2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《米国の属国・日本》(10)

軍事面での対米従属(3):「国策の共有」の虚構性


 白井さんは、前回引用した新安保についての論評で、「アメリカが日本を守ってくれる」という新安保支持論者の立論が正しいと言えるのは「日米が完全に国策を共有している」という前提が成り立つ限りに於いてであると述べていた。新安保支持論者は、勿論、「日米が完全に国策を共有している」と、検証抜きで楽観しているのだが、果たしてそうなのだろうか。この問題に対する白井さんの分析は次のようである。

 この(日米が国策の根本内容を完全に共有できるという前提)段階で想定外にならざるをえないことが、ひとつあります。それはつまり、日米の友好関係が壊れ、日米が再び対立するという状態です。そうなると、日本側から見れば、米軍は占領軍以外の何者でもないということになる。これは何もまったくの仮定の話ではなく、現にそのような認識をアメリカが見せたことがすでにあります。

 ニクソン政権時代の1971年、国務長官のヘンリー・キッシンジャーが中国に極秘訪問し、周恩来首相と会談した際に述べた「瓶の蓋」論というものがあります。

 キッシンジャーは、米中国交正常化に向けた準備交渉のために中国へ行ったのですが、両者の会談の席で周恩来が、国交正常化に対して前向きな姿勢を示しつつも、在日米軍の存在について、「なぜ、米軍を他国〔日本〕に駐留させるのですか」とキッシンジャーを問い詰めます。そのように我が方を敵視して喉元に大軍を突きつけているような状態では、友好関係は結べない、と。これに対してキッシンジャーは、
「我々と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させなくしている」
「日本が大々的に再軍備をすれば、やすやすと1930年代の政策を繰り返すことができるでしょう」
と答えます。

 キッシンジャーは周との別の会談の席でも、
「もし我々が撤退するとなると、原子力の平和利用計画によって日本は十分なプルトニウムを保有していますから、とても簡単に核兵器を作ることができます。ですから、我々の撤退にとって代わるのは、決して望ましくない日本の核計画なのであり、我々はそれに反対なのです」
と述べています。要するに、在日米軍とは、第二次大戦のときに見られた、極めて危険な存在としての日本人を押さえ込むための「瓶の蓋」である、ということです。

 この論理は、中国と国交を開くためのレトリックにすぎないのか、それとも本音なのか。仮に本音ならば、日米は端的に対立しているということになります。

 いまから振り返れば、アメリカが中華人民共和国との国交樹立に向かったという流れは、冷戦構造の終結に向けた第一歩でした。そのことが示唆するのは、日米が根本的次元で国策を共有できる状態とは、冷戦構造があってこそ可能であった、ということです。

 60年安保について岸は、自分はこんなに正しいことをやろうとしているのに、なぜ国民は反発するんだと腹を立てたわけですが、しかしながら、60年安保に対する批判の本質は、新条約に切り替えることによって、冷戦構造の中で日米が国策を完全に共有するほかないような状態を歩むしかなくなる、ということだったのです。

 岸首相の前任者であった石橋湛山は、「何も急ぐ必要などないのに」という批判を当時投げ掛けました。それは、冷戦構造が永久に続く保障はないのに、冷戦構造の中でしか合理性を持たないような立ち位置に国を置くことに対する批判だったと言えます。確かに、51年の旧条約がある限り、ほとんど公然たる仕方で占領が継続しているような状態が続く。しかし、相対的な対等化は、日米の国策の共有が運命づけられるという事態をもたらしたわけです。

 ただし、冷戦構造が続く限りは、日本はこの構造の中で経済的に大成功を収めることができ、保守政権が長期にわたって安定政権を担当し続けることができました。問題が表面化したのは、冷戦構造の崩壊によって、この日米の根本的国策の共有という前提が揺らぎ始めたためです。湛山の表明した危惧は現実化しました。どれほど親密さを喧伝しても、もう現実には、国策は非共有になり、場合によっては対立となることもあります。

 冷戦構造下においてすらこの共有が大きく揺らいだ瞬間を、もうひとつあげましょう。例えばベトナム戦争です。ベトナムでアメリカがやっていることに対して、「これはおかしいではないか」という声が日本の中でも非常に大きくなりました。べ平連(ベトナムに平和を!・市民連合)などを中心とするベトナム反戦運動の広がりは、その表れです。結局アメリカはベトナム戦争に敗れ、この敗北がアメリカが下り坂を迎えるきっかけのひとつになります。

 とはいえ、アメリカが自由主義陣営のリーダーの座からすぐに滑り落ちることはなかった。先に見たように、経済面での没落の食い止めを助けたのは、他ならぬ日本でした。しかし、似たようなことが、今度は冷戦崩壊後の2000年代になって反復されます。すなわちイラク戦争です。ブッシュ・ジュニア政権が始めたイラク戦争の失敗が明白になったことによって、アメリカの覇権が根本的に揺らぐ時代に突入してきたわけです。

 日米の国策が共有出来たのは冷戦下の時であって、冷戦崩壊後はそれは虚構でしかなかったと言っている。冷戦崩壊後の対米従属は「安定の時代」から「自己目的化」していったのだ。

 冷戦末期に首相だった中曾根康弘の「日本列島はアメリカの不沈空母である」という発言があったが、これが対米従属が「自己目的化」していった表徴的な出来事だった。白井さんはこの発言について次のように解説している。

 この発言の実質的内容は、「シーレーン防衛」という、日本の近海で活動するソ連の原子力潜水艦の活動を、日本の海軍力を用いて阻止するという話でした。アメリカが日本に対して軍事的な注文、つまり対ソ封じ込め戦略にもっと積極的に参与してほしいという注文をつけてきて、それを日本が呑んだ形です。

 防衛費のGNP1%枠のルールが撤廃されたのも、この時期です。当時、国防予算はGNPの1%を超えてはならないというルールがあったのですが、シーレーン防衛のために1%ルールをやめることになります。中曽根政権の時代には、新冷戦などとも言われて、再び米ソ対立が深まっていったわけですが、最終的にはソ連が崩壊し、冷戦構造が崩れます。こうして日本は、アメリカとの新たな関係を模索しなければならない局面に差し掛かったわけです。つまり、前章で論じた対米従属の三つの区分にあてはめれば、「安定の時代」が終わりを迎えたわけです。

 続いて白井さんは、冷戦崩壊後に対米従属がより深まり「自己目的化」していった理由として「親米保守の逆説的状況」を取り上げている。

 戦後間もない頃から、銀座の数寄屋橋でしょっちゅう演説をしていることで有名だった、赤尾敏という右翼の活動家がいました。赤尾は民族派でありながら、親米右翼思想の持ち主です。すでに指摘したとおり、「親米右翼」「親米保守」というのは、本来矛盾を含む表現です。「親米ナショナリズム」などという言葉は、日本以外の国にあるのでしょうか。聞いたことかありません。例えば、フランスの保守であれば「親仏保守」、ドイツの右翼であれば「親独右翼」であるはずです。ところが日本でだけは、「親米保守」なる、まことに奇妙な立場が成り立つとされているわけです。それでも、この「親米保守」もソ連が崩壊するまでは、それなりの理屈がありました。

 赤尾に、ある日誰かが問いかけました。「先生は、右翼と名乗ってらして愛国者でいらっしやるのに、アメリカに対してなぜそんなに親近感があるのですか」と。すると赤尾は、「いや、アメリカは嫌いだよ。だけどいまはしょうがないんだよ。ソ連の共産主義は最悪の脅威である。それを防ぐためにはアメリカの力を借りるしかないんだ」と答えたといいます。この答えは、先にも触れましたが、日本の戦後保守、あるいは55年体制下の自民党の前提を正確に言い当てていると思います。

 しかしながら、ソ連が崩壊してしまえば、保守なり右翼なりを名乗る際に、本来「親米」という言葉は言えなくなるはずです。共産主義という共通の敵がいたからこそ、「親米保守」ということにもある程度の根拠はあったわけですが、その敵はいなくなった。ところが現実には、逆に保守はますます親米化し、どんどんアメリカ様の言いなりになっている。この逆説は、一体どこから発生するのか、考え抜かなくてはいけないのです。

 これに関連して、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた佐藤優氏が、『国家の罠』を書き、自身が巻き込まれた、いわゆる外務省・鈴木宗男事件の背景を分析しているのが参考になります。

 佐藤さんが逮捕されたのは、2002年のことでした。いわく、この事件の本質の一つは、外務省の内部的な路線対立・派閥対立において、対米従属派が他の派閥を駆逐するために起きたのだ、と。佐藤氏の見方によれば、それ以前の外務省内には、大きく言って三つの潮流があった。親米主義・アジア主義・地政学主義です。地政学主義とは、地政学的な観点に基づいて、その時々で国際間のパートナーを替えることも辞さないという立場ですから、親米路線を相対化して見ていることになります。佐藤さんは自身をこの派閥に属していたと分析しています。この三つの路線の拮抗によってそれまでの外交方針が成り立っていたのが、鈴木宗男事件を経ることで、親米主義以外の路線は引きずり降ろされることになった。それが起こった時期は、これからお話しする、アメリカの単独行動主義に日本が無批判的に追随していく始まりの時期に当たります。

 対米従属の「自己目的化」路線の無批判的な徹底的追随に行き着いたのが「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権である。『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(100):終末論の時代(36)』で取り上げたように、「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権のトンデモ政策は全て「第3次アーミテージ・ナイ・レポート」が押しつけてきた政策の実行だった。ここに行き着いた経緯を、白井さんは次のように解説している。

 ソ連が崩壊した1990年代初頭から今日に至るまで、対米従属が一直線に「自己目的化」していったわけではありません。例えば、95年前後から、アメリカは日本に対して集団的自衛権行使容認を要求しています。アメリカから見れば、この要求が実現するまで20年もかかっているのです。ただし、日本側がこの間それを断ってきたわけでもなかった。日本の歴代政権は、ひと言でいえば生返事、「前向きに検討します」などと言って、のらりくらりとかわしてきたとも言えます。それが、第二次安倍政権になって急に受け入れるようになったわけです。

 それでは、90年代に何が言われていたか。この時代、日本の国際的責任がいよいよ強調されるようになりました。日本は明らかに経済的には大国化しているのだから、世界で生じている様々な問題に対して背を向けていることはできない、大国にふさわしい国際貢献が求められているのだ、という論調です。第一章で言及した小沢一郎氏の『日本改造計画』でも、そのような主張が強調されていました。

 国際貢献には、主に二つの手段があると考えられてきました。お金を出すことと、人を出すことです。この時の「人」とは、端的に軍事力を指します。自衛隊を初めて公式に海外へ出したという意味で画期的だった湾岸戦争後のペルシヤ湾での機雷除去作業が、重要なターニングポイントになります。そして、国連PKO活動への参加であるとか、自衛隊の海外での活動は、それ以降だんだんとその場を広げていきます。

 そこで留意すべきは、90年代におけるこうした活動では、国連中心主義、すなわち国連の活動に参加するという形で責任を果たしていかなくてはならない、という考え方が強く謳われており、実際その方針に即して自衛隊の派遣等が行なわれていたということです。それが決定的に変質し始めるのが、9・11以後、対テロ戦争という文脈が出てきたときでした。アフガン戦争、イラク戦争と、単独行動主義にアメリカが突っ込んでいくときに、アメリカのスタンスに対する国際社会からの強力な批判があったにもかかわらず、日本政府は逡巡する気配すらなくアメリカに追随しました。その延長線上に、今日の集団的自衛権行使容認は位置づけられます。

 それでも、小泉政権がアフガン戦争のときの自衛隊のインド洋派遣や、イラク戦争に対して派兵に近いことをやったときは、法的根拠は特措法によって処理され、憲法解釈の変更や改憲には踏み込みませんでした。ところが、第2次安倍政権においては、憲法解釈を変更し、アメリカの世界戦略への日本の追随を、言うなれば原理化することになりました。小泉政権のやり方は、ある意味で場当たり的ではありました。しかしそれは、アメリカの強引な軍事行動への追随を原理化してはいなかったわけです。つまり、小泉政権がなし崩し的に採った方針を、第2次安倍政権は原理化していると言えます。

 次回は「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権が強引に成立させた憲法違反の戦争法(安保関連法)を取り上げよう。
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《米国の属国・日本》(9)

軍事面での対米従属(2):旧安保から新安保へ


 安保条約については「昭和の抵抗権行使運動」の中で「60年「改定安保」の問題点」と題して取り上げた。その中から主要な部分を再掲載しよう(一部書き換えがあります)。

 まず旧安保のおさらい。

 安保は、サンフランシスコでの講和会議の最終日(1951年9月8日)、対日平和条約(「日本国との平和条約」、通称「サンフランシスコ平和条約」)と抱き合わせで締結された。講和条約は、ソ連・中国・インドなどの反対を無視して、それらの国を除く旧連合国48ヶ国と日本との間で調印された。草案はアメリカ・イギリスだけで作成し、会議も討議も一切認めない議事規則で強行されている。

 この安保条約の最大の特徴は、日本の個別的・集団的自衛権を承認し、日本の再軍備とアメリカ軍隊の駐留継続を許容した点にある。さらに、沖縄・小笠原諸島におけるアメリカの施政権継続も盛り込まれており、アメリカの極東戦略が色濃く反映された条約だった。

 敗戦後の連合軍による占領施政は終了したが、アメリカ軍隊の駐留継続により、実質的にはアメリカによる占領が続いてきたといえる。そして、今日に至るまで、日本政府はアメリカの属国のような従米政策を続けてきている。

 この屈辱的な条約に署名したのは吉田首相だった。吉田はこの条約の署名を渋っていたが、その署名を押しつけたのは、なんと、これも天皇ヒロヒトなのだった。

 この講和条約締結時の首相は吉田茂である。吉田茂の長男・吉田健一(英文学者)によると、吉田茂は講和条約締結の一週間ほど前からひどく不機嫌になったという。これを枕に、天木さんのブログ(9月13日)が、講和条約と吉田についてのおもしろい?(「重大な」と言うべきか)エピソードを取り上げている。天木さんは、豊下楢彦著「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」(岩波新書)を用いながら、およそ次のように述べている。

 講和条約は日本にとって極めて寛大な条約であり、この条約を吉田茂は高く評価していた。しかし吉田は首席全権代表を強く拒んだ。つまり「ひどく不機嫌」だったのだ。なぜか。

 吉田は講和条約に署名したくなかったのではない。その直後に控えていた日米安保条約に署名する事が嫌だったのだ。吉田は、少しでも対等な条約をと、粘り強い交渉を重ねていた。これに対して、天皇の戦争責任をせまるソ連の影響を恐れた昭和天皇が、安保条約の早期締結を命じ、出席を渋る吉田に、はやく出席し、署名するように、と迫ったという。

 やむなく吉田茂は、日本国民や国会はもとより、全権代表団にさえ安保条約の実態を知らせることなく、責任をみずから一人に負わせる形で、サンフランシスコ郊外の米軍兵舎に一人赴いて署名した。つまり、今日もなお日本の桎梏となっている日米安全保障体制は、昭和天皇と米国の利害が一致して作られたのだ。

 さて、この51年に締結された日米安保の改定に向けての布石は55年の重光外相の渡米(重光・ダレス会談)から始まる。そして、アメリカの意向と資金を背負ってのし上がってきた岸が登場し、安保改定は急ピッチで進行していく。

57年1月 石橋湛山首相病気のため岸外相を臨時代理に指名
57年2月 石橋内閣総辞職、岸内閣成立
57年3月 自民党大会、岸信介を総裁に選出
57年6月 岸渡米、日米新時代宣言
58年9月 改定交渉開始

 以後20回に及ぶ日米交渉によって、安保改定という従米支配層の悲願がいよいよ成就目前となっていった。1959年、安保改定をめぐる階級闘争(安保闘争)が開始される。

(ついでながら、岸信介が「CIAのエージェント」であった事を『昭和の抵抗権行使運動(3):60年安保闘争時の政治裏面』で取り上げている。)

 それでは、新安保とは何か。それが日本にもたらした問題は何だったのだろうか。その問題の核心を捉えている論考として、私は「60年「改定安保」の問題点(1)」で天木直人さんのブログ記事「ビル・トッテンという日本人」(2007年5月3日の記事)を転載している。天木さんは日本国籍のビル・トッテンという人の著書『日本は略奪国家アメリカを棄てよ」(ビジネス社)』を用いているが、その記事から主要部分を再転載しよう。

 その中で私が最も注目したのは、日米安保条約こそ不平等条約であるという事実を喝破したくだりである。周知のように日米安保条約はサンフランシスコ講和条約を締結した1951年に、米国に恫喝されて吉田茂が単独で秘密裏に締結した条約である。そしてそれが10年経って期限が来る前に、米国に命令されて岸元首相が恒久条約化させられて今日に至っている。あの安保騒動の時である。 (管理人注:この有効期限についての記述には誤りがある。旧安保が恒久条約であり、10年毎の見直し条項は新安保のものである。)

 安保改定の最大の改善点は岸元首相が頑張って、それまでの片務協定から、「米国が日本を守る」という事を義務付けた点であるということになっている。

 ところがビル・トッテン氏は、改定後の安保条約こそ不平等条約であるというのだ。つまり改定された安保条約をよく読むと、「共通の危険に対処するよう行動する」と書かれているだけで、どこにも「日本を守る」とは書かれていない事をあらためて日本人に教えてくれている。いったいどれほどの日本人がわずかA4二枚ほどの安保条約に目を通したというのか。

 この文言については今でも関係者の議論が分かれているのである。アメリカが共通の危険を感じる相手から攻められない限り、日本を守ろうとしないという解釈ができる。つまり中国や北朝鮮が日本を攻めてきても、その時点で中国や北朝鮮が米国の友好国となって米国にとって危険を感じる国でなければ、米国は日本を守ろうとしないのだ。そしてその現実が今まさに起きようとしているのだ。その一方で日本は米国の軍隊を日本全土に受け入れることを約束させられ、そのための人的、財政的負担を支払わされている。しかもこれからは「テロとの戦い」という日本の防衛とは何の関係もない米国の戦争の為に、ほとんどすべて日本の自衛隊が使われるのだ。これは大変な不平等条約ではないか。

 実はこの指摘こそ外務省が決して口に出さない、国民に知られたくない点なのである。突き詰めて言えば、日米安保条約は完全にその機能を変えてしまったのである。日米同盟を原点から見直すべき時にきているにもかかわらず、外務省はそれをごまかしているのである。これ以上の怠慢はない。これ以上の不誠実はない。

 それにしてもフルフォードといい、トッテンといい、日本のためを思って「米国から独立せよ」と言ってくれるのがカナダ人や元アメリカ人だけであるというのが、いかにも情けない。右翼も左翼も一致団結して日米関係を見直す努力をすべき時が来ている。彼らに日本国民を思う気持ちがあるのなら、今こそ日本の国益のために、「米国から裏切られる前に、日本のほうから日米関係を見直せ」と日本政府に詰め寄るべきなのである。

 この新安保についての白井さんの論評も、「アメリカに日本を守る義務があるか否か」が最重要論点となっている。それを読んでみよう。

 岸信介内閣時代に結び直された、新安保条約について見てみましょう。安倍首相は、自分の祖父が行なった1960年の新安保条約の締結と、このたびの新安保法制を結びつけて考えています。

 安倍首相は、60年の新安保条約について、次のようなことを述べています。あの頃に安保闘争と言って国民が大騒ぎをしたのは不条理であった、なぜかといえば、彼らは安保のことを理解していなかったからだ、と。岸自身も同じようなことを言っていますが、確かに1951年の旧安保条約には、アメリカには日本に対する防衛義務がなく、アメリカとしては好き放題に基地を使うけれども、有事の際には自分たちの考えで勝手に動くという明白に一方的なものでした。つまり、占領の延長のようなものでしかなかった。岸は、60年の新安保条約で旧条約を相対的に対等なものに変えようとして、ある程度は実現をした。そのことを理解せず、アメリカに国を売った奴だ、といった批判を反対派がしていたのはまったくのナンセンスである、と岸は主張しています。しかしながら、反対派は、60年に新条約になったところで、アメリカの防衛義務は決して厳格なものではない、と批判します。

 どちらの言い分に真実があるのでしょうか。留意しなければならないのは、反対派の60年安保批判は、アメリカとの軍事同盟関係を恒久化する必要があるのか、という疑問を投げ掛ける「そもそも」論であった、ということです。その意味でそれは、条約の対等性・非対等性を問題にしていなかった。このことを無視して、反対派の主張はナンセンスであったと決めつける岸=安倍の論法は、対米従属以外の方針をアプリオリ(無前提)に斥けるものにほかなりません。

 51年の旧条約と60年の新条約には大きな違いが何点かありますが、興味深いのは条約の有効期間です。51年の条約においては、なんと有効期間がありません。未来永劫、アメリカは日本に基地を好きなだけ置き続けて、それでいて、何かあっても必ず守るわけではない。さらに、内乱条項がありました。日本で深刻な内乱が起きて日本の警察力や自衛隊だけで対処できない場合は、米軍が鎮圧する、という条項です。要は、日本国内の行く末についても、アメリカが最終的な決定権を握っていることが、明白な条約なのです。

 岸は安保条約の改正をアメリカに対して持ちかけるにあたって ―これは岸自身が言っていることですが― 最初は相手にもされないだろう、しかし、このように占領軍的性格がむき出しなままでは日本人のあいだに広範な反米感情が生まれてくることを避けられない。だから結局、改正せざるをえなくなるだろう、と考えていました。

 かくして、新安保では、条約の期間が定められました。アメリカから日本に、あるいは日本からアメリカに、この条約をやめましょうといえば、そこから1年で安保条約は失効するという約束になっています。内乱条項も廃止されました。ですから、60年の新条約によって、51年の旧条約が持っていた占領軍的な性格が確かに薄められたということは言えます。

 しかしながら、占領軍的な性格が薄まったとはいえ、先に述べたように、本当のところ、新安保条約においても、防衛義務がありやなしやということが、厳格に決定されていません。そこが、安保体制にまつわる究極的な曖昧さでもあります。もし日米が国策を共有していて、防衛義務について完全に合意し、有効であるのだとすれば、親米保守派の主張する、日米安保体制は日本にとって得な話だという理屈には、それなりの一貫性があることになります。

 そして、今回の新安保法制の件は、同じ理屈の延長線上にあります。すなわち、中国の脅威(それが新安保法制賛同者の主張通りにリアルなものだと仮定して)に対してアメリカが全力で対処してくれるならば、日本の自衛隊がアメリカの戦争へ加勢して少々の血を流すぐらい当然ではないか、というわけです。しかし、もしアメリカに防衛義務がないのだとすれば、その前提はすべて覆ります。

 では、日米が本当は国策を共有しておらず、そしてアメリカの日本に対する立場は中立なものであるとした場合、つまり日本がアメリカにべったりと追随していくことに何の利益があるのか曖昧な場合、アメリカにとって安保体制と在日米軍基地は、純粋に自身の世界戦略のためのものであり、占領の継続だということにもなります。

 そのとき、日本にとって安保体制にはどんな意味があるのでしょうか。それは、国民の利益とは直接に関係がないということになります。とすれば、残る機能は、対米従属の権力構造を維持するための装置としてのそれ以外には、何も見出せなくなる。日本国家の側から見れば、国内の権力構造を維持するために、世界最強の軍隊を自分のところに引き込んだということです。明らかに、51年の旧条約はそのような性格を持っていました。

 また旧条約の内乱条項も、この性格に関係しています。この条項は、安保条約が成立する以前、つまり占領軍としての米軍がいた頃の状況に照らせば、非常にリアルな意味合いを持っていました。戦後間もない頃、東京では、共産党に率いられたかなり戦闘的なデモンストレーションが起きていましたが、それを最終的に止めたのは、米軍です。GHQが解散命令を出して、吉田茂の政府を救ったわけです。

 あるいは、1947年に官公庁の労働組合を中心に計画された、いわゆる2・1ゼネストにしても、最終的にはマッカーサーの命令で中止されました。GHQがいなければ2・1ゼネストは決行されていたわけです。そうすれば、当時の日本の国家権力は崩壊の危機に瀕したでしょう。つまり、占領期においては、米軍は当時の日本の支配構造、国体を守っていたと明確に言えるわけです。

 このように見てくると、岸の企てた安保改正とは、ある側面では安保条約の「国民化」であったと定義できます。露骨な占領軍的性格をある程度まで相対化したことで、日米安保体制を日本国民のための体制とする、日本国民のための安保条約にしていくということを、ある程度成し遂げたとは言えるでしょう。ただし、それはあくまで、日米が国策の根本内容を完全に共有できるという前提があってのことです。

 天木さんからの引用文中に「いったいどれほどの日本人がわずかA4二枚ほどの安保条約に目を通したというのか。」とあったが、これをはじめてよんだとき(約6年前)、私は
「天木さんの指摘に私の耳が痛いと言っている。教科書程度の知識で分かった気になっていた。次回、学習し直すことにしよう。」
と書いている。その時安保全文を順を追って解読をしている大変レベルの高い「60年安保全文」という記事に出会った。それを改めて紹介しておこう、と思ってアクセスしてみたら、「サービスは2015年2月28日をもちまして終了させていただきました」というメッセージが表示されていた。しかし、実は『「60年「改定安保」の問題点(2)」』に転載していたので興味ある方はそれを読んで下さい(しかし残念ながら、その内の前文の解説だけだった。全文転載しておくべきだったと、いま悔やんでいる)
《米国の属国・日本》(8)

軍事面での対米従属(1):対米従属路線の始まり


 「軍事面での対米従属」と言えば、「二重の法体系」の中の「日米安保条約」と、その付随協定である「日米地位協定」が問題となるが、この二つについてはこれまでに色々なところで取り上げてきた。特に「日米地位協定」についてはシリーズ《沖縄に学ぶ》で「沖縄問題の本質(1)~(9)」でかなり詳しく取り上げている。ただし、「日米安保条約」そのものについては「日米地位協定」の論考に必要な部分だけを断片的取り上げてきただけだった。白井さんは「軍事面での対米従属」については「日米安保体制の本質」と題して、旧安保と新安保を対比させながら、その問題の本質に迫っている。この白井さんの論考から、これまでに取り上げてこなかった観点を追っていくことにする。

 白井さんは「経済領域での対米従属」の内実の分析から、「確立の時代」「安定の時代」「自己目的化の時代」という三つの時代区分を提示していたが、日米安保の考察の結果、「軍事面での対米従属」についてもこの三つの時代区分を採用している。
「51年の旧安保の時代→確立の時代」
「60年の新安保の時代→安定の時代」
「冷戦崩壊後の安保時代→自己目的化の時代」
として、次のような表でまとめている。

安保の時代区分
 白井さんはこの時代区分について、次のように解説している。

 このように整理することによって、日米安保体制の意味が、戦後の全期間を通して変化してきたことがよくわかると思います。51年の安保条約では、戦勝国アメリカが敗戦国日本をほとんど戦利品として扱ったに等しいと言うべきでしょう。しかし同時に、それは日本側から見れば、「国体護持」の実現手段であった。

 60年の安保改定によって、条件つきながらも米軍の日本防衛義務が明記され、米軍はアメリカにとって都合のよい政府を国民の批判や内乱から守っているのではなく、日本国民を守っているのだ、という体裁となりました。無論それは、日米間での国策の根本的共有が条件となりますが、51年の安保条約においては、在日米軍の占領軍的性格が拭えなかった以上、国策の共有も強制的な性格を免れ得なかったのに対して、60年の安保条約では、国策の共有は日本側から主体的に選び取ったものだ、という体裁を得ることとなります。まさにこの点をこそ、多くの60年安保反対の論者が追及したことは、先に見たとおりです。

 岸信介による安保改定のポイントに付け加えなくてはならないのは、「極東条項」が加えられたことです。すなわち、在日米軍の駐留目的は、日本の安全を守ることだけでなく、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」と定義づけられました。これは、言い換えれば、在日米軍が同盟国日本の安全保障に寄与するだけでなく、米軍が世界の秩序を安定させるための活動の前線基地として在日米軍基地を利用するということを、あらためて定めたものと言えます。

 この極東条項の意義は、冷戦崩壊により大きく変化していきます。なぜなら、ソ連が崩壊することで、日米安保体制の最大の機能であったはずの対ソ連の共同防衛が、意味をなさなくなったからです。順当に考えれば、ソ連の脅威が消滅した時点で、控え目に見ても、在日米軍基地は劇的な縮小を視野に入れてもおかしくないはずです。ところが現実にはそうならなかった。ソ連は存在しない、にもかかわらず巨大な在日米軍基地は維持されなければならない、ということになりました。この矛盾を解くことができるのは、極東条項の延長線上にある「世界の警察官」としてのアメリカの活動を支えるために在日米軍基地があるのだ、という論理しかありません。

 そして、このように整理することによって見えてくる最大のポイントは、彼我の国力差が51年時点と冷戦崩壊後ではまったく異なるにもかかわらず、冷戦崩壊後の安保体制は、51年安保の体制に似通ってくるということにほかなりません。すなわち、述べてきたように、共通敵が失われたためにもはや国家的利益は共有されるよりもむしろ対立をはらむという事実が決定的です。そうだとすれば、冷戦崩壊後の在日米軍とは、一体誰を守るためにあるのか。このことがよくよく考えられなければなりません。そこに対米従属の自己目的化の病理の核心の問題が隠されているはずなのです。

 では、このようにまとめられる至った白井さんの考察をたどってみることにする。白井さんは安保体制の起源として『昭和天皇の「現実的判断」』を、豊下楢彦さんの著作を援用しながら論じている。

 実は、このテーマについては、私は以下の記事でかなり詳しく取り上げている。その時用いた教科書は小森陽一著『天皇の玉音放送』や豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』・『安保条約の成立』であった。(このページの最後に白井さんの簡潔な論考を転載するので、以下の過去記事がわずらわしい場合は読み飛ばして下さい。)

 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(1)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(2)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(3)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(4)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(5)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(6)』
 『アメリカ属国化路線を敷いた張本人(7)』
 もう一つ、『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(29):権力が教育を破壊する(12):教育反動(4)』の冒頭に記事。

 さて、白井さんの論考を転載しよう。

安保体制の起源としての昭和天皇

 そこで歴史を遡り、安保条約の起源を見てみましょう。豊下楢彦氏をはじめとする、日本の対米従属を批判的に見る非主流派の歴史家たちが非常に困難な研究を重ねて、その政治的プロセスを明らかにしましたが、日米安保条約は、サンフランシスコ講和条約とセットのものです。同講和条約が発効する時点で、占領軍は撤退しなくてはなりません。けれども、米軍は撤退したくなかった。冷戦構造下において、日本に世界戦略のための基地を持ち続けたい。日本の国家主権が回復されてしまうと、外国の軍隊の基地を置き続ける理由がなくなります。ですから別個に条約を結ぶ必要があったわけです。それが日米安保条約の起源です。

 このように、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約は限りなくワンセットのものである、ということをまず押さえておく必要があります。この交渉を米側で主導したのは、当時の国務長官であるジョン・フォスター・ダレスですが、ダレスが獲得しようとした目標は、独立したはずの日本に、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を得る、ということでした。要するに、やりたい放題にやるということです。もちろんこれは理想的な獲得目標であって、ダレスとて、まさか100%それが叶うとは思っていなかった。しかし、交渉過程で日本側が譲歩を重ねたために、ダレスの理想的な目標が実現することとなったのです。

 その状況をつくった主役がなんと昭和天皇であったというのが、豊下氏の研究が提出した驚くべき説です。私は、豊下説には相当の説得力があると考えています。当時、首相の吉田茂にしても、アメリカの要求を100%飲むなんて、独立国としては許されざることであると考えていた。にもかかわらず、ダレスの要求は完全に受け入れられた。それを主導したのは昭和天皇であったというわけです。日本に米軍基地がたくさんあるのは、戦争に負けた帰結であり、本来日本民族のナショナル・アイデンティティにとって非常にトラウマ的な出来事であるはずです。臥薪嘗胆の気持ちで米軍基地を見つめるというのがナショナリストの心のあり方でしょうが、そのような状態を望んだのは、誰あろう天皇陛下であったと。

昭和天皇の「現実的判断」

 なぜ昭和天皇はそこまでしたのかという驚きが生じますが、これには明確な理由があるのです。それは、昭和天皇の共産主義に対する恐怖です。豊下氏によれば、昭和天皇は冷戦が本格化する以前から「内外の共産主義が天皇制の打倒をめざして直接・間接に日本を侵略してくるのではないかという危機感に苛まれて」いました。20世紀以前から世界各国で起きた多くの革命において王室は廃され、ロシア革命に至っては皇帝一族もろとも殺されてしまいました。日本で共産主義革命が起こったらどうなるか。皇統が断絶してしまうに違いないという恐怖があった。だから、どんな妥協をしても、何とかして皇統を続けていかねばならないというのが、昭和天皇の覚悟であったとも言えるわけで、そのために米軍を利用したのです。豊下氏も言っているように、こう考えると、在日米軍とは、国体護持のための装置だったということにもなります。

 天皇制を存続させるということは、皇族にとって職業倫理です。豊下氏には『昭和天皇の戦後日本 ―〈憲法・安保体制〉にいたる道』という著作がありますが、それを読むとわかるのは、当時の大半の保守政治家よりも、昭和天皇の方がはるかに頭脳明晰であったということです。昭和天皇の皇統をつないでいくという強靫なる意志が冴えた現実的な判断を生んでいたことがよくわかります。

 その象徴的な事例が、戦後憲法をめぐるプロセスです。恒久的な武装解除という内容に対して多くの政治家たちが拒否反応を示す中、昭和天皇は「それでよい」と言います。

 オーストラリアやソ連は天皇制廃止を主張しており、憲法制定の過程に他の連合国が介入してくるような事態になれば、天皇制を廃止する憲法を受け入れざるを得なくなってしまうかもしれない。だから、アメリカは、他の連合国を納得させるには、天皇制維持のかわりに武装放棄をする憲法にするしかないと言って、政府要入たちに迫りました。昭和天皇は、こうした背景を非常によく理解していました。

 ただし、こうした「現実的な判断」が冷酷なものでもあったことを付け加えておかなければなりません。それが、戦後の沖縄の処遇をめぐる判断です。共産主義陣営に対する守りを固めるために、沖縄を無期限的にアメリカの手に委ねるという提案を、昭和天皇自身ががアメリカに対して行ないました(沖縄メッセージ、1947年)。このことが、現在に続く在沖縄米軍基地問題につながっていることは、まったく明らかです。

 憲法第九条がアメリカからの押しつけのように書かれているが、2016年8月12日付けの東京新聞朝刊のトップ記事が、それは決して押しつけられたものではないことを証明する新史料が堀尾輝久・東大名誉教授によって発見されたことを報じていた。主要部分を転載しておこう。

 堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。

 堀尾氏は国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。

 マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。

 九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。堀尾氏が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾氏は二項も含めて幣原の発案と推測する。

《米国の属国・日本》(7)

経済領域での対米従属(3):年次改革要望書からTPPへ


 これまで、日本の「二重の法体系」を在日米軍関係で牽引しているのが毎年行なわれている「日米合同委員会」であることに度々触れてきたが、経済面での対米従属を牽引しているのが前回の最後に出てきた「年次改革要望書」である。もう一つ、政府の政治政策の根本を指示しているのが「アーミテージ・ナイ・レポート」である。

 アーミテージ・ナイ・レポートはこれまでに2000年・2007年・2012年と三回出されている。私は『《『羽仁五郎の大予言』を読む》(100):終末論の時代(36)』で、山本太郎さんが「第三次アーミテージ・ナイ・レポート」を用いて、政府の対米従属ぶりを厳しく追及したことを取り上げている。

 年次改革要望書は正式には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」と言い、両国の経済発展のために相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書である。1994年以来毎年日米両政府間で交換されていたが、2009年に民主党の鳩山内閣によて廃止されている。しかしその後、次のような日米による会合がもたれるようになっている(ウィキペディア「年次改革要望書」から引用する)。

 民主党鳩山由紀夫内閣の時代に、「日米規制改革委員会」が廃止され年次改革要望書の交換も事実上停止した。しかしその後もアメリカは、駐日アメリカ合衆国大使館サイトにおいて、「日米経済調和対話」と題し産業のいくつかの分野について『米国政府は、実行可能な範囲において、両国のシステム、規制アプローチ、その他の措置や政策の調和に向け、この共通の目標を推進する形で日本と緊密に協働することを期待する。』とする文章を掲載していた。

 2011年3月に日本側では外務省サイトにおいて、貿易の円滑化、ビジネス環境や個別案件、共通の関心を有する地域の課題等について、日本とアメリカ両国が協力し取り組むための、「日米経済調和対話」事務レベル会合の開催を発表した。

 「日米経済調和対話」は「要望書」の米国側関心事項をほぼ踏襲しているという。

 鳩山首相は辺野古問題でアメリカの意向に逆らったために失脚させられているが、この年次改革要望書の廃止もその理由の一つなのではないだろうか。なぜなら、年次改革要望書はアメリカからの一方的な要求書だったのだから。白井さんはこの年次改革要望書について次のように解説している。

 年次改革要望書とは、日米が両国の経済的な交流をより深めるために、それを阻害する不合理な法律や習慣などをお互いに指摘しあって、親密な経済関係をもっと深めていきましょうというものです。これだけを聞くとまことに結構なものに思われるかもしれませんが、しかし、どう運用されたかを見れば、それは建前であって、実際はアメリカからの日本に対するほとんど一方通行的な要求です。

 アメリカの経済的苦境の一因は、対日貿易赤字でした。改革の要求は、アメリカ側が貿易不均衡の理由を、自国の産業の欠点のために日本製品との競争に勝てない、つまり自業自得であるとせず、日本の市場が閉鎖的であるからだ、と主張するための手段として機能しました。そこから、多国籍資本が日本市場に入っていくための規制緩和の要求が出てきます。

 年次改革要望書とか、構造改革協議、金融ビッグバン、金融資本の移動の自由化といった一連の改革は、軌を一にしていることがわかります。いずれの現象も、グローバル資本が何のしばりも受けず動き回れる状態をつくり出そうとするものです。この流れが、今日のTPPにまでつながっていくというのは非情にわかりやすい話だと言えます。

 アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権は、2012年の衆議院選挙の公約に「TPP不参加」を掲げていた。ところが第三次アーミテージ・ナイ・レポートの「提言の3、TPP交渉参加」を突きつけられて、公約を堂々と破って、TPP交渉参加を忠実に実行している。経済領域での対米従属の最たるものが、このTPP交渉参加である。こうした経済領域での対米従属の行き着く先を、白井さんは次のように論じている。

 こうしたことが最終的にどこに帰結するかといえば、これまで社会が万人の共有物として保持してきた直接的な生活基盤を食い物にしようとする資本の運動が、いよいよ顕著になってくるということです。後に論じますが、国民皆保険制度を壊そうという動きなどがその典型です。資本の運動は、その本性上行き過ぎるものだから規制する必要がある、と考えるのが真っ当な発想だと思いますが、「永続敗戦レジーム」によって支配された日本は真逆の方向に迎合し、それを促進するような政策に向かって邁進している状況です。政治権力と経済権力が、一丸となって、これを後押ししているのです。

 こう考えると、抵抗すべき対象はアメリカ国家だけではなくなってきます。アメリカ国家が促進する政策の背後には多国籍企業があります。ですからTPPに関しても、アメリカ国内でも相当に強い反対が存在します。大企業を儲けさせるだけで、雇用の不安定化など、大衆への搾取がより一層進むだけではないか、という批判です。したがって、今後大事になってくるのは、いかにして反グローバル資本の国際的連帯をつくるのかということになるでしょう。

 TPPについてはその詳細をご存じの方が多いとおもうが、どんな弊害があるのか、その問題点を列挙しておこう(『サルでもわかるTPP』から拝借しました)。

〇国民皆保険制度がなくなってしまうかも。盲腸の手術だけで200万円、それが払えない貧乏人は死ぬような社会がやって来る!?

〇日本の食料自給率は39%から13%に下がる。近いうちに必ず世界的な食料危機が起こるから、突然食料輸入が途絶えて餓死者が出るようなことになるかも。

〇遺伝子組換え食品が蔓延し、そうでない食品を選ぶ自由すら奪われちゃう。

〇牛肉の月齢制限や添加物など食の安全基準が緩くなって、健康への悪影響が心配。

〇低賃金労働者が外国から入ってくるから、日本人の給料はますます下がる。職を奪われて失業も増えるよ。そのうち外国まで出稼ぎに行かなきゃならなくなるかも。

〇デフレがますます加速するよ。今まで日本国内で回っていたお金がどんどん海外へ流出しちゃうよ。景気はますます悪くなり、日本はどんどん貧しくなるよ。

〇そして何よりも問題なこと……国民を守るために、国民の代表が決めた法律や制度が、アメリカ企業の都合によって、いくらでも変更してしまえるようになる。国民の主権が奪われちゃうよ。民主主義の崩壊だよ。

〇と、いうことはだ……もしも仮に、脱原発運動の成果として、日本で国民投票が行われ「日本はすべての原発を廃炉にし、永遠に原発の新設はしない」と決めたとしよう。でも、もしも日本の原発で儲けてるアメリカの企業が「そんな取り決めはけしからん! わが社の利益に反するじゃないか!」と言ってきたら、そちらの言い分の方が優先されてしまう(もしくは巨額の賠償金を支払わされる)ということ。つまり、どんなにがんばって市民運動をしたって、あるいは政治家がまともな政治をしようとしたって、なんの意味もなくなってしまうということだ。

 終わりの2項目は多くの論者が一番懸念しているISD(Investor State Dispute)条項の事である。これについてはより詳しく復習しておきたい。『TPPに隠されたアメリカの卑劣な手口 日本経済は植民地化される』から引用する。

 日本語では「投資家対国家紛争解決条項」と訳されている。韓国では「POISON(毒素)条項」と呼ばれ、米韓FTAの最大の問題点と言われている。この内容は「アメリカの投資家(企業、個人)が進出先の韓国で不当な扱いを受け、当初期待した利益が上がらなかったと判断すれば、韓国政府を訴えて、当初見込まれた利益を賠償させることができる」という条項である。

 この条項は、1994年にアメリカ、カナダ、メキシコ三国間で締結されたNAFTA(北米自由貿易協定)で46件も発動されており、このうちアメリカ政府が訴えられたのはわずか15件で、敗訴はゼロ。逆にアメリカ企業がカナダとメキシコの両政府を訴えたケースは36件もあり、アメリカ企業が賠償金を得たのは6件、請求棄却はわずか6件に過ぎず、アメリカ企業が敗訴することはありえない。また、企業間で和解するようなことがあっても、アメリカ企業が事実上、勝訴する内容が多いと言われている。

 とくにNAFTAで有名なケースがある。アメリカの廃棄物処理会社が、カナダで処理した廃棄物を、アメリカ国内に輸送してリサイクルする計画を立てたところ、カナダ政府が、環境保全の観点からカナダの法規に従って、アメリカへの廃棄物輸出を一定期間禁止した。これに対してアメリカの廃棄物処理業者は、ISD条項を盾にとって、カナダ政府を提訴し、その結果、カナダ政府が823万ドルの賠償金を支払うことになったというケースである。

 このISD条項は、提訴する側から見ると、極めて利用しやすくなっていて、日本がTPPに参加すれば、保護主義的政策、社会福祉的政策(例えば、国民皆保険、年金などの政府系機関、公共団体が行う福祉事業など)が多い日本の法規が、アメリカの投資に損害を与えていると言って、日本政府が頻繁に提訴されるであろう。このときに訴訟を裁く裁判所は、世界銀行の傘下にある国際投資紛争解決センターである。1946年に設立された世界銀行の総裁は、当初から今日までアメリカ人であり、その人物が任命する裁判員が、ISD条項違反の可否を決定するのであるから、日本側に公平な判決が下ることは到底期待できない。とくに、このISD条項を頻繁に使って、アメリカは日本の法体系と社会基盤を崩壊させるであろう。

 アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト政権はこのようなとんでもない協定を受け入れようとしているのだ。誠に無知にして無恥と言うほかない。

(以上で「経済領域での対米従属」を終わります。次回からは「軍事面での対米従属」がテーマです。)
《米国の属国・日本》(6)

経済領域での対米従属(2):マネー敗戦とは?


 マネー敗戦はレーガノミクス政策をきっかけとして起こった、ということだったが、ではどのような状況がマネー敗戦と呼ばれているのか。この観点からレーガノミクスが引き起こしたことを白井さんの解説を下敷きにしてたどってみることにする。

 レーガンはソ連を「悪の帝国」と罵倒し、ソ連との対立を先鋭化させ軍事拡大を進めていった。その軍拡構想の中に「戦略防衛構想(SDI)」という計画があった。オリバー・ストーンは「人工衛星と地上迎撃システムの連携により、飛んできた敵のミサイルを撃墜するという荒唐無稽な計画」と解説している。この構想は「スターウォーズ計画」と呼ばれて揶揄されていた。しかし、レーガンはこの構想をむきになって進めようとした。

 軍拡には大変な予算が使われていったため、「双子の赤字」は更に拡大していった。白井さんは
「その際に少なからぬ役割を果たしたのが、日本でした。米国債を大量に購入することにより、レーガノミクスをファイナンスしてあげたわけです。」
と指摘している。

 そして更に、国際的な動きが加わる。
1985年9月22日
 ドル高の是正を目的として米、英、西独、仏、日本の5ヶ国の蔵相会議がニューヨークのプラザホテルで開催された。この会議で「為替レート安定化に関する合意」が成立した。プラザ合意と呼ばれている。この合意後、各国は為替市場に協調介入し、ドルはたちまち下落していった。

 レーガンは「軍事的、経済的に強く偉大なアメリカのためには、その通貨も強くなければならない」と、「強いドル」目指していた。しかし、ドル高によって貿易赤字が拡大していった。こうした国際的な動きが日本経済に及ぼした影響を白井さんは次のように解説している。

 アメリカの産業(製造業)を回復させたいなら本来、輸出を増やす必要があり、ドルは安くしなければならない。レーガン大統領は選択を迫られ、結局「強いドル」を放棄したのでした。

 プラザ合意以前から、すでにもう円高圧力は強まっていたのですが、プラザ合意がなされることによって、円高ドル安の流れは加速します。だいたい1ドル約240円だったのが、1987年には120円台にまで下がっていきます。対円でドルの価値はおよそ半減したわけです。

 これによって、アメリカは大きな得をしました。まず、それ以前にアメリカは日本からレーガノミクスヘのファイナンスで大量にお金を借りています。その借金は全部ドル建てです。実は米国債問題のポイントは、日本が買った米国債は全部ドル建てであるということです。例えば1ドル240円のレートで借りたとすると、後に1ドルが160円になれば、借りた側からすれば、何もしなくても借金が3分の1圧縮されたのと同じことになるわけです。実際にそういうことが起きたのです。

 この状況を、経済学者の吉川元忠は「マネー敗戦」と名づけました。例えば、一部なりとも円建てで貸していればまだよかったのですが、日本はそういうことをしなかった。吉川は、1998年に出版された著書『マネー敗戦』で、日本はアメリカの借金棒引き術に引っかかってとんでもない目に遭っているんだということを書いています。その他にも、ケインズ派経済学者の宮崎義一もこれと同じようなことを論じていますが、当時、こうした分析は、経済学業界で決して主流の議論にはならなかったようです。主流派には、経済現象の背後にある政治力学が見えない、あるいは見て見ぬ振りをするのです。

 借金が目減りしたアメリカは、できたお金で軍拡を行ない、米ソの軍拡レースを激化させます。そのとき、すでにソ連は基礎体力が弱っており、結果として、冷戦構造が最終的に崩壊するという大事件が89年から91年にかけて起こっていきます。

 この流れにおいて、日本は一体何をやつたのか。アメリカの膨大な借金をファイナンスしたという意味では、間接的にはソ連の崩壊を導いたことになります。冷戦構造は、日本が敗戦を否認することが可能な、心地よい環境を提供してくれていたものでしたが、ある意味で日本はその環境の破壊に自ら手を貸したとも言えるわけです。

 1991年12月にソ連が崩壊し、冷戦は終結した。その後、日本経済に何が起こったのだろうか。1987年頃にバブルが始まり、1990年頃にバブルが崩壊する。1990年代の日本経済史の年表から経済停滞を示す事項を拾ってみよう(岩田年浩という方の『戦後日本経済年表』を利用しています)。

1990年
 8月30日公定歩合は6.0%にUP(バブル崩壊のシグナル)。

1991年
 金融証券スキャンダルの発覚相次ぐ(イトマン、四大証券、住友、興銀など)。
第二次オイルショック。

1992年
 平成不況始まる。
 公定歩合は3.25%に。
 92年度の倒産は1万4441件。
 平均株価は1万4822円と6年ぶりに最低

1993年
 2月4日 公定歩合は2.5%に。
 6月 金利の自由化が始まる。
 企業のリストラすすむ。

1994年
 平成不況下で輸出に活路(貿易黒字14兆円)。

1996年
 6月 1ドル=90円台に入る。

1997年
 97年度より就職協定廃止。
 4月消費税率3%から5%へ。
 6月改正労働基準法成立(各種の労働保護を撤廃)。
 10月の完全失業率は3.5%と過去最悪に並ぶ。
 11月 北海道拓殖銀行経営破綻、山一証券自主廃業。

1998年
 98年度から2年間、減反目標は96万3000ヘクタールと過去最大に。
 4月 総合経済対策16兆円。
 11月 緊急経済政策24兆円を発表。
 8月 日経平均株価は1994年8月以来で1万3000円を割り込む。
 雇用者所得(ほとんどは賃金)の伸び率が初めてマイナスに。
 2年連続でマイナス成長。

1999年
 企業は雇用・設備・債務の3つの過剰の解消に向かう(リストラ元年)。
 3月決算で大手11行の不良債権は19.9兆円に。
 6月 完全失業率は4.9%に。
 東証一・二部企業の決算は291兆円の減収(3年連続)。しかし8.8兆円の増益。
 後半以降,デフレスパイラル進行。
 11月 経済新生対策18兆円。
 12月ダウは1万1405ドルと最高値を更新。

 このような深刻な経済停滞の原因は何だったのだろうか。平井さんは「経済停滞の犯人捜し」と題して、次のように分析している。

 冷戦構造が終結すると、90年代以降は金融の国際化、金融をめぐる世界的なルールの統一化が一層進んでいきました。なぜ、ルールを統一しなければならないのかと言えば、資本移動の自由化を進め、金融資本主義化を進めるためには、国によってルールが異なるのは不都合であるからです。

 そんな中、日本型産業構造に対する批判が起こります。日本の産業構造は、よく「護送船団方式」などと呼ばれていましたが、端的に言うと、国家による指導の側面が非常に強い資本主義です。通産省(現・経産省)や大蔵省(現・財務省)が各主要業界に対して強い権限を持ち、産業の司令塔として指導をするというところに特徴があります。

 本山美彦(よしひこ)さんの『金融権力 ―グローバル経済とリスク・ビジネス』で詳しく説明されていますが、ここでキーポイントになるのは、金融システムです。国家指導型資本主義においては、国家が必要と考える産業にファイナンスしないといけない。そのときにリスクが高ければ、民間金融機関は応じることができない。かといって国家が丸抱えにするのでは、資本主義社会、自由主義社会とは呼べません。

 そこで中間的な形態として生み出されたのが、政府系の金融機関です。例えば長期信用銀行などの特殊な金融機関が長いスパンで企業活動を支援すれば、短期的な利ざやを求めず、長期的な展望の下に企業の活動を支援できる。これが日本型産業構造の特徴であり、戦後の経済成長を支えたシステムであったわけですが、1990年代あたりから激烈な批判にさらされていくことになります。

 バブル崩壊以降、いよいよ日本経済が停滞するようになって、その犯人捜しが始まります。そのとき最も激しくやり玉にあげられたのが、この構造でした。国家の統制が強すぎるために自由なイニシアチブがない、だからバブル崩壊のダメージから立ち直れないんだろう、という論調がメディアを席巻していきます。ちょうど私が大学生だった90年代後半は、まさにこうした論調の最盛期だった覚えがあります。

 でも、いまから考えると、これらの批判が一体何を批判していたのかよくわかりません。その後「金融ビッグバン」等々によって金融のルールを変えて、護送船団方式を崩さねばならないという流れになります。詳しくは次章で説明しますが、今日の目から見れば、停滞の本当の理由は、非常に長期的な意味での資本主義の行き詰まりという問題ですので、根本的には解決のしようがなかったのではないかと思われます。短期的な理由は、不良債権の処理に手間取ったことが主因であり、90年代末の小泉内閣の時代にやっとそれに気づきます。これを処理しないとどうしようもないということで、実質的に政府が不良債権を保証することになります。

 ですから、長期的に見ると、バブル崩壊の痛手から立ち直るにあたって、護送船団方式や日本型産業構造をことさらに問題視するのは筋違いであったと思われるにもかかわらず、なぜかそこに諸悪の根源があるかのように言われました。いまになってみると、それは何かを行なうための口実にすぎなかったのではないか、と考えられるのです。それが、例えば金融ビッグバンであり、構造改革です。日米の間で年次改革要望書が実質的に始まるのが94年ですから、ちょうど金融ビッグバンの前夜に当たる時期です。

広目天の怒り
広目天

怒りは静に深く沈潜させ
より遠くまで射抜く眼差しとなせ。
その眼差しをもって
自由と民主を食い荒らす邪鬼どもの
あさましい心底を射抜き
踏みしだくまで反逆せよ
邪鬼