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昭和の15戦争史(19)

1937年(9)~(13)

(9)9月8日
警視庁でのアホな会議決定


「外国人と戯れる女性は国外追放」

 戦前の日本の、世にもばかばかしいお話をひとつ。
 1940年に東京オリンピック開催の予定であったが、世界大戦の勃発のために実際は準備も半ばにして中止となったのは、ご存じのとおり。が、それに先駆けて1937年9月8日、警視庁の特高・外事両課長会議でとんでもない事が決められていたことは、知る人ぞ知る。

 議題は、オリンピックには外国人選手が山ほども来日する。その外国人選手だちとわが国の女学生・令嬢・有閑マダムたちとの間に、ともすれば良からぬことがおこる可能性がある。これにいかに対処すべきか、というのである。
 で、たどりついた結論は――。 「もしかくの如き大和撫子の本分を忘却したる、いたずらなる外人崇拝に陥るようなことがあった場合は、よろしくこれらの女性を国外に追放すべし」

 歴史に「もしも」はないが、あのとき東京オリンピックが開かれていたら、どのくらいの女性が追放されたことか。いや、考えるのもアホくさいか。それにしても「大和撫子」は完全に死語となった。悲しむべきか。

 上の事例は近衛第1次内閣の悪政策とは無関係のようだが、次のような事例はその悪政策の施行が世相に与えた影響の現れではないだろうか。

(10)11月3日
「愛国行進曲」の発表


「見よ東海の空あけて」

「見よ東海の空あけて旭日(きょくじつ)高く輝けば/天地の正気(せいき)溌刺(はつらつ)と希望は躍る大八洲(おおやしま)/おお晴朗の朝雲に聳(そび)ゆる富士の姿こそ/金甌無欠(きんおうむけつ)揺(ゆる)ぎなきわが日本の誇りなれ」

 振リガナをつけなくても、すらすらと読める、または歌える方は、恐らく60歳以上に限られるであろう。戦争中に大いに歌われた「愛国行進曲」。

 この歌詞公募の締め切りがこの年の10月で、57,578のおびただしい応募の中から当選歌詞が選ばれた。発表は11月3日、鳥取県の森川幸雄という23歳の青年詩人である。さらに作曲が公募され11月末の締め切りまでに9,555曲が応募。当選したのは退役海軍軍楽長瀬戸口藤吉。

 こうして出来上がった国家公認の愛国歌がラジオから流れ出だのが、この年の12月末である。金甌無欠とは何ぞや、とボヤキつつ日本人は大いに歌った。

(注)
ちなみに「金甌無欠」の意味
 中国の南北朝時代の「南史」が出典で次のような意味である
「きず一つない金のかめのように、完全で欠点のないこと。特に、国家が独立強固で、外国の侵略を受けたことのないこと。」


 そして、のちにわれら悪童どもは替え歌を作って歌った。
「みよ、東条のはげ頭/ハエがとまればツルとすべる/すべってとまってまたすべる/とまってすべってまたとまる/おお晴朗のはげ頭……」
 もちろん、軍国オトナのいるところでは歌えなかった。

(11)11月
鎮魂歌「海行かば」初放送

 「海行かば水漬くかばね」  太平洋戦争下の日本人は戦況に一喜一憂した。戦果が上がったときは、きまって「軍艦マーチ」が鳴り響いた。そして不幸な知らせは、アナウンサーの荘重な声とともに「海行かば」がつらく奏でられた。
「海行かば水漬(みづ)くかばね/山行かば草むすかばね大君の辺にこそ死なめ/かへりみはせじ」

 『万葉集』にある大伴家持の長歌の一節である。もともとは聖武天皇の「宣命第一三詔」にあり、最終句は「のどには死なじ」であるが、家持が長歌に引くとき「かへりみはせじ」としたという。日本武人の死生観を率直に表現したのである。

 しかし、戦中にしきりに歌われ、玉砕の報とともに曲が流されたために、悲しい思い出と結びつき"戦犯の歌"となった。

 が、信時(のぶとき)潔が作曲し、1937年の11月に初めてNHK大阪中央放送局が流したこの曲は、美しい名曲なのではないか。これを書きつつハミングしていると、少し眼裏が熱くなってくる。過去の歌として葬ってしまうには惜しいように思う。

 半藤さんが少年時代に耳にしたメロディーを愛惜する気持ちは分かるが、歌は歌詞とメロディーが一体化して歌である。いつ覚えたのか、私は「海行かば」を何も見ずに歌うことができるが、「海行かば」の歌詞は全く許容できないので、メロディ-の衰亡を惜しいとは思わない。

(12)11月20日
宮中に大本営を設置


「大本営発表」

 日中戦争下の1937年11月20日、宮中に大本営が設置される。昭和史の年譜をみると、かならずこう書かれている。
「大本営とは何ぞや。要は、大元帥陛下のもと、戦時下の陸海軍の統一した統帥補佐機関、というわけ。同年の7月に勃発の日中戦争に対処するために設けられたもので『天皇ノ大纛(だいとう)下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営卜称ス』と軍令第一号にある。大纛とは天皇旗のことである。」

 戦争を体験した世代には、大本営と聞くと太平洋戦争中に全部で846回あった「大本営発表」が思い出されてくる。初期のころには、軍艦マーチと一緒に、ラジオから流れてきた"勝った、勝った"の「大本営発表」とともに国民は大そう熱狂した。おしまいころには海行かばの曲と一緒であった。撃滅したはずの機動部隊からの敵戦闘機がワンサワンサと本土空襲を始めるのであるから、国民は「大本営発表」をまったく信じなくなった。つまり「大本営発表」は大ウソの代名詞となる。

 今は「大本営」は永遠の死語。記憶する必要もない言葉といえようか。

(13)12月13日
中国の首都・南京占領

「戦局終結の動機を得る」

 1937年7月の"盧溝橋での一発"からはじまった日中戦争は拡大の一途をたどった。11月には大本営が設置され、幾度か和平の機があったがすべて見送られた。「敵の戦意を挫折し、戦局終結の動機を得る」目的で、中支方面軍が編制され、松井石根大将が軍司令官に任命される。

 目指すは中国の首都南京である。日本の軍部には、首都を陥とせば戦争は終る、という独特の戦争観があったからである。その攻略戦は12月1日から開始され、各部隊は南京一番乗りを期して先陣争いを展開した。そしてこの年の12月13日、大本営陸軍部は南京占領を大々的に発表した。

 戦後問題になった虐殺事件は、作戦が開始され上海から南京へ攻めのぼる過程ではじめられ、占領直後までつづいたといわれる。松井大将はその責任を問われ東京裁判で絞首刑。

 当時の日記に
「一時我将兵により小数の奪掠行為(主として家具等なり)、強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれば洵(まこと)に遺憾なり」
と大将は記す。

 松井が虐役事件のことを知ったのは、終戦後のことであったといわれているが……。

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昭和の15戦争史(18)

1937年(5)~(8)

 日中戦争が始まり、日本が戦時国家へと大きく踏み出した頃、スペインでは第二次世界大戦の前哨戦と見なされるような大きな内乱が起こっていた。そのスペインの内乱にヒトラーが介入し、1937年4月26日にドイツ軍がスペインのゲルニカを無差別爆撃する事件が発生している。『世界の歴史12』から、この事件に関する部分を転載しよう。

(5)7月26日
ゲルニカへの無差別爆撃


スペイン内乱

 1936年7月18日、スペイン領モロッコで国粋主義の軍人たちが暴動をおこし、フランコ将軍がその指揮をとるとともに、反乱はスペイン各地にひろがっていった。  それはこの年2月、人民戦線政府が成立したときから、軍部や右翼諸政党によって準備されていたものである。

 当時、人民戦線派の議席のうち、共産党はわずかを占めているにすぎなかったが、地主資本家、カトリック教会、軍部など右翼勢力の大義名分は、もっぱら「スペインを共産化から救う」というところにあった。フランコら反乱の指導者たちは、48時間以内にクーデターは成功すると信じていたし、共和国政府もはじめは事態を楽観していたようである。そして世界中のだれひとりとして、これが第二次世界大戦の前哨戦として注目をあつめるような内乱に発展しようとは、思ってもみなかった。

 元来、フランコら軍部の反乱は独伊の積極的な軍事援助のもとで計画されていた。第二のシーザーをもって任ずるムッソリーニは、地中海を「イタリアの海」にしたいと夢みたし、ヒトラーもスペインの重要鉱産資源はもちろんのこと、その戦略的地位にも注目していた。

 援助の内容は飛行機、戦車をふくむ大量の武器と弾薬、兵員、軍需物資などであるが、その総量についてはまだ明らかでない。37年3月イタリア軍兵士は6、7万にたっしたし、39年4月までのドイツの援助は金額にして約5億マルクといわれている。37年4月26日の有名なゲルニカの爆撃は、ドイツの援助の仕方をよくしめしていた。フランコ軍のマークをつけたドイツの新鋭戦闘爆撃機が、ゲルニカ――小さな町で古代バスク文化の中心地であり、軍事的にはまったく意味がなかった――を爆撃し、低空飛行の機銃掃射を、婦女子をふくむ非戦闘員にあびせたのである。ピカソをはじめ全世界の人びとはこの野蛮な行為を非難した。ヒトラーは実戦の場で空軍をきたえたり、戦車の装備をテストしたり、きたるべき戦争の予行演習とこころえていたのだ。

 このような独伊の公然たるフランコ援助にたいして、英米仏は不干渉政策をとった。フランコが反乱をおこしてから1週間めの7月25日、フランスのブルム人民戦線政府はスペインヘの武器輸出を禁止した。8月はじめ、イギリスのボールドウィン政府もこれに賛意を表明した。そして8月末、ブルムの提案で、不干渉に賛成する国による不干渉委員会が設置されることとなった。ここには当事国スペインと中立国スイスをのぞく全ヨーロッパの諸国が参加した。アメリカは参加しなかったが、英仏の不干渉政策を全面的に支持することは、35年いらいの「中立法」の存在によって明らかであった。

 独伊は不干渉委員会に参加していたにもかかわらず、公然とフランコを援助していたのだから、不干渉委員会は実際上はスペインの合法的政府をポイコットし、その武器購入を阻止するものとなっていた。そこで同じく不干渉委員会にはいっていたソ連は10月、スペイン政府への援助をおこなうことを明らかにした。

 また世界の民主勢力は「国際旅団」への支援を強めた。 これはスペイン内乱がはじまるとすぐに、スペイン在住の外人によって自然発生的に組織されたものであるが、反ファシズム運動の高まりのなかで世界の各地から義勇兵がはせ参じた。その正確な数は不明であり、37年2月には1万5千人(32の国籍)とか、延べ人数で約3万2千という数字もみられる。テールマン部隊(ドイツ人)、ガリバルディ部隊(イタリア人)パリ・コミューン部隊(フランス人)、リンカーン部隊(アメリカ人)などが生まれた。ソ連の作家エレンブルグは、ヘミングウェイ(1899~1961)があるとき、
「ぼくはあまり政治はわからないし、それに好きでない。けれどもファシズムがどんなものであるかは、ぼくも知っている。ここでは人びとは正義のために戦っているのだ」
といったことを伝えている。ヘミングウェイがやがてスペイン内乱を題材として、『誰がために鐘はなる』を書いたことは有名である。

 スペイン内乱で「国際旅団」に結集した義勇兵の国々を見ると、なるほど、スペイン内乱を第二次世界戦争の前哨戦とみなす視点が納得できる。

 日中戦争に戻ろう。

(6)7月29日
通州事件がもたらしたもの


「私が信じた支那人よ」

 日中戦争が始まって間もない1937年7月29日、河北省の通州で在留日本人・軍人142名が、冀東(きとう)政権の保安隊の襲撃をうけて惨殺された。通州事件である。日本の傀儡政権の冀東政府を、日本軍が誤って爆撃したために、これに怒った保安隊が中国軍と一緒になって攻撃してきたものである。

 その残虐事件の影響は大きかった。日本人の怒りの炎は燃えたぎったといっていい。のちの南京事件はこれに発すると説く論者もいる。

 東京では、9月に真山青「嗚呼通州城」が上演された。戦火を避けて通州へ逃れてきた女主人公が始めにいう、
「日本人のある人はあまりに支那を疑いすぎたのです。今日こんな事変(日中戦争)が起きたのは、支那を信じすぎた人の罪ではなく、疑いすぎた人たちの責任だと思います」。
だが、劇の後半で、通州の反乱が起きると、
「私を撃ったのは、私が信じた支那人よ」
と、激しくののしるようになる。

 これが当時の平均的な日本人の中国に対する心情であった。以後、中国への憎しみはもはや鎮静することなく、増大する。思えば不幸な事件であった。

(7)8月19日
北一輝の死刑


「天皇大権ノ発動ニヨリ」

 国家主義運動の思想的指導者である北一輝が、2・26事件の首謀者として、死刑台上に54歳の生命を終えたのは、この年の8月19日である。

 彼はこの反乱事件に直接に参加してはいなかった。しかし陸軍は、彼の理論が反乱軍兵士の思想的支柱となっていたとみなし、処刑した。行動ではなく、思想そのものを断罪したのである。

 代表作はわずか三冊。それだけにその思想の全ぼうはつかみにくい。最後の主著『日本改造法案大綱』には、
「天皇ハ全国民ト共ニ、国家改造ノ根基ヲ定メンガ為メニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ3年間憲法ヲ停止シ、両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲシク」
と書き、天皇を"決断する超越的な権力者"にまつりあげている。この天皇像が、現状打破をもとめる2・26の青年将校の心をとらえた。もっとも、生き残った青年将校たちは、わたくしの取材にたいし「北とはまったく関係がない」と証言したが。

 それと昭和史をひっかきまわした"統帥権干犯"は北の造語であった。司馬遼太郎のいうこの「魔法の杖」が歴史をあらぬほうへ動かしたのである。

 私は北一輝の思想を全く否定するが、しかし思想を断罪して死刑に処す方にも全く賛同しない。これはアベコベが強行採決した「共謀罪」に通底している問題である。

 次の問題は前回予告した近衛第1次内閣の悪政策再論である。

(8)8月24日
近衛第一次内閣の政策


「国民精神総動員」

 近衛文麿を首班とする第一次近衛内閣が成立したのは、1937年6月4日である。若き貴公子の近衛は政党・軍部・財界などですこぶる人気のあった人物で、その誕生をジャーナリズムも大歓迎した。

 近衛内閣は「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を三大目標にかかげ、新聞はさっそく「近衛挙国一致内閣」と太鼓をたたいた。しかし、国民からすれば、内閣が推進しようとする貯蓄増強も、勤労奉仕も廃品供出も、前途にきな臭いものを感じさせる政策としか思えなかった。

 案の定である。1ヵ月後には盧溝橋事件、つづく上海事変と、日中戦争が起こってぐんぐん拡大していった。日本はたちまちに戦時国家となる。

 内閣は国民の気持ちをひきしめるため、8月24日、「国民精神総動員実施要綱」を決定。全文50条からなるこの法律で、日本は本格的に戦時体制へと転換していった。

 いらい1945年の敗戦まで、日本人は「国民精神総動員」の美名のもとにあらゆる辛苦に耐えねばならなくなった。2度と精神まで総動員される時代が来ないようにと祈らざるをえない。

昭和の15戦争史(17)

1937年(1)~(4)

 日中戦争は1937年に勃発する。つまりこの年、日本は戦時国家となっていった。従ってこの年に起こった取り上げるべき事件も多い。今のところ17項目ある。2~3回に分けて掲載することになるだろう。

(1)1月21日
浜田国松の名演説


「キミ割腹せよ」

 壇上に立った政友会の浜田国松代議士は、なにをも恐れぬかのようにいった。
「独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ……」
 これにたいして陸相寺内寿一が反発した。
「軍を侮辱するがごとき言説があったのは遺憾である」
 ふたたび浜田は登壇し蛮声をはりあげた。
「武士は古来、名誉を重んずる。どこが軍を侮辱したか、事実をあげよ。あったら割腹してキミに謝する。なかったら、キミ割腹せよ」
 世にいうハラキリ問答である。1937年1月21日の衆議院本会議でのこと。

 2・26事件後の、政治的進出をあらわにする陸軍にたいする政党人の最後の抵抗ともいっていい事件で、結果は広田弘毅内閣の総辞職。

 この論争には知られざるエピソードがある。寺内陸相の弁がさえなかったのは、この野郎と威勢よく登壇したのはよいが、閣僚席に老眼鏡を忘れてきてしまったからという。かねて用意の激越なメモが読めなかったのである。

 それにしても、浜田は立派であった。

(2)2月17日
「死なう団」の集団割腹


「死のう死のう、死のう」

 「死のう死のう、死のう」と3回大声で叫ぶ。正座する。遺書を前におくと、もろ肌をぬいで、もってきた短刀で切腹自殺をする。

 この年の2月17日の正午すぎ、東京の国会議事堂前、警視庁前、内務省前、宮城前、外務次官邸前の5ヵ所で、5人の青年が時間を合わせたようにして腹に短刀を突き立てた。といっても、短刀には副木があてられていて、刃は2センチほどしかでていないから、致命傷にはならなかった。

 新聞はさっそくこの奇妙な事件を報じ「死なう団」と大きく書きたてた。正式には日蓮会殉教衆青年党といい、宗教改革を叫ぶ江川桜堂という青年を盟主とする。団員28人。ところが特高警察にマークされ全員が拷問されたとして激怒、真相を世に知らせるため"自殺にあらざる切腹"行動にでたものという。日蓮宗でいう「不惜身命」を、スローガンの「死なう」の一語にこめた。

 しかし、あまりの奇矯な行動は世間をびっくりさせただけで、その後にひどい弾圧をうけて姿を消した。

 まったくバカバカしい集団ではある。こうした事件に接する度に思うことがある。宗教にのめり込んだ人の考えをも思想と呼ぶ人たちがいるが、私にはこれも妄想としか考えられない。念のため「広辞苑」から「思想」の哲学的意味を取り出して見よう。
「(ア)判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。」
 つまり、妄想には「論理的反省」が皆無なのである。

 次は敗戦前の支配階級が依拠した妄想の典型。

(3)5月31日
『国体の本義』の発行


「天皇は現御神として……」

 1935年2月の天皇機関説問題のあおりを受けて、広田弘毅内閣は
「機関説は国体に反するものだ。では、国体とは何か。明らかにせよ」
と軍部や右翼団体に突き上げられ、さらに代った阿部信行内閣はその態度決定を迫られた。結果としてこの年の5月31日に『国体の本義』が世に出た。著作者の氏名はない。ただ文部省発行とだけある。以後はこの書が"国体明徴"の教科書となるのである。

 とにかく、のちのちの参考のために――。
「……皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、万世一系の天皇の大御心であり、八百万の神の念願であると共に、一切の国民の願である。……天皇は、外国の所謂元首・君主で王権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇国以来の大義に髄(したが)って、この国をしろしめし給うのであって……」

 日本帝国は以後まさしく「神国」となり、天皇は現人神であり、これを疑うことは許されなくなった。壮大なフィクションの時代が始まったのである。わたくしも中学生になつたとき、たっぷりと「神国」の民であることを仕込まれた。

(4)7月7日
日中戦争のはじまり


「盧溝橋の運命の一発」

 1937年7月7日、北京の西郊の盧溝橋付近で、夜間演習中の日本軍と中国軍に銃弾が撃ちこまれ衝突が起こった。この報がとどいたとき首相近衛文麿は、
「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」
と案じた。心ある人はだれもが、満洲事変のときの記憶を新たにしたのである。

 しかし「運命の一発」は日本軍の計画行動ではなかった。しかも、いったん停戦協定が成立し、日中両軍は兵をひいた。が、9日午前2時、ふたたび挑発的に銃弾が両軍に撃ちこまれて再衝突、戦火は一気に拡大して収拾がつかなくなる。これが日中戦争のはじまりである。

 田中隆吉元少将の戦後の手記に面白いことが記されている。同僚の茂川秀和少佐が語ったという。
「あの発砲をしたのは共産系の学生ですよ。あの晩、日中両軍がそれぞれ夜間演習をしているのを知った学生が、双方にむかって発砲し、日中両軍の衝突をひき起こさせたのです」
 ただし、田中証言は信用できぬものであるという。念のため。

 一体この奇っ怪な事変の真相はどうだったのだろうか。『探索4』に「盧溝橋事件のナゾの発砲者」という項がある。そこから上記の続編として主要部分を転載しておこう。


はたしてこの「運命の一発」も日本軍の策謀であったかどうか。それはほぼあり得ないこと、それが今日では定説となっている。いま公表されている史料ではなお"犯人"不明とするのが正当であろう。というのは、最初の一発で本格的な戦争がはしまったわけではなく、9日に一旦は現地の日中両軍間においてふたたび交戦しないように撤兵協定か結ばれようとしていた。ところが、10日午前2時、その停戦協定をぶち壊すために、日中双方の強硬派が爆竹などを用いて挑発行動をとったことは確かであり、結局は10日午後4時、またまた実弾が日中両軍に撃ち込まれ衝突、戦火拡大して収拾がつかなくなった。それが事実であるからである。

 この10日の実弾射撃の犯人がだれであるのか。不明ということは、それだけで陰謀のあることを想像させるが、とにかくそれ以前に、一触即発の危険きわまりない空気が日中両軍の間に存在していたのである。国家意識や民族感情というものは、もともと非合理で、どろどろした可燃性のものである。これに火がつくと外交上の解決は困難になる。そうなれば、政治の延長である戦争という手段が大手をふって罷り通るのである。部分的な戦闘もアッという間に本格的な戦争へと拡大していった。

 たしかに、2・26事件で皇道派が没落したあと、陸軍省や参謀本部のなかには、チャンスとしてこの際中国軍を徹底的に叩き、これを制圧した上で、本来の敵であるソ連との決戦に備えるべきだと主張する"中国一撃論"のグループが主流となっていた。その辺の事情は石原莞爾の回想応答録がきちんと説いてくれている。

 あに軍ばかりではなかった。ときの内閣を率いていたのが公卿の筆頭である近衛文麿である。近衛はつねづね陸軍の独断専行には不快感をもち、統制派が天下をとった陸軍に少なからず不満を抱いていた。ところが、残念なことに公卿出身の判断力の甘さと、性格的な弱さとをもっていたため、結局は陸軍の要望に押し切られ政策を容認し、追認していったのである。というよりも、実に近衛自身が戦争にたいして人一倍の張り切りようを見せるのである。つまり彼のうちに戦火に接することによって大いに勇み立つ何ものかがあったとみるほかはないが。

 11日の「華北派兵に関する声明」を発し、
「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」
と言い切った。

 以下、8月15日の「政府声明」、9月9日の「国民精神総動員についての内閣告諭」と矢継ぎ早に声明を出して、国民の尻を叩き叱咤激励しつづける。当時のはやり言葉「暴支膺懲」そのものに、言うことをきかない支那を断々乎としてこらしめる、との政府声明で煽りたて、国民を発奮させたのである。

 近衛第1次内閣の政策については次回に改めて取り上げる予定である。

(追記)
 私には「今はまさに戦前である」という大きな危惧があって、日本が犯した大きな過ちを再び犯さないために、「昭和の15戦争」という過去の大きな過ちを振り返へろうと思い立って、「昭和の15戦争史」を始めた。その後「今はまさに戦前である」という危惧を持っている人の言説にいくつか出会ったが、今日(11月15日)の東京新聞「本音のコラム」で斎藤美奈子さん(文芸評論家)が1937年と現在を比較して、同じ危惧を語っていた。紹介したくなった。(無断での転載ごめんなさい。)

コペル君の時代

 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は1937(昭和12)年の本である。旧制中学1年生のコペル君(本名は本田潤一)と仲間たちの物語にコペル君の叔父がつづった「おじさんのノート」を併録した本で、私がはじめて読んだのは小学5年生のころ。油揚げは豆腐を揚げたものであることはこの本で知った。
 その『君たちは…』が売れ行きを伸ばしているそうだ。8月にマガジンハウスから新装版と漫画版が刊行され(漫画版は50万部超!)、旧来の岩波文庫版も好調とか。
 10年ほど前、非正規雇用者の増大で、小林多喜二『蟹工船』が売れたのと同じような現象?
 軍国主義が跋扈(ばっこ)する時代。『君たちは…』が誕生した背景を、吉野源三郎は次のように記している。
〈この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化があることを、なんとかして伝えておかなければならない〉
 しかし、歴史はどう動いたか。37年は日中開戦の年。この年に13~14歳だったコペル君たちは、43年には19~20歳。学徒出陣の世代に当たる。彼らみたいな少年たちが6~8年後には戦争に動員されて命を落としたのである。
 と思うと穏やかではいられない。「偏狭な国粋主義と反動的な思想」に抗(あらが)う本の好調を喜ぶべきか嘆くべきか。37年と2017年の符合が気にかかる。

昭和の15戦争史(16)

1936年(11)~(13)

(11)8月7日
広田内閣の「国策ノ基準」


「南北併進」

 戦前の昭和史がどこから正常ならぬ方向へ動き出したのか、いろいろな見方があるが、その曲がり角の一つに1938年8月7日の広田弘毅内閣が決定した「国策ノ基準」がある、と私は思っている。

 この日、首相広田、外相有田八郎、蔵相馬場鍈一、陸相寺内寿一、海相永野修身(おさみ)の五相会議は、これからの日本の進路を定める運命的な国家政策をきめた。
「外交国防あいまって東亜大陸における地歩を確保するとともに、南方海洋に進出する」
 こうして、国家の大方針を「南北併進」にすること、つまり南進がはじめて決定された。

 同時に同日、「外交方針」をも変更した。ソ連を仮想敵国の第一とし、米英とは何とか親善を保持する。その上で
「速やかに北シナをして防共・親日の特殊地帯たらしめる」
と。
 他国の領土である中国北部を親日の"特殊地帯"にしよう、すなわち満洲国化しようという。なんと高圧的な政策であることか。

 日本はすっかり増上慢な国となっていたのである。

(12)10月19日
魯迅の死


「水に落ちた犬は打て」

 1998年の『文藝春秋』8月呼は「20世紀図書館」と題し、20世紀に書かれた本のベスト100冊を、政・官・財・文化人のアンケートによって選んでいる。それはまことに賑やかな特集であった。
 海外の部のベスト2が魯迅の『阿Q正伝』。なるほどと考え、北京の阜成門街にある魯迅の故居を、十数年前に訪ねたときのことを思い出したりした。

 『阿Q正伝』ほど20世紀前半の中国という国をあざやかに描いた作品はない。また、人はすべて被害者であり加害者でもあることを教え、そして愚直に生きることの尊さと悲しみを、この作品は伝えている。

 その魯迅が残した名言として「打落水狗」すなわち「水に落ちた犬は打て」というのがある。魯迅は当時の反革命派を指して「犬」といった。かれらのような悪人には情け無用という意でいったのである。革命と反革命のあらしの中で、身命を賭して生き抜いた魯迅の苦悩が、この言葉の背景にある。

 1936年10月19日、魯迅死す。享年48。それは、日中戦争がはじまる前年である。

 次に掲載する『共産「インターナショナル」に対する日独協定』(共産「インターナショナル」とは所謂「コミンテルン」のことである。)は『残日録』にはないが、『探索3』から転載する。

 この協定には37年11月にイタリアが参加して日独伊防共協定となる。そしてこれが40年9月の日独伊三国同盟へと引き継がれていった。

(13)11月27日
共産「インターナショナル」に対する日独協定



共産「インターナショナル」に対する日独協定
         (昭和十一年十一月二十七日公布)

大日本帝国政府及独逸国政府ハ、共産「インターナショナル」ノ目的カ其ノ執り得ル有ラユル手段二依ル既存国家ノ破壊及暴圧ニ在ルコトヲ認メ、共産「インターナショナル」ノ諸国ノ国内関係二対スル干渉ヲ看過スルコトハ其ノ国内ノ安寧及社会ノ福祉ヲ危殆(きたい =非常にあやふいこと)ナラシムルノミナラス世界平和全般ヲ脅スモノナルコトヲ確信シ、共産主義的破壊ニ対スル防衛ノ為協カセンコトヲ欲シ左ノ通り協定セリ
第一条
 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ活動二付相互二通報シ、必要ナル防衛措置二付協議シ且緊密ナル協力二依り右ノ措置ヲ達成スルコトヲ約ス
第二条
 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ破壊工作ニ依リテ国内ノ安寧ヲ脅サルル第三国ニ対シ本協定ノ趣旨ニ依ル防衛措置ヲ執り又ハ本協定ニ参加センコトヲ共同ニ勧誘スヘシ
第三条
 本協定ハ日本語及独逸語ノ本文ヲ以テ正文トス本協定ハ署名ノ日ヨリ実施セラルヘク且五年間効力ヲ有ス締約国ハ右期間満了前適当ノ時期ニ於テ爾後ニ於ケル両国協カノ態様ニ付了解ヲ遂クヘシ

右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ

 昭和十一年十一月二十五日即チ千九百三十六年十一月二十五日
「ベルリン」ニ於テ本書二通ヲ作成ス

大日本帝国特命全権大使
        子爵 武者小路公共 (印)
独逸国特命全権大使
ヨアヒム・フォン・リッペントロップ (印)

     (出典〔日本外交年表並主要文書〕)

 最後は「世界をおどろかせた西安(シーアン)事件」である。

(14)12月12日
西安事件が生んだもの


「真の敵は日本軍ではないか」

 張学良は1928年に父張作霖が爆殺されたことで、心底から日本軍を恨み、対共産軍との戦闘に闘志をもやそうとはしなかった。張の手ぬるさに業をにやした国民政府軍の蒋介石総統は、督戦すべく南京から西安へ飛んだ。
 しかし、張は「真の敵は日本軍ではないのでしょうか」と強硬に言い張った。蒋はそうした張に怒りを燃やした。反乱はその直後に起こったのである。

 1936年12月12日、蒋介石は張の部隊によって監禁されてしまう。張は、共産党軍を敵とする内戦の停止、武装抗日の推進を蒋に強く要求した。

 蒋介石監禁の知らせは共産党にいち早く届けられた。毛沢東は蒋の処刑を望んだが、スターリンや周恩来は反対し、日本と戦うためには国民政府軍と共産軍との協力が大事と、毛を説得した。こうして国共合作は成り、民族統一戦線が結成される。これを西安事件という。

 1937年から、日中関係は急激に悪化する。日中戦争への道は大きく開らかれた。この事件がまさに歴史の転回点となった。ところが日本の陸軍や外務省の中国通は事態の深刻さを認識せず、いずれまた分裂するさと楽観していたのである。

 翌年7月、日中戦争が勃発するが、中国では国共合作は分裂せず、9月に第二次国共合作が行なわれている。
昭和の15戦争史(15)

1936年(5)~(9)

(5)5月18日
軍部大臣現役制の復活

「陸軍は陸相を推薦できない」

 少し後の話ではあるが、ナチス・ドイツとの関係の緊密強化は承認できないと、米内光政内閣は頑強であった。手を焼いた陸軍は伝家の宝刀を抜いた。畑俊六陸相の辞任である。陸相なしで内閣は成立しない。米内は陸軍に後任の陸相の推薦を要望したが、返事はにべもなかった。「陸軍三長官協議の上、米内内閣に陸相を推薦出来ない」と。1940年夏、後任の陸相がないゆえに米内内閣は倒れた。ここから日本は戦争への道を急進しはじめる。

 もしこの軍部大臣現役制の制度がなければ、予備役または退役の軍人を強引に陸相にすえることで、総辞職は回避できたであろう。しかし、現実にはこの制度が大きく立ちはだかった。これ以後も、軍部は好まない内閣にたいして、陸相を出さないことで意のままに内閣を揺さぶり、倒壊させることができた。

 昔あったこの制度が一度消えたのに、昭和になって復活する。すなわち1938年5月18日、広田弘毅内閣のときである。このことだけでも、広田にはシビアな辛い点をつけざるを得ない。

 もちろん、背後に陸軍の圧力があったのであろうけれども。

 軍部大臣現役制は正しくは「軍部大臣現役武官制」と言うようだ。この制度の歴史を調べたら、次のようであった(ウィキペディアの『軍部大臣現役武官制』から抜粋転載する)。
 日本では、明治時代の初め、当時の軍部大臣に当たる兵部卿の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、1900年(明治33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。
 しかし、日露戦争後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、1913年(大正2年)の山本内閣の時には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。
 再び軍部の影響力が強まった1936年(昭和11年)に問題を起こした退役軍人の影響を排除するためという名目で軍部大臣現役武官制は復活し、1945年(昭和20年)の敗戦により軍部大臣が消滅するまで続いた。
 一方、日本以外の国、特に西欧諸国においては、第二次世界大戦以前においても軍部大臣に文官を任用する例も多く、政治の軍事に対する優位を原則とする文民統制の理念が確立している。

(6)6月1日
「国民歌謡」の放送


「名も知らぬ遠き島より」

 歌手渡辺はま子が歌った「忘れちゃいやよ」が、歌詞と卑猥な歌い方がけしからん、という理由で発売禁止。ほかにも、「うちの女房にゃヒゲがある」「ああそれなのに」と、非常時なのにたるんだ卑俗な歌であるぞ、と発売禁止。やたらに「禁止」「禁止」と軍部や内務省がそっくり返る時代であった。

 そこで健全な歌詞で、健全なメロディで、健全な歌い方で、国民の気持ちを浄化しなければならないと、NHKラジオが「国民歌謡」を放送しはじめたのが、この年の6月1日のことである。2・26事件後の戒厳令がいまだ解けず、人心がピリピリしていたころである。

 島崎藤村作詞「名も知らぬ遠き島より」の「椰子の実」、北原白秋作詞の「落葉松(からまつ)」、藤村がつくる「朝」、もうひとつ「ラララ 紅い花束車に積んで……」と歌いだす喜志邦三作詞、内田元作曲の「春の唄」など。小学校の唱歌の成績「丙」の私はサッパリであるが、こう挙げてくるとたちどころに歌いだせる人も多いことであろう。

 しかし間もなく日中戦争がはじまると、戦意高揚を主とするようになる。「とんとんとんからりと隣組」だけは私にも歌える。

(7)7月5日
2・26事件に判決下る


 「意図したのは革命である」

 1936年7月5日、非公開の陸軍軍法会議は、同年2月26日に起きたクーデター、2・26事件を指揮した青年将校に判決を下した。安藤輝三、栗原安秀、中橋基明ら17名に死刑、5名に無期禁固、2名に10年と4年の禁固が言い渡された。

 そして磯部浅一、村中孝次の二人以外の15名はつぎに記すように7月12日に死刑が執行される。遅れて8月19日、磯部、村中は北一輝、西田税(みつぎ)らとともに処刑された。処断はすばやく、思い切ったものであった。2・26事件は戦前の日本においてはこうして闇の中に消えた。

 裁判では被告全員が、北一輝の『日本改造法案大綱』との無関係を主張したが、一切聞きとどけられることなく終わった。そして「意図したのは、この書にもとづく革命である」と認定される。
 一、兵営を出た瞬間から反乱部隊なのであり、
 二、その行動を是認など軍中央は全くしていない。
 この二つの前提条件からはみ出すような証拠には完全にふたがされた。「暗黒裁判」といわれるゆえんが、そこにある。

(8)7月12日
2・26事件、青年将校銃殺


「栗原死すとも維新は死せず」

 1936年7月12日、2・26事件の青年将校たち15名の銃殺が、代々木の刑場で3回にわけて行われた。

 かれらは目隠しをされ、看守に両側から腕を支えられ、夏草を一歩一歩ふんで刑架についた。むしろの上に正座、十字架に両腕、頭部、胴を、さらし木綿でしばりつけられた。そして一杯の水が与えられた。つぎつぎになされる銃殺の音をまぎらすため、レンガ塀の向こうの練兵場では軽機関銃の空砲の音がしきりに鳴っていた。この日は曇り空であったという。

 青年将校のひとり、栗原安秀中尉の最後の言葉「天皇陛下万歳。霊魂永遠に存す。栗原死すとも維新は死せず」、当時29歳。

 とにかく陸軍の処断はすばやく、かつ思いきったものである。事件の真実を永久に隠蔽するかのように。処刑は裁判前に確定していたのである。

 斎藤茂吉は歌った。  「号外は死刑報ぜり しかれども 行くもろつびと ただにひそけし」

 だれもがものも言わない時代となっていた。
(9)7月18日
スペイン内戦の発端

「ノー・パサラン」

 1936年2月の総選挙で、スペインの中道および左翼政党は、右翼勢力に対抗するため連帯して人民戦線を形成して選挙を戦いぬき、大勝利をえた結果、共和国政府が成立する。

 しかし、7月18日、フランコ将軍に率いられたモロッコ駐屯のスペイン軍が、新政府に反旗をひるがえし、本土に向かって攻撃開始すると表明した。スペイン戦争の発端である。その夜、国際的にも知名の女性革命家イバルリが、全労働者にむけてラジオを通して呼びかけた。 「ひざを屈して生きるより、足で立って死のう!ノー・パサラン」
 このときから「ノー・パサラン」(ヤツらを通すな)が、抵抗運動の合言葉となる。

 戦争は2年半も続いたが、結局はフランコ軍の勝利となり、すべてが空しくなる。「ノー・パサラン」どころかマドリッド市中をフランコ軍が大手を振って闊歩した。

 この戦争では、世界中から若者たちが、だれに頼まれたわけでもないのに自発的に理想のために、命懸けで外国の戦場へ赴いていくという事実があった、ということぐらいは心に銘じておいてほしいものである。

 スペイン戦争に関連した論考「ベルリン五輪とスペイン戦争」が『探索3』にある。これを転載しよう。

(10)8月1日
ベルリン五輪とスペイン戦争


この日(8月1日)、全世界の眼がひとりの小男に注がれた。"二十世紀のシーザー"ヒトラー総統によって第11回オリンピックの幕が華やかに開かれたのである。

 入場式では、オーストリアはナチス・スタイルでヒトラーに挨拶し、観客席のドイツ群衆の喝采を浴びた。フランスはしきたりによる挨拶の礼を守ったために、「祖国フランスがヒトラー1人に挨拶しているようなムードであった」とフランスの新聞記者は地団太を踏んで口惜しがった。イギリス選手団はただ単に「頭、右!」の礼をしただけ。ドイツ群衆はブーブーいった。アメリカは先頭に立つ旗手が星条旗を下げないどころか、誇らしげに高々と上に掲げた。ドイツ群衆は足を踏み鳴らし無礼なヤンキー魂に激しい抗議送った。日本選手団は戦闘帽姿でおとなしく手を横に出して、ヒトラーに敬意を捧げた。

 敬意と猜疑と敵意とによる冷たい戦争はもうはじまっている。ナチス・オリンピックは選手自身の栄光より、国家の名誉が先に立って争われ、競技は国家の威信をかけての戦いとなった。結果はメダルの数の比較によって、ドイツのスポーツ記者はこう書いた。
(1)ナチス・ドイツはアメリカよりも活躍せり。
(2)イタリアはフランスより優れていた。
(3)日本はイギリスを圧倒せり。
 つまりドイツの新聞は、国家主義・全体主義こそが人間のエネルギーを効果的に発揮させ、自由主義・民主主義を負かす方法であることを証明した、と強調したかったのである。

 こうして「民族の祭典」「美の祭典」は終わる。と、祭りのあとには戦いが来た。6月ごろからくすぶっていたスペインの内乱が火を噴き、みるみると内戦へと拡大していった。フランコ将軍の率いる国家主義者側(右翼)と人民戦線側(左翼)の抗争が銃火を交え、8月には本格的な戦争へと発展してしまった。同じスペイン人同士の凄惨な殺し合いである。

 各国がこの戦いをスペイン人だけの手に委ねておくはずがなかった。ヒトラーはただちにフランコ側に精鋭ドイツ空軍や戦車部隊や砲兵部隊を送り込んだ。イタリアのムッソリーニもそれにつづいた。ソビエトとフランスが人民戦線側に回り、機械化部隊と空軍を送りこんだ。アメリカとイギリスは人民戦線側に同情を示しながら、不介入・中立の立場をとった。結果として、スペインの内戦は世界の列強がよその国土で行う代理戦争にほかならなくなったのである。

 ドイツもソ連も、やがて来るであろう第二次世界大戦の実地訓練をスペインの国土で行い、スペイン人の血によって得がたい教訓を身につけてさっさと戦場から去っていった。有益なリハーサルのあとに残されたものは、癒えない深い傷を負ったスペインの国土と民衆だけである。このスペイン戦争で奪われた人命はいまにおよんでも確定していない。両軍あわせて約60万が死に、さらに戦い終わった後、勝ったフランコ将軍側によって、人民戦線側10万人が処刑されたという。

 オリンピック憲章は<オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない〉と規定しているが、赤字部分はナチス・オリンピックだけの問題ではない。オリンピック憲章の規定は現在は空文化している。これも私が東京オリンピックに反対している理由の一つである。
広目天の怒り
広目天

怒りは静に深く沈潜させ
より遠くまで射抜く眼差しとなせ。
その眼差しをもって
自由と民主を食い荒らす邪鬼どもの
あさましい心底を射抜き
踏みしだくまで反逆せよ
邪鬼