2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《米国の属国・日本》(23)

ポスト55年体制への道程(2)


 白井さんは 『本当の意味での「戦後レジームからの脱却」とは』=『政治的な実践の中で、この国の「永続敗戦としての戦後」を終わらせること』と言う。そして、そのためには「政治革命」「社会革命」「精神革命」という三つの革命(ここで革命とは自己変革という意とのこと)こそが唯一の穏当な手段であり、しかも『この三つは密接に関係しながら、すでに進行しつつあります』と言う。この三つの革命に対する白井さんの論考をたどってみよう。

《政治革命》
 まず、政治革命とは、本書全般を通じて論じてきたように、「永続敗戦レジーム」を失効させ、ポスト55年体制と呼ぶに値する政治状況をつくり出すことです。それはもちろん、形式的な政権交代や政党がくっ付いたり離れたりの政界再編とは次元が違います。ポスト冷戦期において、このような低次元の政治ショーを見せられ続けた国民は、心底嫌気がさしています。

 しかし、政治家たちのそのような体たらくを許しているのも、結局のところやはり国民自身なのです。「票を入れたい候補が誰もいないので投票に行かない」とか「忙しくて政治のことなんか考える時間がない」といった「常識」は、現代日本人の生活実感に根ざしたものではありますが、愚かで幼稚なものでしかありません。そのようにして状況を放置するならば、本書で述べてきた「悪いシナリオ」を回避することはできなくなるでしょう。

 この政治革命に関しては、本当に時間がかかりましたが、いま糸口が見えてきました。すなわち、2016年の参院選を視野に入れた野党の共闘についての合意形成です。彼らは、「立憲主義の擁護」のほぼ一点で、共闘のために重い腰を上げました。この動きが、永続敗戦レジームと正面から闘う勢力の形成へとつながっていけば最良ですが、その実現の可否は、次に論じる社会革命と国民の精神革命の帰趨に懸かっているでしょう。

 ここで指摘しておくべき重要な点は、このような共闘の契機が、「立憲主義の危機」によって与えられたことです。今日、断末魔の悪あがきを続けている永続敗戦レジームは、その起源を遡ると、短期の起源は第二次世界大戦の敗戦処理に見出されますが、さらに遡るならば、戦前のレジームそのものに見出すことができます。なぜなら、多くの論者が指摘してきたように、戦後レジームは、敗戦を契機とした民主主義改革によって始まったという建前を持ちながら、戦前のレジームを曖昧な形で引き継いだものだからです。ゆえに、私は永続敗戦レジームを「戦後の国体」と呼んでいるわけです。

 戦前レジームにおける根本問題は、私の考えでは、「国民と国家」の関係にありました。すなわち、国民があって国家があるのか、国家があって国民がいるのか。国民と国家のどちらが優越するのか、曖昧であったわけです。この問題は、明治時代には「民権と国権」という語彙で論じられました。明治以降の日本は近代国家を名乗る以上、民権の原理を全否定するわけにもいきませんでしたが、国家主導による急速な近代化の実現を至上命題としたために、結局のところ国権が実質的に優越する体制が固まっていきます。

 戦後、丸山眞男をはじめとする多くの論者が、昭和ファシズム期を明治以来の近代化路線からの異端的な逸脱とみなさずに、明治レジームの確立成長期においてすでに超国家主義に至る芽があったのではないか、という仮説を建てた根拠は、右のような歴史経緯にあります。そして、そのレジームは敗戦を乗り越えて継続してきました。

 丸山らの仮説の正しさは今日あらためて証明された、と私は思います。立憲主義は、国家が暴走して国民をないがしろにすることに対して構造的に歯止めを掛ける仕組みにほかなりませんが、現在の政権で閣僚に準ずるような立場にいる政治家が「立憲主義なんて聞いたことがない」と言ってはばからないという状況は、永続敗戦レジームに戦前レジームのDNAがいかに深く埋め込まれているのかを物語るものです。

 こうした状況は、自民党を中心とする永続敗戦レジームの中核部が、戦後の全歴史を通じて、民主主義を表面上は奉じながら、「国民があって国家がある」のではなく「国家があって国民がある」という原理を根底において堅持してきたことの証左なのです。耐用年数を過ぎてしまった永続敗戦レジームが無理矢理に自己を無限延命しようとする中で、その地金がいま露呈しているわけです。

 したがって、来たるべきポスト55年体制の政治は、明治時代から現在まで綿々と続いてきた、「国家は国民に優越する」という原理を、その原理を奉じる政治家・政治勢力もろともに、一掃するものでなければなりません。このことから、第二の革命=社会革命の具体的課題も見えてきます。

《社会革命》
 社会革命とは、近代的原理の徹底化を図るということです。近代的原理とは、基本的人権の尊重、国民主権の原理、男女の平等、といったいくつかの基本的な原理であり、それらは戦後憲法にはっきりと書き込まれました。

 いま、「永続敗戦レジーム」の主役たちは、戦後憲法を是非とも変えねばならないという妄念にとり憑かれていますが、彼らが敵視しているのは九条だけではありません。自民党が提起した新憲法草案には、右の近代的原理に基づく国民の権利をできるだけ制約したいという欲望がにじみ出ています。つまり、彼らは戦後の民主化改革の成果を全部ゼロに戻そうという欲望を露にしているのであり、これは言うなれば逆向きの社会革命です。

 こうしたことが起こるのも、永続敗戦レジームの崩壊の危機のためであると私は思います。それは、戦前戦中から連続してきた永続敗戦レジームの深層の原理を純化させることによって、その危機を乗り越えようという試みであると言えるでしょう。したがって、私たちが求めるべき社会革命は、こうした流れを押し返し、反対に近代的原理を徹底化させることによって導き出されます


 また、この原理に照らせば、諸々の具体的かつ喫緊の政治経済・社会問題に対する処方箋も自ずと見えてきます。

 例えば、福島第一原発事故が原因と疑われる子どもの甲状腺がんの発症にどう対処するのか。現在、政府はこの問題に対して不誠実極まる対応を行なっており、それは人権侵害にほかなりません。事故直後の対応の不適切性・不作為を含め、しかるべき責任追及を行ない、人権侵害の状態を解消すること ―これが当たり前の対応です。

 あるいは、沖縄の米軍基地問題についても、近代的原理を参照することで問題解決への基本的なコースが見えてきます。現在の沖縄への基地集中は明らかに不平等であり、差別的です。すべての国民は平等に扱われ、出自や地域性によって差別されないという近代国家の原理に反した状態にあります。今後も大規模な米軍基地が日本にとってどうしても必要だというのならば(私はそのような見解に同意しませんが)、公平な負担が議論され、実行に移されなければなりません。それができないのであれば、沖縄が日本国を見限って独立を志向するようになることは、まったくの必然であると言わざるをえません。

 したがって、沖縄を失わずに、かつ本土に米軍基地を大規模移転させるのも嫌だというのならば、私たちは米軍基地の大幅な縮小、最終的な撤収を目標とせざるをえません。そして、それをやるためには、第三章で見たように、「アメリカの傘の下の日本」という前提を取り払った国際関係を模索しなければなりません。

 現代日本の政治課題、経済の課題、社会問題を数え上げればキリがありませんが、それらに取り組む原理は、本書で述べてきたことから明らかであると思います。上述の近代的原理の徹底に加えて、「再包摂」が強調されなければなりません。新自由主義政策による社会破壊作用がファシズムの危機をもたらしているのだとすれば、この危機を食い止めるためには、「排除」へと転じた統治の原理を再び「包摂」へと向け変えなければなりません。包摂の原理に基づく具体的で現実的な政策は、各領域のそれぞれの専門家が数多く提言しています。問題は、それらの知恵を実際に役立てる意志があるかどうかなのです。その意志を立ち上げることが、社会革命を現実のものとする始発点にほかなりません。

《精神革命》
 三つ目の革命は、人々の精神領域における革命です。政治革命にせよ、社会革命にせよ、それらが本当に実効性のあるものとして行なわれるのか否かは、しかるべき立場にいる人々にそれらを実行させるだけの十分な圧力がかかるのか、という点に懸かっています。私かいま述べた政治革命や社会革命の内容に特に新しいことはありません。また、多くの政治家や有力者は、しばしば似たような内容の事柄を実行すると言ってきました。では、それらがなぜ行なわれないのでしょうか。

 要するにそれは、意志の問題です。本当にやる気があるのかどうか、また権力者にやる意志があっても、それが周囲から支えられる確信が持てるのかどうか。権力者にしかるべきことを実行するよう迫る、あるいは実行する勇気を与えるのは、広範な「社会からの要求と支持」です。

 この点については、3・11以降、日本社会はかなりの程度変化しました。1980~2000年代の間、縮小しきっていた社会運動・市民運動が爆発的な広がりを見せつつあります。これはある意味で当然のことではありました。あの原発事故によって、この国の地金、そのスカスカになっていた内実が露呈し、もう少し運が悪ければ国家・民族として終了するという瀬戸際まで追い込まれたからです。しかも、そのような事態をもたらした経緯の追跡も、責任の追及もまったく不十分な形でしか行なわれない、ひとことで言えば、「大事故などまったく起きなかったのだ」という究極の否認の態度で、この国の支配階層は事態をやり過ごそうとしていることが露になりました。

 ですから、私は3・11以降(あるいはその前から)立ち上がった人々に対して強い連帯感を抱いていると同時に、その数があまりに少ないことに苛立ちを感じています。

 ともあれ、まずは最初に立ち上がった人たちから始め、その数を増やしていくしかありません。脱原発運動に始まり、排外主義に抗する運動、新安保法制に対する反対運動に至るまで、止むに止まれぬ思いに駆られて街頭に出てくる人々は増え続けています。

 この動きに対しては、一部の人々からお定まりの冷笑が浴びせられていますが、この現象こそ、日本の国民精神に深く浸透した奴隷根性を証明するものにほかなりません。立ち上がったわれわれの主張がそうやすやすと通るものではないことなど、参加者の誰もが知っています。原発推進にせよ、新安保法制にせよ、この国の権力中枢が全力を挙げて取り組んでいるイシューなのですから、数万の人が街頭に出てきて騒いだからといって、簡単にブレるものでないことなどわかりきったことです。どうせ勝てるわけがないのだから最初から主張などしない方がよいという判断は、合理的かもしれませんが、それは「奴隷の合理性」にすぎません。

 デモンストレーションをはじめとする大衆の行動が政治を直接に変えることは稀です。しかしそれは、社会を変えるための重要な震源地になるのです。近年の例を挙げれば、2011年の秋にアメリカで起ったオキユパイ・ウォールストリート運動がそうでした。参加者たちは、「99%と1%」というスローガンを掲げ、新自由主義を、カジノ化した金融資本主義を、激しい格差社会を批判しました。それによって、何か変わったのか。もちろん何も変わりません。ウォールストリートの住人は、抗議運動に直面したら行動様式をガラッと変えるような人々ではない。では、何の成果もなかったのかといえば、まったくそんなことはありません。

 オキュパイ運動に参加した人々は、いまバーニー・サンダース氏の大統領選挙キャンペーンの主力となって活動しています。社会主義者を名乗り、政治革命の実行を宣言するサンダース氏が、特に若年層からの支持を集め、有力な大統領候補となっていることには驚きましたが、この躍進を支えているのがオキュパイ運動の経験者たちなのです。

 社会運動の一時の盛り上がりは、それが形を変えて持続するための努力が払われるならば、人をつくり、人々のつながりをつくり、さらに大きく有効な運動、そして変革へとつながっていきます。同じことが、今日の日本の運動についても言えるはずです。すでに、2011年以来、私も含め多くの人たちが、運動を通して貴重な経験を積んできたと思いますし、その成果はすでに現れ始めているのです。先に触れた野党共闘なども、これまでの運動からの圧力がなければ、決して実現していなかったでしょう。

 さらに言えば、いま人々は「起ち上がる作法」のようなものを身に着けつつあるのだと思います。ちょうどこの原稿を書いている最中の2016年2月、「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名ブログが話題を呼んだことをきっかけに、子育てと仕事の両立に苦しむ多くの母親たちが声を挙げ、それが国会審議をも揺るがしています。「日本死ね」という表現が乱暴だというような批判が理解していないのは、この表現にどれほどの強い憤りが込められているのか、ということです。保育園の不足、待機児童の問題は、すでに長らく認識されながら、放置されてきました。してみれば、これほどの強い表現をしなければ政治家たちが問題に向き合おうとしないことこそ、真の問題にほかなりません。

 多くの人々がこのブログに共感を寄せ、抗議行動を起こすまでの事態が生じたことは、国民の行動様式の変化を示唆しています。いまようやく、当然の憤りを私たちは表現してもよいのだ、という感覚を獲得しつつあるのです。

 誰がそれを禁じてきたのか? 実は誰も禁じてなどいません。禁じてきたものがあるのだとすれば、それは自己規制であり、自分自身の奴隷根性以外にはないはずです。自らが自らを隷従させている状態から解き放たれたとき、「永続敗戦レジーム」がもたらしている巨大な不条理に対する巨大な怒りが、爆発的に渦巻くことになるでしょう。


 この来るべき嵐だけが、革命を革命たらしめる根源的な力として、私たちが信じることのできるものなのです。

 POST55年体制の道程の端緒となるのは「精神革命」だ。それが「社会革命」を拡大し、「政治革命」へとつながる。しかしその端緒となるべき「精神革命」はとてつもない難事業だろう。「自らが自らを隷従させている状態から解き放たれ」るべき人々(=庶民2)に自己変革は期待できないのではないか、と暗澹たる思いが沸いてくる。例えば今日(9月23日)の「田中龍作ジャーナル」の記事『TPP国会、目前アンケート 「ISD条項?分からない」』には愕然とした。

 一方、今日の東京新聞朝刊一面に「大きく有効な運動へとつながる」希望の光を届けてくれる記事があった。昨日開かれた代々木公園での脱原発集会の記事だ。秋雨前線による豪雨が降りしきる中、ずぶ濡れになりながら、全国各地から約9500人が集結したという。

(以上でシリーズ《米国の属国・日本》を終わります。)
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《米国の属国・日本》(22)

ポスト55年体制への道程(1)


 これから読んでいく最終章には重要はキーワードが二つある。「55年体制」と「永続敗戦レジーム」である。  「55年体制」についてはいろいろな記事で言及しているが、調べてみたら、最も詳しくまとめている記事は『日本の支配者は誰か(8)』だった。必要に応じて参照して下さい。

 また、「永続敗戦レジーム」については『対米従属、その内実の変遷(2)』で詳しく解説している。これも必要に応じて参照して下さい。

 さて、2009年の総選挙で民主党が政権交代を実現したが、とても惨めな終わりを遂げていった。私はいわゆる無党派層の一人だが、この選挙では、松下政経塾出身の党員の存在に危惧を感じていたけど、私も一票を投じていた。最後の民主党首相を「ダメナ野田」と呼んで批判してきた。

 白井さんはこの政権交代の失敗について、次のように分析している。

 政権交代の失敗劇によって明らかになったのは、ポスト冷戦期の日本において、政権交代可能な二大政党なるものは機能しない、という事実でした。この仕組み自体が、「永続敗戦レジーム」なのです。その内部では、自民党がもともと有しているアメリカの傀儡的性格が強まる一方、民主党内部にも右派として同様の勢力がいます。例えば、新安保法制をめぐる国会審議の際、同党の長島昭久衆議院議員が質問をしていましたが、彼が政権に対して言っていたことは「集団的自衛権の行使は否定しない」「もっと時間をかけてくれ」ということでした。要するに、本質的には新安保法制に何ら反対などしていないのです。

 こうした実情があるので、私はある機会に、民主党と維新の党の合流、新党結成に際して、どんな党名がよいかと問われて、こう答えました。「第二自由民主党、あるいは傀儡二軍党でいかがでしょうか?」と。厳しい言い方に聞こえるかもしれませんが、新党は、永続敗戦レジームの補完勢力を追い出し、永続敗戦レジームと対決するという理念・姿勢を確固たるものとしないのであれば、客観的事実としてそのような党でしかないからです。現状では、アメリカから見れば、自民党は傀儡Aであり、民主党は傀儡B、どっちに政権が転がり込んでも安心というわけです。私たちが拒否すべきは、自民党でも民主党でもなく、この構造そのものなのです。

 長島昭久は松下政経塾出身者の一人である。この右派政治家については私も批判文を書いている。『今日の話題「長島昭久と言う政治家の正体」』を参照して下さい。

 白井さんの論評は次のように続いている。

 ちなみに、実は、アメリカは55年体制においても、同じような状況をつくりました。アメリカとソ連の代理戦争という形で55年体制の政治はあったわけですが、親ソ的になった社会党が政権を取ってしまうとアメリカは困る。そこで、社会党内部でソ連に距離を置いている人々を引き剥がして、民社党という別の政党をつくらせたわけです。

 述べてきたように、ポスト55年体制を形成できないまま、日本政治の世界では、新自由主義化と政権の傀儡化か進んできました。永続敗戦レジームは、新自由主義と結合して多国籍資本の走狗となることによって生き残ろうとしているわけです。だから、永続敗戦レジームの対抗軸になる勢力は当然、新自由主義を打倒しようとする勢力として結集しなければならない。これがいま、形成されるべき政治的対立の構図です。

  とはいえ、対米従属が「自己目的化」した現在、「永続敗戦レジーム」は、アメリカの支持のもと、政官財学メディアの中心部に浸透した権力構造となっている。大方の人には、これに対抗したり突き崩そうとする試みはあまりに困難である、と思えるのではないだろうか。実際にそのような道程は可能なのだろうか。これに対して白井さんは「その時に大きなヒント、示唆を与えてくれるのが沖縄です」と述べている。私は《沖縄に学ぶ》を63回にわたって連載してきたばかりである。なるほど、《沖縄に学ぶ》ことがあるという示唆に同感する。白井さんの論評を追っていこう。

 なぜ沖縄かというと、そこで起きたこと、いま起きていることは、言ってみれば、正しい形で政治対立の構図が表れたものだからです。それは、従来の保革の対立でもなければ、構想されてきた保守二大政党の対決とも違うものです。

 保守二大政党制では、保守党VS革新党に代わって、保守党AVS保守党Bという構図ができればいい、と言われてきたわけですが、最後は「自民党野田派」とまで呼ばれた民主党政権の惨状を見ればわかるように、これでは結局のところ、アメリカ傀儡A党とアメリ力傀儡B党の闘いにしかならないのです。ならばどっちを選んでも同じだということが、この25年間で明らかになったことです。

 沖縄で現れた構図はまったく違うものでした。辺野古新基地建設問題への対応をめぐって、前沖縄県知事の仲井眞弘多氏の時代ですでに、知事が一時は辺野古には断固基地をつくらせないと表明せざるを得ないところまで、沖縄の反基地の民意が高まったわけです。しかし結局のところ、仲井眞氏は屈服させられました。しかもその後の彼は、県知事選に再出馬することによって、いわば「永続敗戦レジームの代理人」に堕ちてしまったわけです。

 それに対して、もともとは仲井眞氏を支える立場にいた翁長雄志氏が、保革を横断する「オール沖縄」を掲げて叛旗を翻しました。東京の政府が(そして本土の日本人が)、沖縄に対して突きつけた選択肢は次のようなものです。すなわち、耐用年数200年と言われる巨大な新基地を自然環境破壊を犯してつくらせるか、それとも「世界一危険」と言われる普天間基地をいまのまま放置するか、どっちかを選べということです。この「究極の選択」に対して、翁長陣営に集った勢力は、「どっちも選ばない」という、二者択一の選択そのものを拒否する態度を鮮明にしました。これは、私の理論図式に当てはめるならば、永続敗戦レジームそのものを拒否した、ということです。

 これによって本質的な政治対立の構図が現れました。2014年の県知事選は、「永続敗戦レジームの代理人」(仲井眞氏)対「永続敗戦レジームを拒否する勢力」(翁長氏)という形で、闘いの焦点が定まったのです。このとき、私は、極めて正しい対立の構図が現れたと感じました。それは、いまや日本全土で現れるべき対立の構図にほかならないのです。

 しかし、「「永続敗戦レジームを拒否する」という問題意識は本土の圧倒的多数には無い。「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の支持率の高さがそれを表徴している。白井さんもいらだちを隠さない。

 悠長に構えている余裕など、どこにもないのです。なぜなら、永続敗戦レジームの耐用年数は過ぎてしまったにもかかわらず、これを無限に生き延びさせようとするために、無茶なことや腐敗が多方面で生じてきているからです。

 TPPも、永続敗戦レジームを維持するためのものです。冷戦構造の崩壊後、アメリカにとって日本は、無条件に庇護するべきアジアのナンバーワン・パートナーではなくなった。TPP交渉から見て取れるのは、アメリカ自身が衰退する中で、日本を収奪すべき対象へと新たに位置づけているということです。

 日本の永続敗戦レジームの担い手たちは、自らを守ってきた権力構造を維持するためならば、あらゆる富を売り払うということにまったく躊躇しません。TPPについては、現在では農産物の市場開放のことばかりが言われていて、その問題もきわめて重要ではありますが、これから来るのは健康保険の問題です。日本の国民皆保険制度が民間企業に開放されるならば、そこには100兆円規模の市場が出現すると算出されています。多国籍資本は、虎視眈々とそれを狙っていますが、それが実現されれば、世界的に高く評価されてきた日本の医療制度(それは一種の富なのです)は「命の沙汰はカネ次第」というアメリカ型へと変貌します。

 安倍首相は、「TPPに加盟しても国民皆保険制度は絶対に守る」と言っていますが、これを額面通りに信じるのはよっぽどのお人好しです。皆保険制度を形骸化させ、ほとんど無意味なものにしてしまっても、「守った」と強弁するでしょう。そのためには、混合診療制度の導入や薬価の改定などを進めることによって、民間保険会社の参入する領域を増やしていき、皆保険制度を存続させたままそれだけでは十分な医療が受けられない状態にしてしまえばよいのです。このままの政治が続けば、確実にこの方向へと進んでいくことになるでしょう。これほどまでに堕落は進んできたのであり、それは国民生活を直接的に破壊することになります。「戦後の国体」としての永続敗戦レジームは、国民をすり潰しながら自己保存を図るのです。あの戦争のときと同じように。

《米国の属国・日本》(21)

日本劣化を推し進めた新自由主義(6):日本版軍産複合体


 今日(2016/09/16)の日刊ゲンダイ(DIGITAL版)に高橋乗宣(エコノミスト)という方の『重しとなる景気は停滞 整いつつある「第3次大戦」の条件』という論説が掲載されていた。「ホンの些細なきっかけで、世界中に火の粉が燃え広がりそうな雰囲気である」と懸念し、その理由として、次のような指摘をしている。
「いつの時代も紛争勃発の「重し」となってきたのは、経済の活況」だが、世界的に「景気は停滞したまま」であり、しかも「世界中の指導者が冒険的で不安を感じさせる人物」に取って代わってきている。

 このような論説に対しては「大げさに不安を煽るな」というような批判が予想されるが、私はそのような批判には与しない。今回取り上げようと思っていた「第4章 新自由主義の日本的文脈」の最終節『「希望は戦争」再び』と論旨が同じだと思った。白井さんの論考を読んでみよう。

国家に寄生する資本

 次に、新自由主義の日本的文脈について、より具体的な政治経済の側面を見ていきましょう。

 安倍政権が取っている政策を支持している特定の資本があります。特に安倍政権において目立つ政策は軍事への傾斜ですが、とりわけ経済的な側面から注目すべきは、武器輸出の解禁です。これまでは、1967年に佐藤栄作首相が国会の答弁で表明した、
(1)共産主義国、
(2)国連決議で武器輸出が禁止された国、
(3)紛争当事国とその恐れのある国
への武器の輸出を禁じたいわゆる「武器輸出三原則」によって、日本は武器輸出に対する強い規制をかけてきました。この方針には、軍産複合体が肥大化することや、軍事ケインズ主義経済が発生してしまうことを防ぐ、という意図もあったと考えられます。

 つまり、日本の武器産業は、戦後存続したとはいえ、あくまで控え目な地位しか与えられませんでした。ところが、安倍政権になって、武器産業を基幹産業にしようという主張が堂々と語られるようになりました。国際的な武器見本市に、日本の企業がこぞって出展し始めたことも話題になっています。

 防衛関連企業としては、武器を開発して盛んに輸出したいという潜在的な欲求はあったのでしょうが、それに対しては歯止めがずっとかけられてきた。武器をつくって売って儲けるというのは、戦後の平和主義の国是にはなじまないという縛りが強くあったからです。しかし2015年には、防衛装備庁という新しい官庁も迅速に設立されました。

 このような方針転換に関しては、いかなる国民的議論もありませんでした。内閣の独断でやったわけです。日本の重厚長大型産業が行き詰まる中で、何とかして商機がほしいという圧力がかかったのでしょうし、安倍さんの趣味に合致するところもあったのでしょう。いずれにせよ、特定資本の利害が、政治権力を用いて貫徹される構図が現れています。

 「重厚長大型産業(じゅうこうちょうだいがたさんぎょう)」という用語に初めて出会った。調べました。
「鉄鋼や造船などに代表される基礎的産業。原材料大量消費型,かつ大規模立地型の特性をもつ。」
でした。

 同様のことは原発に関しても言えるでしょう。3・11を経たいま、原発というビジネスにおよそ未来があるとは思えません。こうした状況下で、例えばウェスティングハウスという原子炉メーカーを莫大なカネを出して買収した大企業(=東芝)は、減価償却するにも国内でこれ以上原発をつくれないという状況に直面し、輸出に活路を求めようとしています。だからともかく、輸出をさせてくれとプレッシャーを政府に対してかける。そのためには、国内での原発の再稼働がどうしても必要だということにもなる。結局、その圧力に対して民主党政権はまったく無力であったし、自民党政権は原発を推進した行きがかりがあるので、あたかも原発事故など起こらなかったかのような振る舞いをしているわけです。

 このように、新自由主義の下で、「小さな政府」が実現され、政府が経済を統制する力が弱まるどころか、資本の国家権力への依存が非常に強くなっていく、という現実が目撃されます。こうした現象が生ずる理由は、すべての資本の利潤創出の困難にあります。簡単に言えば、まともにやっていても儲けようがなくなっている、ということです。

 そのため、資本は国家に寄生して、国家の政策を左右しようとする。つまり、資本が国家を引きずり回しているようにも見えますが、それはある意味、資本が非常に脆弱になっているからだとも言えます。ここまで来ると、これを資本主義と呼べるのかという疑問さえ生じるでしょう。いま、まさにそんな状況にあるわけです。

バブル依存の世界経済

 こうした状況の始まりはどこにあるのでしょう。日本にとって決定的な転換は、実は全部1990年前後に起きています。世界的に見れば冷戦構造の崩壊であり、国内経済的に見るとバブル経済の崩壊です。バブル経済の崩壊の本質とは何か。崩壊後に不良債権問題が深刻化したということは表層であって、根本的な問題はいわゆる利潤率の傾向的低下、すなわち利潤が全般的に上がらなくなるということにあります。

 これは水野和夫氏の理論などが参照先として有力ですが、水野氏によると、日本はある意味で世界最先端国であるというのです。なぜなら、世界の先進国のどこよりも早く経済成長ゼロ(利潤が上がらない)という状態に飛び込んだからです。日本経済のバブル崩壊後、世界の資本主義はどうなったかというと、いわばバブルを人工的につくることによって利潤率を無理矢理引き上げるということをやっていった。しかし、それはバブルですから必ずどこかで崩壊する。

 その実例が、ロシアの通貨危機、東南アジア通貨危機、アメリカのITバブルとその崩壊、そしてサブプライム・ローン問題(不動産バブルとその崩壊)です。要するに、世界のどこかでバブルをつくっては壊し、ということを繰り返してきたのです。

 参照先として「水野和夫氏の理論」が紹介されているが、水野さんの著書『資本主義の終焉と歴史の危機』を指している。この本は《『羽仁五郎の大予言』を読む》中の一節『「独占資本主義の終末」補充編』で取り上げている。いま取り上げている問題と関係深いと思われる記事は『「独占資本主義の終末」補充編(11)』です。

 中国のようにまだ実体経済的に成長できる要因を多く持っている国ですら、すでにバブル経済の論理が入ってきており、実体経済レベルでの成長と不動産バブルが渾然一体になったものとして現れています。さらに言えば、中国の実体経済レベルでの成長そのものも、バブルを背景としたアメリカの消費に依存したものでした。アメリカの消費者が借金を重ねてまで過大な消費をし、その借金を中国や日本が米国債の大量購入によってファイナンスしてきた。それが膨大な量に上ったとき、返してもらえるのだろうかという不安が当然発生するわけですが、だからといって債権国が米国債を大量売却すれば、ドルが暴落しアメリカ人の消費量もガタ落ちするので、アメリカヘの輸出も止まり、自爆することになってしまう。ゆえに、さらに貸し続けるしかない、という状況が生まれました。

 この構造は、「グローバル・インバランス」と呼ばれます。アメリカにモノを輸出し、アメリカに貸したお金でそれを買ってもらう。モノもカネも全部アメリカに吸い込まれていくという、ブラックホールのような構造です。その間生産設備を拡張し、供給能力過剰状態となった中国は、国内での不動産バブルの形成を通した内需の拡大を図ってきたわけです。

 サブプライム・ローン問題の表面化によるリーマン・ショック以降、世界的に何が起きているのかと言えば、国債バブルです。国債は何に依拠するのか。それは、国家が徴税をできるということに依拠している。それは要するに現在及び未来の富、すなわち人々の労働による富の算出、これに対して国家が徴税をすることができるであろう、という期待に基づいているわけです。これの限界がどこにあるのか、ギリシャ危機などでその一端が表面化していますが、まだわかっていません。借金が天文学的な数字になってくると、本当にこの借金を回収できるのかという不安がどこかで爆発するはずです。

 このバブルをつくっては壊し、壊してはつくる、というサイクルに一番最初に突入したのが日本だと、水野氏は言います。こうして1990年前後に経済成長が止まったため、開発主義と利益誘導によって社会を統合すればよいというわけにはいかなくなったわけです。

 そうなると、統治原理の根本転換が起こる。みんなを食わせるという包摂の原理が、排除の原理へと転換します。日本では相変わらず保守勢力の支配が綿々と続いていますが、みんなを食わせようという発想はなくなっている。国家は資本の利益を優先し、資本は国家に寄生する。他方、大衆には「底辺への競争」が押しつけられ、貧富の差が広がり、実質的な国民統合は失われます。

 そこで現れてくるのが、諸々の劣化です。この章で取り上げた、右傾化、反知性主義、排外主義などがその典型ですが、それが排除の統治原理と結びつくときに生じる現象が、ファシズムです。排除された対象にどす黒い欲望をぶつける大衆がいて、政治もそれを煽る。これが、ファシズム的な社会のあり方です。それは、無残としか言いようがない代物ですが、いま日本はそのような状態に近づいています。

「成長戦略」としての戦争  さらに、危機は、経済成長ができなくなって世の中がギスギスするようになった、という程度では済まない可能性があります。それは、世界中で大きな戦争の可能性が如実に感じられることです。中東を筆頭に、東ヨーロッパでも東アジアでも、不穏な空気が漂っています。

 私は危機感を煽るためにこうしたことを述べているのではありません。世界資本主義の問題として、もはや「成長戦略」を実現するには、戦争しか選択肢がなくなってきているからです。現に、1929年の大恐慌を最終的に「解決」したのは、第二次世界大戦でした。

 2007年に赤木智弘氏が、『論座』に「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を発表して、物議を醸しました。その内容は、格差社会の底辺部からの悲痛な叫び、「こんな状況が続くなら戦争でも起きた方がマシだ」というものでした。ただし、赤木氏は、この文章の中で、「戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではある」とも書いており、あくまで「希望は戦争」というショッキングな表現を社会を目覚めさせる手段として用いていることを匂わせています。

 これに対して、2016年の今日、「希望は戦争」は、レトリックでなくリアルな話になりました。もちろんそれは、資本にとっての「希望」です。経済成長ゼロの状況を打開するための最高のカンフル剤は、大破壊です。大破壊をやって焼け野原が出現すれば、後は建て直すしかないので、成長が再開できます。

 そして、世界の情勢がこのような方向に着々と向かっているのだとすれば、「バスに乗り遅れるな」とばかりに日本版軍産複合体の形成へと道を拓きつつある安倍政権の政策は、ある意味で理に適っているのです。この方向へと人々を走らせるための前提として、諸々の劣化に基づく社会のファシズム的状況は、大いに役立つこととなるでしょう。

 このような危機的状況を認識している人はどのくらいいるのだろうか。「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権を支持するような「庶民2」が跋扈している世相を知るほどに暗澹たる気持ちに成っていく。

 さて、この閉塞した時代を押し開く方法はあるのだろうか。次回からいよいよ最終章「ポスト55年体制へ」を読むことになる。
《米国の属国・日本》(20)

日本劣化を推し進めた新自由主義(5):反知性主義(2)


 今回は前回の続きで、「庶民2」が組織化されてきた経緯を取り上げる。

 白井さんは小泉政権時代のキーワード「ポピュリスム」が表徴している政治手法が、「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の政治手法「排外主義的ナショナリズム」へと変わっていった経緯を追っている。

 時計の針を10年ほど前、小泉純一郎首相の時代に戻してみると、当時のキーワードは「ポピュリスム」でした。この言葉はもともと、1980年代の英国サッチャー政権を分析する際に脚光を浴びたものです。ひとことで言えば、それは「イメージの政治」ということになります。

 先ほども言及したように、サッチャー政権は、新自由主義政策に大きく舵を切った政権でした。当時のイギリスにおいて強い政治的影響力を持っていた炭鉱労働者の労働組合を潰すことで、労働運動を弱体化させることに成功するといったように、労働者階級に対して打撃を与える政策を次々にやりました。ところが、それらの政策が労働者階級の利益になるというようなイメージ操作に成功したところが、サッチャーの手腕の特徴だったと思います。彼女の政策は、一見したところ大衆の利害に寄り添っているかのような外観を得たのです。このようなイメージ操作を指して、「ポピュリズム」と言われたわけです。

 この言葉が再び、2000年代の日本においてクローズアップされることになりました。つまり小泉氏の政治手法がポピュリズムであると。そして、この頃から日本の右傾化ということも指摘されるようになってきました。しかし小泉時代の右傾化は、今日と比較すると、まだ激しいものではなく、現在のように排外主義の風潮がはびこるような状況ではありませんでした。いまは、ポピュリズムに代わり、悪質な排外主義的ナショナリズムが台頭している状況であり、事態ははるかに悪化しています。

 さて、ポピュリズムにおいて重要なのは、その両義性です。ポピュリズムという言葉は、大概は悪い意味で使われますが、多くの場合それは、大衆迎合主義だという批判にすぎず、不十分です。政治家が大衆の欲するところをよく聞き、それを実現するのが民主政治ですから、それは正しいことではないかという考え方も当然成り立つからです。

 では、ポピュリズム的であると評された小泉さんが大衆の声を聞いたというのは、いかなる意味においてなのかということを考えなければなりません。小泉政権はネオリベ転換 ―中野氏の言葉でいえば、新右派転換― を決定づけた政権です。「自民党をぶっ壊す」という名文句がありましたが、それは、それまでの利益誘導の構造を壊すということでした。これに対して、当時の日本人は拍手喝采をしたわけです。

 なぜ、拍手喝采をしたのか。そこには、長年の利益誘導政治の弊害に対する不満があったと考えられます。利益誘導政治とは、個別利害の政治です。つまり、人それぞれ自分の利害は異なる。勤めている会社が違えば、産業政策の効果も異なる。それぞれの産業団体が、政治献金などを通して、自分のところに利益誘導をするというのが典型的な構造です。そういうことをいつまでもやっているから、産業の合理化が進まないのであって、グローバル競争の中で日本が没落していくのだという不満が、長期経済停滞の期間を通じて渦巻くようになっていました。小泉政権の唱えた「構造改革」は、利益誘導政治の構造を壊してくれるのであり、それによって経済成長を取り戻せるに違いない、という期待を掛けられたわけです。

 そして、小泉氏が利益誘導政治を破壊した後、自民党は短命政権が続き、民主党に政権を奪われますが、2012年12月に政権に返り咲き、現在にまで続く長期政権が、安倍氏の政権(第二次)です。一見したところ、安倍政権は、首相のキャラクターもあいまって、ナショナリズムに全面的に依拠しているように見えますが、もう一本の柱は、中野氏の分析でも示されたように、新自由主義、ネオリベラリズムです。本来は、この二本の柱は、矛盾する関係にある。なぜなら、ナショナリズムは国民の一体性を強調する原理である一方で、新自由主義は国民統合を破壊するものだからです。

 慶應義塾大学教授の片出杜秀氏は、安倍政治は右翼保守主義ではないと指摘しています。片山さんによれば、安倍政治の本質は「安上がり」ということに尽きる。ナショナリズムを唱えているので、一見、日本人はみなしっかりまとまらなければいけないという主張に見えるけれども、福祉の充実にはまったく関心がなさそうなので、実質的な意味で国民を統合する気はない。福祉制度の整備にかける財源も用意しないので、そこで、ナショナリズムの安酒を飲ませてごまかしている。福祉よりもシンボル操作の方がはるかにカネがかからないので、「安上がり」だというわけです。

 この見方をとると、政権の方針は、とにかく「安上がり」にすることであり、ナショナリスティックなこともそのために吹聴しているということになります。

 私はこの小泉政権と安倍政権の本質の分析に全面的に同意する。特に「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の政治手法を「安上がり」と喝破した片出教授の分析は見事だと思う。

 最初の出典がよく分からないのだが、いまいろんなサイトで取り上げられている記事がある。私が推定した最初の出典サイトで紹介しよう。『自民党と安倍の実績 売国有罪~売国自民党の不都合な真実?』という記事である。その記事を転載しておく。

【自民党と安倍の実績】

GDP下落率--------------歴代総理中第1位
自殺者数----------------歴代総理中第1位
失業率増加--------------歴代総理中第1位
倒産件数----------------歴代総理中第1位
自己破産者数------------歴代総理中第1位
生活保護申請者数--------歴代総理中第1位
税収減------------------歴代総理中第1位
赤字国債増加率----------歴代総理中第1位
国債格下げ--------------歴代総理中第1位
不良債権増--------------歴代総理中第1位
国民資産損失------------歴代総理中第1位
地価下落率--------------歴代総理中第1位
株価下落率--------------歴代総理中第1位
医療費自己負担率--------歴代総理中第1位
年金給付下げ率----------歴代総理中第1位
年金保険料未納額--------歴代総理中第1位
年金住宅金融焦げ付き額--歴代総理中第1位
犯罪増加率--------------歴代総理中第1位
貧困率------------------ワースト4国に入賞
民間の平均給与----------7年連続ダウン
出生率------------------日本史上最低
犯罪検挙率--------------戦後最低
所得格差----------------戦後最悪
高校生就職内定率--------戦後最悪

 これらの評定が正しいかどうか、確認する資料を私は持っていないので検証出来ない。しかし、仮に評定が、例えば「歴代総理中第2位」といったように、いくらか違う事項があったとしても、「安上がり」政治手法の結果を表すデータとしてとしての意義は変わらないと思う。

 「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の「安上がり」政策がこのような惨憺たる結果を生んでいる一方で、防衛費には過去最大の5兆円超の予算請求をしている。その請求の中には軍産複合体から法外な値段で買い取る不要な兵器が並んでいる。ミサイル防衛関連経費(1872億円)・新型3000トン級潜水艦(一隻760億円)・F35戦闘機(6機946円)・垂直離着陸輸送機オスプレイ(4機393億円)。 ちなみに、ミサイルについては日刊ゲンダイが『露呈 ミサイル防衛は1兆5787億円の役立たず』という記事(2016年9月13日付)を書いている。

 また、ばらまき外交では、これも日刊ゲンダイの記事(2015年5月25日付)によると26兆円にのぼるという(『どれほどの成果が? 安倍首相がバラマキ外交で払った26兆円』)。今年に入ってからもばらまき外交は続いている。


 では、利益誘導政治の構造を小泉氏が壊した後の世界に、安倍氏は何を持ち込もうとしているのか。安倍氏が自分の政策を語る際の言い回しでとても印象的だったのは、規制を緩和して、日本を「世界で一番企業が活躍しやすい国」にしていきます、と表明したことです。この言葉は、まさに新自由主義者宣言とでも呼ぶべきものですが、その意味をよく考える必要があります。

 新自由主義の本質とは何か。先に説明しましたが、それは、資本の運動に対する規制のないフラットな空間(=自由競争の空間)を、場合によっては暴力を用いてもつくり出していくことでした。しかし、実はこの説明でも十分ではありません。

 資本のための開かれた空間では、本来は自由な競争が成り立って、努力や創意工夫に優れた者が成功し、努力や才覚が足りなかったものは公正な競争ののち敗れていく。そのような意味では、スポーツ競技みたいなものとして、市場における競争はイメージされています。たとえ、その前提に暴力があるにせよ、その本質がフェアな競争ならば問題はないのではないか、と。ところが、現実はそんなものではありません。力づくで開かれた資本の空間に入ってくるのは、独占資本です。巨大独占資本が空間を占拠するのです。

 例えば、イラクのフセイン政権が倒されたとき、アメリカは、イラク国家によって統制されていたマーケットを外へと開こうとしました。そこへ最初に参入するのは、当然のごとく、イラク戦争を後押しした資本であり、彼らが利権をまずがっちり押さえる。彼らはイラク戦争の背後で様々な工作をし、金も出し、散々コストを払った。ですから、彼らにしてみれば、「公正な競争」なんてとんでもない、ということになります。

 安倍さんとしては、企業一般を指して先の言葉を述べたのでしょうが、現実には企業一般のためになる政策など存在しません。ある特定の個別資本のためになる政策が存在するだけです。つまり、すべての企業がすべからく公正に競争できる場所などは、この世の中に存在しえないのです。

 規制緩和については色々な記事で取り上げてきているが、その本質を詳しく書いた記事として『「財源=税」問題を考える。(3):各種審議会の仕組み』
を紹介しておこう。
《米国の属国・日本》(19)

日本劣化を推し進めた新自由主義(4):反知性主義(1)


 右傾化について、中北さんと中野さんの説を学習してきたが、そこから見えてくるのは社会の全般的劣化である。つまり、新自由主義は単に政策や経済の問題ではない。それは社会に一つの文化的様式を持ち込むのであり、その社会に生きる人間の精神構造にも大きな影響を及ぼしている。その結果が、反知性主義の跋扈であり、社会の全般的劣化にほかならない。白井さんは「不良少年たちの逆説的状況」と題して、次のように続けている。

 先ほど、中北氏が指摘した草の根保守の組織化について、ある種の反知性主義の要素があり、かつそれはヤンキー的なメンタリティーと親和性が高いと述べました。実は、ヤンキーというのはなかなか重要な問題なので、これについても見てみましょう。

 ポール・ウィリスというイギリス人の社会学者が書いた『ハマータウンの野郎ども』という古典的名著があります。原題は、ラーニング・トゥ・レイバー(Learning to Labour)で、労働者階級に生まれた子どもたちがどのようにして肉体労働に就くことになるのか、を分析するという内容です。

 日本と同じように、イギリスにも不良少年がいる。不良少年は学校での成績が悪く、同時にいわば学校的なるものへの敵意と嫌悪を露にします。教師には反抗し、優等生をバカにする。彼らは学校での点取り競争から自発的に降りてしまい、学校的なるもの全部に抵抗するわけです。ところが、その抵抗が社会への抵抗になっているのかというと、実はなっていないという逆説をウィリスは指摘しています。まさに、学校の秩序から脱落することによって学歴がつかず、彼らはやはり親と同じような肉体労働者となって、大卒者が誰も引き受けたがらないような労働に従事することとなる。そのようにして、階級が固定化されていくわけです。

 この不良少年たちは、明らかに独自の「カルチャー」を持っています。それは、何が格好良くて、何がダサいものなのかについての独自の基準です。それは、一種のサブカルチャーであり、クラシック音楽とか美術館に展示されるような絵だとか、いわばカルチャーの本道とは全く異なるものです。彼らはロック音楽に熱狂し、あるいはサッカーに夢中になる。それは、イギリスにおけるカルチャーの本道とは異なる独自の価値体系です。

 この本はイギリスの労働者階級を論じたものですが、では、日本のヤンキーはどうか。日本でも、一定の若い人たちがヤンキーと呼ばれていて、彼らもしばしば学校に反抗しドロップアウトしますが、やはり、そこから先に従事する仕事は圧倒的に肉体労働が多い。反抗のあり方などは時代によって移り変わりますが、ヤンキーにもヤンキー独自の美学、すなわち独自のカルチャーがあるわけで、ウィリスの分析したイギリス社会と共通点はありそうです。

 白井さんは反知性主義の核心を「知的なもの、知的ぶったものや人に対する反感」と取らえ、それは「一般に非エリートである庶民は反知性主義的エートスを常に持っている」と言う。その典型例として『男はつらいよ』の寅さんを論じている。私は『男はつらいよ』のファンであり、結構沢山見ている。寅さんのエリートに対する反感には共感している。白井さんはどのように捉えているのか、大変興味深い。

 映画『男はつらいよ』の寅さんは、学歴などない、どちらかというと下層の庶民です。寅さんは、庶民よりも上の知的階層に属するような、大卒の人間などが出てきて議論になると、一種のキメ台詞としてこう言います。「お前、さしずめインテリだな」。

 寅さんの言いたいことは、「お前の言っていることはどうも腑に落ちない、机上の空論なんじゃないのか」ということでしょう。であるとすれば、これは、いわば「古典的な反知性主義」です。これは私が勝手につくった言葉ですが、自分の生活実感から解離したものに対して疑いを持つという精神態度です。

 反知性主義研究の古典である、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』の定義に従えば、反知性主義とは、「知的な生き方およびそれを代表とされる人びとにたいする憤りと疑惑」ということになります。肉体労働に従事している庶民の感性には、インテリの言うことは難しくて理解できないという以前に、そもそも実感を伴わないので、理解するに値しないものとしてしばしば現れます。
「あいつらは働いてるなんて言えるのか。その癖なんだか世の中はこうなってるというような知ったふうな口を利きやがる。旋盤一つ削れないくせに」。
 実際、わけのわからない言葉遣いをすることで、人を煙に巻くことを職業としている「インテリ」はたくさんいるので、これはある意味で、健全な疑いと言えるものです。自分の生活実感からかけ離れたことを権威ある人から言われたとしても簡単には信じない、という精神態度であり、イギリスの不良少年の学校教師に対する反感にも、似た側面があります。

 寅さんのエリートに対する反感は「自分の生活実感から解離したものに対して疑いを持つという精神態度」であり、その限りではしごく健全な精神態度だと言えよう。

 次いで白井さんは、寅さんのような庶民を「庶民1」と呼び、「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」首相が組織化した「草の根保守」を「庶民2」と呼び、その違いを論じている。

 さて、中北説を参考にして考えると、安倍晋三首相は、ヤンキーを含む草の根保守をまとめて、彼らを自らを支えるサポーターに仕立て上げたと言えるのかもしれません。では、はたしてその草の根保守主義は、生活実感に基づいた健全な反知性主義を持っていると言えるのか。ここが、問題です。おそらくは私は違うと思うのです。仮に寅さんのような庶民を「庶民1」と言うならば、安倍氏が現在依拠している庶民は「庶民2」とでも言うべき、内実の異なる存在なのではないか。

 なぜかというと、彼らが唱える「日教組やマスコミを牛耳る左翼が国民を騙し、日本の誇りを傷つけ国益を害している」という物語が生活実感に根ざしているとは、到底思えないからです。この点で、イギリスの不良少年や日本におけるヤンキー、労働者階級の感性とは異なります。すると、安倍氏が組織した草の根保守というのは、実はヤンキー的なエートスとは親和性がないという結論になります。

 現在様々な分析がされていますが、おそらくはヤンキーが急速に右傾化しているということではない。引きこもりの人たちのように、社会から疎外されている人たちが右傾化しているという説もあれば、それよりもむしろ中流階級が右傾化しているという説もあります。私はどちらかというと後者の説に共感していて、社会的地位の高い人までも含めた広範な社会階層に属する人々が、荒唐無稽な右翼イデオロギー(歴史修正主義や陰謀論に象徴される)を信じている、という現実があると見ています。

 古典的ヤンキーが持つ「古典的反知性主義」が生活実感に根ざしたものだとすれば、現在の日本で見られる反知性主義は宙に浮いているがゆえにまともな中身がありません。ですから、現代日本の反知性主義は、エリートに対する庶民の懐疑としての反知性主義とは似て非なるものです。古典的反知性主義の劣化版と言えるかもしれません。それは、「容易には騙されない」態度とは正反対の、国家主義イデオロギーに軽率に感染する態度として現れています。

 では、中野氏が言うところの新右派連合の柱をなす、「庶民2」は、どのようにして生まれてきたのでしょうか。

 「庶民1」の「エリートに対する懐疑」という古典的反知性主義に対して、「庶民2」の反知性主義は「国家主義イデオロギーに軽率に感染」してしまう古典的反知性主義の劣化版だと指摘している。この劣化版反知性主義が「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権の高支持率を支えている愚民たちの正体なのだ。

 「庶民2」が台頭してくる経緯は次回で。
広目天の怒り
広目天

怒りは静に深く沈潜させ
より遠くまで射抜く眼差しとなせ。
その眼差しをもって
自由と民主を食い荒らす邪鬼どもの
あさましい心底を射抜き
踏みしだくまで反逆せよ
邪鬼