2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(57)

戦後史概観(3)

 GHQの占領政策に基づいて戦後の改革が遂行されたが、その改革には限界があり、現在に至るまでさまざまな未解決問題が残されている。前回を引き継いで藤原さんは「民主改革の限界」と「日米安保体制の問題点」を論述している。

3 民主改革の限界

 連合国の日本占領は、形式的には対日戦に参加した連合諸国とくに極東委員会を構成した10ヵ国、対日理事会を構成した4大国の日本占領であった。しかし実質的にはドイツのような分割占領ではなくアメリカ一国の単独占領であったから、占領政策はアメリカの極東政策に決定的に影響された。そのことは戦後改革にも大きく作用し、日本の民主化・非軍国主義化にも一定の限界をもたらすものとなったのである。

 改革のなかでももっとも影響を受けたのは財閥解体であった。アメリカの対日政策がアメリカ資本主義の強力な立場を背景にして、その政策原理に基づいて決定されたことは、とくに日本の経済政策に影響を与えた。しかも第二次大戦後の米ソの冷戦の激化を理由として、アメリカの対日政策自体が大きく転換して行く中で、もっともその影響を受けたのは経済政策であった。

 ポツダム宣言は、日本に維持を許す産業から「再軍備を可能ならしむべき産業」を除外していた。厳密に言えばこれはきわめて厳しい工業の制限である。また当然のこととして日本からの賠償のとりたても行うこととしていた。占領政策の初期の財閥解体や賠償工場の指定は一応この線にそうものであった。しかしこの政策はいずれもきわめて不徹底にしか行われず、時日の経過とともにそれすらも後退を続けた。
 49年5月、賠償のとりたて中止をアメリカ政府が発表し、日本を「極東の工場」として再建する方針を明確にしたことによって、日本のブルジョアジーをアメリカの同盟者として再建強化する方向は確定したのである。

 改革に一定の枠をはめ、これをブルジョアジーの許容できる限度内に押しとどめようとする努力は、日本の支配層によっても占領のはじめから続けられていた。敗戦は日本のファシズム権力に決定的な打撃を与えたが、権力内部の力関係においては無傷で残り、相対的に地位を向上させたのはブルジョアジーであった。そしてこれも無傷で温存された官僚勢力を自己の代理人とし、占領体制下でのブルジョア独裁への地歩を着々と固めていったのである。ブルジョアジーは自己に有利な改革は積極的に推進し、不利な改革は徹底的にサボタージュした。たとえば農地改革は、食糧危機を回避して労働力の再生産を確保するとともに、植民地の喪失、貿易の途絶という状況のなかで国内市場を開拓し新たな蓄積構造を作りあげるためであった。戦前においては地主的土地所有は日本の資本主義の再生産構造のために必要とされたものであったが、状況の変化によって弊履の如く捨て去られたのである。

 これに反して財閥解体は、新たな独占段階においては桎梏となってきた財閥本社を中心とするコンツェルンを解体して、大企業のトラストによる経済の独占的支配をはかるためにのみ利用された。そして財閥家族の持株の公開は、大衆の資金を資本に繰り入れ、大企業の相互の株式の持合いによる完全な企業支配への道を開くものとなった。その上で、占領政策の転換にともなう、独占資本の再編=再建の道がスタートしたのである。

 民衆運動が歴史の主役として登場したことは前述のように改革の大きな成果であったが、その内容を検討すると、いくつかの問題点を残していた。
 第一に敗戦以後の運動の発展が、内的な必然性をもった歴史の上に築かれたものでなく、多分に占領軍によって奨励され援助されて発展したことである。このため運動内部にはアメリカ軍を解放軍と見、アメリカ帝国主義の本質を見失っていたために、占領政策の転換に対応できず、運動の一時的後退を余儀なくされた。
 第二に戦前の運動の遺産を優劣ともにひきついだため、戦前の特質であった戦線の分裂をそのまま戦後に持ちこし、重要な局面でしばしば敗北の原因を作った。
 第三に戦後の労働組合の結成にあたり、戦前からの経緯とくに産業報国会の枠をとりはらうことができず、原則として企業別組合の形態をとったことである。これは労働者に階級意識よりも企業への帰属意識を優先させる結果となった。しかもこの傾向は、戦後経済の高度成長のなかでいよいよ助長されていったのである。

4 日米安保体制の問題点

 1951年9月8日、サンフランシスコにおいて調印された対日平和条約と日米安全保障条約は、一応日本の占領に終止符を打つものではあったが、その後現在に至るまでの日本を規定する大きな問題をその中に含んでいた。

 まず講和条約は、全交戦国との講和ではなく、アメリカとその与国との間だけの片面講和であり、もっとも重要な交戦国であった中国をはじめ、ソ連・インド・ビルマなどを除外したものであった。現在に至るまで中国・ソ連とは講和条約が結ばれず、戦争は完全に終っていないという不自然な状態が続いているのである。また講和のための不可欠の要件である領土や賠償を未解決のままに残し、これも現在まで残された問題となっている。またこの講和条約は軍事条項に大きな問題を含んでいる。占領軍の撤退に但し書きを設けてアメリカ軍の駐留を継続する道を開き、日本が軍事的な同盟に加入することを認め、日本の再軍備にたいする制限を規定しないなどの、日米安保条約を前提とした不完全な講和条約であった。

 この講和条約と不可分のものとして結ばれた日米安保条約こそが、その後の日本の地位と進路を決定したものであった。この条約は前文とわずか5ヵ条の本文とから成っている点で、かつて「満州国」の日本への従属を規定した1932年9月の日満議定書を彷彿とさせるものであった。この条約は名目は安全保障であるが実質は日満議定書と同じ不平等な軍事同盟条約であったということができる。日本はアメリカ軍に無期限・無制限の駐留権を与え、日本は自国の軍備強化の努力を約束させられている。また駐留アメリカ軍は、日本への武力攻撃だけでなく、内乱や騒擾の鎮圧、極東における平和維持のために出動するという広範な任務をもち、極東の問題で日本が戦争に巻きこまれるという危険を持つものであった。さらに駐留アメリカ軍のための基地や演習地、日本政府が提供する役務などはすべて政府間の行政協定にゆだね、条約では一切の制限が記されていないという問題があった。しかも条約の失効はアメリカ政府の認定が必要であるという不平等な規定が存在していた。

 この両条約によって、講和発効後の完全な独立は期待できず、政治的・軍事的なアメリカにたいする従属関係が固定されたのである。このサンフランシスコ体制=日米安保体制は、1960年の安保条約の改定にもかかわらず、基本的には現在まで続いている。

 この体制は現在の日本国民に、今もなお解決を要する重要な課題を残している。

 第一は日本が主権国家として完全に自立していないという問題である。この体制のもとで、日本は政治的にも経済的にも密接にアメリカに結びつき、半ば従属した関係から脱け出すことはできない。とりわけ重大なのは、軍事的には完全にアメリカの戦略体系の中に日本の軍事力が組み込まれているという事実である。自衛隊の編成、装備、教育、訓練をはじめとして、その作戦計画に至るまでが、日米共同作戦を前提として計画実施されていることである。日本の防衛予算も、装備兵器も、さらに国民にとってはまったく未知の仮想敵国やそれとの作戦計画もアメリカ軍事当局の諒解なしには決定できないのである。1975年8月、日米首脳会談で防衛協力のための新機関の設置が合意されたが、この日米協力体制は、アメリカの極東戦略の一環に完全に日本が組み込まれることを意味している。しかもこのさいの指導権は完全にアメリカであると言ってもよい。

 第二の課題は、現在の日本国民がこの体制のゆえに知らないうちに戦争に巻きこまれる危険にさらされているということである。日米共同作戦体制は、在日米軍の行動に自動的に自衛隊が連動する体制である。在日米第五空軍は韓国までをその管轄範囲にしているが、同時に航空自衛隊と航空警戒管制を一体化している。このことは38度線の発火が、日本の迎撃戦闘機やミサイルを即刻戦闘に巻き込む体制である。自動化されたボタン押し戦争の今日、名目上の自衛隊の指揮官である内閣総理大臣や防衛庁長官の知らない間に、米軍人の押したボタンで自衛隊が戦闘行動に突入するという危険をはらんでさえいるのである。

 現在の日本国民は、日米安保体制によって平和と独立の脅威にさらされているという重大な課題を背負わされている。この解決こそが、現代史の持つもっとも重要な問題であると言えよう。

 私は上の論考に関連したことをいろいろなところで書いていますが、それを詳論している過去記事を紹介しておきます。

「3 民主改革の限界」について
 私は現在において民主主義国家と呼ばれている国家は、正確には全てブルジョア民主主義国家であると考えている。そのことを
『民主主義とは何か』
で取り上げています。

「4 日米安保体制の問題点」について
 ずばり!
『米国の属国・日本』
で詳論しました。
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昭和の15年戦争史(56)

戦後史概観(2)

 カテゴリ『昭和の15年戦争史』の総まとめとして、『岩波講座 日本歴史22 現代1』の序説三「現代史の課題」を読むことにする。
<管理人注>
私が用いている『岩波講座 日本歴史』は1977年4月22日発行の第一刷版である。「現代1」の序説の執筆者は藤原彰(当時、一橋大学社会学部教授)さんで、2003年に亡くなられている。


現代史の課題

1 日本降伏の特色

 第二次大戦における日本の敗戦の形態は、同じ敗戦国であったイタリアやドイツとも、第一次大戦の敗戦国であったドイツ、オーストリアとも、まったく異なった特徴をもっていた。その第一は、降伏にいたる経緯のなかで国内の対立や分裂がおこらず、支配層の交代なしに戦争が終結したことである。

 イタリアでは1943年7月、反ファシスト連合がムッソリーニ政権をクー・デターによって打倒し、バドリオ政権を樹立して9月連合国に無条件降伏し、さらに10月にはドイツに宣戦した。さらに北イタリアでは、ドイツ占領軍とファシスト国民政府にたいし、共産党からキリスト教民主党にいたる労働者、農民、プチブル、一部の大ブルジョアまでの統一戦線が形成され、激しいレジスタンス運動を展開し、自らの功で解放を勝ちとったのである。
 ドイツにおいても、反ナチスの地下運動は続けられ、支配層内部でもヒトラーに不満をもった軍部が1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件をひきおこした。ヒトラーとナチス指導部は、連合国のナチズム根絶の強い決意と、国内の反ナチス勢力のたかまりから、絶望的な抗戦を続け、文字通り最後までたたかって完全に潰滅したのであった。イタリアでもドイツでも、戦争を推進した支配勢力は、敗戦の時点で完全に排除されるか消滅していたのである。また第一次大戦の場合も、ドイツとオーストリアは革命によって戦争を終らせたのであったから、連合国中のロシアの場合とともに、支配層は当然交代していた。

 これらに此べて日本は、国内における反戦・反体制の運動が表面化することは最後までなかった。戦局の不利とともに極限まで徹底した国民支配体制は、一切の自主的運動の存在を許さなかった。国民の中に支配者にたいする不満と反感は増大していたが、国民の個々人までを権力が掌握し、分断して支配する体制のもとでは、不満や反感を組織化する方法がなく、自発的な運動がおこる余地がなかったのである。

 国民の動員と統制のための完璧な画一組織の下で、表面的には最後の瞬間まで支配体制の動揺はおこらなかった。またその体制を維持したままに敗戦をむかえることが、支配層の最大の関心であり、そのためにのみ降伏の時期が延ばされさえしたのである。

 自主的な運動や組織の消滅は、支配層内部にさえおよんでいた。もちろん支配層内部の矛盾や対立は存在していたが、すべてを戦争遂行に集中する戦争指導体制の下で、この矛盾や対立は顕在化する余地さえなかったのである。したがって降伏の方法をめぐる指導部の対立さえ、まったく密室のなかの争いに終始し、一種の宮廷陰謀によって結着がつけられただけであった。このため日本の敗戦は、戦争を開始し推進した支配層の手によって行われたのである。

 第二の特徴として、イタリアやドイツの完全無条件降伏とは違って、日本の場全はポツダム宣言という降伏の条件を提示されてこれを受諾したという降伏の形態をとったことである。もちろんポツダム宣言は日本軍隊の無条件降伏を要求している。しかし無条件なのは軍隊の降伏であって、形式的には国家としての日本は、ポツダム宣言という条件を受け入れて降伏したのであった。連合国軍による日本全土の占領、一切の軍事力の解体、天皇を含む日本の権力の連合国占領軍への従属などというポツダム宣言の諸条項からみて、日本の降伏は実質的には無条件降伏であるとする説も成り立ち得るが、それらはすべて宣言に明記された条件中に含まれており、宣言を受諾することによってもたらされた結果にすぎない。ドイツやイタリアとは違って、日本は条件付きの降伏をしたという事実には変りはないのである。ポツダム宣言は、これを受け入れた日本を拘束すると同様に、この条件を提示し、宣言に署名した連合国の4大国(米・英・中・ソ)をも拘束するものであった。宣言に示した諸条項の厳正な実施が連合国に課されていたのである。すなわち宣言中にも、日本国政府に実施を要求する条項のみならず、産業の維持、原料の入手、貿易への参加、占領軍の撤収などの連合国側の義務ともいうべき条項も含まれていた。このことは日本の敗戦の形態を大きく規定したことはいうまでもない。

 第三の特徴として前二項とも関連して連合国の日本占領が、日本政府の統治機構をそのまま利用する間接統治となったことを挙げなければならない。ドイツのような占領軍による直接の軍政が施行されず、日本の行政機構はすべてそのまま継続して機能を続けたことが、戦後の日本を大きく規定したということができる。当初アメリカは日本にたいする軍政の施行を準備し、軍政要員を訓練し、軍票も印刷して上陸してきた。しかし旧支配体制の温存を願う日本政府の第一の対応は、軍政を拒否し、間接統治がもっとも能率のよい占領方式であり、日本の行政機構が占領軍への協力の面でも民衆にたいする支配の面でも何よりも優れていることを占領軍に納得させることであった。

 以上のような日本の敗戦形態における特色は、日本の現代史を規定する大きな要因となっている。そしてこの特色が、「二 現代史の起点」で述べたようなファシズムと戦争にたいする批判の不十分さ、戦争責任のあいまいさとなって現在に及んでいるのである。現代史の課題は、まさにこの点の克服にあるというべきであろう。

2 民主改革の意義

 敗戦は天皇の神的権威を一挙に失墜させたが、それ以上に天皇制の維持温存をはかる勢力にたいする強烈な打撃となったのは、1945年10月4日占領軍司令官マッカーサーの第一の指令として出された天皇にたいする批判の自由、政治犯人の釈放、思想警察の廃止、内務大臣・特高警察官の罷免を要求する覚書きであった。これにはじまる占領軍による民主改革は、日本の政冶制度に決定的な変化をもたらすものとなった。改革はさらに経済や社会の制度におよび、その内容の深さと大きさにおいてかつてない大改革が行われたのである。

 この戦後の民主改革は、日本歴史の上において、短期間に行われた変革としては明治維新とならぶ重要な歴史的意義をもっている。改革の第一の意義は、専制権力としての天皇制が解体されたことである。ファシズム期に極限にまでたかめられていた天皇信仰は、先の指令につづき、歴史修身教育の禁止、国家と神道との分離、天皇の人間宣言、さらに敗戦によって生じた天皇神話の崩壊によって消滅した。天皇の政治的地位は、最高の統治権者から新憲法の象徴に後退し、国民主権の原則が宣言された。さらに天皇制を支える物質的な基礎であった地主的土地所有は、農地改拡によって基本的に解消した。天皇制を支える社会的な基盤となっていた家父長制的家族制度も法制上は廃止された。これによって天皇制は、神的権威としても、専制権力としても解体されたのであり、このことは日本歴史上特筆すべき変革であったということができる。

 第二にこの改革は、ファシズムの基盤であった軍国主義思想と軍部に大きな打撃を与えた。ポツダム宣言は、日本の侵略戦争とファシズムの根源を軍国主義にあるとし、軍隊の解体と軍需産業の廃止、軍国主義勢力の除去を要求していた。当初のアメリカの占領政策も日本の非軍事化を目ざしていたから、改革の前半は軍国主義排除に力が注がれた。この結果、旧日本軍隊は解散し、新憲法は戦争の放棄と軍備の不保持を重要な原則とした。国民の中にも反戦平和思想が根をおろし、一方ファシズムに反対する基本的人権の擁護と民主主義の原理が定着していったことをあげなければならない。

 第三の特徴として、この改革の結果、労働者階級を中心とする人民諸階層の政治的地位が高まり、体制の変革を目指す政党が政治の表舞台に登場して重要な役割を演ずるようになったことを挙げなければならない。戦前においても日比谷焼打事件や大正政変のときのように民衆が政治の舞台に登場したことはあったが、それはあくまでも主役ではなく、ブルジョアジーの指導の下に動員された部隊としてであった。しかし戦後は民衆自身が主役として政治の表面にあらわれ、歴史を動かす文字通りの原動力としての役割を演ずるようになったのである。そして社会党や共産党のように、体制の変革と新しい社会の建設を目ざす政党が公然と活動し、政治社会の主役となったこともこの改革の結果であり、日本の歴史上はじめてのできごとであるといえよう。

 もちろん人民が権力を掌握し、社会党や共産党が社会主義をめざす政権を打ち立ててはいない。しかしそのような政権樹立が政治日程に上り、1947年にはきわめて不完全なものとはいえ社会党を首班とする保守革新の中道政権が樹立されたことは、戦前には考えられない大きな変化であった。

 このように改革の政治的側面を重視すれば、この改革が歴史上にもつ画期的意義が明らかである。しかし社会経済構成の変化は、政治のようにドラスティックにすすむものではなく、この点で経済的側面を重視する立場からの改革のもつ戦前との連続性を強調する見解も生れるのである。

昭和の15年戦争史(55)

戦後史概観

 前回に取り上げたサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の発効は戦後史を考えるときの大きな区分点の一つである。日本は講和条約により形式的には主権が回復され独立国家となったが、同時に発効した安全保障条約は本質的には未だアメリカの属国であることを示している。私はこの属国状況は現在まで続いていると認識している。言い換えれば、未だに戦後処理は終わっていないのだ。『岩波講座日本歴史22 現代1』の「序説」を参考に戦後史を振り返ってみよう。

 「序説」では戦後史を次のように三つの時期に区分している。

第一期 占領期(1945年~1952年)
 1945年8月15日の敗戦の日から1952年4月28日のサンフランシスコ対日平和条約、日米安全保障条約の発効までの7年間。

第二期 日米安保体制期(1952年~1960年)
 上の両条約発効のから1960年6月23日の改訂安保条約発効までの日米安保体制の時期。

第三期 新安保体制期(1960年~)
1960年6月の改訂安保条約発効以後の新安保体制期であり、現在もなおこの第三期が続いている。

 では、各時期の特徴を概観してみよう。

第一期

 この期間は、これまで観てきた通り、実質的にはアメリカ単独の占領下に置かれ、完全にアメリカ帝国主義に従属し国家主権を失っていたが、GHQの指令の下に民主改革が進められた時期である。

 しかし、この改革の進展の過程で、50年6月の朝鮮戦争の開始を契機にアメリカの占領政策が転換された。アメリカの占領政策の変化を考慮すれば、第一期は第3次吉田内閣がGHQ指令の「経済安定9原則」の実行を宣言した49年2月を画期として、前後の時期に区分できる。前半は改革が進行した時期であり、後半は、独占資本の再建・労働者への弾圧・再軍備への道等々、いわゆる逆コースが進んだ時期である。

第二期

 第二期もアメリカ軍の日本駐留がつづき、半独立の状態であった。しかし、そのなかで国際的な平和運動の発展をうけて、国内でも平和と民主主義をめざす国内の民衆運動が次第にたかまっていった時期である。この時期も1954年12月の第5次吉田内閣の崩壊、あるいは翌55年11月の保守合同の成立で前後の時期に区分できる。

 前半は占領時代の継続という面が強く、対米従属を基礎とした反動支配が続いているが、このような吉田政権にたいして基地反対や再軍備反対、さらに54年の第5福竜丸被災事件以後は原水爆禁止の平和運動がたかまり、さらに日中、日ソの国交回復を求める運動も展開された。このような民衆の運動が占領期を象徴する吉田政権の動揺と崩壊を齎した大きな一因であった。

 また、この時期の後半は、ジュネーブ会議以後の世界の変化をうけて、国内でも国際協調への路線が広がりを見せた。吉田に続く鳩山内閣は、日ソ国交回復を実現し、国連加入の道を開き、戦後はじめて日本は国際社会に復帰した。そして、貿易の伸長、技術革新を軸として日本経済は、急速な発展をとげ、神武景気、岩戸景気と、第一期の高度成長を謳歌した。

 一方政治面では、革新勢力の成長に対抗するために保守合同によって成立した自由民主党が、成長する独占資本の代理人として、保守独裁体制を確立したのである。

日本が国際社会への復帰をなしえた大きな要因の一つであった日ソ共同宣言(前文と10項よりなる)を取り上げておこう。
 この宣言は1956年10月19日にモスクワで調印された。日本の全権は鳩山一郎首相である。一・二・四・六・九(他は概略を記載)を『史料集』から転載する。

日ソ共同宣言 一、
 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。
二、
 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間に外交及び領事関係が回復される。……
三、(国連憲章の原則的承認)
四、
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、国際連合への加入に関する日本国の申請を支持するものとする。
五、(戦犯釈放)
六、
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。……
七、(通商条約締結交渉)
八、(漁業条約締結)
九、
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
十、(批准条項)

 補足すると、この宣言では平和条約締結時に歯舞群島・色丹島の返還が約束されたが、南千島は日本の固有領土であるとする日本の主張とポッダム宣言とヤルタ協定とで解決ずみとするソ連との歩みよりはみられず、平和条約締結には至らなかった。これらの領土問題は未解決である。

第三期

 日本経済の発展に伴って、日本の経済力と軍事力が極東においてアメリカの役割を一定程度代位するまでに成長し、日米軍事同盟が新たな段階に入った時期である。

代位  日本の独占資本はアメリカにたいする相対的な自立性を得るに至ったが、なおアメリカと密接に結びつくことによってのみその地位と利益は保障されており、軍事面では日本は依然アメリカに完全に従属している。

 第二期と第三期を区分している改定安保条約(前文と10条よりなる) が「軍事面では日本は依然アメリカに完全に従属」していることを示している。その条約は1960年1月19日にワシントンで調印され、6月23日に発効した。日本の全権は岸信介首相。これも『史料集』から三・五・六・十条を転載しよう。

新日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)

第三条
 締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。
第四条
 締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときは、いつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。
第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
第六条
 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
第十条
 ……もっとも、この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後1年で終了する。

 第三条で日本の防衛能力を認め、これによって第五条の共同防衛義務が明確にされた。また、第四条の協議制、第六条に基づく米軍の「地位協定」などは、「旧条約の不利を改定した」とされているようだが、とんでもない、逆に日本は軍事力増強(第三条)と日米共同作戦行動(第五条)が義務づけられ、第六条の「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」という名目でアメリカの戦争にまき込まれる危険性をもつなど、日本国憲法の掲げた平和主義に反する条項である。

 当然ながら、この改定に反対する声も強く、市民団体・労働組合や野党勢力を中心に大規模な安保改定反対運動が繰り広げられた。60年安保闘争である。

 なお、第十条で条約期間は10年とされているが、1970年に自動延長された。
昭和の15年戦争史(54)

戦後処理(4)

 マッカーサーは「対日講和会議の開催が手続にかんする各国の意見の対立から遅れていること」を指摘して、これを「極めて重要な未解決の問題」の一つとして挙げていたが、朝鮮戦争の勃発によって講和を期待する動きが強まり、サソフランシスコ平和条約が東西対立激化の中で講和条約が1951年9月8日にサンフランシスコで調印された。その条約は「サンフランシスコ講和条約」と呼ばれている。

 サンフランシスコ講和条約は日本と48ヵ国との間で調印され、前文と7章27条よりなる。日本の全権は吉田茂首相で、11月28日に批准している。マッカーサーが「…手続にかんする各国の意見の対立から遅れている」と危惧していたが、次のように調印しなかったり、ボイコットされた国があったことがその危惧を裏付けている。
 ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは参加したが調印せず。
 中華人民共和国と中華民国は会議に招かれず、
 インド・ビルマ・ユーゴスラビアは会議に招かれたが、参加しなかった。

 このサンフランシスコ講和条約の第1章~第3章を『史料集』から転載しておこう(一部の条項が省かれている。また必要に応じて小文字で<注>を付した。

  第一章 平和

第一条
(a)
 日本国と各連合国間との戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。
(b)
 連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。

  第二章 領域

第二条
(a)
 日本国は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文(こぶん)島及び欝陵(うつりょう)島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原<権利の原因、権利発生を法律上正当とする根拠>及び請求権を放棄する。
(b)
 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c)
 日本国は、千島列島並びに日本国が1905(明治38)年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。<千島・樺太の放棄を規定しているが、帰属を決めていない。ヤルタ協定に基づいてソ連が領有権を主張している。>

第三条
 日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩(そうふいわ)の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む)、並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案<アメリカは結局このような提案をしなかった>が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする<日本は残存主権を持つものと諒解された>

  第三章 安全

第五条
(a)
 日本国は、国際連合憲章第2条に掲げる義務、特に次の義務を受諾する。
(b)
 連合国は、日本国との関係において国際連合憲章第2条の原則<加盟国の主権平等等の原則。国際紛争を平和的手段によって解決するなど7点>を指針とすべきことを確認する。 (c)
 連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。

第六条
(a)
 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基づく、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とんまたは駐留を妨げるものではない。<この条項を根拠に日米安全保障条約が締結された。この条約発効により占領軍は駐留軍になった>

 この条約の問題点を挙げてみよう。
 条約の第二条(a)で朝鮮の独立は明記されているが、日本が主権を放棄した台湾・千島・樺太などの帰属が明らかにされていない。また第三条で、沖縄・小笠原は理由も不明確なままアメリカの施政権下に置かれることとなり、沖縄・小笠原などの帰属問題がその後も長く尾を引くことになった。第六条(a)では独立後占領軍は撤退することになったが、但書で安保条約への道が開かれている。ポッダム宣言の規定からいけば軍備の制限、平和の保障などがあるべきだが、これらの条項は平和条約にはなかったが、第一条により戦争が終結し、形式的には日本の主権が回復され独立国家となった。

 サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約(前文と5条よりなる。 翌年4月28日に発効)が調印された。何故か。勿論アメリカの都合による。
 アメリカは冷戦の展開と朝鮮戦争を通じて、日本の戦略的地位の重要性を感じ、米軍の駐留と日本の再軍備を不可欠と考えるようになったが、それを講和条約に組み込むことは困難なので、別個の日米安保条約を成立させたのだった。この条約の第1条から第3条を転載する。

 日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)

第一条
 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

第二条
 第一条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。

第三条
 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその付近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。

 まず、第1条でアメリカは駐留権はもつが、日本の安全保障に対する義務は負わず、内乱・騒擾にアメリカ軍の力をかりることができるとされた。これは国内問題にアメリカ軍が介入することであり、大変な問題である。
 第二条ではアメリカの同意なしに軍事に関わる条約を他国と結ぶことができないとした。全くの属国扱いである。
 第三条で駐留軍の最大限度をはじめとする「配備を規律する条件」は行政協定で決めるとして条約には既定がなかった。行政協定は1952年2月28日に調印された。この協定により、アメリカは日本国内に基地を要求する権利を持ち、日本は駐留軍費用分担の義務を負うことになった。これはアメリカ軍に広範な基地設営の特権を供与するものであり、今日に至るまでのさまざまな基地問題をひきおこす大元となった協定であった。

 さて、平和条約が成立、翌1952年4月発効すると、GHQの指令やポッダム政令であった団体等規制令などの治安法規は失効するため、政府は新たな治安立法として「破壊活動防止法」の制定(7月21日公布)をはかった。4月28日条約発効直後におこった5月1日の皇居前メーデー事件も、破防法成立に拍車をかけたと考えられる。その第1条は次の通りである。

第一条
 この法律は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体に対する必要な規制措置を定めるとともに、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整し、もって、公共の安全の確保に寄与することを目的とする

 この法律は「暴力主義的破壊活動」を行う団体を取り締まり、「破壊活動」調査のための公安調査庁の設置も含んでいた。しかし、これが戦前の治安維持法のように拡大解釈され、憲法の保障する言論・出版・思想の自由や結社の自由さえ制限する危険が強いとして労働組合のストや知識人・学生などの広範な反対運動かおこされた。

アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト首相は「戦後レジームからの脱却」などどほざいているが、「戦後レジーム」とはどういう意味なのか全く知らないようだ。強行採決をした「共謀罪」法は「破壊活動防止法」の完成法律じゃないか。これじゃ「「戦後レジームの完成」じゃないか。
昭和の15年戦争史(53)

戦後処理(3)

 前回GHQによる「農地改革」に関する指令を掲載したが、それに依拠した改革の結果を『史料集』は次のように解説している。
「寄生地主制を解体させ、農民を零細自作農民として解放した。また、これにより従来の小作争議中心の農民運動は価格・税金闘争にかわり、生活が安定・向上した小農民を中心に農村も資本主義経済に組み込まれるようになった。」

 「農地改革」に次いで、GHQは経済全般の復興のため、労働基準法が施行された翌年(1948年)の12月18日に第2次吉田内閣に対し「経済安定九原則」という指令を出している。この指令が出されるに至った経緯は次のようである。

 戦後の日本経済の復興はインフレ激化に悩まされていた。GHQは当初生産増大によりインフレを徐々に克服してゆこうとする政策であったが、1947~48年の片山哲・芦田均内閣の経済政策も十分な実効をあげえていなかった。また世界的にも、1947年3月のトルーマン=ドクトリン発表以来の冷戦のはじまり、中国革命の進展などがあり、GHQの対日占領政策は大きく転換した。特に48年初頭のロイヤル陸軍長官の演説で、日本をアメリカの援助なしに自立させ、資本主義陣営の安定した一員とすることが明確にされた。

 ロイヤル陸軍長官の演説の内容は次のようである。

ロイヤル陸軍長官演説
 「日本を全体主義の防壁へ」


1、
 日本の降伏直後闡明(せんめい=はっきりしていなかった道理や意義を明らかにすること)されたアメリカの政策の目的の背後にある考えは、将来の日本の侵略防止――非武装化による直接の防止と、再び侵略戦争の精神を発展せしめることのないような性質の政府を樹立することによる間接の防止であった。……
2、
 爾来世界の政治と経済に、国防上の諸問題と人道的考えに新たな事情が生じた。アメリカの今後の方針を決定するに当って、いまやこれらの変化を十分考慮にいれなければならない。
3、
 占領の政策面における責任を分担する陸軍省および国務省は、政治的安定の維持と将来とも自由な政局を継承せしめるために、健全にして自立的な経済がなければならぬことを知っている。アメリカは占領地域に対する救済資金に年々数億ドルの負担をいつまでも継続できず、被占領国が自国の生産と輸出品をもっておのが必要とするものに支払い得るときはじめてかかる援助を後顧の憂いなく停止しうる。
4、
 ……アメリカは日本に十分自立しうる程度に強力にして安定せると同時に、今後東亜に生ずるかも知れぬ新たな全体主義的戦争の脅威に対する妨害物の役目を果しうる自足的民主主義を確立する目的を有している。

 「日本の自立」を謳いながら「と同時に…新たな全体主義的戦争の脅威に対する妨害物の役目」を担わせようと言っている。何の事はない、要するに日本の属国化を目的としているのではないか。確かにこの時から占領国アメリカによる対日政策が大きく変わったのだった。

 このロイヤルの演説内容をふまえて、日本の経済的自立を促す具体策が1948四8年12月に第2次吉田茂内閣に出された。これが「経済安定九原則」という指令である。経費節減、徴税強化、信用拡張の制限などの引き締め、デフレ政策による通貨安定、輸出促進のための単一為替レートの設定などの九項目の指令が盛り込まれている。この指令文を掲載しておく。

経済安定九原則指令

 今回の経済復興計画がとくに目ざすところは、

(1)
 極力経費の節減をはかり、また必要であり、かつ適当なりと考えられる手段を最大限度に講じて真に総予算の均衡をはかること。
(2)
 徴税計画を促進強化し、脱税者に対する刑事訴追を迅速広範囲かつ強力に行うこと。
(3)
 信用の拡張は日本の経済復興に寄与するための計画に対するほかは厳重制限されいることを保証すること。
(4)
 賃金安定実現のため効果的な計画を立てること。
(5)
 現在の物価統制を強化し、必要の場合はその範囲を拡張すること。
(6)
 外国貿易統制事務を改善し、また現在の外国為替統制を強化し、これらの機能を日本側機関に引継いで差支えなきにいたるように意を用いること。
(7)
 とくに出来るだけ輸出を増加する見地より現在の資材割当配給制度をいっそう効果的に行うこと。
(8)
 一切の重要国産原料、および製品の増産をはかること。
(9)
 食糧集荷計画をいっそう効果的に行うこと。

 以上の計画は単一為替レートの設定を早期に実現させる途を開くためにはぜひとも実施されねばならぬものである。
         (朝日新聞1948年12月19日の記事)

 そして、この「九原則」を日本政府に遂行させるために、デトロイト銀行頭取ジョセフ=ドッジがGHQ財政顧問として1949年2月1日来日した。そのドッジ公使が1949年3月7日に内外記者団との初会見で述べた談話がドッジ声明である。

ドッジ声明

 私の信ずるところでは日本は目下厳しい経済を余儀なくされている。しかし現在とられている国内的な方針政策は、合理的でもなく現実的でもない。すなわち日本の経済は両足を地につけていず、竹馬に乗っているようなものだ。竹馬の片足は、米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある。今たゞちにそれをちゞめることが必要だ。つゞけて外国の援助を仰ぎ、補助金を増大し、物価を引き上げることはインフレの激化を来すのみならず、国家を自滅に導く恐れが十分にある。

         (朝日新聞 1949年3月8日の記事)

 ドッジは経済安定九原則の実施にあたり、財政・金融を焦点に具体的政策を立案した。また彼は1949年度の超均衡予算を自ら編成し、日本政府に押しつけている。

 そしてその翌年(1950年)、日本の再軍備の趨(はし)りとも言うべきマッカーサーの念頭の辞があった。

マッカーサー元帥の年頭の辞

 新しき年を迎えるにあたって、現在あらゆる目本人がひとしく不安にかられている二つの極めて重要な未解決の問題がある。その一つは中国が共産主義の支配下にはいったため全世界的なイデオロギーの闘争が日本に身近かなものとなったことであり、もう一つは対日講和会議の開催が手続にかんする各国の意見の対立から遅れていることである。
 ……この憲法の規定はたとえどのような理屈はならべようとも、相手国から仕掛けてきた攻撃にたいする自己防衛の冒しがたい権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない。それはまさに、銃剣のために身をほろぼした国民が、銃剣によらぬ国際道義と国際正義の終局の勝利を固く信じていることを力強く示したものにほかならない。しかしながら略奪をこととする国際的な盗賊団が今日のように強欲と暴力で、人間の自由を破壊しようと地上をはいかいしているかぎり、諸君のかかげるこの高い理想も全世界から受け入れられるまでにはかなりの時間がかかるものと考えなければならない。
                     (朝日新聞)

 現在「略奪をこととする国際的な盗賊団が今日のように強欲と暴力で、人間の自由を破壊しようと地上をはいかいしている」一番悪質な国際的盗賊団はアメリカ合衆国である。後半は共産主義の恐怖で煽って憲法9条を否定する屁理屈である。同じ屁理屈を今アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相が得意そうに振りかざしている。

 この再軍備を示唆したマッカーサーの年頭の辞の半年後、6月25日に朝鮮戦争が始まった。マッーカサーは吉田茂首相に書簡を送り、7万5000人の警察予備隊の創設、海上警備力の増強を指示した。吉田内閣はポッダム政令で警察予備隊令を公布・施行した。

警察予備隊令

 内閣は、ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件(昭和二十年勅令第五百四十二号)に基き、この政令を制定する。
第一条
 この政令は、わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うため警察予備隊を設け、その組織等に関し規定することを目的とする。

                  (官報)

 このようにして始まったGHQの対日占領政策の転換の行き着く先にあったのは――独占資本の再建・労働者への弾圧・再軍備……――いわゆる逆コースの道であった。  そしてこの警察予備隊が実質的な再軍備の第一歩であった。1952年には保安隊に改組され、1954年に自衛隊が発足した。

 ちなみに、私は10年ほど前に
『再軍備はどのうに行われてきたのか』

『昭和の抵抗権行使運動』
というカテゴリ名の記事で、「警察予備隊」について、今回のこの記事よりかなり詳しい記事を書いていた。参考までに紹介しておきます。
広目天の怒り
広目天

怒りは静に深く沈潜させ
より遠くまで射抜く眼差しとなせ。
その眼差しをもって
自由と民主を食い荒らす邪鬼どもの
あさましい心底を射抜き
踏みしだくまで反逆せよ
邪鬼