなせ。
その眼差しをもって
自由と民主を食い荒らす邪鬼どもの
あさましい心底を射抜き
踏みしだくまで反逆せよ
邪鬼