2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(32)

国家テロリズム(9)

 ブッシュの狂気の一般教書演説をアメリカの議会や日本のマスゴミはどのように受け止めたのだろうか。

 狂気をもつ者にとっての昼は、とフーコーは設問し、
「その外見のもっとも表面的な夜にほかならないのである」
と指摘している。「夜こそ存在のもっとも奥深い昼だった」といった哲学ないし文学ではなくして、単純に昼を夜ととりちがえる悩乱。権力者のこうした病理により、歴史はしばしば大きな混乱を余儀なくされてきたと私は思う。9・11以降のブッシュのような言動については、ジャン・ボードリアール(Jean Baudrillard、1929年7月27日 - 2007年3月6日、フランスの哲学者、思想家)
「悪を追い払うという対抗恐怖症的な、あらゆる錯乱」(2001年11月3日のルモンド紙に寄せた論考。『環』2002年冬期号から)
があると説明している。訳者の塚原史・早大教授によれば、ボードリアールのいう「対抗恐怖症」とは「対象にありもしない恐怖を感じて過度に攻撃的になる病的状態」だそうである。さて、そのような狂気に彩られた一般教書演説に対し、米上下両院合同会議はどのような反応を示しただろうか。信じがたいことには、凄まじいばかりのスタンディング・オベーションだったのだ。狂気は勝利したといっていい。

 日本のマスメディアには狂気が存在しないのだろうかと、ときおり私は考える。ブッシュの一般教書演説を総じて事理相通ずるまっとうなもののように扱ったテレビや新聞報道は狂気じみていないか。ありていにいえば、つよい関心は示さなかったのだ。ということは、そこに狂気はなかった、ともひとまず診断はできる。だが、パスカル流に解析すると、「狂気じみていないことも、やはり狂気じみている」のである。ブッシュ演説のこれはどの狂気に対し、べっして反発もみせないこと自体に静かな狂気が宿っていると私は思う。これはとりも直さず、ブッシュの悩乱の世界観が日常的に投象されて、日本の戦争構造が日々穏やかに立ち上がっていることを意味するだろう。風景は刻々じつに静謐(せいひつ)に穏当に狂いつつある。あたかもこれ以上の正常はないかのように。

 ボードリアールは前述の論考で
「自由という比較的新しい思想はすでに風俗や意識から消滅しつつあり、リベラルなグローバリゼーションが自由とはまったく逆の形態をとって実現されようとしている。警察の支配と全面的管理のグローバリゼーション、セキュリティという名の恐怖政治だ。管理からの解放〔を求める運動〕は、原理主義社会にも匹敵する最大限の束縛と制約のうちに終わりを告げたのである」
と述べた。われわれの狂った正気と根拠のない理性と日々の惰性がそうさせたのだ。

 ここでちょっと横道へ。

 共謀罪法が姑息な方法で15日に強行採決された。共謀罪法は戦前戦中に猛威を振るった「治安維持法」になぞらえて多くの人たちが反対の歴史的根拠を挙げて反対を表明した。しかし、共謀罪を理由に冤罪で理不尽に国家によって殺された人が100年前にもいた。共謀罪が強行採決された翌日(16日)の東京新聞夕刊のコラム「大波小波」に「共謀罪が殺すもの」と題する記事が(筆者名「生きている愚者」)掲載された。それを転載しよう。

 百年ほど前、明治天皇暗殺共謀のかどで十二人が死刑になった大逆事件。首謀者とされた幸徳秋水は無関係で、彼と面識があっただけで謀議に加わったとみなされた者さえあった。巻き込まれ処刑された紀州の医師、大石誠之助の死に際して詠まれた詩が二編ある。

 一つは同郷の佐藤春夫の「愚者の死」。一節で
「死を賭して遊戯を思ひ、/民俗の歴史を知らず、/日本人ならざる者/愚なる者は殺されたり。」
とくさす。
 もう一編は、与謝野鉄幹の「誠之助の死」。
「日本人で無かった誠之助、/(略)/神様を最初に無視した誠之助、/大逆無道の誠之助。/ほんにまあ、皆さん、いい気味な、/その誠之助は死にました。/誠之助と誠之助の一味が死んだので、/忠良な日本人は之から気楽に寝られます。/おめでたう。」
とさらに手厳しい。

 どちらも処刑から時を置かずに発表された。誠之助とは旧知の仲であり、弁護士探しに奔走した鉄幹の思いがどこにあったのかは言うまでもないが、このような表現しか許されなかった時代を思う。誠之助の側に立てば、自分も共謀者と見なされかねなかったのだ。

 さて「共謀罪」法の強行成立。これで「愚者の死」は増えるだろう。「おめでたう」 (生きてゐる愚者)


 「生きている愚者」さんは佐藤春夫や与謝野鉄幹の愚者ぶり丸出しの呆れるほかない権力迎合の詩を「このような表現しか許されなかった時代」と、擁護するようなことをいっているが、これは日本のいわゆる文化人の心性の深々と根を張っている天皇教のなせる技である。いろいろな記事で書いてきたが、つい最近も『永遠の不服従のために(29):国家テロリズム(6)』で触れたように、叙勲・褒章受章にやにさがる政治家・作家・大学教授や嬉々として園遊会に参加する者たちの心性と繋がっている。

 ところで、この東京新聞の「大波小波」の記事を取り上げて佐高信さんが『週間金曜日』(6月23日刊)のコラム「風速計」で「屈しなかった人」と題して、佐藤春夫や与謝野鉄幹の対極に毅然として立っていた徳冨蘆花を紹介している。佐藤春夫・与謝野鉄幹の詩を引用して次のように続けている。

 公明党のように権力に屈従する者たちの低レベルな詩だが、現代で言えば、櫻井よしこや曽野綾子に当たるのだろうか。

 しかし、春夫や鉄幹と違って、明治政府のお先棒をかつがなかった人もいる。作家の徳冨蘆花である。

 1911年2月1日、幸徳秋水らの刑死がまだ世を震撼させていた中で、旧制一高に招かれた蘆花は「謀叛論」と題して熱弁をふるった。招いたのは弁論部の河上丈太郎(のちの日本社会党委員長)。講演を聴いた者の中には矢内原忠雄や南原繁(共にのちの東大総長)がいた。

 最初に「僕は臆病で、血を流すのが嫌い」と断りながら、蘆花は
「彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献げて人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとも、その志は憐むべきではないか」
と続けて、さらに踏み込む。

 彼らは富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した社会主義者だが、社会主義が何か恐いか? 世界のどこにでもあるではないか。

 自らも捕まることを覚悟しなければできないような講演は、次の結びで最高潮に達する。

「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見倣されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」(徳冨蘆花『謀叛論』岩波文庫)。

 私は、この徳富蘆花の論調は辺見庸さんの論調と相通じるところがある、と思ったので、ここで紹介することにした。
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永遠の不服従のために(31)

国家テロリズム(8)

 「悪がいけしゃあしゃあと善面をし」ているもっとも適切な例を挙げるとすれば、そうあのブッシュである。ここでもブッシュが再登場することになる。辺見さんはブッシュの言動をめぐってさらに突っ込んだ分析をしている。

 さて、気のふさぐことではあるけれども、この戦時下、フットボールをテレビ観戦中にプレッツェル(ドイツ発祥の焼き菓子)というスナック菓子を喉につまらせて失神したという、情けない男の話からはじめなければならない。男の名前はブッシュ、ちなみに中国語読みだと、「プーシー」となる。これを(おそらく故意にだろう)プッシー(女性器の別称だそうだ)と聞きちがえて、北京での記者会見中に吹きだしただけではない、「プッシー大統領だとよ、いいねえ」と、結構な声量でひとりごちた優秀な米国人記者を私は知っている。息子よりプラス3%ほど利口で、二倍も陽気な父ブッシュの時代であった。いまよりずいぶん冗談がいえたのだ。菓子で死にぞこなった息子ブッシュが先月末行った一般教書演説は、しかしながら、冗談にも洒落にもならない。

 この一般教書に表題をつけるとしたら、「戦争」以外にはありえないだろうが、いうまでもなく、ル・クレジオの『戦争』とまったくことなり、ブッシュのそれには芸術性のひとかけらもありはしない。あるのは、もっぱら被害妄想と殺意のみ。ただ、アフガニスタンヘの不法な報復攻撃が国際社会になし崩し的に受け容れられ、大きな作戦が一段落したからでもあろう、この一般教書においても悪の大いなる前進がみられ、悪が堂々と"善"の貌へと反転していることがわかる。もっとも注目しなければならないのは、ブッシュが善面をして、北朝鮮、イラク、イランの「悪の枢軸」なるフィクションをでっちあげ、真顔でそれらの国々に恫喝をかけ、場合によっては戦争を発動しかねないような言辞を弄(ろう)していることである。いまの世界の深刻な戦争構造は、じつのところ、それら3ヵ国によって築かれたのではなく、米政権が「悪の枢軸」という虚構をつくり、その虚構にもとづき、約3800億ドルという冷戦終結後最大の国防予算を現実に通したことにより、一気に立ち上がったのだ。

 これは大犯罪である。だが、世界はこの犯罪を立証できはしない。すでに米国のアフガンでの戦争犯罪を許してしまったからである。悪が"善"に反転しただけではなく、狂気が"正気"に成り代わった。そうでもなければ、「枢軸」(AXIS)などという言葉をもちだすのが憚(はばか)られたはずだ。AXIS(アクスィス)とは、第二次大戦中に連合国に敵対した日本、ドイツ、イタリアなどの協調関係を指したのであり、米国にとってみれば、いつでも躊躇なく撃てる狂気じみた敵を意味する。つまり、ブッシュはかつての連合国対日独伊の仮借ない関係を、現在の反テロ同盟対北朝鮮・イラク・イランの関係に強引に重ねることにより、世界構造を戦争化したのだ。

 「やつは敵である。敵を殺せ」――いかなる政治指導者もそれ以上卓抜なことをいいえない、と見きわめたのが埴谷雄高の虚無思想であった。皮肉にも、ブッシュは卓抜でもあるということだ。よくよく心しよう。愚昧が"卓抜"に、悪が"善"に、狂気が"正気"に、そしてなにより、戦争が"平和"に反転して、われわれの生活を侵しつつある。

 自らの愚昧を"卓抜"と、悪を"善"と、狂気を"正気"と、そしてなにより、戦争を"平和"と思い違いして、われわれの生活を侵しつつあった史上最悪な「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」首相がようやく終わりを迎えることになりそうだ。もしそうなれば、近来まれに見るよろこばしいニュースである。ところが、東京新聞が一面のトップで次のようなニュースを報じていた。この頭の芯までいかれてしまった首相が神戸市内で講演し、「自民改憲案 秋国会に提出」とか、加計問題をはぐらかすためだろう、「獣医学部を全国に」とか喚いたという。まだ、やる気満々なのだ。この講演は日本会議傘下の神戸「正論」懇話会の設立記念特別講演会で行なわれた。たぶん、このバカげた演説も、聴衆は全員お仲間だから、大きな拍手喝采を受けたことだろう。

 さて、辺見さんはブッシュに対して、「ときにぞっとするような狂気を感じる」と、次のようにブッシュの狂気を分析している。私はこの論説をも「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」首相を重ねて読んでいる。

 ミシェル・フーコーが自著『狂気の歴史』(田村俶訳)の序言の冒頭で引用しているパスカルの言葉には多層の含蓄がある。
「人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう」。
 狂気と非狂気はもともと分割可能な二つの異なった人間表現ではないということである。疑りもなくみずからを理性の側に置き、軽々しく他者の狂気を語ってはならない、ということでもあろう。それを十分承知でいうのだが、私はジョージ・W・ブッシュと彼の政権に対し、ときにぞっとするような狂気を感じるのだ。それは、彼がプレッツェルを喉に詰まらせて気絶するという奇矯な身体行動におよんだからではない。憖(なま)じいに息吹き返して、その後、上下両院合同会議で行った一般教書演説の内容に総毛立ったのである。つまり、10歳児のそれよりも狭隘(きょうあい)でねじくれた世界認識に鳥肌が立ったのだ。

 その最たるものが「悪の枢軸」というアナクロ的いいがかりだが、もの狂おしい錯誤はそれにとどまらない。以下に三例のみあげてみる。


 わずか4ヵ月、われわれは数千人のテロリストを捕まえ、アフガニスタンのテロリスト・キャンプを破壊した。人々を飢えから救い、一つの国を残虐な圧制から解放した。

 たとえ7000マイルも離れ、海と大陸で隔てられ、山の頂や洞窟に潜もうとも、お前たち(テロリストのこと)はこの国の正義から逃れることはできない。われわれの大義は正しく、今後ともそうである。

 この戦争(対テロ戦争)の戦費は膨大である。毎月10億ドル以上を費やしてきた。アフガンで証明されたのは、高価な精密兵器は敵を負かし、罪のない人々の命を助けるということだ。こうした兵器がもっと必要だ。

 文例1は、ブッシュなりの勝利宣言である。日本の中都市の財政規模にもおよばない年間予算しかなかった超貧乏国の飢えた大地を襲撃し、タリバンだけではない、食えないから隊列に加わっただけの失業者、農民とまったくの非戦闘員多数を空爆によりごく気楽に虐殺して、対テロ戦争に「勝利しつつある」というのだ。ほとんど無抵抗の者たちを圧倒的軍事力でむごたらしく殺すことを「勝利」といい、途方もない戦争犯罪を「解放」という。一万歩譲歩しても、しかし、事実はちがう。すなわち、アフガンの人々は飢えから救われておらず、「解放」もされていない。

 文例2は、どうやら格調が高い文とでも思ったか、ブッシュが躰を揺すり、自己陶酔気味に一段と声を張り上げたくだりである。これが、3800億ドルという驚愕の国防予算をもつ戦争超大国の最高指導者の言葉なのである。格調どころではない、復讐を誓うそこいらの組織暴力団の偏執と大差ないではないか。ここには高い政治理念など微塵もない。国家という暴力装置とそれを担う暗い情念を、なにはばからず発現しただけのこと。文章表現から察せられる知的レベルとしては、ビンラディンにはるかにおよばず、下賤なマフィアとそう変わるところがない。

 文例3は、米国がアフガンで生身の人々を被験者とし多彩な兵器の実験をやりましたと告白したのに等しい。それらはトマホーク、バンカーバスター、デイジーカッター、クラスター爆弾、そして秘蜜裏に実戦使用された新型爆弾などを指している。ただ、高価な精密兵器がもっと必要だということは、新たな戦術核開発や米本上ミサイル防衛(NMD)をも含意した発言とみるべきであろう。にしても、高価な精密兵器こそが人を救うとは、哲学の貧困を通り越し、哲学絶無という満目荒涼たる地平を見せつけられているようなものではないか。

永遠の不服従のために(30)

国家テロリズム(7)

 『不服従』の第3章の読み込みは前回で終わった。第5章の表題は「戦争」であり、小文字のローマ数字が付された8節で成り立っている。辺見さんはアフガニスタンに行っている。そこで体験したことを盛り込んが記述もあり、全体として第3章を補完するような論考となっている。「国家テロリズム」の続きとして第5章をむことにする。枕は

過ぎてゆく日ごとに、悪の前進が見てとれる。(ル・クレジオ『戦争』から 豊崎光一訳)

である。

 私はル・クレジオという作家を知らなかった。2008年にノーベル文学賞を受賞しているフランスの小説家だった。

 さて、「国家テロリズム5」の引用文の最後で、辺見さんは
「問題は、むろん、NHKだけではない。この国の全域を、反動の悪気流が覆っている。日常のなにげない風景の襞(ひだ)に、戦争の諸相が潜んでいる。人々のさりげないものいいに、戦争の文脈が隠れている。さしあたり、それらを探し、それらを撃つことだ。でないと、気づかずに加担させられ、悪しき波動に無意識に呑まれてしまう。もう手遅れの感もあるけれど。」
と書いていた。この全世界を覆い始めた悪気流の正体をさらに詳しく分析することから第5章を始めている。では本文を読んでいこう。

 まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。まず善なるものの座に悪が居座り、次に悪がいけしゃあしゃあと善面(ぜんづら)をし、さらには善面の悪が本来善なるものを悪だといいつのり、この勢いに負けて、善でありえたものがどこまでも退化し、いまや、それは蕩(とろ)けくずれた寒天のような無意味のみを残してほぼ消滅するにいたったのだ。善なるものがなくなったからには、悪はもはや悪たりえない。単体としての悪は、単体としての善が存在不可能なように、それ自体の意味をなくし、同時に、それ自身の闇を失う。善なるものの反照のない悪は、闇でさえないし、むろん、光でもない。世界は善でもなければ悪でもない、やけに白々した無明長夜(むみょうじょうや)を迎えている。もう何人(なんぴと)も悪を証明できはしない。できるのは、悪の反転としての"望"をひたすら主張することのみである。悪の、これこそが完成直前の姿なのではなかろうか。悪の、それこそが計画的変態過程なのではないか。いま、2002年2月、戦争は、ともあれかくもあれ、つとにはじまっている。

 私は「無明長夜」という四字熟語に初めて出会った。手元の『四時熟語の読本』(小学館)の解説を転載しよう。
<意味>
仏教で、衆生が根本的な無知のために煩悩に迷い、生死流転していることを長い夜にたとえた語。

<参考>
「無明」とは存在の根底にある根本的な無知をいい、迷いの中にあって悟りを得ない状態、煩悩にとらわれている状態をさす。

<出典>
1.
三帖和讃ー正像末
「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな」(13世紀中)
2.
太平記ー一五・三井寺合戦「無明長夜の夢を驚かして、慈尊出世の暁を待」(14世紀後)

 次々に「?」が出てくる。<出典>1.の中の「灯炬」。意味はそれぞれの漢字の意味から推定できるが、読みは「てんきょ」か「てんこ」のどっちかだが、手元の国語辞書・漢和辞典を調べたがどれにもこの熟語はない。現在では使われないに言葉なのだろう。ネット検索してみたら、上の<出典>1.と同じ文章が出てきた。読みは「とうこ」で、意味は「大いなる光明」と解説されていた。

 今回の辺見さんの文章には私にとっては難しい言葉が多く使われている。分からないのは私だけかもしれないが、今後は短く解説できる場合はその言葉の後ろに小文字で追記することにしよう。

 本文の続きを読もう。

 これから、そこここにある戦争について語ろうと思う。まず、私は戦争の概念をかぎりなく広げなければならない。なんとならば、
「政治が生活の集約であり、戦争が政治の集約であるかぎり、戦争にはまた生活にあるすべてのものがある」(埴谷雄高『幻視のなかの政治』)
からだ。このアフォリズムは、「生活には戦争にあるすべてのものがある」とも読みかえができる仕掛けになっていることに注意すべきである。死屍累々(ししるいるい)たる戦場だけではない、欠伸(あくび)がでるほど退屈な生活のなかにも、じつは、戦争がある。職場の男子トイレの床の、胃腸薬くさい小便染みのあたりに、戦争は知らん顔して浮遊している。月夜の乾ドック(カンドック(dry dock)通常は単に「ドック」と呼ばれているものと同じ。つまり、船舶の製造、修理などに際して用いられる設備のこと)の気だるい油のにおいにくるまれて戦争が気障(きざ)に鼻歌をうたっている。満員の通勤電車の熱気に戦争がじとじとと汗ばんでいる。職場のくずかごの芥のかげに戦争はかさこそと忍び隠れている。腐った牡蠣(かき)のような眼をした男たちが、会議の途中でもらす含み笑いを戦争が喜んで聞いている。私の不眠症とそれにともなう譫妄(せんもう)、また、ひどい譫妄にともなう人間関係の失調を戦争がそしり笑っている。そうした勘でも懸命にはたらかせないかぎり、戦争の潜む日常の、悪でも善でもない、だからこそ根源的に悪であるところの貌を発見することなど金輪際できはしないであろう。私は、それゆえ、変哲もない生活のなかに戦争のもつすべてのものがあるという前提で、この原稿を書いていくつもりだ。

 本稿では、さらに、「戦争は頭の裏側にいる、今日、戦争は頭の裏側に口を開き、囁きかける」とル・クレジオが記した(1970年)ような心象風景としての戦争も視野にふくまなければならない。「戦争が始まった」と書き起こし、「戦争は途に就いており、1万年も、人間たちの歴史より長く続こうとしている」と述べて、世界を、いわば全面的"戦争体"として、あくまでも詩的に開示してみせたル・クレジオの、いまから30年以上も前の直観は、かえりみれば、ずいぶん正しかったのだ。人の内面にだって戦争がある。無意識の戦争願望だってあるかもしれない。われわれの内面の戦争は、内面の国家、内面の暴力同様に意識されなくてはならない。それらのことどもに心を用いて、稿を進めようと思う。

永遠の不服従のために(29)

国家テロリズム(6)

今回が第3章の最終節である。表題は「堕落」で、前節までに探ってきた「反動の悪気流」に無意識に加担している"元凶"たちのワースト3の吟味が行なわれている。そして、枕には次のような面白い歌の一節が引用されている。
とうとうたらり/とうたらり/あんまりがっつく/にんげんは/とうとうたらり/とうたらり/あたまーわって/塩つけて/えーじゃー川へ/ぶちながせ/とうとうたらり/とうたらり……(長谷川四郎『とうとうたらりの歌』から)

長谷川四郎(1909-1987)さんの『とうとうたらりの歌』を全文読みたいと思い、ネット検索してみたら、陽羅義光という方の論文『絶対文感【忘却篇】 「第一章 長谷川四郎」』に全文が紹介されていた。転載しておこう。

とうとうたらり
とうたらり
あんまりがっつく
にんげんは
とうとうたらり
とうたらり
あたまーわって
塩つけて
えーじゃー川へ
ぶちながせ
とうとうたらり
とうたらり
えーやるまいぞ
やるまいぞ 西の海へサラリ
サラリ


 では、本文に入ろう。

 今日のような体たらくをもたらしたものは、ぜんたい、なんなのかという、気のふさぐ議論が、この期におよんで、社会のかたすみでひっそりとなされている。体たらくとは、国家主義化、全体主義化、ネオリベラリズム、戦時体制化、憲法解体、民主主義の安楽死、抵抗勢力の去勢化……といった、ファシスト・コイズミやイシハラ、ナカソネたちにとってはまことに喜ばしい事態のことである。議論のなかで挙げられる"元凶"は、当然のことながら、論者によって異なるのだが、ワースト3くらいまでは、おおかた見方が一致する。そぞろ虚しいけれども、列記し、少しく吟味してみる。

 まず、マスコミが悪い。そりゃそうだ。でも、マスコミがよかったためしなんてこれまであっただろうか。ごく少数のまつたく例外的で個人的で偉大な抵抗を別にすれば、マスメディアが総体として戦争推進勢力でなかったためしなんぞ、歴史的にありはしない。いまの翼賛報道は、むしろ、マスメディアの法則的帰結といってもいいのではないか。

 マスメディアを、ときどきによくなったり悪くなったりする、一個の人格のように考えるのは、批判者のナイーブな錯覚というものである。あれは、同種の動物個体が多数集まって共通の躰(からだ)を構成する、つまり、全体としては無人格な、海綿とか腐った珊瑚とかの、群体としてとらえるのが、より客観的なのだ。一個体としてはまっとうな者が少なからずいるのに、群体化するから、見事なまでに阿呆に変じる。大組織ほどそうである。入社、入局後たかだか数年のお兄さん、お姉さんまでが、まるで臈(ろう)たけた役員かなにかのように、「うちは……」などと自称し、(翼賛報道のことではなく)もっぱら部数や視聴率や受信料のことを、経営者よろしく案じたりするのが、不遜をとおりこし、どれほど滑稽至極であるか、オツムまで群体化しているがゆえにわからないのだ。したがって、マクロのメディア批判など、現場で働く者たちには屁の河童である。やるなら、個別の記事、番組、その責任者を(十分な理由と根拠をもって、かつ躰をはって)指弾すべきだ。それは有効である。権力と"権威"に庇護されている者ほど、差しの喧嘩には弱いからだ。

 第二に、若者元凶説。これはまったくお話しにならない。彼らには、「反動」や「変節」や「堕落」の意味どころか、おおよその語感さえアフリカのアムハラ語みたいに理解できないのだから、責めるのは酷というものだ。問題は、ジジイとオヤジ。かつてはそれらの言葉を他者に浴びせかけていたくせに、その後宗旨替えし、みんなで反動を支え、みんなで変節し、みんなで堕落し、しかも、それを組織や時代のせいにして、のうのうと生き延びている年寄り連中をこそ、構うことはない、容赦なく撃つべきである。もっとも、その一部はリストラでつとに痛めつけられているのだが。

 第三に、1980年代総体を元凶とする説、ポストモダン主犯説、75年「スト権スト敗北」起原説、総評解散・連合結成主因説、村山内閣の(安保・自衛隊問題にかんする)裏切り起因説――などなど。ここまでくると犯人捜しも焦点がぼやけてくるのだが、これらはみな地つづきの反動要因と見ておいたほうがよさそうだ。最近のジヤツク・デリダふうに、お上品に、そして無責任にいうならば、「だれもが無実ではない」のである。

 だが、答えにならない答えならば、ある。たとえば、憲法がずたずたに引き裂かれ、自衛隊がはじめて参戦し、有事法制整備が本格化し、アフガンでは避難民の子どもらが飢えに泣いている秋のよき日、久保亘氏(元社会党書記長)と田英夫氏(元社民党国際委員長)が、ああ、めでたくも、勲一等旭日大綬章を受章した。ご同慶のいたりではある。同時に、へっ、なーんだ、そうだっだの、である。この <なーんだ、そうだっだの> のたぐいが、戦後ずっと、とりわけ、この20年ほど、うちつづいてきたように私には思える。戦後民主主義とは、なーんだ、この程度だったのか、ということ。民主主義の堤防が決壊し、いま、反動の濁流がこの国を覆っているのだが、もともと「堤防」をもって自任していた先生たちが <なーんだ、そうだっだの> 的人間なのである。決壊は、端(はな)から推して知るべしであったのだ。

 試みに、秋の叙勲の受章者リストを見るといい。改憲派の政府・法曹関係者ばかりではない、かつての護憲派の元学長さん、現役護憲派の名誉教授様、芥川賞作家まで名前をつらね、あたら晩節を汚し、じゃなかった、輝かしきものとしているのである。これにかつての褒章受章者を加えれば、反権力を標榜していた映画監督や著名俳優、反戦歌を詠んだことのある歌人もいたりして、意外や意外どころのさわぎではない。革新政治家、かつては"社会の木鐸(ぼくたく)"を気どっていたはずのマスコミ経営者、万人平等を教えていたはずの学者ら、その他諸々の、ひとかどの人物たちが、ま、いっとき色に耽(ふけ)るのもよろしかろう、お金をもうけるのも結構でしょう、名前を売るのもどうぞどうぞではあるのだけれども、強欲人生の最後の仕上げと夢なるものが、勲章・褒章と、おそれ多くもかしこくも、宮中にての親授式だと知ってしまえば、「なーんだ、そうだっだの」というほかはない。

 受賞と反権力は矛盾しないだろうか。受賞と護憲は矛盾しないだろうか。私は、ごく単純に、矛盾すると思う。しかも、権威への欲が矛盾をなぎ倒し、国家主義を直接に手助けして、今日的反動の土壌をこしらえている。そのことに恥じ入りもしない受章者、彼らを嗤(わら)わず軽蔑もしない文化、受章の大祝宴を正気で開くアカデミズム、言祝ぐジャーナリズム――民主主義の安楽死も憲法破壊も必然というべきであろう。という話を、某日、学園祭でやったら、学生に「あなたも芥川賞を返上したら」と皮肉られた。筋がちがうようでいて、しかし、一理はある。

 私も「ジジイとオヤジ」の一人だが、幸いこれまで「宗旨替え」をしていない。もう相当の歳なので、一生「宗旨替え」しないで終われそうだ。「目出度し目出度し」と言っておこう。

 ところで、最後に挙げられた叙勲・褒章受章者(これに私は「園遊会も加えている)に対しては私も大きな違和感を持っていた。この事に関連して今までに次のような記事を書いる。紹介しておこう。

『米長の憂鬱』(園遊会のことを取り上げた。)
『戦後教育の民主化(2) 教育勅語の廃止』(田中耕太郎の数々の受勲を取り上げた。)

 最後に、共謀罪法強行採決の翌日(6月16日)、加藤哲郎さん(一橋大学名誉教授)が『いま、ファシズム前夜の日本!』という記事を書いているが、それを「ちきゅう座」の紹介で知った。『世界的に「ファシズムと戦争の時代」に向かっている』とのべていて、これまで連載してきた「国家テロリズム」と共通する認識を基調とする論文なので紹介しておこう。
永遠の不服従のために(28 )

国家テロリズム(5)

 2001年当時の世界状況を、辺見さんは「世界同時反動」と断じている。その結果、「戦時体制」が着々と整いつつある、と危惧している。その16年後の現在、武器輸出三原則の撤廃・集団的自衛権行使容認・沖縄辺野古新基地建設強行・戦争法(安全保障関連法)強行採決・特定秘密保護法強行採決等々に続いて、昨日「共謀罪法」がインチキ強行採決されて、「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権が目指す「戦時体制」が最終段階に突入した。

 今回の辺見さんの論考の表題は「加担」である。辺見さんは「戦時体制」作りに一番加担してきたのはマスゴミであるという。これまでマスゴミの惨状をいろいろの面から取り上げてきたが、辺見さんは、その「加担」の認識が皆無であるという観点から、マスゴミのマスゴミたる由縁を説いている。そして、枕には次の文を引用している。
一次元的な思考は、政治を作り出す人びと、および大量情報を調達するかれらの御用商人たちによって組織的に助長される。
その言説の世界は、自己証明的な仮説――たえず独占的にくり返されることによって、催眠的な定義もしくは命令となる仮説――に満ちている。(H・マルクーゼ『一次元的人間』から生松敬三・三沢謙一訳)

 それでは本文を読んでみよう。

 奇妙なことに、マスメディアで働く者たちは、昨今厳しさを増しているメディア批判の論考を読むときに、批判対象は自分ではなく、同じ領域の遠くの方にいるらしい「困った他者」である、と思いこむ癖があるようだ。自分が批判されているにもかかわらず。だから、だれも傷つきはしない。いわんや、戦争構造に加担しているなどと、ゆめゆめ思いもしない。かくして政治とメディアは、手に手を取って、「現在」という未曾有の一大政治反動期を形成しつつある。

 彼ら彼女らに悪意などはない。誠実で勤勉で従順でちょっと不勉強なだけである。誠実で勤勉で従順で不勉強なことは、しかし、全体主義運動参加者にとって、不可欠な資質である。このことは、米国の巨大な軍需産業を支える研究者や技術者の多くが、エコロジストであり敬虔なクリスチャンでありバードウォッチャーであったりすることと、関係性がどこか似ている。日常のなかにある戦争構造は、表面は醜悪でもなんでもなく、微笑みと誠実さに満ちているか、ないしは、あっけないほど透明なのだ。

 「戦時体制」が着々と整いつつある。テロ対策特措法が国会を通り、自衛隊艦隊がインド洋に向かった。戦後はじめての派兵であり、参戦である。改定自衛隊法も成立し、自衛隊の治安出動の条件が大幅に緩和された。「防衛機密」を漏洩(ろうえい)した者には、5年以下の懲役刑が科せられることにもなった。1985年に自民党が提案し、世論のつよい反対で廃案になった「国家秘密法」の、事実上の導入であり、有事法制整備の先がけである。小泉首相は有事法制による私権や基本的人権の制限はやむをえないといいはなち、中谷防衛庁長官は、憲法9条を改定すべきだと公言してはばからない。PKO(国連平和維持活動)協力法改正案も近く成立しそうだ。PKF(国連平和維持軍)の本隊業務への参加凍結解除と併せ、武器使用基準を見直すという。

 もはや戦争可能である。いや、われわれは、客観的には、いつ終わるともしれない"戦中"に、すでにして入っているのかもしれない。だが、マスメディアに働く者たちは、事ここにいたっても、なお、みずからのなに変わらぬ日常と気だるいルーティンワークを覆すことができないでいる。それどころか、埓(らち)もない社内人事の話からさえ脱することもきずに、全体としては、どこの社の社員も、じつに誠実に勤勉に従順に、翼賛報道の片棒を担ぎつづけているのである。「世界同時反動」という、世にも珍しいこの歴史的時期にそのわけを探(さぐ)る姿勢などあらばこそ、おのれの瑣末な日常にどっぶりと没するばかりのこの国のマスコミの知的水準は、いま、絶望的なまでに劣化している。

 新聞は、濃淡の差こそあれ、ほぼ"大政翼賛"、NHKは大本営発表、民放はこの期におよんで懲りずにおちゃらか騒ぎ(アフガンの飢餓報道をやったり、大食い競争の番組をやってみたり)……と相場はきまっている。なかでも、NHKのひどさは目にあまる。受信料をつかって、国策宣伝にこれ努めるばかりではなく、9・11テロ以降は、ホワイトハウスとペンタゴンのただの宣伝機関になりさがってしまった。某日は、ペンタゴン提供の映像を用いて、アフガンで使用されている米軍の精密誘導兵器の精度がいかに優れているか、まったく無批判に"広報"してやっていた。湾岸戦争時の"ピンポイント爆撃"報道が、その後まったくの嘘であったという苦い経験など、どこ吹く風である。この分だと、戦争狂ラムズフェルド国防長官は、NHKの多大なる対米貢献に対し、いずれ、勲章を授与するのではないか。

 我慢がならないのは、某日、わけ知り顔の解説員なる男が登場して、アフガンでも使用されはじめた燃料気化爆弾(BLU82)というしろものが、戦場でどれほど「効果的」かについて、得々と無機質な声で説明してみせたことだ。その破壊力の凄まじさゆえに、核兵器に次いで残虐な兵器とされ、国際社会から使用禁止の声が上がっているにもかかわらず、米国はそれを拒否して実戦使用しつづけている事実にはまったく触れずに、である。連日の空爆のために食糧援助がままならず、子ども10万人をふくむ数10万の避難民たちがこの冬、餓死ないし凍死すると懸念されていることにはまったく言及せずに、である。このような報道をジャーナリズムとはいわない。官報以下である。

 この解説員には廉恥(れんち)もニュースセンスもなく、おそらく、悪意もない。誠実で勤勉で従順なだけであろう。誠実に勤勉に従順に無意識に、戦争構造に加担しているのである。で、そのことを、NHKの他のセクションで働く者たちは、格別の恥とはしていないようだ。言挙げも議論もしはしない。要するに他人事なのである。そして、それぞれのセクションは、同じように誠実に勤勉に従順に、立派な日本人の物語や、国宝や、民俗や、農業振興や、当局を怒らせない程度の環境・社会問題の番組などを制作し、ごく内輪で褒めたりけなしたりしながら、やはり、しっかりとこの国の戦争構造と全体主義を支えている。ただし、少数の例外を除き、ほとんどの者は、戦争構造に加担しているとは自覚などしていないのだ。「個」というものの無残にすり切れた、思えば、哀しき群体ではある。

 問題は、むろん、NHKだけではない。この国の全域を、反動の悪気流が覆っている。日常のなにげない風景の襞(ひだ)に、戦争の諸相が潜んでいる。人々のさりげないものいいに、戦争の文脈が隠れている。さしあたり、それらを探し、それらを撃つことだ。でないと、気づかずに加担させられ、悪しき波動に無意識に呑まれてしまう。もう手遅れの感もあるけれど。

 「誠実で勤勉で従順でちょっと不勉強」な圧倒的多数を占める善人たちが「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」政権を支えている。
広目天の怒り
広目天

怒りは静に深く沈潜させ
より遠くまで射抜く眼差しとなせ。
その眼差しをもって
自由と民主を食い荒らす邪鬼どもの
あさましい心底を射抜き
踏みしだくまで反逆せよ
邪鬼