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明治150年、何がめでたい(20)

大日本帝国の植民地(3)

アイヌシモリへの侵略と略取(2)


 アイヌ人で参議院議員(1994年~1998年)を務めた萱野茂(かやのしげる1926年6月15日 ~ 2006年5月6日)という方が参議院の内閣委員会での質問で松浦武四郎を取り上げています。平田さんはこの時の議事録を引用して松浦をめぐる問題の補充を次のように語っています。

アイヌ民族・萱野茂の松浦観

 アイヌのおぼえも悪くはない。国立国会図書館のウェブサイト「国会会議録検索システム」を開いてキーワード欄に「松浦武四郎」と打ち込むと、5件がヒットする。うち2件は故・萱野茂参議院議員によるスピーチだ。萱野は、現在のところ、後にも先にもただ一人の、アイヌのアイデンティティをもつ国会議員である。1994年11月24日、第131回国会参議院の内閣委員会で質問に立った萱野は、こんなふうに松浦を引いた。

〈今から130年ほど昔に三重県三雲町出身の松浦武四郎という方が北海道へ行っております。(略)アイヌからいろいろと地名を聞きまして、それを書き残してあるのが8000ヵ所から9000ヵ所ある(略)。その地名を私の生まれて育った二風谷(にぶだに)のアイヌの村へ持ってきてみますと、武四郎が書き残したと言われる地名がわずか14ヵ所、大正15年生まれの私が二風谷の地名を調査してみますと72ヵ所ありました。(略)北海道で使われている地名の90%以上はアイヌ語であるということをまず皆さんに知ってもらいたい〉(議事録から抜粋、誤記を修正)

 1868年の王政復古――いわゆる明治維新――をはさんで、松浦は旧・新の日本政府に仕え、一種の外交コンサルタントの役目を担った。先住民族(インデイジナス・ピープルズ)の萱野にすれば、「アイヌモシリ(現在の北海道)に侵略の触手を伸ばす日本政府の手先」と批判的に語ることも可能だったろう。でも彼はそうせず、松浦が残した史料に信頼を寄せていた。

 念のために付け加えるが、萱野議員(当時政権与党だった日本社会党所属)には、日本政府に媚びたり遠慮したりする気持ちはなかったと思う。同じ日の国会質問で、彼はきっちり核心をついでいる。

〈日本政府はアイヌが独自の社会をつくっていたアイヌモシリ、北海道に無断で踏み込み、やがてアイヌモシリを勝手に自国の領土に編入するのでありますが、このようなことは他国に対する侵略行為であり、武力による行為は武力侵略なのでありますが、そのような歴史認識でよいのでしょうか。〉(同前)
 ウィキペディアの萱野茂の項に、参議院議員在任中の次のようなエピソードが記述されていました。念のため転載しておきます。

<在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる。>

 「北海道命名150年」事業問題に戻ろう。

コロニアリズムの「黒歴史」は封印

北海道命名は植民地化宣言そのもの

 松浦武四郎は少なくとも1980年代からこっち、このように弱者の味方・反権力・反骨の人、といった描かれかたをしてきた。それが2018年のいま、官製の「北海道命名150年」のイメージギャラにされている。
 これって、主催者=行政機関が、松浦や、松浦に続く告発者たちとついにマジメに向き合って、150年にわたる対アイヌ政策を自己批判します、という反省の表れな んだろうか?

 その名も「北海道150年事業実行委員会」(会長=高橋はるみ北海道知事、2016年11月設置)は、「基本理念」をこう述べる。

〈本道が「北海道」と命名されてから150年目となる2018年(平成30年)を節目と捉え、積み重ねてきた歴史や先人の偉業を振り返り、感謝し、道民・企業・団体など様々な主体が一体となってマイルストーン(=通過点の節目)として祝うとともに、未来を展望しながら、互いを認め合う共生の社会を目指して、次の50年に向けた北海道づくりに継承します〉(同委員会ウェブサイト)

 自己批判など、どこにもない。
 そもそも「北海道への名前付け替え」(1869年8月15日)は、日本政府によるアイヌモシリ植民地化宣言にほかならない。

北海道命名を祝うとは?

 それをいま「祝う」とは、150年前の植民地化宣言を改めて肯定するということだ。
 20世紀後半になって「告発者」として再評価された松浦武四郎のイメージは、もういちど無害な「北海道の名付け親」にリセット。"黒歴史"は水に流して、前向きにいきましょう、というわけだ。

 これは、日本社会のマジョリティにはまことに心地よい。マジョリティとは、言うまでもなく和人のことだ。かくいう筆者もその一員。わが政府・同胞が先住民族にどんな仕打ちをしてきたか(前回の年表)、見聞きするたび後ろめたく、けれど戦後世代の戦争責任感にも似て、ついまわりのみんなと一緒に「昔のことと自分は無関係」と知らんぷりを決め込みたくなる。「いいんだよ、それで」とヤサシク背中を押してくれるのが、上記の「基本理念」である。
 でもこれでは、先住民族に対する「歴史的な不正義」(『先住民族の権利に関する国際連合宣言』前文、2007年採択)に荷担してしまうことになる。正義漢を気取るつもりはない。でも後ろめたい気持ちのままここに暮らし続けたとしても、幸せにはなれない。

 勇気をふるうのに、今だからこその好材料がある。2016年から17年にかけて、北海道の3つの地域のアイヌグループが、非アイヌたちの支援も受けながら、地元墓地から大学に持ち去られた先祖の遺骨を奪回し、みごとに権利を取り戻してみせたのだ(本誌17年9月22日号など)。現代を生きる私たちには、チャンスがある。

 この機に取り組むべきは、この150年を〈次の50年に……継承〉することじゃない。松浦を含め、かつてどの和人も果たせなかったけれど、今度こそ歴史的不正義に終止符を打ち、これまでとは異なる未来を語るのだ。

 以上が平田さんの論説からの転載ですが、一つ追加したいことがありました。『史料集』に「北海道旧土人保護法」(全13条)の抜粋条文が掲載されていました。これを転載します。(アイヌ民族は狩猟・漁猟を主とした民族であったことを踏まえてお読み下さい。)
北海道旧土人保護法

第一条
 北海道旧土人ニシテ農業ニ從事スル者又ハ從事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得
第四条
 北海道旧土人ニシテ貧困ナル者ニハ農具及種子ヲ給スルコトヲ得
第五条
 北海道旧土人ニシテ疾病ニ罹リ自費治療スルコト能ハサル者ニハ薬価ヲ給スルコトヲ得
第七条
 北海道旧土人ノ貧困ナル者ノ子弟ニシテ就学スル者ニハ授業料ヲ給スルコトヲ得
第九条
 北海道旧土人ノ部落ヲ爲シタル場所ニハ国庫ノ費用ヲ以テ小学校ヲ設クルコトヲ得

 この法律について、ネット検索していましたら、『コトバンク』というサイトの
『北海道旧土人保護法』
の解説集と出会いました。最後に、その中から最も充実している日本大百科全書(ニッポニカ)の解説文を全文転載することにします。

 1899年(明治32)に制定されたアイヌ政策に関する基本法。近代日本のアイヌ政策の特質は、アイヌの「日本人」化の強制と「日本人」社会からの排除という二重の差別構造を内在化した同化政策と規定できる。同法はそれを象徴するもので、アイヌの生活・文化に大きな影響を与えた。

 同法は13条から構成され、アイヌへの土地給与、農耕の奨励と初等教育の普及を通してアイヌを「開拓農民」に仕立てあげ、かつ「日本人」になるための教育を受けさせることを主目的としている。その基本理念は、同化主義の法的フィクションにすぎない「一視同仁」の天皇制思想に基づいていた。

 なかでも、「旧土人」小学校は、その第9条「北海道旧土人ノ部落ヲ為(な)シタル場所ニハ国庫ノ費用ヲ以(もっ)テ小学校ヲ設クルコトヲ得」を法的根拠として設立されたアイヌ児童の分離教育機関で、児童のみならず、アイヌ・コタン全体の同化中枢的機能を果たした。同小学校は全道に23校が設立されたが、そこでの教育の実態は、尋常小学3ヵ年で学ぶ程度の内容をアイヌ児童の「能力の遅れ」を前提に4ヵ年としたり、あるいはアイヌ語・アイヌ文化を教科目に取り入れなかったり、きわめて差別的な色彩が濃いものであった。

 「旧土人」という差別的呼称を冠した同法は、アイヌの「同化」とともに五度にわたる改正を経た。しかし、その存廃をめぐって北海道ウタリ協会は、1984年(昭和59)5月、現行法を撤廃し、それにかわる新法の素案としてアイヌ民族の権利保障を盛り込んだ「アイヌ民族に関する法律」(案)をまとめ、同協会総会で承認を得、北海道知事の私的諮問機関であるウタリ問題懇話会および北海道議会厚生常任委員会にそれぞれ付託され、その内容が審議された。

 また、国会では、1986年10月の中曽根首相のアイヌ民族の存在を否定する「単一民族国家発言」に対する当事者からの抗議を機に、同法の名称変更を骨子とする改正案を継続審議し、政府は同法の見直しを約束した。

 1994年(平成6)2月には、連立与党に「アイヌ新法」制定のためのプロジェクト・チームがつくられ、同年7月、萱野茂がアイヌ民族として初の国会議員(参議院議員)となり、懸案だった「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ新法」の立法化に向けての作業が進められた。97年5月8日、「アイヌ新法」正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(略称、「アイヌ文化振興法」)が、国会で成立、同年7月1日に施行され、これに伴い「北海道旧土人保護法」は廃止された。[竹ヶ原幸朗]

 次回から『岩波講座 日本歴史』の第5章「戦時下の植民地」を読んでいきます。
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明治150年、何がめでたい(19)

大日本帝国の植民地(2)

アイヌシモリへの侵略と略取(1)


 大日本帝国による沖縄琉球への侵略の始まりは、1879年3月27日に断行された琉球処分でした。それでは、アイヌシモリへの侵略はいつどのように行われたのでしょうか。

 以下は、前回紹介した平田さんの論説『「松浦武四郎とアイヌモシリ侵略」 「北海道命名150年祝賀」に漂うコロニアリズム』を教科書として話を進めますが、私の勝手な判断で、論述を分かり易くする観点から、平田さんが書き進めている順序を変えて紹介していくことにします。

 平田さんはまず前書きとして、次のような問題提起をしています。


 日本政府は1869(明治2)年、それまで蝦夷地などと呼んでいた大島に「北海道」と命名して、植民地化した。先住民族アイヌにとっては「日本政府による歴史的不正義の始まり」なのに、いま北海道庁が展開する祝賀事業に、自省の色はない。


 まず、本文の欄外に参考資料として掲載されている日本政府によるアイヌモシリの植民地化政策の年表を転載しておきます。


日本政府による主な対アイヌ政策

1869(明治2)年
 日本政府が「土人」(アイヌ)を「教導」すると宣言。蝦夷地・北蝦夷地を内国化してそれぞれ北海道・樺太州と改称。

1871 (明治4)年
 戸籍法公布。アイヌを「日本国民」へ編入。アイヌ語を禁止。女性の入れ墨、男性のイヤリングを禁止。死者の出た家屋を燃やす儀礼を禁止。

1872(明治5)年
 官有地の売り渡し先からアイヌを除外。

1875(明治8)年
 アイヌのシカ猟を規制。樺太州在住のアイヌ840名あまりを北海道へ強制移送。

1876(明治9)年
アイヌに和人風の姓名を強要。

1878(明治11)年
アイヌの公式呼称を 「旧土人」に統一。


 さて本文は、「アイヌモシリを北海道と名付けた」とされている松浦武四郎という探検家の業績を検討することから始めています。

北海道150年のキーパーソン?

 筆者が暮らす北海道で、このところ松浦武四郎の名前を目にする機会が増えている。「幕末の探検家」「北海道の名付け親」といった肩書きつきで紹介されることの多い歴史上の人物である。

 といっても、坂本龍馬や西郷隆盛あたりの同時代人に比べると知名度は低い。それがいま、にわかに露出し始めたのは、来年2019年が「北海道命名150周年」の節目にあたり、たぶん中央政府の「明治150年記念」(2018年)にムリヤリ同期させたのだろう、北海道庁がプロデューサー、電通北海道(随意契約)がディレクターになって、この人を「北海道150年事業のキーパーソン」に起用しているせいだ。

 でも、まったく解せない。松浦武四郎って、官製の祝賀行事なんかに召還されるタイプの人だっけ? それに厳密には彼は「北海道の名付け親」ではなかったはずだ。

80~90年代の武四郎イメージ

 筆者がその人となりに初めて触れたのは、ちょうど30年前、花崎皋平(こうへい)『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店、1988年)を介してだった。
 〈松浦武四郎をできるだけ簡潔に紹介しようとすると、二つの、裏と表といってもよいほど角度のちがう見方がある〉
と書き起こされている。

 ひとつ目の見方は、最初に記した肩書きどおりで、同書出版時の『広辞苑第3版』(1983年発行)に
「まつうら・たけしろう 幕末・維新期の北方探検家。伊勢の郷士の子。幕府の御用掛として蝦夷・樺太を調査。維新後は開拓使大主典となり、蝦夷を北海道と改称すべきことを提案。著『三航蝦夷日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌』(1816一1888)」
とあるから、こちらがオモテということだろう。

(管理人:余計な注ですが『広辞苑』に人名が掲載されていることを私は知りませんでした。念のため手元の『広辞苑第2版』(1970年発行)を調べてみたら、坂本竜馬と西郷隆盛は取り上げられていましたが、松井武四郎はまだ取り上げられていませんでした。辞典に取り上げられるようになったのは30年ほど前くらいからなのですね)

 対するウラの見方はこうだ。
 〈(松浦は)明治2年には開拓判官に任ぜられ開拓大主典(官名)の職に就いている。いまでいえば北海道開発庁の次官級の職である。……しかし彼は、半年ほどその席を暖めただけで、明治3年3月、慰留をふりきって一切の官職を辞し、位階(従五位)も返上してしまう。〉
 〈彼は、そのまま放置すればアイヌ民族を絶滅させかねない松前藩と場所請負人の搾取と虐待、それに蝦夷地資源の略奪を、新政府の政策によって終止符を打つことに、幕末期蝦夷地における自分の活動のしめくくりを置いていた。〉(前掲書)

 この本を書いた花崎は、「ウラの見方」に傾斜しつつ、〈彼の生涯は、おのれの立身出世のために権力者に媚びたり、民衆を踏み台にしたものではなく、むしろ、民衆の側に立って権力と資本の搾取・抑圧を告発したもの〉と書いている。

 1971年に国立大学教員の職を辞して、アイヌの人権回復活動をはじめとする市民運動に軸足を置きながら執筆活動を続けていた花崎は、松浦の生きざまに自身を投影したかったのかもしれない。それはともかく、花崎の造形する「権力者に媚びたり」せず「民衆の側に立って権力と資本の搾取・抑圧を告発」するヒロイックな――けっきょく黙殺されてヒーローにはなれなかったが――松浦像が、こうして新たに印象づけられた。

 少し遅れて1993年に出た本多勝一『アイヌ民族』(朝日新聞社)の視線も、花崎に近い。
 本多はこの本で松浦を
〈アイヌモシリを徹底的にさぐり、近代西欧の探検家たちも及ばぬほどの傑出した記録精神によって膨大な探険記を書いた。(略)アイヌに対するシサム(日本人のこと=引用者注)の残酷きわまる仕打ち、働き手を次々と強制連行されたあとのアイヌ社会の惨状、それに対する松前藩や幕府の無策ぶりも詳細に記録されているため、そのままのかたちで刊行することが体制側から許されず、当時は抄録的なものが出版されていた〉
と、プロファイルした。

 やっぱり読者は「弱者に共感を寄せ、権力にあらがった反骨の人」というイージを松浦に重ねただろう。
 「オモテ」の見方では「蝦夷を北海道と改称すべきことを提案」となっているが、本当に名付け親だったのだろうか。この問題の真相を平田さんは,榎森進著『アイヌ民族の歴史』(草風館)の一節(アイヌモシリの改名の経緯:次の段落の太文字部分)を引用して次のようにまとめています。

〈「北海道」という呼称は、古代天皇制国家の「五畿七道」、すなわち都に近い大和(奈良)・山城(京都)・河内(大阪)・摂津(大阪・兵庫)・和泉(大阪)の五国を「畿内」とし、他の諸国を山陰道・山陽道・南海道・西海道・東海道・北陸道・東山道の七道に分けた行政区画にならつたもので〉
〈「北海道」と改称された地域が名実共に日本の領土・天皇制国家の支配領域になったことを意味するものであった。〉


 このとき松浦が新政府に提出した新しい改名案は、日高見道(ひだかみどう)・北加伊道(ほっかいどう)・海北道(かいほくどう)・海島道(かいとうどう)・東北道(とうほくどう)・千島道(ちしまどう)の6つ。「北海道」はない。

 松浦自身の解説によれば、候補のうち北加伊道は、アイヌ同士が互いを呼び合う「カイノー」というアイヌ語にちなんだ名前だった(松浦武四郎『北海道々国郡名撰 定上書』1869年)。ところが政府は、原案者が込めた「アイヌのくに」の意味をばっさり切り捨て、「加伊」の2文字を本州島の行政区画名に合わせて「海」と入れ 替えた。スタート時から先住民族同化政策を掲げた政府にふさわしい植民地改名エピソードではある。

(次回に続く)
明治150年、何がめでたい(18)

大日本帝国の植民地(1)

 大日本帝国の植民地の一つである朝鮮については「明治以降の日本と戦争」でかなり詳しく取り上げていますが、台湾と満州については実質的には殆ど触れていません。また太平洋戦争で侵略した植民地については全く触れることが出来ませんでした。そこで『岩波講座 日本歴史』の第5章「戦時下の植民地」を用いて学習しようと思っていましたが、この問題について盲点を一つ突かれました。

 『週間金曜日』が「―歴史の偽造には騙されない―明治150年を斬る」というシリーズを始めました。その第1回目は、成澤宗男さんが聞き手となり、原田敬一さんが語る形で進められています。テーマは「日清戦争を美化した『坂の上の雲』の誤り」(2018/3/9刊 1175号所収)でした。これについては
『日露戦争をめぐるフェイクニュース』
でちょっと触れる程度でしたが、取り上げています。いずれ必要ができたらこの論考を教科書として使わせて戴こうと思っています。

 「明治150年を斬る」の第2回目のテーマは『「松浦武四郎とアイヌモシリ侵略」 「北海道命名150年祝賀」に漂うコロニアリズム』(2018/3/23刊 1177号所収)でした。執筆者はフリーランス記者の平田剛士さんです。この論説に私は盲点を突かれたのでした。今思えば、
『沖縄に学ぶ』
を書いていた時も、私の問題意識にはアイヌモシリは全く抜けていました。今回から大日本帝国の植民地問題を取り上げることにしましたが、まず上記の論説を教科書として大日本帝国によるアイヌモシリの植民地化から始めようと思っていましたが、その前に植民地という観点から沖縄を再考しておこうと考え直しました。(これから取り上げようとしている事項が頭の中で入り乱れて構想がなかなかまとまりませんでした。ごめんなさい。)

沖縄への侵略と略取


 沖縄へのはじめの侵略は1609年に薩摩によって行われています。大日本帝国による侵略の始まりは、その170年後(1879年3月27日)に断行された、いわゆる「琉球処分」でした。

 現在進行中の辺野古新基地建設工事の住民無視の強行が象徴するように、沖縄はまさに植民地扱いされています。大日本帝国の植民地問題を考えるとき、沖縄はその一つとして私の念頭にありましたが、「明治150年」という観点から沖縄を論じている新聞記事を切り抜いておいたので、それを紹介しておきたいと思ったのです。その記事は東京新聞「日々論々」というコラムの「視点 沖縄から」という次の二つの記事です。


『明治維新受難の始まり(2018.3.2)』執筆者・比屋根照夫氏(ひやねてるお 琉球大名誉教授)

『加害認識欠く「明治150年」(2018.4.6)』執筆者・又吉盛清(まよしせいきよ 沖縄大客員教授)

 『沖縄に学ぶ』と重複する部分があるかもしれませんが、①・②の順で、全文を転載することにします。


明治維新受難の始まり

 国家の行事は、およそ時の政府の権力基盤の安定を目指して行われる。日本政府は今年の「明治維新から150年」を、日本の近代化を進化させた時代として高々とうたい上げ、地方と連携してさまざまな礼賛の行事を行っている。しかし、琉球・沖縄にとっての「維新150年」は、全く異なる深刻な意味を持つ。それは、犠牲の強要による受難の時間でしかなかつた、ということだ。

 1972年の復帰から46年。今も在日米軍専用施設の7割が集中している沖縄は、陸も空も海も、日米両政府によつて暴力的状況にさらされている。
 陸では、米軍による女性暴行・殺害事件や飲酒運転死亡事故が起き、空からは人の命をも奪いかねない米軍機の部品が落ちてくる。米軍機自体の墜落や不時着も相次 ぐ。名護市辺野古の海では、新たな米軍基地建設のための埋め立てが強権的に推し進められている。辺野古の海には古来、住民たちの命の糧を育んできた豊かな自然がある。それを守るため工事に反対する人々を、警察は物理的な暴力で平然と排除している。

 日本政府による沖縄の生命、自然、文化をないがしろにする行為、歴史をさかのぼれば、沖縄が長年にわたる独自の歩で築いた琉球王国を、強力な国権拡張主義の下で解体、併合した「琉球処分」を出発点とする。那覇出身の民俗学者で「沖縄学の父」とされる伊波普猷(いはふゆう)は明治末期、琉球処分は「土着の沖縄人を軽蔑すること其の極に達し」、沖縄人の本土に対する「新たな敵愾心」を起こさせたと弾劾。今こそ、日本の同化の強制という「旧物破壊、模倣の単純な社会」を脱して沖縄人としての自覚を目覚めさせ「旧物保存、模倣排斥』、すなわち自らの歴史と文化を重んじて日本同化から解放されるべきだと説いた。普猷と、普猷の実弟で文筆家の伊波月城(げつじょう 本名:普成(ふせい))らを筆頭とする明治の沖縄知識人は、自立・自存を追求し、明治政府に切実な抵抗を試みたのだ。

 彼らの国家主義、帝国主義に対する痛烈な批判と抗議は、西洋列強のアジア侵略に対しても繰り広げられた。フィリピンの独立運動、インドの反英闘争、中国の辛亥革命などに共鳴してのものだ。沖縄の明治維新は、こうしてアジアとの連帯を強めたことも大きな特徴だった。沖縄戦後の米軍統治下、抑圧の行政に抗する住民運動が高まったのは、このような歴史的背景があったからこそである。

 日本本土が謳歌した維新による『文明開化』は、沖縄にとってはまさに「苦い果実」以外の何物でもなかった。いま、問われているのはそのことだ。



加害認識欠く「明治150年」

 安倍政権が記念事業などにより称揚しようとしている「明治150年」とは、一体何か。

 内閣官房は「次世代を担う若者にこれからの日本のあり方を考えてもらう契機」であり、「明治期の人々のよりどころとなった精神を捉えることにより、日本の強みを再認識し、日本の更なる発展を目指す基礎」にしたいという。  戦後、明治への再評価と賛美が高まったのは、1960年代だ。

日米安保条約が改定されて米国との間に従属的な軍事同盟が成立すると、国際的地位の向上など「日本大国論」が唱えられ、欧米諸国の侵攻をはね返したアジア唯一、最高の「近代文明国」として、明治期の日本の誇りが強調されるようになる。

 前後には、戦後の民主化に逆行する復古調の愛国心教育が重視され、侵略戦争と植民地支配の正当化が行われるようになる。

 改憲を信念とする岸信介首相からは「自衛のための核兵器保有は許される」との発言もあった。戦後日本の右傾化の始まりである。68年に政府は「明治100年」記念行事を挙行。「明治は世界的にも類例を見ぬ飛躍と高揚の時代、封建制度から脱却し勇気と勢力を傾けて近代国家建設に邁進した」と位置付けた。

 ここに欠如していたのは、アジア侵略と植民地支配に対する加害、責任の認識である。

 明治からの一世紀における最大の汚点は、日本国家が民衆を戦争から戦争へと引きずりまわし、大量死をもたらしたこと、東アジアの戦場にも、戦闘や虐殺により罪なき民の屍の山を築いたことにほかならない。

 この「国家死」の責任者は誰か。戦後の日本の総懺悔の中で「共同責任」であるかのようにして、軍人、政治家らの責任を主体的に追及することなく放免してきた。そのツケが、今日の憲法改悪、自衛隊の海外派遣、軍備強化に結び付いている。

 琉球沖縄にとって明治維新以降の歴史観は、決して本土側と一様ではない。

 「琉球併合」によって琉球王国が解体され、大日本帝国の植民地になると、沖縄には南方の防波堤から攻撃的な海外侵略、植民地支配の拠点として役割が与えられるようになる。

 「万国津梁(しんりょう)」(世界の架け橋)の精神をもって東アジアの海域を平和の民として生き抜いてきた琉球沖縄人が、台湾出兵や日清、日露、日中戦争を通して、東アジアの民衆を抑圧する加害者に転落したのである。

 筆者が主宰する「又吉学級」は19~20日、東京の中の琉球沖縄ゆかりの地などを訪ね、明治維新から150年の中で東アジア人がどう生きてきたかを考えることにしている。

 次回は大日本帝国によるアイヌモシリ侵略を取り上げます。
明治150年、何がめでたい(17)

明治以降の日本と戦争(12)

大東亜戦争[=太平洋戦争](4)


 前回で「明治以降の日本と戦争」を終わる予定でしたが、一つ補充したいことがあって、もう一回追加することにしました。

 前回の戦没者数は軍属・軍人の戦死者数であり、一般国民は含まれていません。空襲や原爆での民間死者数はどのくらいあったのでしょうか。

 日本政府は、すでに降伏しか選択肢がなくなっていた状況で、なお連綿と降伏を延ばしていました。民間人の死者の殆どはそのための犠牲者だったのです。この経緯を『昭和の15年戦争史 48』から抜粋しておきます。

 「戦争終結策を至急に講ずる要あり」という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と返答していた。1945年2月のことである。

 その後、東京大空襲(3月10日)をかわきりに沢山の都市で多く国民が死亡し、都市が焦土と化していった。そして太平洋の各地で日本軍の敗北が続き、多くの兵士が戦死した。にもかかわらず、日本政府は連合国が与えてくれた終戦の恰好の機会であったポツダム宣言(7月26日)を無視した。

 こうした結果がアメリカの残忍な原爆投下を引き寄せてしまった。
8月6日
広島に原爆投下さる

8月9日
長崎に原爆第二弾投下さる


 このブログではこれまでに、これらの悲劇を悼み苦しんだ人たちの悲痛な言葉をいくつか紹介してきましたが、そのうちのいくつかを紹介しておきます。
《詩をどうぞ》―『戦争、そして原子爆弾』
《詩をどうぞ》『追悼・石垣りん』
《今日の話題》『飢餓の果て人が壊れる』
《沖縄に学ぶ》『琉球処分から沖縄戦まで(4)』
 さて、では民間人の犠牲者数はどのくらいだったのでしょうか。サイト『社会実情データ図録』さんの記事「第二次世界大戦各国戦没者数」を利用させて戴きます。


第2次世界大戦における軍人の戦死者数と民間人の犠牲者数については、諸説があるが、ここでは、「タイムズ・アトラス 第二次世界大戦歴史地図 」のデータを元にグラフ化した(日本は厚生労働省資料)。
(中略)

 日本について、国内・海外の別に数字を示すと以下の通りである。

           国内    海外       計
軍人・軍属     20万人   210万人    230万人
民間人        50万人  30万人      80万人

 民間人犠牲者が多かった主な戦闘

  東京大空襲   10万人
  広島原爆投下  14万人
  長崎原爆投    7万3千884人
  沖縄         9万4千人

(資料)毎日新聞HP(数字は証言する~データで見る太平洋戦争~)

 以上で「明治以降の日本と戦争」を終わることにします。
明治150年、何がめでたい(16)

明治以降の日本と戦争(11)

大東亜戦争[=太平洋戦争](3)



〔太平洋戦争の進展〕

 「大東亜戦争」が始まると,日本ははじめのうち圧倒的な勝利をおさめつづけました。 1941年12月8日の真珠湾の攻撃は,宣戦布告の文書がアメリカに届く前のことで,完全な奇襲作戦だったので,敵の不意を衝いたこともあって大きな戦果をあげました。 12月10日のマライ沖の海戦では,イギリス極東艦隊の主力である戦艦2隻も撃沈させました。そして,日本は蘭領東インドを目指して軍を進め, 1942年の3月9日には蘭領東インドの連合軍を無条件降伏させることに成功したのです。

 しかし,米軍を中心する連合国軍は間もなく勢力をもり返しました。そして,戦争が始まって半年もたたない1942年4月18日には東京・名古屋・神戸などが米軍機の空襲をうけるまでになりました。従来の日本の戦争では経験しなかった日本本土がついに戦場になったのです。そして,その年6月5日に西太平洋のミッドウェイ島沖での海戦で日本海軍が大きな損害をうけて以来,日本軍はつぎつぎと敗北するようになるのです。

 真珠湾攻撃が奇襲作戦だったという記述がありますが、最近インターネット上で、この問題には「ハル・ノート」というアメリカから日本への最後通告が絡んでいることを指摘する記事を頻繁に目にします。この事については2007年の記事
『戦争意志とは何か』
で取り上げています(9月20日…第7回と9月21日第8回)。最近では2017年の記事
『昭和の15年戦争史』
でも取り上げました(12月21日第34回と12月23日第35回)。

 さて、大東亜戦争は連合国軍との戦闘となり、敗戦に向かいます。次の問題は大東亜戦争のまとめの問題です。

〔問題18〕
 大東亜戦争のとき,日本軍にもっとも大量の戦没者が出たのは,どの地域での戦争だったと思いますか。

予想
 ① ソ連・満洲
 ② 中国本土
 ③ インドシナ半島
 ④ インドネシア
 ⑤ 沖縄
 ⑥ フィリッピン
 ⑦ 中部太平洋諸島
 ⑧ パプアニューギニア


 〔問題18〕についての解説を転載しましょう。

〔日本の戦没者の数〕

 富永謙吾「太平洋戦争決算報告」によると,太平洋戦争での地域別の日本の戦没者数は,

① ソ連・満洲……………30万人
② 中国本土……………・47万人
③ インドシナ半島………20万人
④ インドネシア‥‥‥‥10万人
⑤ パプアニューギニア…25万人
⑥ 中部太平洋諸島……25万人
⑦ フィリッピン…………・52万人
⑧沖縄…………………・・19万人

となっており、その他の地域を含めて,全部で240万人の戦没者がいたことになっています。
 このうち,一番多いのがフィリッピンで52万人,次が中国本土の47万人。三番目がソ連・満洲の30万人ということになります。「太平洋戦争」とはいっても,中国や満洲などで死んだ人が多かったのです。

〔なお,第二次世界大戦全体での国別での戦死/行方不明者の数は,①ソ連―612万人,②ドイツ―325万人,③日本―257万人,④中国―150万人,⑤ポーラソド―55万人,⑥米国―55万人だそうです〕

 さて、次はいよいよ「明治以降の日本と戦争」のまとめの問題です。

〔まとめ〕
 明治維新以後,日本はいろいろな国と戦争をしてきました。それなら,どんな国(独立国)と戦争したことがあったでしょう。まとめて思いだしておきましょう。

 正式に宣戦を布告して戦争した国には《》内に,×をつけ,戦争はしたのに宣戦布告をしていない国には△をつけてみて下さい。また,戦争をしたことのない国には○をつけてみて下さい。

《》(1) 朝鮮・韓国
《》(2)-a 清国
《》  -b 中国
《》(3)-a ロシア
《》  -b ソ連
《》(4) 米国
《》(5) 英国
《》(6) ドイツ
《》(7) フランス
《》(8) オランダ
《》(9) イタリア
《》(10) スペイン
《》(11) スイス
《》(12) タイ
《》(13) フィリッピン
《》(14)その他(    )

まとめの問題についての解説は次のようになっています。

〔明治以後,日本が戦争をした主な国〕

 前のページの国々のうち, (1)の朝鮮・韓国とは,明治以後には正式に宣戦を布告して戦争をしたことかありません。それなら,「日本は朝鮮とずっと平和を保って一度も戦争をしなかったか」というと,そうではありません。明治9年には朝鮮に開国を迫った日本の海軍が朝鮮軍と衝突して,戦闘しています。

 清国とは「日清戦争」のとき戦争しています。中国とも,「日中戦争」をしています。ロシアとは「日露戦争」をしており,ソ連とも,「大東亜戦争」の末期に戦争をしています。

 米国・英国とは「大東亜戦争」のとき,またドイツとは「第一次世界大戦」のとき戦っています。フランス・オランダも連合国に属していますから敵国になっています。しかし,イタリアとは第一次・第二次大戦とも味方同士でした。スペインとスイスは第二次大戦のとき中立国だったので戦っていません。タイは同盟国。フィリピンはアメリカの植民地だったので,米国と戦ったことになります。第二次世界大戦のときは,その他の国を含めて合計51ヵ国の連合国と戦ったことになっています。


 上の解説とこれまでの問題も振り返って、「まとめ」の問題の解答を作ってみましたが、間違っている所があるのではないかと危惧しています。間違いがあったら教えて下さい。

《△》(1) 朝鮮・韓国
《×》(2)-a 清国
《△》  -b 中国
《×》(3)-a ロシア
《×》  -b ソ連
《×》(4) 米国
《×》(5) 英国
《×》(6) ドイツ
《×》(7) フランス
《×》(8) オランダ
《○》(9) イタリア
《○》(10) スペイン
《○》(11) スイス
《○》(12) タイ
《×》(13) フィリッピン
《△》(14)その他(51ヶ国)
(日本が他国の植民地を攻めた場合もその領主国と戦争をしたことと解釈しました。)

 さて、以上で『ミニ授業書』の学習が終わりました。私の中では『明治150年、何がめでたい』という気持ちがますます強くなってきました。

 最後に〔あとがき〕を読んで「明治以降の日本と戦争」を終わることにします。

〔あとがき〕

 さて,いかがだったでしょうか。
 第二次世界大戦一大東亜戦争一太平洋戦争以後も日本の近くで,朝鮮戦争が起き,ベトナム戦争がつづきました。日本はそれらの戦争と「完全に無関係」とも言えないので,そのことも話題にすることを考えましたが,それはやはり「日本の戦争」ではないので,ここには取り上げないことにします。

 それにしても,第二次世界大戦以後日本が一度も戦争をしていないことは幸せなことです。 1868年の明治維新以後の日本は,1894~5年,1904~5年,1914~18年,1931~45年とほぼ10年ごとに戦争をしてきたことを考えると,1945年から今日まで40年以上も戦争を経験しなかったことは素晴らしいことです。私たちの生活が,戦前の日本人には考えることも出来ないほどに豊かになることができたのも,その長い平和のお陰といってもいいでしょう。そういう生活を守るためにも,私たちは今後とも戦争に巻き込まれないように,いや,この地上から戦争をなくすようにしたいものだと思います。そのためにはどんなことに心したらいいか―そんなことを考えるための一つの足場ともなればと思って,このミニ授業書を作ったのです。

 〔はしがき〕に書いたように,この授業書では,「戦争は何故起きたか」といったことについて,押しつけがましいことには一切触れなかったつもりです。そういうことについては,ここで取り上げた諸事実をも参考にして一人ひとりで考えていただければ嬉しいと思います。

 なお,最後に,付録として,日清戦争・日露戦争・大東亜戦争のときに日本の政府が,天皇の名で出した「宣戦布告」の文書〔勅語〕を収録しておくことにします。やたらに難しい漢字が沢山使ってあって,とても読みにくい,理解しにくい文章です。ですから,全部を理解するのは困難だとは思いますが,いろいろ参考になるところもあると思います。ひと通り眺めてみて下さい。
「こんなにむずかしい文章で,いったい誰が理解できたのだろう。ふつうの日本人にはまったく理解できないような文章を綴って戦争をしたということだけでも,その戦争がいかに非民主的なものであったかが分かるものだ」
といった感想が得られるだけでも,意味があると思うのです。

                                      板倉聖宣

広目天の怒り
広目天

怒りは静に深く沈潜させ
より遠くまで射抜く眼差しとなせ。
その眼差しをもって
自由と民主を食い荒らす邪鬼どもの
あさましい心底を射抜き
踏みしだくまで反逆せよ
邪鬼